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夏の幽霊(8)

 泊まれるところなんて僕は知らない。行き先も決まっていない。現実から逃げられるならどこだってよかった。彼女も多分一緒だろう。普通、であることからの逃避。なら、僕らは倉田に従って歩くしかなかった。
 歩いた先で立ち止まり、頭を上げると、巨大なお城の前に来ていた。休憩何円やら、お泊まりが何円やら、看板がネオンの電飾で掲げられている。ビビッドな電気に眼をぱちぱちと弾けさせていると、横目に倉田は意気揚々と入っていった。噂に聞くラブホをこんな形で体験するなんて思ってもみなかった。なんだか惜しく感じる。
 本当に流れで来てしまってよかったのだろうか。
 反して、体はすぐにでも休みたがっていた。この欲に負けることなんて今はできない。左足をひきずり、彼女らのあとをつけていく。点灯する部屋の番号を適当に倉田が押し、狭いエレベーターに乗り込む。二人が真ん中に陣取ってしまったので僕は肩身狭く端によってしまう。紫を基調とした壁紙は色気を誘う。薄暗い灯りで今からその気にさせる気が漂っている。階に止まると、倉田が鼻歌を口ずさみながら廊下を歩いて行った。スキップを弾ませそうなほどだ。後ろめたそうに倉田の後ろを彼女がついていく。それでも、僕には分かる。三人とも物珍しい場所、物珍しいメンバーでほのかに高揚感があった。
 指定した部屋に着く。扉を遠慮なく開け放つと大きなベッドが真ん中に鎮座していた。だだっぴろい部屋の中で僕は立ちんぼになってしまう。
「何してんの、早く入りなよ」
 倉田の声で思い出され一歩入る。
 これまで手狭な家と、彼女の当たり前の家しか見たことがなかった。華美な装飾が施された灯火。ベッド周辺の用具も手に取れる範囲に置いてあった。
 倉田がはい、とタオルを押しつける。
「なあ、金のことだけど」
 僕は何が何だか分からないままに、まずはお金がどれだけかかるか気になって気になって仕方なかった。
「それよりも、シャワーだけでも浴びたら。その格好、見なくても分かる」
 とんとん、と指で腫れた頬を叩いてくる。痛みはなかった。ぼんやりと遠くの誰かが僕の神経を侵害していることだけは理解できた。
 お金のことはいいって面だけよこして僕を風呂場へと追いやろうとする。倉田の背後には彼女がいて、心配そうに様子をうかがっていた。こんな僕でも倉田のやろうとしていることはなんとなく分かってしまう。ふわふわのタオルに気圧されてしまう気分を押しやりながら。それでもタオルは手にしてしまいながら。
「お前さ、あの子に告白しないって言ってなかったっけ」
「言ってた」
「ホームでのあれは、」
「井戸があそこにいて、あの子がここにいて。するつもりじゃなかったけど、体が勝手に動いちゃったんだから仕方ないじゃない」
 分かった、と倉田はにやりと声を高々に。いつもの倉田じゃないのは重々承知の上だ。
「あんた、あたしに嫉妬してるんでしょ」
 ないとも言えないが。
「本音を言うと羨ましいけど、そういうことじゃない」
「じゃあ、後で聞くから」
 スキップも、敬語の解けも、おかしいのは知っていた。無理して明るく振る舞っている節は前も見ていた。彼女の前だけ見せる見せかけの笑みも。僕が気にかけてしまうことも。一緒だから。
「なあ、倉田。お前は、死ぬとしたら何がしたい」
 タオルを握りしめて。脂ぎった髪をしなだれかかせて。何がしたいかを思い起こした。
「僕は分からなかった。分からないから、自分の欲のままに負けて彼女をいじめる行為に逃げた。僕が彼女にしたイケないことの理由ってそんなもんだった。倉田は? 倉田は何がしたい?」
