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夏の幽霊(2)

 プール後の生ぬるい風を女子更衣室で感じていた。
 棚があるのは左手。僕たち男子が使っている更衣室と真逆の作りだ。
 彼女の香りがする。彼女の焼けた肌の色が視界にちらつく。彼女の水着姿だけが、女子更衣室にぽつん、とあった
 僕の目の前で彼女は着替えていた。
 僕がいることなんて気にもとめず。
 彼女はてるてる坊主みたいなタオルを豪快に下ろしてブラジャーをつけ始めた。フォックを後ろに持ってきて掛ける。白の布地に赤いリボンの刺繍があしらわれたブラジャーだ。プールで焼けた肌にフォックが擦れてしかめつらをする。赤い肌をさすり、脇を上げる。手の甲はうっすらと焼けて、掌の指は生白く、ぐじゅぐじゅにとろけていた。
 タオルを取り出し、スカートみたいに履き始める。チャイナ服みたいな切れ目があり、そこから垣間見える太ももや、もう少しで見えそうな恥部に僕の心臓の音が早まる。自然と壁にもたれている背中に汗がぬるみ、唾が溢れ出る。
 続いてブラジャーに大きくも小さくもない胸を収める。鎖骨あたりからなだらかな山のように膨れあがる肌を追うと、薄桃色の熟れていないさきっぽが現れる。胸を手で押さえてブラジャーのカップに、持ち上げて形を整える。雪山のように白い山をブラジャーの中に隠す。反対側の山はさっきより大きくない。ちょっと小さい、それを同様に絹を持ち上げるように慎重かつ丁寧に慣れた動作を繰り返す。
 カップの中に収まると今度はパンツを取り出す。パンツはてるてるチャイナ服の切れ目がある場所へ吸い込まれ、あっという間に下着が身につけられる。
 途端に、僕は無性にポケットの重さに気がふれる。ふつふつと湧き出る欲情に、いけないことだと分かっていても。
 ガラケーを取り出した。カメラ機能を立ち上げて、ピントを彼女に合わせる。もう既に下着は着けられてしまっていたけれど。決定ボタンに伸びる指が躊躇っている。何をいまさら。僕の下半身はだるさにくわえて熱情を覚えているというのに。
 彼女の下着姿がカメラ越しでも存在している。カッターシャツを羽織る。ごくりと唾を飲む。まだ下着が透けて見える。震える手を押さえて。白いベールの先のブラジャーがちろちろと誘惑する。親指に力を入れる。彼女がこっちを振り向いた。シャッターをきった。彼女の表情が、写真の中で時を止めた。
「誰かいるの?」
 僕は慌てて、携帯を閉じて、後ろに体をのけぞらせて、でも後ろには壁があって、これ以上後ろに行けないことを悟って。
 彼女はカッターシャツだけを羽織ったまま、僕の前に一歩踏み出した。塩素の匂いがする。更衣室に降り注ぐ太陽光で彼女の髪がきらめている。辿っていくと、彼女のいつものシャンプーの香りがまぎれこんでいた。彼女の鼻が僕の胸元に伸びている。すんっと一息吸って、僕の匂いを吸って。
「男の子の匂いがする」
 くちずさむ、唇がまっかに熟れていて。
「ううん、気のせいか」
 思わず彼女に触れてみたくなる。手を伸ばそうとして、すぐに引っ込めて。彼女がくるりと去っていく。舞い上がった髪の毛の先をかすめて、名残惜しくなる。触ったところで僕はどうしたいのか分からないまま。
 彼女はカッターシャツのボタンをとめて、スカートを上げ、二回折って。しんなり濡れた髪のまま、水泳カバンを持ち、更衣室から出ていった。
 残った彼女の写真をぱかっと画面を開けて確認する。彼女の写真があった。驚いた表情、彼女の下着に、胸のそれ。まだ下半身にじんじんと熱がこもって暴れまわっている。僕の言うことを聞かない欲情。どうして、こんなことを。蹲って、湿った顔を腕の中に埋めてしまう。
「なにしてんだろ、俺」
 彼女に僕が見えてないからって。

