所有から振る舞いへ!獅子舞の本質はどこにあるのか?
人間は身の回りにあるモノによって支えられている。自分が生活の拠点とする家や仕事場の建物をはじめとして、服や皿、箸、机、椅子、布団など、衣食住に関わる全てはモノによって動かされていると言っても過言ではない。人間は自分の意志ではなく、もはやモノによって動かされているというわけだ。近年は臓器移植や献血などといった身体を交換する行為や、耳にピアスの穴を空けることも行われており、あたかも人の体が代替可能で記号化されたモノとなっている。また、アダルトコンテンツやAVは人の体が見世物となり、それに値が付いて売り買いされる。モノは代替可能であり、借り物だ。
モノに囲まれた暮らし
そのモノ化の波は、冷蔵庫、洗濯機、テレビなどの耐久消費財が活発に売り買いされ、高級車や一軒家を買うことがある種のステータスになるような所有の時代においてより顕著になったように思う。あるいは、科学技術が進歩して、携帯を身体を触るようにいじり、体にチップを埋め込む時代に人とモノとの境目が曖昧になってきた時代だからこそ、より意識されるのかもしれない。
物質文化研究としての獅子舞
獅子舞の世界において、モノから人間とは何か?を問う文化人類学の物質文化研究では、獅子頭の材質や制作年代、傷跡などから獅子舞の当時の様子を探るという手法で、獅子舞のルーツを探っていく試みがなされてきた。愛知県愛西市の日本最古の年記銘付き獅子頭や、実質日本最古の獅子頭と呼ばれる正倉院の宝物庫に保管された東大寺大仏殿開眼供養式で演舞されたと伝わる獅子頭など、この物的証拠から文化の姿を探っていく手法は一定の成果を上げてきた。
獅子頭の外部化
ただ、モノが代替可能な借り物に過ぎないとしたら、人間が獅子舞に込めてきた想いを汲み取るのに、最も重要なのはその獅子頭を使ってどのような演舞、振る舞いが行われてきたかということだろう。近年はその視点がより重要になってきているように感じられる。なぜなら、獅子頭の職人が急速に減っているため、土地独自のものではなく、他の土地のプロに発注して作ってもらうケースが多くなっているからだ。土地の獅子頭の形を真似て作ってくれるとはいえ、材料は少なくともその土地のものではなく他から調達してきたものだ。つまり自分が住んでいる土地で獅子頭を刻むという行為があまりに身近でない。加えて、その場のノリで、土地の文脈や伝統の型を無視してかっこいいデザインに乗り換える地域があることも否めない。
舞いを伝承する意味
獅子舞の歴史を遡っても、遡るほどに結局、書いてあることが事実かどうかもわからない文献、静止状態しか知り得ないような絵巻物、そして獅子頭というモノしか出てこない。そういう意味では現代の発明である映像が語りかけることは非常に大きな意味がある。ただし、それも結局はカメラというモノが映し出した画面に過ぎない。そういう意味では、獅子舞研究において最も重要なことは、実際に長い間伝承されてきた舞いを現地で見るということだ。その舞いこそが、人間が土地とどのようや想いで接続してきたかを読み取るのに最も重要なヒントを教えてくれているように思われる。
振る舞いから読み取るという姿勢
結局はここまで見てきてわかるように、最後の代替不可能な未知とは、人間それぞれの魂とそこから派生する身体の動きくらいしか残らないのだろう。モノによってが魂の侵食も進んでいることは否めないが、まだ人間の暮らしが自動化され尽くしていないから大丈夫だ。以上のことから、獅子舞生息可能性都市のもっとも重要な試みは実際に土地で舞うというその振る舞いにあるようにも思える。
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