「あたし、は」
 熟れた唇が泣きそうなくらい震えた。その答えがあるって知っていた。僕よりも透き通るくらい純粋なそれは、きっと誰よりも愛おしい。
「ラブホに来たのは狙っていたんだろ」
「何が分かるの」
「自暴自棄になっているのくらいは」
「またそうやってあたしのこと分かっているように」
「分からないけど、僕が見てる倉田紗江ってのはそんなイメージなんだよ」
「クラスの誰にも分かっていない部分を知ったからって、あたしの何がわかるの」
「今度の僕は僕を知っている」
「自分を知ってるからって」
「知ってないから、前は突き放した。今度は? また好きな人を傷つけるのか。倉田は言ったよな。
 一緒に傷つけない愛し方を探そうって」
 忘れていない。あの言葉を。あの景色を。僕たちは誓ったはずなのに、簡単にもう一度繰り返してしまう。そういう生き物だから。
 タオルの柔らかさを手放して、倉田の肩を掴んで揺さぶる。小柄で、細く、栄養失調で倒れそうな僕の身体でも力を入れたら折れそうなくらい細い。
「僕たちは同じ子を好きになった。倉田は好きな子を君自身の好意で手放さないために、好きな子を見守るために、好きな子を陥れるために繋がった。でも、もう終わりにしようって、それを話すために今日は集まったんじゃなかったのか。あの子が好きなのは、お前も僕も一緒だろ。それなのに、今まさに彼女を傷つけようとしている」
 また大きな瞳が揺らいでいる。下睫が濡れ始めている。ぬめらかな光沢が瞬きをして上睫にも宿った。震える唇が引き締められる。瞳に光の粒を散らす。
「倉ちゃん、教えて」
 か細く心細そうな彼女の声が僕たちの中を割って入った。こわごわと見上げる倉田の顔。僕だって怖い。知られるのは怖い。話すのは怖い。
 話しても無関心を貫かれたり、優しさで何もされなかったり、そうして裏で陰口を囁かれたり。僕がお弁当や水を持ってこないことだったり、お金に困っていることだったり、そういったことを教室の隅で言われるのは嫌だった。
 知られることで傷つくのが苦痛だった。
 だから、僕らは偽った。
「あのキスの意味って何?」
 こんなところで偽ったところで意味がないのは知っている。彼女が倉田の本心からの言葉を欲しているのは知っている。
 全部、気づいている。
 倉田は彼女へ向き直る。同じ白いワンピースを着ているのに髪の色も目の形も、顔の雰囲気も異なっている。彼女の意を決した表情と、怯えている倉田。今にも逃げ出しそうになっている。涼しげなエアコンが二人の白いワンピースを揺らす。ピンク色の照明で倉田の方に色が宿る。
 倉田が顔を上げて、白く高い鼻を彼女へ。
「あたし、あなたが好き」
 息を吐いて。次第に肩が震えて。泣きそうな声を、嗚咽を、吐きそうな喉を、ひくつかせ。
「好きなの」
 はっきりと言った。
「だから、そうした。今も、ここでそうするつもりだった」
 今まで考えていた倉田の想いを、僕は忘れていない。どれだけ、それを溜めて彼女を見ていたか。僕と取引きしてまで彼女の全てを知りたがったか。知っていることの方が多かった。
「ごめん」
 だから、謝ってしまうのも痛いほど分かった。倉田が彼女を好きだってことは、そういう目線でいつも見ていたということだ。気持ち悪いでしょ、と何度だって言っていたことだ。忘れてはいけないことだ。
 僕も同時に思ってしまう。
「あなたを好きになってごめんなさい」
 君を好きになってしまってごめんなさい。
「こんなやつ気持ち悪いよね」
 僕のようなやつが好きになってはいけない人だった。
「女の子を好きだなんて変だよね」
 上手く愛されていないやつが誰かを愛しちゃいけないんだよな。
「好きなのを隠して上手く振る舞おうとしてた」