***

 教室に戻ると、さまざまな制汗剤の匂いがした。シーブリーズに、8×4の煙たい彩りをともなった香りが散乱していた。みんなどうしてそんなたいそうな高級品を使う理由が分からなかった。高校生になったらみんなする嗜みみたいなものなのだろうか。意味が分からない。うなだれて、僕の匂いをかぐと、アルコールの匂いがした。ストロングゼロにアサヒビール、これが彼女にとっての男の匂い。なんにも隠せない、僕の色合いが教室に孤独と化し存在している。ここに似つかわしくない。
 そんな僕を友達が見つけて、
「お前、どこ行ってたんだよ」
「トイレ」と、僕は自身の掠れ声にさらに情けなくなる。
「なんだよ水くさいな」
「何がだよ」
 僕の心臓が一瞬縮こまる。まさかこいつ、僕がトイレに行っていないことを知っているんじゃないか。行っていないとしたら、どこに行っていたことにするか。遠いトイレに行った言い訳を瞬時に思いつき適当に流すか。理性の香りを目一杯に侍らせて、友達の返答を待ちわびる。
「俺はこんな教室にひとりぼっちだぜ。寂しいのなんの。浮いているし」
 思ったほどでもない。むしろ、どうでもいい感情がかえってきて、はっと笑ってしまう。
「悪い悪い、今度からはお前をあの中に放り込んでから、消えるわ」
 と、努めて明快に掠れた声をひた隠しながら僕は教室の中心にいる四人ぐらいのきらびやかな女子に目をやる。彼女たちはかしましく、トランプをしていた。今日はババ抜きだ。一枚抜いて、乾ききっていない髪の一束をぬぼっと落とす、彼女がいた。彼女のきらきらした瞳に女子更衣室での唇を思い出す。熟れている赤が口を色を添える。彼女のふんわりとした甘酸っぱい無花果のような香りが鼻をくすぐり、むずむずする。
 一枚のトランプを取られた相手は薄茶色のボブカットの女の子。彼女は目を上弦のように細めたと思えば、すぐに丸まった瞳とぱっと開けて表情を変えた。彼女のまん丸な薄茶色の瞳に深い輝きが宿っているのを見逃さなかった。
 彼女の名前は、
「お前、倉田のこと見過ぎだろ」
 倉田紗江だったっけ。彼女といつも一緒にいる女子。
「ま、見るのも分かるけどな。あいつハーフだろ。あの髪に、あの瞳。顔もさ、かわいいからな」
 そうかな、僕はむしろ、あの瞳の奥の何かに体を震わせている。思いっきり弓の弦を引き狙いを定めている先に、何か気味の悪いものを感じざるをなかった。
 彼女たちは、トランプに夢中になっていた。まだ乾ききっていない、髪がプールの水を吸って塩素の艶めきをしたためる。表情に笑みを含ませて。声色に明色を取り入れる。制汗剤の色が教室のあちこちに点在していた。そのどれもが輝きに満ちていた。僕にはいっぱいいっぱいに思えて必死に堪える。
「どこが、かわいいんだ」と、皮肉に笑って「なにがそんなに楽しいんだか」気になって仕方ないのに痛みを無視して押し下す。なんとか押し殺しているのに、彼女は僕の友達の視線に気づいたのか、こちらをふりむいた。僕の隣に目を合わせて、「やる?」と誘ってくる。僕達のような日陰者にも、立派に笑みをもたらしてくれる彼女たちは見上げてしまうくらい立派で。彼女から見た僕はどこにもいない。僕がいることすら彼女は気づいていない。隣にいるボブカットがゆらめき僕を見つめた。なぜか焦点が合う。瞬きをして薄茶色の瞳と視線をそらした。
 敏感になりすぎているんだ。だから、ひたひたと心が血を流す。ただ彼女の笑い声を教室の隅っこで聞いているだけの、男だから。そんな僕の、手が届くとしたら。彼女を掌で弄べるような力があったとしたら。
 僕はポケットの中のガラケーを握りしめる。掌の汗がぬるぬるとして気持ちが悪かった。カッターシャツが背中にはりつく。なあなあ、と教室での友達を「今度はなんだ」と笑いを噛み殺しつつ応える。
 ああ、僕は最低なやつさ。そんなこと知っている。
