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スパイダーマン ノーウェイホーム:愛するとは、ホームとはどういうことか。ハードボイルドすぎる蜘蛛男

※こちらのレビューはネタバレを含みます!映画をご覧になっていない方はお読みにならないことをおすすめします!



ーー以下本文ーー

あなたが愛する人はなぜ大切なのか。彼らがあなたを愛してくれなくてもあなたは彼らを愛せるか。
愛するがゆえに手放すという選択肢をとることができるか。

この問を投げかけた映画は本作が最初ではない。

しかしホランドの朗らかさと痛々しさをよく演じ分ける名演と、これまでのスパイダーバースの歴史があるから心にひときわ沁みる。


これまで観客はトムホ(トム・ホランド)スパイダーマンの成長を数年に渡って見守ってきた
そして彼にとってメイ、MJ、ネッド、アベンジャーズの仲間たちがどれほど大切な人たちかを目撃してきた。彼にとってその人たちを失うことがどんなに辛いか、我々は知っている。


アベンジャーズのフランチャイズの中ではインフィニティーウォーが私のお気に入りだが、そのインフィニティーウォーの中でも特に印象的だったシーンが2つ。そのどちらもトムホパーカー関連である。

1つはトムホがトニー・スタークを追って宇宙船に乗り込んできて活躍し、トニーからアベンジャーに叙任された場面。胸を張って誇らしげな表情には色々な思いがこもっていた。今までずっと見くびられてきたきらいのある、しかし自分が一番認めてほしいと思っていた父親のような人物に認められた喜び。大きな責任(「大いなる責任」という言葉はあえて避ける。その自覚の獲得はメイおばさんの死を待たねばならない)を感じて武者震いするような感じ。冒険へのワクワク感。世界が危機的状況に陥る中、彼はこの時青年らしい、凛々しくも無邪気な喜びに満ちていた。それは観客にも微笑ましい思いを抱かせるものだった。

2つ目は、ブリップ(例の指パッチン)でトムホが消える場面。1つ目のシーンありきなのだが、せっかく父親的存在であるアイアンマンと共闘したりして絆が深まってきたところで唐突に死(的な何か)が訪れる。観客もトニーと同様にトムホをアベンジャーズの頼もしい一員として見始めていただけに、「助けて、助けて!」と涙声のトムホがまだ高校生に過ぎないことが思い出されて悲壮さに胸がつまる。

この2つのシーンのトムホの演技は素晴らしい。
(演技といえばマリサ・トメイは今作で難しい演技をさせられていた…あんな勢いでゴブリンに腰を轢かれた上にコタツ爆弾に巻き込まれたら、少しでも立ち上がれるのは「ちょっとおかしい」を通り越して「あんたも超人血清うたれてたのか?」という疑問さえわく業である。)





思うに、スパイダーマンというキャラクターはコミカルさが魅力だが、「スパイダーマン」という作品は決してコメディではない。「死霊のはらわた」のサム・ライミのバージョンから一貫して喪失の苦しみ、そしてピーター・パーカー/スパイダーマンの人間らしい心身の弱さが描かれてきた。

ソーのように一撃で強敵を粉砕するようなパワーはないし、たまに敵にボコボコにされると女の子のような悲鳴を上げる。電車を止めて力尽きたらグニャグニャになるし、スウィングのし過ぎで腰も痛める。それでもその人間離れしたタフネスと隣人愛からくる使命感で何度でも立ち上がる。

これは精神力の問題ではない。歴代ピーター・パーカーたちは決して心が強い男たちではない。むしろシャイで、繊細で、脆い心の持ち主だ。未熟さの克服が描かれてきた。

トビーパーカーはそこにつけこまれてヴェノムに良いように使われかけたし、トムホもゴブリンに血の復習をするところだった。アメスパもグウェンを失った悲しみと救えなかった怒りをヴィランに暴力としてぶつけていることを本作で告白している(MJを救うところはグウェンの文脈ゆえに心揺さぶるシーンだった)。

しかし彼らはfriendly neighborhood Spidermanであることをやめない。ハリーのように闇堕ちしてゴブリンになってしまわない。

それは愛してくれる人々の存在もさることながら、ベンおじさんやメイおばさんの教えのおかげだ。心の強さではなく、プリンシプルの問題なのである。




本作では何度もピーターの倫理観、そしてヒーローとは何かが問われた。

身近な友人、恋人、家族の不幸に耐えられずストレンジ先生を頼るピーター。何回もストレンジの呪文に茶々を入れるという悪気のないおっちょこちょいで世界があわや破滅の危機に陥る(このあたり、新入社員が良かれと思って下した未熟な判断でやらかして会社に何億円もの損失を与えてしまう、というように現実でもあり得るなーと思いながら観た)。これはピーターの思慮の足りなさ、未熟さを示す場面。