 僕は好きだってことを知らなかった。
「でも、だめ。根本的に歪んだ性質のやつが、上手く振る舞うのだって手一杯だったのに。この上に好意がのるなんて、耐えられなかった。あなたを好きになってあたしは狂っていった」
 どうしてこんな気持ちになるか分からなくて、どう振る舞えばいいか分からなくて困惑した。
「だから、藤本に協力してもらって恋人になってもらうことで、あなたを好きになったことを隠した。本当はこんな気持ち、お墓まで持ってくつもりだった」
 だから、僕は君だけの幽霊になった。君を陰ながらいじめていった。
「いいよ、あたしを振ってよ」
 僕は振られもしないのか。
「気持ち悪いあたしを振ってよ。大好きなあなたに振られるのなら、むしろ本望」
 彼女はずっと聞いてくれている。顔色ひとつ変化させずに僕たちをその綺麗な瞳で。倉田の茶色い髪色が、姿が、白いワンピースが映し出される。ピンクの照明に照らされて全身が紅色に染まっていた。想いが吹きこぼれている。彼女は溢れた倉田の想いをすくい上げるように息を吸った。
 一歩、倉田へ近づく。
「気持ち悪くないよ」
 黒いセミロングの髪がさらりと肩から落ちていく。胸に落下して。彼女のワンピースがピンク色に染まっていく。しかし、ピンクの中でも白は際立つ。
 真っ白なまま、
「ありがとう」
 その言葉を受け取った倉田はとどめていた嗚咽をもらした。収まらず、留まらず、濁流のように嗚咽の雨が室内に響く。
 ありがとう、ともう一度彼女は言うと、倉田の手を取り、柔らかく手のひらで覆った。その答えは「ありがとう」でしかない。
 感謝の言葉は時として残酷だ。
「多分いっぱい悩んでたんだね。きっと倉ちゃんにとって本当は口にしたくない言葉だったと思う。私が無理矢理言わせちゃった。倉ちゃんが傷つくと知っていながら言わせるなんて、はた迷惑な話だよね」
 ふるふる、と倉田は頭を振って、何かを言おうとしているが言葉は溶けていた。
「そんな倉ちゃんに、私が言えることなんて感謝しかない。私を好きになってくれてありがとう。その言葉を言おうとしてくれてありがとう。教えてくれてありがとう。倉ちゃんが、賢明に何かを言おうと悩んでいたのを、精一杯伝えてくれて、ありがとう」
「ずるいだろ、そんな言葉」僕は思わず叫んでいた。どうか聞こえないでくれと願いながら。必死に。バカみたいに。「もっとはっきり言えよ。優しくするなよ。突き放してくれよ。怒ってくれよ。お前達は、気持ち悪いって。なじって、拒絶しろよ」
 倒れそうな体をなんとか持ち上げて態勢を正す。背筋が歪みそうになる。足が崩れそうになる。今にして、そんな優しさのクリームを塗られたって痛いだけだ。傷に沁みて、目から涙が滲む。
「倉田も怒れよ。なんで。どうして」
 僕の声は届かない。
「ありがとう、倉ちゃん」
「ううん、そんな子を好きでいれて良かった。そんな子だからこそ好きになったのかもしれない」
 倉田はしっかりと手を離した。
「私はこれからも友達だと思ってる」
「だめだよ。この気持ちを伝えたら、もう友達なんかには戻れないよ」
 一歩距離をとって、倉田は僕の隣に居座る。より小さくなった倉田の背は捨てられた子犬のように哀愁が滲んでいた。こうして見れば白のワンピースは滑稽だった。彼女のモノマネ。彼女になろうとしてできなかったナリソコナイ。
「どうして」と彼女は幼気な声音で問いかける。
 僕たちはどうしても無理なことがあることを知っている。世界に刃向かう術なんてないことを知っている。愛が呪いであるならば、この呪いの解除方法なんて、傷つける以外ないことを知っている。呪いを引き剥がす代償は大なり小なりあるはずだ。
 それでも、
「欲しかったなあ」
