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2020年コロナの旅22日目前編:スキャヴスタ空港より、スウェーデンを発つ。

2020/01/07


いよいよ、スウェーデン最終日。宿のチェックアウトは11時まで。チェックアウトを早めに済ませ、いつも通り食堂でダラダラする。フライトは午後4時過ぎの予定だが、いつも飛行機の搭乗前にトラブルが起こるため1時過ぎにはホステルを発つことにした。

スウェーデンに来るときに使ったアーランダ空港と違って、スキャヴスタ空港というLCC専用の小さな空港に行かなければならない。電車など通っていないので、シャトルバスで空港まで向かうことになる。飛行機の価格を比べる際、こういった出費を考慮に入れることを忘れると、骨折り損のくたびれ儲けになりうるので気を付けられたい。


私の場合、しかし、このスキャヴスタ空港からポーランドのクラクフのメイン空港までのフライトがたったの1300円だったのでバス代を含めても圧倒的破格であった。バス代と飛行機代がほとんど変わらなかったのは不思議な感じがしたが。


定刻にやってきたFlixbus(フリックスバス)というドイツやスウェーデン辺りで主流の中長距離バスに乗って空港へ向かう。曇天の光の中で見るスキャヴスタ近辺は気の滅入るような湿地帯めいた灌木地帯で、不毛の地という印象を受けた。スウェーデンでLCC空港を作ろうと思ったらここまで奥まったところにする必要があるのか。


1時間半ほどバスに揺られて空港に着く。

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荷物のチェックインに望む。私の荷物は持ち込み荷物の上限の7キロを優に超えているし、大きさも完全に超過している。空港はガラガラで、物盗りの気遣いはないだろうと踏んだ私は出来るだけの荷物を少し離れたところの椅子に置いてチェックインした。それでもまだ私のバックパックは10キロはあったと思う。おそるおそるチェックインの受付に行き、スマホの画面でEチケットを見せる。すると受付の婦人は開口一番、


「ダメね。」

という。やはり荷物の大きさを看破されたか、と思ったが、彼女続けていうには、


「Eチケット、印刷しないと使えないわよ。」


とのことだった。私はどこで印刷できるか聞いてみた。


「ああ、まあ今どうせ他の客もいないし、まあいいわ。次は印刷しときなさいよ。」


と言いながら受付の夫人は渋々スマホの画面をつかって航空券を印刷してくれる。結局荷物については計量を依頼されることすらなかった。利用者もいないのに荷物の大きさでとやかく言って得をする人は誰もいないし、合理的な判断と思われるが、日本など杓子定規な国ではこうは行かなかったかもしれない。


空腹で、昼ご飯を食べていないことに気づく。食べ物を手に入れられそうな場所を探してみるが、空港は非常にこじんまりとしており、ぼったくりのカフェのようなのと、例によってプレスビロンしかない。荒地の中の空港なので当然外に出て食事をするというような選択肢はない。あと数年もすればMAXの一つや二つ出来ているかもしれないが、さしあたりプレスビロンに行くことにした。何かのセールをしていたらしく、思ったよりも安い。バナナと、その場で温めてくれるというモッツァレラを挟んだパニーニのようなものを購入することにした。レジに行くと、マグル世界に紛れ込むために変装したダンブルドア先生といった風貌の店員さんがカウンターに手をついて上目遣いにジロリとこちらを見ている。彼は野太い声で


「ヘイサン!」

という。スウェーデン語の“Hejsan!(「こんにちは!」)”という挨拶なのだが、渋い雰囲気のおじさんがドスを効かせて言うので英語の“Hey, son!(「おい、若いの!」)”のようにも聞こえる。老若男女英語が達者なスウェーデンのことなので、洒落て言っていたのかもしれない。

おじさんは威勢よく応対したものの、その後の接客は若い女性に任せてどこかへ行ってしまった。巨大なバナナと、温かいサンドイッチを受け取り、入国時に5000円分ほど両替して以来殆ど手つかずの現金クローネをいくばくか渡す。


誰も座っていない長椅子に座って一人食事をとる。思いのほかパニーニが旨かったのでもう一つ買って食べる。

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これまでの失敗から学び、早めにセキュリティーチェックを済ませて搭乗口の前で出発の時を待つことにする。ここで時間を持て余した私は回想録を書いたのだが、その中からビルカホステルで交流があった人々について少し紹介したい。


まずはデニスとステファニアーノ。彼らはイタリア人の若い男二人組で、二人とも男前だったが、特にステファニアーノはディズニー映画のヘラクレスそっくりだった。同室の人々の中では彼らとしか交流していない。隣のベッドの青髪カップルとは一言も言葉を交わさずに終わった。

ある晩、非常にいびきがうるさい客がいた。私はどんな環境でも寝られるたちなので就寝したが、その翌朝、このイタリア人コンビが身振り手振り豊かにイタリア語でぼやき合っているのに遭遇した。その中でデニスが「ポルコ」と言っているのが聞こえてきて私は思わず笑ってしまった。デニスに、