 しけった空気に僕はいつも通りため息を隠した。

***
 
 蚊の羽音が耳の奥でこだましている。ぷぅうん、と細く鬱陶しい。羽音をはたき落とそうと耳を叩く。それなのに、蚊は耳から奥へと進み、鼓膜を突き破って、上頬をかき乱しこんがらがり、羽音と共に渦を巻き、鼻の奥を通り、喉へと墜落する。声色の糸へと辿りつく。ぽとりと、蚊取り線香の灰が落ちて。蚊が、畳の上でぺしゃんこに潰れていた。うぅ、と僕は呻き、かぼそい声音を小さく空間に散らす。むしむしと暑苦しい中で、悔し涙に苛まれていた。誰に対して謝っているのか分からないのに、申し訳ない気持ちで。掠れた声を出すと思い出す。
「ごめん」
 僕のか細い声音一つで、誰が気づくものか。
「ごめん、俺、今日掃除当番なこと忘れてた」
 なるべく、昨夜潰された声を隠しながら告げた。目の前には、彼女が立っていた。箒を二本持ち、僕の少し隣を見ていた。先ほどから返答を待っているのか、うん、と適度に相づち、頷きを繰りかえしていた。僕は何も言っていない。彼女の視線が少しずつ隣にずれていく。少しずつテンポが遅くなっていく。
「藤本くん。はい、箒」
 結果、言葉を無視して箒を手渡してくる。その箒の先差へも明後日の方向だ。無邪気な顔に、僕の笑みはひくつく。教室では、この顔はしないようにしていたのに。どうしても彼女の焦点は合わない。もどかしくなり、悲しくなり、あきれてしまう。せっかくぼそぼそと声を出力したのに、声のあげ損になっていることが、こんなにも苛つく。
「早くやって部活行きたいんだけど」と同じ班員の女の子が、僕の足下を箒で掃いた。埃がスリッパの上にふりかかる。
「本当にごめん、今やるよ」
 その子にはきちんと笑みを作り返答してあげた。降り積もった埃にもにこやかに対応する。箒を受け取り、彼女に一瞥する。
 この場合、彼女の視点では、箒はどう映っているのだろうか。僕が手にした瞬間箒は消えているのか、はたまた箒は浮いているのだろうか。
 空間をきりとり、箒が浮遊する様を想像する。教室の中を箒が動き、僕が床を掃くと、風が生まれて、埃が教室の背後に潮を引く。僕の足跡を辿ると、煙草の紫煙が紐付いている。白いベールのようなそれはオーロラ状にするすると。
 薄茶色のボブカットの女の子が立っていた。むしむしと暑いから、今は近づいてほしくないのに、彼女は一歩僕へと歩みを進めた。扇風機は回っていない。蚊の羽音はやんでいる。顎に伝う汗をぬぐうことはせず。
 だから、掃除をするのは嫌だったのだ。ちょうど彼女と倉田が同じ班員だったから。薄茶色の透き通る瞳を切れ長にさせて彼女と僕を交互に見て、分かったように頷いた。倉田の冷たい肌は教室の中で白く輝く。今の季節を勘違いしそうだ。
「藤本君」倉田の紅色の唇が卑しそうに含み笑いを保つ。「この後、空いてますか。話したいことがあるんです」
 倉田のその言葉は、教室にふいの鋭い一撃を食らわせた。僕を注意した女の子も、今まで知らぬ存ぜぬで黒板を掃除していた日直も、教室の端でおしゃべりしていた女の子や、廊下でふざけあっていた男子どもも、僕たち二人に注目した。確かに珍しい組み合わせだろうか。注視されては、どうすることもできない。一斉に耳をそろえて僕の反応を待っている。彼女すら、倉田のことを大きく瞼を開けて見ていた。色めきだった高校生諸君には、倉田のまっすぐな告白に興味津々。薄ら寒い雰囲気だ。黄色い声を上げて、ひそひそと話す女子の陰口が聞こえてくる。彼女の誘いにのらないと、僕はどうなるのだろうか。かわいいと噂されているこの子をふったことになるのだろうか。カッターシャツが肌にはりつく。ねばつく口内に、喉が渇く。ごくり、と。喉仏が動かせ唾をのみこむ。
「いいよ」