「うん、欲しかった」
 倉田も呼応する。
 答えが出た。僕たちは、もらえない側の人間だって。諦めがついた。
 それでも、まだ何かしたい思いでいっぱいだった。誰かに何かを求めて、期待している。彼女に、あるいは世界に。
 甘えだな、と叱咤する力も今はなく。
 ウォークマンをその場に落とす。彼女の繋がりを絶つために。離した途端に、彼女は瞼を思いっきり開ける。床に落ちぶれたウォークマンは、宛名不明のまま彷徨っている。僕は一瞥もせずに、隣のタオルを拾い上げて、お風呂の扉を開けて中に入った。
 風呂の洗面所は、金色に光った装飾が縁取られ、アメニティに歯ブラシ、かみそりまであって。まずは、服を上から脱いだ。
「藤本くん、これ」
 洗面所に入って着た彼女は周囲を見渡す。僕は上半身裸のまま、ぬらりと下から見上げる。彼女は瞬きをいつも以上に素早くしていて。白いスカートは洗面所の光で神々しく輝く。
 対して、僕の腹は斑点が飛び散り、顔は腫れていて、動かすのも億劫。乳房がしぼみ薄茶色く変色していた。あばらが浮き出ていて、肌はからからに乾いている。焼けていない肌はひょうたん茄子のように不健康そうだ。
 彼女をはねのける力は僕にはない。
 彼女はどこかを見て。悲鳴混じりに。それでも大切にウォークマンを握りしめて。
「私のウォークマン、見つけてくれたの?」
 風呂に入るために、次はズボンを脱ぐ。夕立で濡れて、そのまま乾いたからかぱさついていた。あらわになった左足は思ったよりも赤膨れていた。右足は、左足をかばうように走ったり歩いたりしていたからか、疲れで痙攣を起こしている。もしかしたら、僕が感じているよりも、実際はもっと痛いのかもしれない。
「違うよ、それ盗ったんだよ」
 倉田の声が外から聞こえてくる。
「盗み?」
「ねぇ、本当は気づいていたんじゃない? 本当は藤本がいることを気づいていないふりしてたんじゃない?」
 パンツ一丁になった僕は、風呂入るから、と倉田に合図する。倉田は颯爽と洗面所から逃げる。彼女はまだ洗面所にいる俺を探している。僕はここにいるというのに。
 パンツに手をかけて、ずりさげる。風呂の大きさを頭上に思い浮かべて、実は楽しみにしていたことに直視してしまう。裸になった僕の体を通り過ぎて右往左往している彼女を眺めた。
 僕が盗撮をしたときと逆の状況だ。携帯に充電が残っているのなら、今の呆けた彼女の顔を収められるのに。
「気づかないふりをしていたら、流石にわかるよな」
 充電切れの携帯も彼女の前に落下させて、結果を見ずに風呂場に入った。シャワーの蛇口をひねりとる。また泣きそうになるのを、温もりあるシャワーで洗い流す。水で痛むのは、傷なのか、それとも心なのか、もうどこまでが現実なのか分からなかった。

***

 シャワーを浴びた後、服を着てタオルで髪を拭いていると「さっぱりした?」と倉田が洗面所にひょっこりと顔をだしてきた。ちょうど今からひげを剃ろうとしたところなので、嫌なところを見られたと不機嫌になってしまう。
「何ふてくされんの」
「倉田はあいつじゃないだろ」
 それもそっか、と倉田がまたそっけなく分かったような分からないような返事をする。たびたび見せるそっけない返事で、ようやくそれが倉田の癖なのだと理解した。興味のない相手はそうしてはねのける。
 そっか、と僕はお返しに倉田の癖の真似をする。似ても似つかなくて、久々に笑ってしまった。
 ひげそりを片手に鏡に向き合うと、壁一面に張られた豪勢な鏡に僕と倉田が並んでいた。鏡を通して目が合う。ハーフの顔は、やはり見慣れないし、その横に立っている僕の顔は腫れはひいているが、まだ薄く痣がぽっかりと顔にあいていた。二人が並ぶとでこぼこで、まさか裏で繋がっているなんて思えない。