「今ポルコって言った?豚って意味だろ?」

と聞くと、

「ああそうだよ、誰だか知らねえが豚野郎のせいで全然眠れなかったぜ!」

と怒気を露にする。シャワーを浴びてバスローブ姿のステファニアーノはジーザス…と首を横に振る。彼の口癖だった。何となく、二人とも典型的なイタリア人という感じがして微笑ましかった。


次に、シモンを紹介しよう。中年の小柄な男性で、出身は中東のどこかの国だと思うが失念した。あまり英語は得意ではないようだったが、自己紹介をして日本人だと言うと「ヤッバン!」と嬉しそうにした。アラビア語のいくつかの方言(少なくとも共通語たるフスハーではそうだったと思う)で日本のことをヤバンという、というかすかな記憶に基づいて事後的に彼が中東出身だったと推測しているが確かではない。とにかく、彼は日本は素晴らしい国だ、という。彼がテクノロジーや国民性などを挙げて日本をほめたたえるのを少々面はゆい気持ちで聞きながら、ウィーン大学時代にイラク人の友人のオスマンが言っていたことを思い出した。


「日本のことを私たちは敬意をこめて別の惑星と呼んでいる。日本は卓越した技術と国民性をもち、それを私の祖国や他の途上国のために活かしている。欧米の国々も似たようなことをするけど、私利私欲のためであることは明らかだ。私の国にはPKOなどで各国の軍隊が訪れたが、地元の住民に敬意をもって接したのは日本の軍隊だけだったよ。私たちは高速道路を運転するとき、日本が敷いてくれた部分に差し掛かると感謝の念が湧いてくるんだ。どうやってそれが日本が建設した部分だとわかると思う?走り心地が他の国がつくった部分とはまるで違うんだ。コウスケ、君は私にとってはじめての日本人の友人だ。日本人と知り会うことができて、本当に本当に光栄に思うよ。」


この話はかなり鮮明に覚えている。大学内にあるBillaというスーパーのイートインスペースで二人で昼食を食べていた時のことだった。中東における日本の名声については聞き及んでいたが、ヨーロッパでの日本の存在感のなさを目の当たりにして半信半疑であった。しかし実際にイラク人からこういう話を聞くことになり、感動を覚えたものだった。「別の惑星」という言葉は、その後も中東の多くの国の人たちから聞いたし、東欧のルーマニアでも日本のことをそういう風に呼称するとヤスミナ(※以下の記事参照)からも聞いた。


シモンの話に戻るが、ビルカホステルは、スウェーデンのホステルの例にもれず宿なしの移民たちの仮住まいとなっていた。その中には中東系の人も多く、私はそのほとんどすべて(言葉の通じなかった人たち意外は全員)から、日本人であるというだけで同様の賛辞を受けた。

一度、ネルソン先輩がそんな場に同席しており、しかし日本の戦争犯罪のことを忘れてはならない、というような横やりを入れたことがあった。すると、たしかムハマドという名のシリア人だったと思うが、彼はそれに対して以下のように反論した。


「いつの話をしてるんだ?そんな昔の話をするんだったら、そもそも西洋の国々が世界を植民地にしようとしたのが悪いんじゃないか。日本はそれに対して戦っただけだろう。それに日本は今、この瞬間、戦争犯罪を犯していないが、西洋の国々は今日も俺の国をズタボロにしてる。何十年も前に終わった戦争の話をされても俺には届かねえな。」


実際にはムハマドは麻薬か何かで常に呆然としていたのでもっとフワフワした口調だったが、周りの他の中東系の人々もそうだそうだと同調する。


中東の多くの国々では歴史的に欧米に対する反感が大きいのかもしれない。そのため、日本をその敵に対して奮戦した勇士とみる向きもあるのではないかと思う。私はいつも世界の異なる地域の人々と歴史について語り合う時、その恣意性に恐怖を覚える。私は歴史の専門家ではないため、歴史一般について語るのはここまでにしておこう。ただ、こういう経験をしたという事実を書きとどめておくのみにしよう。


中東の人たちと言えば、ビルカでは5人のパレスチナ人たちとも話した。

彼らのうち英語を解するのは1人だけで、後の4人はフランス語かアラビア語しか分からないと言った。私はアラビア語は話せないが、昔アナザースカイというテレビ番組でナオト・インティライミという歌手がモロッコに行き、「あんたあほや」と言ってたくさん友達を作っていたのを思い出した。確か「あなたは兄弟だ」のような意味になるのではなかったか。試しに言ってみると、みんなの顔がパッと明るくなった。そしてみんな次々にお菓子や珍しいお茶のようなものを勧めてくれる。


私は以前ベトナムの山奥のモン族の居住地にいた時に、6人のイスラエル人たちと非常に親しくなった。みんなでバイクに乗り、さらに奥地へと旅していた時のことだったが、山地の激しい日差しにつかれて一同道端の茶屋で休憩していると、