 言葉のトーンを持ち上げて。なんとか、俺を見せてやる。すると、一気に沸点まで空気が上がり、あぶくが弾けてとんで、僕から目の前の倉田へと一心に視線が注がれる。押し寄せた視線の津波に倉田は背筋を正し、毅然とした態度をとっていた。薄茶色の瞳がきらりと光っていた。気づいた僕は笑みをようやく作り、平然と倉田と同じような笑みを貼り付けた。

***

 連れてこられた場所は、意外にも校舎の最奥、階段の踊り場だった。誰も知られない場所で、どんな音も吸収してしまうしめっけが留まる。グラウンドが近く、土を整備している野球部の一年の声や、外で練習している吹奏楽部のトランペットの音が響く。照りつける太陽は赤よりも橙に濁っていた。目を細めて、ボブヘアを見下げた。
「で、俺に何の用かな?」
「わざわざありがとうございます」と倉田は嘘くさい口調で、薄茶色の瞳を細め、大人びた笑みを作っていた。「でも、そういう演技、いいから」と、思っていたのに、すぐに顔を崩し、「あたし、知ってるんだよね」あらぬ方向へと会話が転がり、胸がきゅっと絞られる。もしかして、と思わずにはいられない。「ごめん、ちょっと騙す形になって。でも、見ちゃったし、確信もって言えることだから」
 一息入れて、倉田は僕を見下げた。
「あんたが女子更衣室に入っていったのを見た」
 足を床に縫い付けられる。震えすらも起こらない。目の前の倉田の睨めつける視線は死刑宣告を求刑されたようだった。
「でも、おかしいよね、あのときあの子が更衣室にいたはず。あたし達、先に教室に戻ってって言われてたし」
「なにかの見間違えなんじゃないか」
「あたしはずっと見てた」
 倉田の瞳に僕はすくむ。
「さっきの教室の反応を見て分かった。
 あの子、あんたのこと見えてないんでしょ」
 それを良いことに、僕は彼女の着替えを覗いていた。
「彼女に言わないでくれ」
 あきれるほど情けない。
「これだけは、無理」
「どうしても、か」
 倉田の顔色は変わらなかった。僕は歯をくいしばる。太陽の日差しが僕の視界に差し込む。思考が明滅する。倉田の薄茶色のストレートの髪がさらさらと流れている。今まで押し黙っていた何かが切れそうになる。トランペットの音がひそやかに語りかけた。
 なんで僕だけ。なんでいつも。
「ねえ、バラしてほしくなかったらさ、あたしに協力してよ」
 トランペットにまぎれて彼女の声音が残酷にも僕を突き刺す。
「わたしと付き合ってるフリ、してよ」
「は?」思わず声を作らずに、吐き出された声に、自身に言い渡された告白に、
「意味不明だろ」
 倉田に焦点を合わせずにはいられなかった。
「君は、あの子にいけないことをしていたのを隠せる。私は君と付き合っているフリをする。むしろ、君の方がメリット大きいと思うけど」
「だから、理由だよ。もうちょっと何かあんだろ」
「逆になんで理由を教えてくれる立場だと思ってんの」
 薄茶色の瞳がより澄んでいく。裏も表もなく、教室の中の倉田よりも輪郭が冴えわたっている。きりきりと痛み空間を切り取る、彼女の手の先が僕へと差し出される。細い指先に桜色の爪が挿されていた。
「携帯かして」
 有無を言わさずに、彼女ならメルアド一つ知らないのはおかしくない、と妖艶に笑ってみせる。面白おかしくてたまらない、と。彼女は僕を試しているかのようだ。
 そして、こんなときにも放課後の静寂ははびこり、空気が返答をよこすことに渇望している。ひしひしと伝わる、この空気。痛いほどに分かる、僕の不利な状況。もう拒否することなんてできやしない。とぼけたトランペットが僕の手を動かさせる。携帯をポケットからぬきとる。
 あ、とまだ彼女の着替え最中の写真を消していないことに気づく。が、遅く。彼女は僕の手から携帯を半ばはたくようにして、もぎとった。倉田はすぐにガラケーを開き、自身の携帯を取り出す。同じ機種ではあるが、倉田の方が傷が少ない、パープルのガラケーだった。切り傷を幾重にも重ね、昨夜灰皿に落とされた僕の携帯はヤニくさい。
