2020年コロナの旅27日目:爆安グルメの都クラクフ
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クラクフ3日目の朝はスペイン人のパウの部屋で目覚めた。ありもので朝食をとる。
ヌテラを塗ったパンを食べながら、パウが尋ねる。
「今夜コメディの舞台があるんだけど、見に行かない?」
と尋ねた。私は一も二もなく見たいと答える。
「ぜひ見てみたい!スタンダップコメディを生で見るのは初めてだよ。君も出るの?」
「ううん、私は今日は出ないよ。でも出演者みんなコメディ好きの仲間なんだ。」
私は素敵な予定ができたことにホクホクしながらも、朝食を終えると一宿一飯の礼をしてすぐに家を出た。チェックアウトのためキャットホステルに急がねばならない。
キャットホステルをチェックアウトして、次なる宿、orion hostel&apartmentへ荷物を置きに行く。ヴァヴェル城を通り過ぎたヴィストゥラ川沿いにあるそのホステルは清潔感があり、また私しか客がいないようであった。
重い荷物を背負ってのホステル間の移動はなかなか疲れるものである。ZARAで買った靴も、見た目はいいがクッション性に富んでいるわけではない。地下にある自室に降りて靴を脱ぎ、ベッドに横たわってしばし休憩する。
荷物を整理したりスマホをいじったりしていると、新たに宿泊客が現れた。20代前半くらいの白人男性で、暗いブロンドの髪をスポーツ刈りのようにしている。背は低く、やや小太りで、挙動に落ち着かないところがある。白い肌に赤いニキビが痛々しい丸い童顔の中ごろで、空洞のように穏やかな青い目がキョロキョロしていた。
2人しかいない部屋で話しかけないのも妙だと思い、自己紹介をした。すると、
「英語、わからない。」
という。
「電話、グーグル…」
どうやらグーグルの音声翻訳を使いたいらしい。こちらとしては別にそこまでして話したい内容があったわけではないので手間をかけるのが悪いしこちらも面倒である。しかし向こうがその気になったのは私が話しかけたせいなのだからともかくも付き合うことにした。
しかしこの、パトリックという名乗る青年は悪い人ではないように思われる。最初はおどおどしていたが翻訳機越しの会話で随分と表情がほぐれてきて、笑顔を見せるようになった。翻訳機では訳しきれない部分など、ちょっとゆかしいというか、最初は消極的に始まった会話ながら真相が気になる気持ちに突き動かされて気付けば20分ほど話していた。
最後に私は、「上の階の冷蔵庫に入れておいたヨーグルトでも食べてくる。」と言って会話を切り上げた。パトリックがきょとんとしているので、「俺、外、出る。」と言うと、彼はうつろな目を地面に伏せた。
あの目は何だったのだろうかと釈然としない思いを持ちつつも、ヨーグルト欲に駆られて地上階へ走る。食べ終えて地下に降り、自室のドアを開けると、パトリックがドアに背を向けて私の荷物を漁っていた。一瞬混乱したが、彼が英語が分からないというのが本当らしいということは分かった。さっきの私の言葉を聞いて、しばらく帰ってこないと思ったのだ。
パトリックは私に気付くと振り返り、のっそりと体を起こした。悪びれるでもないが、開き直って襲い掛かってくるような気配もない。目がうつろだ。
得体のしれない不気味さに警戒しつつも、
「カバンから離れろ。」
とドスを利かせてみる。言い方やしぐさから意図は伝わったようで、彼はやれやれという風にカバンから離れる。見ると、私が用心のためにカバンにつけておいた錠前を突破できていないようだった。と言っても、私のカバンはただのバックパックなので、錠を締めても完全に封印できるわけではない。それにまったく歯が立っていないところを見ると、パトリックはアホウなのかもしれない。