「さっきは、ありがとう」鏡の中の倉田が口を動かした。「怒ってくれたでしょ? あの子に。聞こえていなかったけど」
「怒ることは感謝に繋がるのか?」
 まあね、とまた興味なさげに鏡の中の倉田が肩をすくませる。
「でも、なんだかすっきりした。なんでだろうね。欲しい言葉じゃなかったのに。あたしは満足しちゃった」
「なんだよ、それ」
 また、さあね、と曖昧に返事をしてくる。思わせぶりな態度がいつだって鼻につく。何でも分かっているって顔をしていながら、それでも最後には傷ついた顔をするんだ。僕と一緒にイケないことをしていたときもそうだった。
「あいつも、倉田もおかしいよ」
 そうかもね、と倉田はどうでもいいように、また応えてくる。
「バラしちゃったわけだけど、藤本はこれからどうするの? イケないこと以外に本当にやりたいこと見つかった?」
「まだ」
 これからどう彼女と向き合えばいいか分からなかった。きっとこれからも見えないのなら、どうしていけばいいのだろうか。
『ふと、死ぬ前に何かするなら何をする?』と僕自身に問いかけられる。すると、暗中模索している気分になってしまう。また足下が急激な崖になってしまう。崖下から吹き荒れる暗闇に足を取られそうになってしまう。
 鏡に顔を近づけて、口周りについた青白い点々を丁寧にそり上げていく。白地に戻していく過程は、まるで人間に戻っているかのよう。
「そういえば、倉田。最後に僕に頼みたかったことってなんだったんだ」
「あれは、」微笑みを讃える倉田は満ち足りていて、一人だけ一抜けしたように様変わりしていた。「終わりたくなかったってだけ」
「この関係を?」
「そう、終わってほしかったのに、最後だけ、もう一度だけって、なってた。もしかしたら誰かを傷つけることって麻薬作用があるのかもね」
 多分、それは誰かと繋がることに呪いがかけられているってだけなんだと思うけど、と知ったような口を聞く。
「愛は呪いだから、案外私はあなたにも愛を感じていたのかもしれない」
 ひげをそってさっぱりすると、僕たちは彼女のいる部屋へと覚悟を決めて扉を開ける。
 と、その前に倉田に。
「それは愛じゃない。僕はそれをよく知っている」暗がりの中、僕は怪物にのしかかられたことを思い出す。左足を蹴られ、踏まれ、僕をののしり、その上で「愛している」と耳元で囁く。顔は何度殴られた。お金を何度むしりとられた。それでも、怪物の中に父の影を見てしまって、離れられなかった。アルコールの匂いはシャワーを浴びても、何をしても抜けなかった。
「それは情だよ。情は断ち切った方が良い」
 扉を開けると、彼女が「倉ちゃん」と笑みを作り出迎えた。ウォークマンはその手の中にしっかりと握られていて。ベッドは彼女の体重を受けて小さく沈んでいた。
「ここから出よ」
 倉田の提案を誰も否定はしなかった。

***

 ラブホテルのお金は全て倉田持ちになった。僕は金目のものは怪物に取られてしまいすっからかんだし、彼女は突然の逃避行だったわけなので、そんなに持ち合わせもないだろう。自然と倉田に奢られる形になってしまう。倉田は「あたしはカード持ってるし」とまた大人びたことを言うもんだからついつい甘えてしまう。彼女と僕とで偶然にも、倉田に頭を下げる形になり、カードをひらひらさせて、倉田が鼻を持ち上げた。
「どこ行く?」
 と、言いながら倉田が先導をきり、ラブホから出てぷらぷらと歩く。道のりに人影は一人としてない。あたりは山道になっていて、とりあえずはショッピングモールから来た道を引き返すことになった。蝉時雨が三人の無音を埋める。足取りも重く、何を話すのかも迷子になってしまい暗がりに視線を逃がしてしまう。