 へぇ、と倉田が目を細める。これで何もかも、倉田は知ってしまった。小刻みに震える喉元に、言葉を重ねても、あ、へぇ、としか返事されない重みを、存分に噛みしめる
「返せよ」 僕は反射的に彼女の手にあるガラケーをぶんどった。倉田の指先に傷がつく。じんわりと血がにじむ。鉄の香りがした。倉田の生きている香りが、目の前のことを本物にさせている。
「なんでお前にそこまでしなきゃなんねぇんだよ。ふざけんな」
 桜色の爪が赤く染まる。爪の端から赤墨が半紙にしみわたるように、しんみりと。僕の胸が痛む。
「言うんじゃねぇよ」
 どうしたらいいんだろうか。
 倉田から体を背けて、薄っぺらい鞄を抱きしめ走った。昇降口を通らず、スリッパのまま。背後からあの綺麗な瞳が見えていると思うと、いてもたってもいられなかった。足裏がアスファルトを叩き痛む。トランペットの音が追ってくる。目の前をジョギング中のバドミントン部の列が遮って。でも僕は間を割って、すぐに学校からぬけだした。振り返ると、高校の大きな影が僕を覆う。見上げて、悲しみ、学校が大きすぎてうつむいた。

***

 朝、靴箱の中にメアドが書かれたメモが入っていた。ラブレターのようなものではなく、たった一行のメールアドレス。名前もないのに、倉田紗江だと分かる。昨日の今日でこんなことをしてくるのはやつしかいない。すぐにぐしゃり、と握りつぶす。紙の凹凸が掌の中で弾けた。彼女の靴箱を開く。中にはローファーが踵を合わせて入っていて、それすらも苛立ちを隠せない。僕の手の中のメモ用紙を添えると、素敵なゴミ箱が完成されて満たされる。静かに扉を閉めると、眉間にしわがよる。苦々しい痛みが舌の上に転がされて、どうしようもなく騒ぎ立てる。沸き起こる気配に促されて、冷や汗がぷつぷつと生まれて額の上を滑る。もう一度靴箱を開けて、メモ用紙をとり、ポケットの中につっこんだ。靴の踵を乱してやり、それぞれそっぽを向くようにさせる。甘やかな気配が忍び寄り胸をなでる。今度は音を立てて、扉をぶつけるように閉めきった。
 教室の中では倉田も僕もお互い静かなものだった。目も合わせず、声すらも遮断する。だが、現代文の授業中、立ち上がり彼女が音読する姿が目に入った時だけは僕たちは目を合わせた。ふわふわとした彼女の朗読。ところどころつまづいている。そのしぐさを見て、倉田は満足そうに眺めていた。耳をそばだてて、聞き入っている。ぽってりした唇が微笑みを隠せずに。居心地良く。僕には分からない感覚で倉田のことをじっと見つめてしまっていた。倉田は全身で彼女の声を受け取っていて。それはきっと、とっても異常で気持ち悪く、体がそわそわとして、肌に大量の虫が行進しているかのような、そんなものに思えて。
 僕は倉田に向けて、「ないわぁ」と口を動かした。それを受けて僕の視線に気づいた倉田が「うっざぁ」と眉をひそめる。
 僕たちの距離感はなぜかでぐぐっと縮まった気がして。彼女の声を二人で共有する。教室の扇風機が回り、なでやかに風が押し寄せる。汗をかいたカッターシャツが乾いていく。彼女の声と扇風機と、先生がチョークを黒板に叩く音。手が教科書の熱さにやられてだるくなる。早く終わってほしい僕と、倉田の涼やかな笑み。さらっと扇風機が倉田の茶髪がほどける。つらつらと、一本一本を追いかける。
「やっぱり、お前倉田のこと見過ぎな」
 昼休みの時間になり、つっぷしている僕に友達が前の席から声をかけた。僕の瞳に映るのはあくまで倉田の隣の彼女だったのだが。
「お前さ、倉田に告白されたんだってなぁ」
 友達がどこかからまた聞きしてきたことを悪気なくいうから、無言で突き通した。
「で、おっけーした? 倉田みたいなやつお前に釣り合うとは思わないけど」
「は? お前ないわ」
「なにが」
