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親が子どもにしてあげられることは何もない

極論といえばそうなんだけど、究極はそうだと思うんですよね。

11/20(日)次男のピアノコンクールだったんです。
まさか、順位が着くようなものや賞取り的なものに出る、なんて時が来るなんて思ってなかったんですけど。

けど、やっぱり人というのはその時その時変容するんですね、今年、「出るわ」と言い出して。

ピアノの先生は、毎年毎年、コンクールがあるたびに懲りずに、長男にも次男にも、やんわりと、

「どうですか?」

と聞いてくれてました。が!2人とも、即答で、

「いや、いいです。」
「ホント、そういうの、いいんで(NO!)。」

と返していたのです。
が、なぜか、今年は、出てみようと思ったそうで、出ることになってました笑。

事後報告で、わたしは流れも時間的なこともぜっんぜん知らなくて。
次男が先生からもらってきた申込書を記入しお金を支払い、予選があり通過したら本選へ、そしてファイナルに選ばれたら東京サントリーホールで演奏するものらしい。

ちなみに、日曜日は本選でした。先月予選がありました。
中2で初めてのコンクールで予選が通過したのも、わたしにしたらスゲーことだよな、と思ってて。(何度も出てる人でも予選が通らない時は通らないのでホッとしました、と先生からメールが来てたから、そういうものなんだろうと思います。)

で、流石にファイナルに残るとは思ってないんだけど、ホールのステージで、スタインウェイを演奏する次男を観て。

わたしがしてあげられることは何もない。
すごいな。

と思いながら観てました。

そこでグランドピアノを弾いている次男、そこでは、もうわたしにできることなどない、そこは次男の時間で次男にしかできることはない場所。
ここに至るまでの練習も、この日を迎えたのも次男です。
例えば、練習をさせることもできたかもしれないけれど(そういう親子もたくさんいるとも思う。)、だとしたら、それは次男のステージなのか?自分のために弾くピアノになるのか?とも思う。(いや、どうだったとしても、それぞれの道ではあるのもわかる。親子で勝ち取る、ということもあるのもわかる。)

たくさん練習して本番を迎えても、自分なりの練習をして本番を迎えても次男のものでしかなく、それがあって次に繋げるのも次男の道でしかない。

ということは、やっぱり、わたしにできることは何もないですね笑。

で、わたしはといえば、その時「次男、すごい!」と思ってて。本番に強いなー、あれしか練習してないのにあんなに弾けちゃうの??みたいな笑。(親バカです、はい)

ピアノに関しては、小さい頃にこちらの意図でやらせましたが、練習に関しては、宿題や勉強同様に、練習をさせたことはなくて。

だから、あの練習量(長男は、目的の有無に関わらず、好きで1日のうち2時間3時間とか平気で鍵盤を叩いているけれども、次男は30分連続でピアノやエレクトーンに向き合ってることは、まずない。)で、こんだけ本番で弾けちゃうってなんなの??と思う笑。

いやね、ものすごい練習量で目指すところが違う次元のお子さんに比べたら、やっぱ、あぁこの人はファイナルとか行く人だな、とか全然違うのはわかるんだけど、なんていうの、このゆる〜く、かる〜い感じやってのけちゃう感じ、なんなの?って。

どんな出来でも、何があっても見届けるというか、逃げないというか、親でいるしかないというか、いや違うな

親でしかない

のかもね。

子どもは親の言う通りになんてならないし、親の思う通りになんてできない。

親でしかない、そういうことだと思う。
不登校とかも。

不登校も一部でしかないから、ホント。
そこじゃないからね。(真っ只中の時に、そう思えないのもわかります!)

それは、例えば、子どもの行きたい道が死と隣り合わせの職業だったとしても、

わかった。

と言えるかどうか、だと思っている。

何もできないのです。子どもの人生なのだから。
してあげられることは何もない。(わかるかなー?)

#なるようになる
#なるようにしかならない

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