 覚束ない足取りを数十分続けた頃だろうか、ふふっと、彼女は歩きながら少し笑った。蝉時雨が切れた、幕間のことだった。
「倉ちゃんは、私が藤本くんが見えていないこと知ってたんだね」
 ぺた、ぺた、と地面に足を這わせる。動き出したら止まらなかった。
 うん、と倉田は軽く返事を弾ませる。僕の会話と声音があまりに違っている。
 夜の高揚感が三人に降りかかっていた。
「このウォークマンのことも知ってたんだね。私が、探してたときに、二人とも見てたんだよね。滑稽だったでしょ」
 夜に溶けるかのような心地良い声にたじろいでしまう。思ったよりも彼女の声は怒気をはらんでいなかった。何が起こるか想像できず、それでも歩き出したのだから今更止まず。
 僕と倉田は互いの顔も見合わせず、来たるべき代償の時を待っていた。アスファルトの道路を見下げて、頭を垂れている。たまに楕円の街灯に照らされた地面に歩み寄り、スポットライトを全身で浴びる。そしてまた歩き出して主役から降板する。情緒不安定な物語に参ってしまいそうだ。
 ふふふ、とまた彼女が笑う。
「そっか、藤本くん、机や椅子を蹴って、ここにいるって教えてくれてたんだね」
 これまでの所業が丸裸にされていく。
 彼女は頭を傾げながら、なんでだろうなあ、どうしてだろうなあ、とこてんこてんと唸る。腕を組んで小さく可愛く、動作を小刻みに。
「それでもね、私不思議と怒れないんだよね」
 次の街灯のスポットライトを浴びた時、彼女は立ち止まった。僕と倉田はスポットライト外から、彼女を見上げた。
 彼女は何かを思し召したように、ゆっくりと言葉を口にした。教室で感じた無垢さ、無邪気さがあって。結局僕たちは彼女の存在自体に憧れていたから、スポットライトを浴びた彼女を悔しくも美しく眺めてしまう。白いスカートは天使みたいに跳ね上げる。
「そっか、私、そういう行為が羨ましいなあってなってるんだ。
 だって、藤本くんも倉ちゃんも、きっと私にそういう感情があったからやってるだけ。
 私には、そういう感情ないから。
 等しく綺麗に見える」
 舞台上の台詞をなぞって。僕は喉元が圧迫される。彼女の言葉が、きらめく。瞬いた彼女の睫から垣間見える瞳は澄んでいた。艶めいてその瞳の中を覗き込みたくなる。
「私は、ないから。自分にそういう行為をしている言葉が苦手で、もやもやしちゃう。
 でも、二人にはあるんだね。誰かを傷つけても、人とは異なる相手を好きになっても、間違えてても、想うことが。
 それって、とんでもなく愛おしい」
 思わず鵜呑みにしてしまいそうな迫力ある言葉に動けない。そんなこと言われたことがなかったから。
 それでも納得いっていない倉田が、「そんなことない、あたしたちは気持ち悪いよ」とお決まりの台詞を言ってのけた。僕も同意する。もっと正しい愛し方があるはずなのに、僕らは傷つけるやり方しか知らない。
 好きな人は、大切に扱うべきだろ。
 なんで、僕の行為を受け取るんだ。受け取って、なおそう言ってのけるんだ。
「気持ちわるくも、変なこともあるけど、全部まるごと私には綺麗なんだよ。その想い自体、すんごーく。とってもとっても、綺麗。
 倉ちゃん、私ね。多分人を好きになることができないんだと思う。倉ちゃんみたいにキスしたい、とか。誰かと手をつなぎたいとか。そういうのがこれっぽっちもないの。だから、私は全員に平等に優しく振る舞える。普通、なんだよ。私、とっても普通なの。みんなにフラットに振る舞える。でもこれってさ、虚しいよ。優しく振る舞っているようで、好意の一欠片もない。偏愛も、寵愛も、恋愛もない。想いがない。誰も見てないの。
 あ、だからこそ、藤本くんが見えないのかもしれない。