しかしアホウだったら人をぶち殺さないという保証もないので(むしろ損得勘定を超えて突如ぶち殺したりするかもしれない)、警戒心は尖らせつつカバンに近づき、中身を確認する。とりあえず貴重品は無くなっていない様だ。パトリックの方を向いて問う。
「何をしようとしてたんだ。」
「…」
「おい、なんか言えよ。俺のカバンに何してたか言え。」
「分からない。分からない。」
心底困惑したような表情で「分からない」と呟く彼の言葉を信じてよいものか。彼は自分のベッドに戻って腰かけて、スマホをいじり始めていた。私はパトリックのベッドを強か蹴り飛ばし、彼の胸ぐらをつかんで立たせ、次私の荷物に触ったらこちらもそれなりに制裁を加えるつもりであると伝えた。パトリックは黙って嫌そうにしていた。
暖簾に腕押し、糠に釘、豆腐に鎹、パトリックに説教。私は彼を解放し、カバンの中から貴重品を取り出してロッカーに入れ、錠をかけて散歩に出ることにした。
夕方4時の1月のクラクフは既に夕景である。ヴィストゥラ川の向こうで気球が上がっている。網目のように交差する雲と夕日を背景に、じわじわと漂う気球のシルエットには郷愁を誘うものがあった。パトリックの来歴などに思いを馳せた。
当て所もなく歩いているといつしかヴァヴェル城の方まで戻ってきていることに気付いた。すっかり日も暮れて、気球はライトに照らされて先ほどよりも陽気な顔を見せている。どうやら今日は、ヴァヴェル城の前の広場でクリスマスチャリティコンサートをしているらしい。1月にクリスマスというのが正教会らしい。いや待てよ、ポーランドはカトリックの国なんじゃ…
自分は根が陰気な人間なので、陽気な振りをしていないと陽気な友達ができない。私は陰陽両方の友達が欲しいので、陽気な自分を演出するためにインスタグラムに祭の喧噪を一通り上げた。飽きてしまったのでまた歩き続ける。
しばらくするとなじみのカジミェシュ地区に至る。しかし今まで来たことのない界隈の様だ。古そうな円形の広場があり、屋台のような店が並んでいる。どの店もクラクフ名物のザピエカンカを売っているようだ。
ザピエカンカは義足くらいのサイズの巨大なパンを縦半分にかち割り、その上に色々な具材を載せたオープンサンドの一種である。その最大の特徴は、ケバブやヨーグルトソースなどオリエンタルな雰囲気のトッピングもさることながら、その大きさと安さであろう。
店が無数にあって目移りする。広場の中央に円形に並ぶ店は行列ができているところもあっていかにも賑やかである一方で、広場の端の方に人のいない店がある。見ると他のところよりも随分安いようである。出店の中では長身の金髪女性が不機嫌そうに口をへの字に曲げて腰に手を当てて直立していた。何となく私は女性の佇まい(とザピエカンカの安さ)に惹かれてそのkebab pasjaという店に足を向けた。
「こんばんは。」
私が挨拶すると、女性は思ったよりも柔らかい雰囲気で
「こんばんは。」
と返してくれた。
「ケバブのザピエカンカを一つください。」
「はい、ちょっと待ってね。」
女性はパンをトーストし、既に切ってあったケバブをそれに載せてヨーグルトソースをかけた。
「チリソースもかけとこうか?」
寒いので少しでも辛さで気を紛らわせるのもよかろうと思ってお願いした。
「はいどうぞ!5.5ズロチね。」
そういいながら差し出してくれた3人前くらいありそうなザピエカンカは日本円にして200円にも満たない。私は腹が減っていたし、実際にザピエカンカがべらぼうにうまそうだったので思わず笑みを浮かべながら
「美味しそう!ありがとう。」
というと、彼女も
「召し上がれ。」
と言いながら並びの良い歯を見せながら笑ってくれた。
腹ごしらえを済ませてなおも歩く。
実はこの日もSNSで知り合った現地の人と会うことになっていた。その女性に指定された場所は奇しくもパウの時と同じpierogarnia krakowiacyである。
