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共有と総有、獅子舞が目指すべき「つながり」の形とは?

日本では現在、シェアリングエコノミーの市場規模は拡大し、人との繋がりやお金ではない豊かさの創出が求められている。日本の歴史において、この動きをどう位置づけることができるのか、総有から共有への流れの振り返りをしておきたい。その上で、獅子舞が目指す都市の「分かち合い」のシステムとは何か?を概観する。

共有ではなく、総有が当たり前だった

日本におけるシェアを考えるとき、村落共同体における入会地の歴史に触れることは必要不可欠だ。日本人は古来より、山林原野の木の伐採、カヤ採取、キノコ狩り、落葉採取など生活に必要な資源を共同利用してきた。このように、誰のものでもない地域資源を共同利用することを「総有」と呼び、共同管理する地域資源の場を入会地と言った。入会地の起源を明確に遡ることは難しいが、村落共同体ができたときには既に入会地のような場所もあったのだろう。

入会地は消滅して隅々まで所有が進んだ

明治時代からはヨーロッパで生まれた土地所有の概念が入ってきたことで、所有権の明確化と入会権が定められた。そして戦後には、村落共同体の崩壊や都市化が進んだ。そのような流れの中で、入会地も少なくなっていった。香山美子さんの著書『五時間目のノート』(三十書房, 1964年)に、「花どろぼう」の話が出てくる。ある子供(主人公)は近所の子に花を盗まれて、庭に立て札を立てた。それに対して主人公の父親は、「立て札があるという綺麗事で、問題は解決しません。盗んだ人の気持ちを想像しましたか?」と言う。主人公は次の日、自分の庭の花を全部刈り取ってしまう。主人公は花を盗んだ近所の子に対して、「仲良く花を育てようよ」となぜ言えなかったのだろうか。非常に考えさせられるエピソードだ。土地の使い方は所有者が決めるものであるという考え方は、人間同士が直接的に話し合うコミュニケーションではなく、一方的に権利を主張する社会を作り上げた。結果的に自分ごと化されない町が生まれ、環境問題や公害の発生を始め、様々な都市の問題が生じるようになった。

シェアリングエコノミーの到来

近代の所有概念をベースとして、日本では2000年代以降に進んだ「分かち合い」のシステムが共有だった。共有することで経済を回していくシェリングエコノミーの考え方は、モノを購入して所有するのではなく、所有しているモノの稼働状況を可視化して、ニーズと提供者がマッチングされることで、一時的な利用が行われるというもの。これにより「手軽に利用してみたい」「様々なバリエーションを楽しみたい」というニーズに応えられる。また、お金ではない豊かさや人との繋がりを動機として人が動く仕組みとも言えるだろう。

シェアにより都市は高度化する

この仕組みは2010年前後にUber, Airbnbなどのアメリカ企業が参入して、市場規模が一気に拡大した背景がある。今まで徴税制度を始め富の再分配の考え方は1900年代には既にあったのだが、インターネット技術の進展などもあり、シェアの考え方がエコノミーという形でより広く浸透するようになった結果とも言える。これを都市というマクロな視点で見たときに、自由に使えるオープンデータの総量が市場拡大とともに増加していると考えうる。それゆえ都市はそこにいる人々のニーズに対して最適な解決方法を見出せる点でより高度化が進んでいるとも言えるだろう。

世界から見た日本のシェアリングエコノミー

シェアリングエコノミーの最先端都市として、ソウルやアムステルダム、サンフランシスコなどが挙げられることが多い。ソウルは政府主導型で行われておりベンチャー企業への投資を積極的に行なっている一方で、アムステルダムは非政府機関がまちづくりに積極的に介入している。また、サンフランシスコは交通系のシェアが非常に進んでいるなどの特徴がある。そのような中で日本のシェアリングエコノミーは進んでおらず、市場規模こそ拡大しているものの、民泊新法による住宅宿泊事業者への規制や、Uber配車に対する法規制等の障壁など様々な困難がつきまとう。「もともと日本人はシャイだから…」と言われることも多いが、日本家屋の作りなどを見ると人を招く囲炉裏というスペースがあるし、見知らぬ旅人を泊めたという昔話は数え切れないほどに存在する。逆に、プロサービスの価値が高すぎてシェアが進まないという背景も少なからずあるように思う。

祭りで登場する獅子舞は「総有」される

ここまで、日本における総有や共有という概念の変遷について振り返ってきた。この動きを獅子舞的な視点で考えるとすれば、どのような「分かち合い」の形が見えてくるだろうか?そこには地域の人々の厄払いという願いとともに共同体がまとまるという、言わば「精神的な不安の解消」や「心のよりどころづくり」を促進してきたという側面があるだろう。祭りで一軒一軒、門付けして回る獅子舞を見ていると、地域の人々がどんどん元気になっていく、心がパッと晴れやかになる存在なのだ。獅子舞は元々、地域の公民館や神社などで道具が保管され、練習やお祭りの当日に地域の人々がそれを利用するという点で、誰かが個人的に所有するものではない。つまり、地域の祭りに登場する獅子舞は総有という明治時代以前の概念を今に残す遺産であると捉えられるのだ。そのため、個人が所有する時間や資源の隙間を一時的に貸し出す共有という考え方とは分かち合いの手法が根本的に異なる。ただ、獅子舞も神社や公民館などの公共空間がない地域において、個人宅で獅子頭が保管されるという現象が見られる。これは個人の所有物である家の一部空間を共同体に対して貸し出す行為であって、共有と総有が混じり合った分かち合いの形として非常に興味深い現象である。

獅子舞が「共有」されるときもある

このように、獅子舞は必ずしも総有されるものだけではない。所有の概念に位置付けられるものもある。例えば、孫の誕生祝いということでおじいちゃんがプレゼントする獅子頭があるとすれば、個人が所有するものだ。郷土玩具や工芸品として個人が購入する獅子頭は、総じて所有の概念が当てはまる。また、芸能集団がショッピングモールなどで披露する獅子舞は団体が所有するものである。ただし、獅子舞が「共有される」というケースはほとんど見たことはない。つまり個人が所有している獅子頭を自分が使用していないときに広く貸し出すということである。獅子頭は高いと100万円は軽く超えるものもあるため、個人が気軽に所有できないものは共有されても良いはずだが、なかなかそうはいかないらしい。これはおそらく、日本人の祈るという行為が科学技術の進歩により代替されてしまっているということかもしれない。個人が獅子頭を所有することは、例えて言うなればコロナ禍でマスクをつけるほどの必要性や緊急性がない一方で、趣味として持ちたくなるような魅力を感じた結果であるとも言える。もし獅子舞がシェアリングサービスによって共有されることがあるとすれば、現代人の想像力や精神的な豊かさはもう少し拡張されうるかもしれない。それは都市にある種の余白を作る行為としても捉えられる。


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