しかしストレンジが集めたヴィランを元の世界に戻そうとする段になって、ヴィランたちの命を救うためにストレンジの装置を奪うシーンではピーターの隣人愛が熱く燃えたぎっている。「人は死ぬときは死ぬものだ。それが運命なのだ。マルチバースの存続のためには彼らの命の犠牲は取るに足らない。」とドライな正論をかますストレンジに対して、ピーターはヴィランさえも一人一人救おうというのだ。

散々電撃を加えてきたエレクトロを助け起こすアメスパや、自らの宿敵でもあるゴブリンを殺そうとするトムホパーカーを止めるトビーパーカーにも見られる、深い許しの精神がそこにはある。そしてそれは間違いなくベンやメイの教えの賜物だ。

疲れ果てたピーターが「彼らはもう元の世界に戻そう。それが彼らのためだ。」というと、メイは彼の目を見つめて「彼らのため?それともあなた自身のため?」と聞く。「彼らも助けが必要なのよ。元の世界に戻したら死んでしまうんでしょ?」と。ピーターが「それは僕の問題じゃないよ」というと、メイはにやりと笑って「『僕の問題じゃない』ですって?」とたしなめる。助けを求めている人がいたら、それがどんなに悪い人でもーー例えば最愛のおばさんを殺した相手であってもーー助けの手を差し伸べるのがベンとメイの流儀なのである。そしてその高潔な精神は二人が亡き後もしっかりとピーターに受け継がれていく。
(ジョジョ、特にジョナサン・ジョースターに構造が似ている。継承の要素は薄いが北斗の拳のトキなども同じような高潔さを持っている。利他的な人が利他的であるためにつけこまれて死ぬような目にあい、観客も復讐心に燃えているところであえてその弟子、弟分、養子などであるところの主人公にまさにその利他的精神による高潔な勝利をもたらし、大きな感動を生むという構造である。)



メディアの暴力についても強烈なメッセージ

ちょっと本筋からはそれるかもしれないが、本作がメディアやSNSが生み出すヘイトの問題も取り扱っていることにも注目したい。


今年度公開されるファンタビ最新作ではジョニー・デップがグリンデルバルト役を降ろされ、マッツ・ミケルセンが登板している。なぜかというと、ジョニデがDVをはたらいていたという「容疑」があるからだ。ジョニデの精神が不安定であることを示す音声テープや、当の元妻アンバー・ハードらの証言はあるが、未だにこれは「容疑」に過ぎない。しかしジョニデは映画を降ろされ、大衆紙にはワイフビーターとこき下ろされる。名誉毀損だと訴えようが、もはや聞き入れてもらえはしない。

スパイダーマンはミステリオの最後の謀略によって正体を暴かれた上、危険人物のレッテルを貼られることになる。ただミステリオというヒーローっぽいおじさんの発言と、状況証拠と、切り貼りされた音声テープが公表されただけなのだが、これらの断片的情報は使命感の強いジャーナリストの厳しい弾劾口調に乗せられてストーリーに仕立て上げられて行き、町の人々は親スパイダーマン派と反スパイダーマン派に二分されてしまう。そしてそれは、キャンセルカルチャーが暴走する現代社会を生きる我々の目にリアリティーを持って迫る。

むりやりマスクを剥ぎ取ろうとする人に対して、「うわっ!やめて!」と押しのけると、その人は「スパイダーマンに殴られた!」と叫ぶ。全体の文脈を見ずに、スパイダーマンがその人を押した部分だけを見れば確かに彼は悪党に見えるかもしれない。メディア、SNSの恣意的な情報編集によって真実は捻じ曲げられていく。アメリカ人の中にはイラク戦争、ベトナム戦争、そして太平洋戦争などと歪んだ正義を合成する黒魔術に手を染め続けてきたアメリカ政府を冷ややかに見てきた人もいる。そんな教養のあるアメリカ人にとっては、これは既視感のある光景だろう。そんな国家的なスケールでなくても、誹謗中傷に心を病んで精神を病む人は世界のどこでも絶えることがない。