先日にもましてごった返した店内で、その人はひときわ目立っていた。黒ずくめの服に包んだ長身は分厚いヒールを含めて180センチを優に超えている。それだけでなく、髪の色がプラチナブロンドで、暗色の髪色の多いポーランドにおいてひときわ異彩を放っている。自分よりもここまで背の高い女性とデートするのは初めてなので少し緊張しながら声をかけると、向こうの緊張は私の者とは比べ物にならないほど深刻らしく、もじもじしながら口の中で何か言っている。店の喧噪のせいもあって全く会話にならないのでビールを一杯だけ飲んで外に出ることにした。
彼女にどこか行く当てはあるか聞いてみる。彼女はかなりもじもじしながら、
「お腹空いた…」
という。
すぐそばにケンタッキー・フライド・チキンがあり、彼女の好物だと言うので入ることにした。
彼女は10ズロチのバーレルを買った。たった300円で4ピースのフライドチキンとビスケットが買えることにおどろきつつも、私がもっと驚いたのは彼女の食べっぷりだった。まるで獣のようである。商品を受け取って着席するや否や油ぎったのを鷲づかみにしてバリバリ食べる。彼女が大口を開けるたびに油でぬらぬらになった桃色の唇が限界まで引き延ばされる。ボロボロと揚げ衣が黒い服を汚すのも気にせず、彼女はむしゃむしゃとチキンをむさぼる。
「おいしそうだね。」
と言うと。彼女は机の上のバーレルを私の方にスッと押しながら
「食べて。」
という。伏せた目には恥じらいが宿っているのだが私にチキンを勧める間も咀嚼する口は止まらない。長いまつげも白に近い金色で、何か人間ばなれした空想の動物のように思われた。その迫力に気圧されながらも、うまそうなので私も彼女に倣ってチキンを取り出してかぶりつく。
無駄に熱狂的な食事を終えて公園に出た。彼女は深夜バイトがあると言うし、そもそも私もコメディーショーがあるので私たちは解散した。
パウに指定されたバーに入る。彼女はそこで待っていた。本来は入場料がかかるようだが、パウが受付の女性と話をつけてくれて私もそのまま地下の会場に通してもらった。
会場はアットホームな雰囲気だった。レンガ作りの趣深い内装で、おそらくは普段はバーとして使っている空間の一端に簡単なステージを設け、マイクを設置しバーのスピーカーから音声が出るようにしてある。私たちが入ったときには新人のドイツ人学生が一席ぶっていた。
彼はそつなく自分のステージをこなしたのだが、新人でもあり、また英語は母語でもないわけで、間違えてしまう場面も無くはなかった。そんな時に客席から声援が飛ぶのも見ていて気持ちがよかった。また、各話のオチでみんな声を上げて笑う。観客たちの温かさは殆ど感動的でさえあり、私は様々に心を動かされた。中でもデニムジャケットを着た体格の良い美青年(デレク=ハフに似ていた)が手をたたいて野太い声で笑っている様が印象的だ。
カーシャに連れて行ってもらった「ディム」といい、中世の香り漂う古都で繰り広げられる学生や若者たちの鮮やかな青春の絵巻の中に自分も参加していることにくすぐったいような喜びを感じる。思えば京都の学生生活も似たところがある。吉田寮なんか雰囲気も古臭いし、雑然として学生のパワーに満ち満ちているところも共通する。
さて、ドイツ人青年の次は大トリのインド人。この人はうまかった。随分こなれていて、人種差別に関するブラックジョークもきわどいラインを自由に行き来して巧みである。素直に大笑いさせられた。
ショーが終わってバーの地階に上がると、先ほどのデニムジャケットの男がバーテンダーと話していた。彼の名はマクシミリアン。コメディのつながりでパウの知り合いだという。その体躯と渋い無精髭に似合わず19歳だというので驚いた。私は男女問わず見た目の立派な人間が好きだ。
パウとマクシミリアンが私に尋ねる。