 藤本くんを見れるのは、本当に想える人だけなのかもしれない。それなら、私は見れない。想えない、ということはその人を見ていないのと一緒なんだよ。誰にでも八方美人して、誰にでも表の面を見せて。そのくせ本当の私を見てって。誰にも興味を持っていない癖して。倉ちゃんのことを知ろうとしなかったから、私今日まで倉ちゃんが何に悩んでいるのか知らなかった。倉ちゃんが悩んでることすら知らなかった。藤本くんを見ていなかった。周りに知られないように、そう振る舞った。誰かに言ったらよかったのに、しなかった。藤本くんがどれだけつらい思いをしているのかすら考えなかった。私は、本当は誰も好きになれないんだよ。誰にも好きになれないから……」
「やめて」
 倉田が叫んで、彼女の手を取った。彼女の瞳からはとめどなく涙が流れていた。スポットライトは涙の輪郭を縁取る。つるんっと頬をひとしずく、もうひとしずく、となぞっていく。なぞった輪郭を倉田の指がぬぐう。
 もういいよ、と。
「だから、怒れないんだよ。
 だから、二人のこと、逆に羨ましく思う。
 ぜんぜん許しちゃう」
 倉田の手が僕の手へと伸びる。僕の手を持ち、彼女の手を重ねようとする。
 思えば、僕も彼女に触れようとしなかった。
 見えない理由、なんてないのかもしれないけれど、知ろうとしなかったのはお互い様だ。
 僕はようやく彼女の手を握る。僕の手は平たく、彼女の手は細い。するっとすべやかで。倉田の小さい手とは違って骨ばったところが強調されていた。
 スポットライト下で三人、お互いを触れる。
 こういう想いの形があってもいい、このときだけは許されている気がした。
「藤本くん、そこにいるんだね」 
 僕は意地を捨てて。
「ああ、谷口・・。僕はここにいる」
「聞こえないけど。温もりで分かるよ。やっぱり見えないんだけど、ね。
 でも私は、本当の倉ちゃんと藤本くんとあえて良かったよ。私のことちゃあんと知れた。私に持ってないものを持っている二人に、間違えていたとしても、ちゃんと会えた。
 私に好意がなくても、好意に触れられた。
 これってとてつもなく素敵なことだよ。
 だから、私は二人の好意を認めたい。
 ありがとう」
「お礼を言うのは、僕の方だ」
 ようやく、と僕の中に納得がいった。彼女に認められて、ようやく。僕の中のコップに溢れんばかりの満ち足りた何か。いなくなる前に何かをしたかった。
 僕が、じゃなく、誰かに。
 僕は誰かに表の面であるじゃなくを認めてほしかったんだ。最終、それが好意に変わってしまったけれど。実らないものだったけれど。
「僕はこういう気持ちを抱いて良かったんだな。
 僕は生きていて良かったんだな」
 倉田が僕の手と谷口の手を強く強く握りしめた。両手いっぱいのこれは、世界に対抗する手段。愛ではない、呪いでもない、きっと誰かを認める存在意義という名の武器だった。

***

 ラブホから駅まで僕たちは三人で並んで歩いて帰った。振り返ると巨大な城のさっきっぽが住宅街から突き出ていた。白い額を上げて、蝉の声が降ってくるのを全身で浴びた。隣には倉田と彼女、谷口琴子が一緒に歩いていて。僕たちのアスファルトを叩く足音が独特で、それぞれの足音のテンポが違っているのに誰も先に出ず、遅れず。
 知らず知らずのうちに、『とんぼのめがねはみずいろめがね』と鼻歌を奏でいた。今は音楽がないから。蝉の音を伴奏に、足音でテンポをとる。『あおいそらをとんだから』と歌っていると、倉田が「なにそれ」と言いながら「とんぼのめがねは」と細く張り詰めた声でハモる。
「藤本くん、それ聞いたの?」