 友達が手にしているのは、購買で買ったであろうホットドッグだ。赤いケチャップをふんだんにかけ、甘い香りとウインナーのスパイシーさをあたりにまき散らす。僕の体はうずく。鼻がこんがらがり、今にも目の前の友達のパンを奪い取りそうになる。
 教室中に香るごはんの香りを僕の嗅覚は鋭敏に感じ取る。体が欲している。目の前のご飯にのどが手がでるほど。お腹がすきすぎて、感情すら薄い。いつから僕は食べていなかったっけ。体が動かない。でも、飢えでイライラしているなんて言えるわけがない。
「にしても、倉田が冴えない底辺やろうに告ると思えないんだよな」
 口が悪いな。
「たぶん、おちょくられているんだろうな」
 そうだと思う。
「もしくは、本当に好きだったりしてな」
 倉田が、僕を好きだとは信じられない。むしろ逆で、僕は嫌われている。友達の勘違いに応えるのも面倒だ。クラスで孤独死しようとしていた同士の、馴れ合いという友達なんだから、そこまでする義理もない。
 おいしそうなホットドッグが、友達の口の中に消えていく。端から咀嚼し、ホットドッグの欠片すら残さない。僕の目が恨めしそうに反射的に追ってしまうから、ついつい意識がいってしまう。腹の調子に嘘をつく。今日はまだ平気だ。週の始めは耐えられるが週末となると、気が狂いそうになり腕を噛むくらいのことをしてのけないといけなくなる。蚊の羽音がさっきから常になっている。耳鳴りなのかなんなのか分からない。
「お弁当ないんですか」
 石けんの清涼感漂う匂いが僕達を横に立つ。横目に彼女が何者であるのかも、理解していた。
「倉田、さん」友達が驚き、喉をごくりと鳴らす。
「藤本くん、お昼は?」
 知っているくせに、白々しい。ハーフの女の子の表面。くりくりとした丸い目が慰めるのは堪える。まるでクラスの中心にいる彼女のようで、踏襲しているだけで。倉田がそれをしているとこと、昨日のギャップにいたずらに心をかき乱す。ただでさえ空腹で参っているのに、駆け引きなどできるはずがない。
「倉田さん、かまわないでいいよ、こんなやつ。いつもお昼食べないんで」
 へらへらしている友達に、倉田が分け隔てのない笑みってやつを見せた。そう、そうなんですね、と言いつつ僕の机に腰掛ける。頬を膨らませて僕のことを見下げる。
「言ってくれたらお弁当を作ってあげたのに。なんで言ってくれなかったんですか」
「別に」彼女でもないくせに。「言うほどのことでもないと思ってね」
 そのさまを見て友達が激しく瞬きを繰り返した。ばちばちばち、と。扇風機の首が振られて、こちらを向き、乾いた瞳が再び瞬きを強制してくる。僕は薄ら寒い笑みを見せ、倉田も微笑みを崩さない。教室では体裁の方が大事なのはお互いさまらしい。
「本当だったんだ」
 友達がみるみるうちに顔を青ざめさせてうつむいた。僕と倉田のことを言っているのは明らかだった。そんな友達をさしおいて倉田の追随は止まらず、僕の耳元に口を近づける。「あたしが、お昼、なんとかしてあげる」囁いた言葉に悪意が含まれている。
「ね、藤本くんがお昼忘れたんですって」
「おい」
 僕が立ち上がるのも目もくれず、
「大変」
 彼女がお弁当を持ち立ち上がった。教室の端にいたはずの僕のもとに、クラス全員の視線が集中砲火する。火を噴く視線と声に、友達は傍らでなぜか悲しげにうなだれている。僕は彼女の前に出るしかなくなる。
 彼女はお弁当を片手に、倉田の隣まで駆けつけて、きょろきょろと僕のことを探して、仕方なく僕の机の隣にお弁当の蓋を置いた。そこに足が広がったウインナーが置かれ、形の良いだし巻き卵が添えられる。倉田は、彼女のことを満足そうに認めた後、いちごみるくのキャンディをそなえつけた。ウインナーの赤と黄色と、白で盛り付けられたそれを「はい」と悪気なく差し出す。彼女の瞳は宙を彷徨い、「藤本くん、お弁当ないと午後の授業きついよ」と何気ない凶器をふりかざす。おそらく彼女は、誰がお弁当を忘れたとて、こうしてウインナーと卵焼きを置いて、クラス中のみんなに知らせるのだろう。