「もし今ここに自爆テロリストが椅子に縛り付けられた状態で確保されていたら、どうするか」


という話題になった。私と、その時同じく行動を共にしていたスイス人のクロエは、話題自体に戸惑いつつも


「警察に連れて行く?」

という答えだったのだが、私の大好きな友人、ナダヴは


「出来るだけ痛みを与えられる方法で拷問するに決まってんだろ。それで最後はお望み通り爆殺してやるよ。」


という。日頃は温和で陽気、爽やかな好青年の口から出た言葉に私とクロエは身を固くした。ナダヴの意見に対して、話題を投げかけた張本人のガブリエルは、


「お前の気持ちはわかるよ。でも憎しみの連鎖は何も生まないんじゃないか。俺なら苦しまないように頭に1発ぶち込んで終わりだ。」


と言った。するとそれらの意見に対して皆が持論を述べ始め、議論は白熱する。私とクロエは、全員が殺害を最低ラインとして共有していることに気づき、生きてきた世界の違いに絶句する。それに気づいたガブリエルは笑いながら、


「こんな話題、どう参加していいか分からないよな。俺ももともとアメリカ人だし、君たちが警察に連れていくというのもわかる。だけど、俺たちはみんな自爆テロリストに家族や友人を奪われてるんだ。イスラエルでカフェに入ったら、こういう話題ばかり聞こえてくる。他にもアラブ人とユダヤ人は共存できるか、とか…」


というとナダヴがそんなの無理だね、といい、またも激しい議論がはじまる。私とクロエは端で小さくなってコーラを啜るしかなかった。


ビルカホステルに話を戻そう。パレスチナとイスラエルはイギリスの三枚舌外交などの結果、根深い領土問題を抱えることになったわけだが、つまりイスラエルの友人たちが「殺す」と言っていたテロリストたちは主にパレスチナ人なのであって、さらにいえばその「テロリスト」たちはパレスチナ人の目線でいえばテロリストではなく解放戦士なのである。私は和やかに談笑する彼らと同じ茶を啜りながら、エルサレムの紛争の悲しさに思いを馳せた。

別の日には、ある無知なチリ人(私に対して「おい、中国人」と言い、私は日本人だと伝えると、「知るかよ。お前ら全員同じ顔じゃねえか。」と言って平然としていた。ネルソン先輩に諫められていたが。)が英語を話すパレスチナ人に対して、「パレスチナってイスラエルの首都だっけ?」と見当違いな質問をした。それに対して彼は


「何?なんか耳慣れない言葉が聞こえたなあ。」


と冗談めかして言いつつ、イスラエルというのは、俺たちパレスチナ人の間では国としては存在しないということになってるんだ。と言った。


ビルカホステルにいる間、様々な人々と交流し、知り合うことになった。私はスウェーデンを去るにあたり、彼らに思いを馳せないわけにはいかなかった。印象的な出会いの多い国だった。それは、ヨーロッパでドイツに次いでもっとも多くの移民や難民を受け入れている国だからかもしれない。人口当たりに換算すると、ドイツよりもかなり多くの移民を受け入れている。生死に関わる大冒険を潜り抜けてきた人々の言葉は重く、彼らの冗談や笑顔はかえって底抜けに明るい。


さて、過去の回想はほどほどに、これからの旅程について考えよう。

今日利用するライアンエアーは、アイルランドかどこかのLCCで、驚異的な価格設定で一時期ヨーロッパを騒然とさせた航空会社なのであるが、それだけに質の悪さについてもとやかく言われることが多い。スキャヴスタ空港は、確かに豪華な空港とは到底言えないが飛行機自体はどうなのか。


時間が来て飛行機に案内される。かなり小ぶりではあるが外見はいたって普通の飛行機だ。

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中に入っても、特に普通の飛行機のエコノミークラスと変わるところはないように思われる。確かに席は多少狭いが、身長178センチの私には問題がなかった。むしろ、これは特殊なことなのかもしれないがガラガラに空いていたので隣の席との間のひじ掛けを全て仕舞うと横になって寝ることさえできてファーストクラス気分であった。16:50から出発。

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18;00にはクラクフ空港に到着する。ライアンエアーは基本的にヨーロッパ内でしか就航していないため、この飛行時間の短さも特徴である。仮に今日のように空いておらず快適でなくとも、数時間なのだから我慢してしまえばいい、と思える人が多くいる限り利用者は途絶えないだろう。

新天地クラクフに降り立ち、吹きすさぶ寒風に襟を立てる。

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次回予告

2019年12月17日に始まった私の世界旅行。1年越しに当時の出来事を、当時の日記をベースに公開していきます。

次回は2019年1月7日の続き、新天地ポーランド編です。物価のギャップに驚愕、漂う共産主義感、そしてカーシャと過ごす夜。

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