 谷口が恥ずかしそうに顔を覆った。そう、これは谷口が放課後に練習していた曲で、ウォークマンにも入っていた曲だ。そのときの橙の艶やかな空気を吸い込んで『とんぼのめがねはあかいろめがね』と僕は続ける。
 これで救われたこともあった。
「恥ずかしいー」そうして倉田の歌声が調子をはずす。「違うよ、倉ちゃん」と谷口が倉田の声にかぶせる。夢で見た彼女の声が、現実に流れ出す。口ずさむ声は夢よりも大きく、明るかった。太くパワフルな声に胸の中に火が点き、炎となる。
 三人で蝉の音をかき消さないくらいの穏やかさで歌い始めた。
『とんぼのめがねはぴかぴかめがね』と、三人の声が重なる。『おてんとさまをみてたから』何度か『みてたから』と重ね塗りをするように続けた。すると歩いている先から、太陽が昇ってきていた。ぴかぴかめがねが、備え付つけられていく。谷口が太陽を愛おしそうに何度も『おてんとさまを見てたから』と倉田と僕が歌い終わっているにもかかわらずしつこく何度も歌い直していた。壊れたロボットのように同じ歌詞を何度も何度も。
 途端、立ち止まって、事切れたロボットのように歌をやめた。
 駅のホームまで来て、
「みんなが虹色の眼鏡があったら救われるのにね」
 彼女の声が朝焼けで焼け消えていく。
「そうしたら、私は藤本くんが見えるのかな」
 彼女はまたあらぬ方向を見て僕に告げた。その視線と無理矢理合わせようとするが、瞳自体に僕の影が入らない。声や、色や、輪郭すら、僕の姿を彼女の体は拒否をしていた。
「それなら、藤本はあたしたちのためだけの幽霊になったらいい。これからも、このさきも」
 倉田が割って入って、僕と視線を合わせてきた。澄み切った瞳には僕の影がちらつく。体まるごと瞳の中に入ったようで気持ちが悪かった。体を後ろに押しやって。
「なれたらいい、けど」
 と、僕は駅の中へ顔を向けた。始発列車の表示がなされている。日常に戻ろうと体が表示板の蛍光灯を吸い込んでいた。
「帰ろう」「うん、帰ろう」と三人の中で行き交った言葉は、逃避行の終わりを告げるありきたりな言葉だった。切符を倉田が買って、三人で分け合い、改札をくぐった。日常へと戻りつつある空気を吸うたびに三人から言葉が消えていく。帰りの列車に乗って、僕を真ん中に、左右は倉田と谷口がいて。こうして電車に揺れてる頃には言葉は消失していた。谷口の頭がこてん、と前に傾き、ぐるぐると頭が回る。次第に僕の肩へと収まった。次に倉田の頭が超特急に僕の肩にごん、とのしかかった。二人とも何も言わずに固く目を閉じている。何にも知らない幼げな寝顔に、ほっとする。僕も目を閉じてしまいそうになる。
 朝焼けが背後の車窓から差してくる。温かい背中に押されて。そっと瞼を開けてみると、まばゆい光の中でくっきりと三人の影が象られていた。影を追っていく。黒く伸びる先。顔を上げると、車窓から大きなトラックが見えた。電車と併走していた。銀色のボックスの端が橙で縁取られていく。大きな荷物を堂々と走っていた。
 幼い頃の記憶と今の記憶が混じり合って。僕が大型トラックに座っている光景が目に浮かんだ。電車と併走して走っているのだ。朝焼けを浴びて。次の場所へと向かう。クラッチを踏み、ハンドルを切り。向かう場所を僕自身が決める。
 そうあったらいいな、と瞼の裏で光景を撫でた。愛おしくってたまらなくって。そうしたいな、と心の中に落としてしまう。
 怪物になりたくはないけれど、でもきっと怪物になる前の父は好きだったから。
「僕にできるかな」
 すると、
「きっと、できるよ」
 寝言が僕の隣でこだました。
 誰の声かは分からない。どっちも固く目を瞑っていて。
 でもそれは、僕の背を押した。

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