本作ではこの問題に対する救いは全く提示されていない。というかおそらく、作品のクオリティを下げたくなければ提示できない。

人は現実味のないファンタジーに心動かされることはないからだ。

細部に関してはまあ良い。ゴブリンに腰を真っ二つにされたはずのメイおばさんがヨロヨロ起き上がるのは、実際にはありえないだろうがそんなのは枝葉末節のことだ。

しかし核心的問題に関しては妥協してはいけない。先述の電車を止めてグニャグニャになったトビーパーカーを、顔が見えないようにみんなでヒューマンウェーブで運搬するみたいなシーンは、もはや現代の観衆には「所詮おとぎ話だな」と鼻で笑われてしまう。それを素直に信じるには、私達は誰かを悪者にして十字架にはりつけたがる人々の存在を日々感じすぎているのではないだろうか。

このような増幅するヘイト、偏見、キャンセルカルチャーの問題に対する懐疑的な態度や、それに対する安易な回答を用意しなかった点は素晴らしい。ピーターは魔法使いに頼って、大騒ぎの末に完全なる孤独に陥って終わる。人々の間にある憎しみには終わりがないという、おそらく多くの人々の実感にフィットする現実的な結末だ。



最後に現れるタイトル


そしてそんな結末の後に副題である"No way home"が再び示されるのである。
トムホパーカーのスパイダーマンは、"home coming", "far from home",  そして今作"no way home"と、" home"三部作でもある。

本作ではメイを失い、そして死んではいないものの愛する人々すべてに忘却され、ピーターは本当にホームを失う。

英語の「ホーム」には日本語の「いえ」「うち」とは異なる「無条件の愛」、そしてそこから来る「許し」のニュアンスがある。"where my thought's escapin'" "where my love's waitin' silently for me"というのはサイモン&ガーファンクルのhomeward boundという歌の中の「ホーム」の定義だが、私はこれが大好きだ。

本当に安心できる場所。外で悪いことしたって、本当の悪党じゃないことをちゃんと分かってくれてる人がいて、そして無条件で支えてくれる人がいて「よしよし、大変だったね」と抱きしめてくれる場所。
それが「ホーム」だ。

「ホーム」は家という建物に縛られない概念でもある。それは隣近所をはじめとした人付き合いの中にも見出されうる。

ピーターは世界中の救いを求める人々にとっての「friendly neighborhood spiderman(親愛なる隣人スパイダーマン)」でありつづけること、つまり「ホーム」となることを選び、そして自らは安らぎの場である「ホーム」を捨て去ることを選んだ。

ベン、そしてメイの教え「with great power comes great responsibility 大いなる力には大いなる責任が伴う」に則った決断だ。


記憶の消去後、意を決してMJに事情を話しに行くとき、ピーターは幸せそうなMJとネッドを見る。そしてMJの額に、自分の起こした騒動の中でついた傷が残っているのを見る。彼は(MITのおえらいさんに直談判に行くときとは違って)リハーサルを重ねた原稿を尻ポケットにねじ込み、店を後にする。
愛し愛されたホームの思い出を糧に、完全に孤独な、それ故に愛するものを傷つけずに済む道を歩む決意をするのだ。

今や家路は無し。ハードボイルドすぎるぞスパイダーマン。かっこいいぞスパイダーマン。


ハリウッドの最新のヒーロー像がこのような形で提示されたことには安堵も覚える。

「おせっかいはヒーローの本質」というのは『僕のヒーローアカデミア』でよく使われる言い回しだが、メイおばさんも同意してくれるだろう。私もけっこう共感できる言い方だと思う。

しかしアメリカのおせっかいには、私利私欲が絡んでしまうことがある。例え元は良かれと思って何かしていたとしても、無辜の人々の幸不幸を第一に考えられずに悲劇を生み出してきた国である。今作のピーター・パーカーなら、そして今作のピーター・パーカーを見て涙した子供が将来アメリカで軍人になったなら、イラクをとことん爆撃したり、ベトナムに枯葉剤やナパーム弾を撒いたり、日本に原爆や焼夷弾の雨を降らせるようなことはしないだろう。「ちょっと待てよ、敵であっても全員助けないとヒーローじゃなくてヴィランじゃないか」と考えるのではないだろうか。


あと、末筆ながらアメスパ、トビーパーカー、ジェイミー・フォックス、砂男、リス・エヴァンス、そして今をときめくウィレム・デフォーら往年のキャストを大集合させて傑作を作り上げた製作陣に感謝したい。エンドロールによると何とかアヴィさんという人が立役者らしい。それぞれのキャラの登場シーンでいちいち鳥肌が立った。

自分で自分の正体を公表したアイアンマンとの対比についても考察してみたいが、キリがないので今日はこの辺で。

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