なぜ人間関係は、“こだま”になるのか。
金子みすゞさんのこの詩は、人間関係の本質を突いており、時代が変わっても、僕らはこのことを無視しては生きられません。
この「こだま現象」は、いろんなところで起きています。
笑顔で話しかけられると、こちらも笑顔で話したくなるし、雑に対応されると、こちらも雑に対応してしまう。
本来、相手に嫌なことをされたとしても、こっちまで相手に染まる必要はないはずなのに。
相手の悪い部分がこだましてしまうと、自分も嫌な人間になっていくし、ますます事態は悪化していくし、誰も幸せになりません。
それなのに、どうして僕らは、こだまの影響を受けてしまうのか。
それは、悲しみを感じたくないからです。
以前、とある飲食店に入ったとき、メニューが分かりにくかったので、僕は店員に質問をしました。
「このセットって、ドリンクはこの中から選べるっていうことですか?」
店員の方は、「選べないですね」とだけ言って、会話を止めました。
沈黙が続き、僕は言葉を発さないといけなくなりました。
なぜこの人は、選べるドリンクを教えてくれないのだろう。
なんでこんなに、紛らわしい書き方をしているんだろう。
なぜこの人は、こんなに不機嫌そうなんだろう。
たった数秒間で、さまざまな怒りが湧きあがりますが、この怒りを感じたくないので、僕は早く会話を終わらせようともがきました。
「あぁ、こう書いているけど、実際は違うわけね。アイスコーヒーかアイスティーからしか選べないってことか。だったら、アイスティーで!」
その店員の方に合わせるように、僕も雑な対応をしてしまいました。
僕は、「しまった」と思いました。
多分、周りの人からは、僕が読み間違いをして恥ずかしい思いをしたから、それを隠すように不機嫌になったように見えたかもしれません。
クレーマー体質の嫌な若者がいると思われたかもしれません。
自分にとって、明らかにマイナスなことをしてしまいました。
しかし、僕が丁寧な対応をした場合、周りに悪く見られなくても、自分にとっては大きなストレスになっていたでしょう。
僕の丁寧さが店員にこだましなければ、より腹が立つだろうし、もう二度とこのお店に行くことはないはずです。
そんな人がいると信じたくないし、誰かを強く憎みたくないから、僕はとっさに雑な対応をして、これ以上の悲しみを感じないようにしたのでしょう。
でも、そんなことをしないといけないなんて、あまりにも悲しすぎる。
良いこだまが響き合えば、お互いに幸せな気持ちになれるのに、たった一つの悪いこだまが響き合うと、みんなが不幸せな気持ちになる。
せめて、自分が悪いこだまを起こさないように、できることはやらなくちゃいけないと思います。
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