「この後出演者たちと一緒に飲みに行くんだけど一緒に行かない?」
Ambasada Śledziaというその店は、クラクフ特有の中世的な小路にあって昔の酒屋風なのだが、細部に現代の感性で仕上げがしてあっていかにも最近のヨーロッパのこじゃれた店らしい佇まいだった。といって私はそれが嫌というわけではなく、むしろ日本でももっとこういう、古き良き時代の遺物に命を吹き込んだような店が日本にもできると良いと思う。日本の場合は古い建物というのは往々にして残っていないものなので、もちろん新築する。西洋には古い建物があって、日本には古い技術があるのだとすればそれは妥当だろう。
文字にするとくどいが私の脳内でこういう感傷が処理されるのに0.1秒もかからなかったはずだ。
パウたちの誘いに乗って来てよかったと思った。輝くエネルギーが目に見えるような素晴らしい活気だ。
この店の名物だと言う玉ねぎ臭すぎるニシンの酢漬けをバーで食べていると、隣に小柄なインド人男性がいるのに気が付いた。さっきのコメディアンだ!と思い声をかける。
「さっきステージに立ってたましたよね!めちゃくちゃ面白かった!」
「ああ、ありがとう。アジア人差別をネタで使ったけど、気に障ったらすまない。」
私はコメディアンと話していると言うので妙に意識してしまって、自分も気の利いた返しをしなければいけないような気がした。
「全く気にしてないよ。俺はアジア人じゃなくて日本人だから。」
面白いかはともかく、その夜の彼の人種のタブーに切り込む調子とも合っていたし、それなりの返しができたと思っていた。しかし、彼の返事は予想だにしないものだった。
「全くその通りだよ。実際、言うまでもなく日本は特別な国だ。俺はいつも日本について思いを巡らせててね。たとえば、ワビサビってのはどういう意味なんだろうね、実際。」
全くその通りだよ、と言われた時点で、私は心が折れて「冗談だよ」と言ったのだが、彼はそれを制して持論を展開し始めたのであった。私は苦し紛れにワビサビについて一講釈垂れたのだが、すると今度は「モノノアワレってのは何なんだ」と問われる。そんな話をしばらくしていると、パウがやってきて「ちょっと失礼!」といって私の腕を引いて無理やり連れ去ってしまった。
「会わせたい人がいるの。」
パウと私は人でごった返したバーの中をよちよちと歩き、角で酒を飲んでいる男性のところで止まった。
「彼がコメディーショーの座長よ。」
その男性はコメディーショーの座長以外の何物にも見えない容貌をしていた。第一、今時カイゼル髭を真面目にファッション目的で蓄えてる男などそういないだろう。髪もカイゼル髭もグレーのその紳士はしかし、首から下はスタイルもよく、細身のズボンにシャツをいれ、袖をまくってカウンターにもたれかかっていた。彼は目に笑みを湛えて口を開いた。
「ショーは楽しんでくれたかな?」
「はい、すごく面白かったです。」
「それはよかった。どうやってこのショーのことを知ったんだね?」
「パウに教えてもらいました。」
「なるほどね。で、うちのコメディエンヌとはどういう知り合いなのかな。」
「どうなんでしょう。」
私が口ごもっていると、パウが座長に何か耳打ちした。
「ほうほう、君の、あ、なるほど。そうかそうか。やったじゃないかパウ…」
何となくパウが話している内容を想像して一人気まずい思いをしていると、座長が私に向かって尋ねた。
「で、君、どれくらいクラクフには滞在予定なんだ。うちのショーに出てみないか。」
私は予想外の提案にうろたえつつ、自分にはああいうお笑いは難しいと思いますと伝えた。
パウには背中を押されたが、クラクフでの滞在も長くないのでやめておくことにした(今思えばやっておけばよかったと思わなくもないが)。
パウと私は早く帰ることにした。パウの部屋で寝ることになり、またしても宿代を無駄にした。