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厦門神社と台湾。神社から見える大日本帝国時代の両岸関係


中国南部の沿岸にあり、台湾の対岸という場所にある厦門は宋・元の時代から貿易港として発展していった。明末期、鄭成功は厦門や金門島を拠点にして清に抵抗したという歴史もある。アヘン戦争敗北後、清国・英国間で締結された南京条約(1842年)で開港する5港の内の一つとなり、外国領事館が厦門島沖の小島・鼓浪嶼におかれるようになり、鼓浪嶼は共同租界となった。日清戦争によって大日本帝国が台湾を領有するようになった後、厦門在住ながら台湾籍を申請し、日本人となった中国人も、厦門には多く住んでいた。帝国領となった後も、厦門と台湾とのつながりが切れることはなかった。厦門の台湾民居留民会は1906年に、日本民会は1914年に設立された。

厦門神社 全閩新日報 s14.12.3


日中戦争が始まると、在厦門日本人(邦人約400人・台湾人約1万人)に総引揚げ命令が出され、多くが台湾に引揚げた。昭和13(1938)年5月13日に海軍陸戦隊が厦門を占領、翌6月に厦門治安維持会が設立されると、引揚げた日本人も厦門に帰還し始めた。同時期、厦門の虎頭山に、厦門神社の創建をも視野に入れた、忠魂碑建立が検討されている。占領以降、租界であった鼓浪嶼から厦門市街に領事館を移転し、在留邦人も鼓浪嶼ではなく、厦門の市街地に住むようになった。昭和14(1939)年7月には日本の傀儡組織である厦門特別市政府が成立した。同年12月2日、内田総領事は日本民会や台湾民会の代表者を招集し神社創建を決めた。翌年1月、台湾総統府から招聘した技師に現地を検分してもらい、創建の場所を厦門市街の東端蓼花渓美山に決めた。西側には厦門公園が広がり、周囲には興亜院厦門連絡部や、日本人小学校、西本願寺などがある場所で、厦門市街地をゆったりと見下ろす場所にであった。神社造営費用は厦門・台湾・内地で寄付や助成金を集めることにした。日本軍の占領後、在留邦人は増加を続け、昭和15(1940)年には2,000人を超えるまでになった。



厦門神社 全閩新日報 s14.12.20



昭和15(1940)年2月11日、紀元二千六百年の紀元節祭を午前9時から開催し、引き続き11時40分から地鎮祭を行った。地鎮祭には台湾神社から磯田神職が派遣されている。日本側が発行した全閩新日報には、神社造営費寄付者の氏名が連日掲載され、中でも厦門特別市政府の李市長は1万元も寄付をしたと大きくとりあげられた。朝鮮の慶州神社でも地元有力者が大金を献金していたが、占領下に暮らす地元有力者が忠誠を示すために神社造営に寄付をする、恐らくそうするよう陰に陽に促されたこともあっただろう、ことがこれらの事例の他にも多くあったのではないだろうか。


鎮座前から神社境内地で靖国遥拝なども行っていた。神社創建との関係は不明であるが、9月末には興亜院や大使館が関与して、大規模な孔子祭を復活させている。

厦門神社 中文 全閩新日報 s15.10.8


厦門神社 紋章 全閩新日報 s15.9.8

神社の建造が終わるまでの間に、紋章の公募が行われた。御神紋は「波型を描き以て南支南洋の重鎮たる厦門の特殊性を表し、その外縁として二千六百年の数字を巧みに配置し」という時代精神を表したものであった。神紋の作成など海外神社の日常を内地並みに引き上げてゆく活動は他の海外神社でも行われていたと思われるが、資料が少なく不明なことが多い。

厦門神社 台湾護国 全閩新日報 s15.9.7

上の記事は昭和15(1940)年9月7日の全閩新日報に掲載されたものであるが、記事の最後に「台湾護国神社の御石も近日中採取しますよ」と書かれている。これは昭和15年から台北で建造が始まった台湾護国神社に石を奉納しようという運動に自分たちも参加する、ということである。カフェーの女給さんからこういう科白が出てくるほど神社という存在は在外邦人にとって重要なものであり、また台湾と厦門は近しいものであった。


紀元二千六百年の明治節に合わせ、昭和15(1940)年11月3日に大運動会、更に11月10日に厦門神社鎮座大祭と、2週にわたって厦門全市を挙げた奉祝行事を行うはずであったが、工事の遅れからか、運動会は10日に、鎮座は翌月に延期になった。結局、運動会の予定日であった11月3日に上棟祭を行い、当初の予定よりおよそひと月遅れた12月1日に鎮座祭を行った。社殿などの神社建物は台湾で作り、厦門に送って組み立てたものであったが、この神社にも阿里山の檜を使ったのかもしれない。今でも明治神宮には阿里山の檜を使った鳥居が残っているが、帝国の寺社建築では、帝国領になってから森林開発が始まったため、当時は無尽蔵に大木を切り出すことができた阿里山産の木がよく使われていたのだった。

 厦門神社の祭神は伊勢神宮・明治神宮・台湾神社で、内地と台湾に祭神を受け取りに行っている。厦門神社側は、台湾神社の祭神である開拓三神(大国魂神、大那牟遅神、少彦名神)と北白川宮能久親王のうち大国魂神と能久親王の2柱のみを祀ることを希望したが、台湾総督府より祭神の分割はできないという返答があり、4柱をそのまま祀ることになった。これは、台湾神社などの護符を祭神として使うため、護符の発行元である神社と別の祭神にすることは不可能という理屈からである。台湾以外の神社で祭神に台湾の守護神ともいえる北白川宮能久親王を祀った神社は、華南地区に集中している。これもまた、厦門が位置する華南地区と台湾のつながりの強さを示すものであろう。


67 厦門神社「台湾居留民会35周年記念誌」


厦門神社 大阪朝日台湾 s16.7.24


日本居留民会は紀元二千六百年記念事業として、神社境内に蓮華一万五千本、木麻黄二千本など、二万本以上を勤労奉仕で植樹した。昭和16(1941)年、厦門神社敷地に武徳殿が建設されることになったという報道があったが、実際に建設されてたかどうかは不明である。


敗戦から半年経った1946年2月、厦門から日本への引揚船が出た。華南地方は国民党の支配地域であったが、国共内戦で国民党が敗走を重ね、1949年10月17日に共産党が厦門入城した。共産党軍はすぐ沖合の金門島に攻撃をかけたが、共産党軍は海上輸送能力を持たなかったため、国民党軍が撃退、1958年からは中華人民共和国と中華民国の間で砲撃戦が行われるようになった。今では、厦門から金門島へは、フェリーで簡単に渡ることができるようになっている。

厦門神社跡 004

厦門神社跡地は厦門賓館になり、80年代位までは建物が残っていた。現在の明餐庁あたりが、神社社殿があった場所と思われる。敷地には一対の狛犬が残っている。明餐庁横の階段を降りると石畳があるが、これも神社時代のものと思われる。

現地の写真などは以下の本をどうぞ


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