「藤本くん、お昼忘れたんだって、誰かご飯分けてあげられないかな」
 そうやって、僕をいつも見下す。
 立ち上がって、彼女を見下ろした。彼女は「誰かー」とまだ言っている。彼女が呼びかけるとあっという間に二三人は顔を上げ表明する。その空気が心底気持ち悪かった。扇風機がこちらを向き、乾いた肌に風を送る。悪寒を乾かすには十分すぎる風量だった。
「あんたの施しなんていらないんだけど」
 ぽっと捨て去った言葉に何の意味もこもっていない。
 本当は喉が手がでるほど欲しい。なのに、目の前の彼女が差し出した手が死ぬほど汚らしく見えた。
「ごめん、嬉しいけど、ご飯もらうのは流石に申し訳ないから遠慮させてもらうね」
 と、ようやく体裁を見繕い彼女の背中越しに言った。もちろん、聞こえないから意地悪でしかない。一生そうして呼びかけていろよ。
 鞄を持ち、彼女の横を通り過ぎて、教室を出る。一瞬友達に侮蔑に近い瞳の色が遮ったが、気にしない。次の科目の先生が来ていたが、それすらも聞く耳をもたずに、廊下を歩き続けた。おい、どこ行くんだよ。声が追いかける。飛び越えて。もうどうでも良くなっていった。教室の授業も受ける気力が失せている。扇風機の羽音だけは規則正しく僕の耳にこだまする。

***

 かといって、僕に帰れる場所なんてない。家に居場所もなければ、学校を追い出されるまでは家に着くことはできない。その場合、僕はいつだって使わないプールの男子更衣室に忍び込むことにしていた。
 塗料が禿げて木片の地の色が出ているロッカーに荷物を押し込む。教科書もなにも入っていない、高校生という体裁だけ見せる鞄はくたびれており、僕に限界を告げていた。ぎゅうぎゅうに押し込められて体を縮まらせている。僕はその袂で携帯を握りしめて、体を折りたたむ。
 昔から体は大きい方だった。そんじょそこらの男子に負けないくらいの巨体を誇っていたけど、たまに邪魔になる。体を縮こめて、ロッカーに入れるくらい、穴に収まりよくなったら空間の邪魔にならなかったのに、そうはならない。ハリネズミのように丸々とちぃさく、体から針を突き出すようにトゲトゲしく雰囲気を保つ。熱気が体の内側から放たれ、鼻先から汗がしみでる。
「せっかくあの子が分け与えてくれたのにそんなに嫌だった?」
 そこへ倉田が汗一つかかずに僕の前に現れた。
「もう放っておいてくれ」
「授業サボって帰ると思いきやこんなところに引きこもるんだもん。放っとけるわけないじゃん」
「体裁的に放っておけないってことだろ」
 一旦待って、薄茶色の瞳が丸くなったのが見えた。
「あたり」
 わかってんじゃん。
 わかるよ、なんとなく。
「倉田のこと、なんとなく分かってきた」
 コンクリートの床に汗の粒が落ちた。ぽつりぽつり、と雨が降っているかのようだ。
「僕と会っている時と教室では、ぜんぜん違うのな、お前」
「それはあたしもそうだけど、あんたもでしょ」
 言えてる。でも、僕のは倉田ぐらい露骨じゃないじゃないかな。
 僕のトゲトゲした針が逆立つ。うっそうと生え茂った針を鋭く冴えわたらせて。男子更衣室に差しこんできた光を一心に受けていた。冴えわたる針のむしろを今だけは一点に集中した。
 倉田が彼女のことを、好く思っているのは知っていた。彼女が声をさえずるたびに、倉田の目が細く、頬がゆるまる。彼女が施しをした時は、倉田は満面の笑みを従えさせていた。彼女が更衣室にいたところをずっと見ていたのはなぜだ。先に行ってと言われて、倉田は更衣室の前でじっと待ち伏せしていた。それは、もう最初からそこに転がっていた事実だったわけだが。加えて、倉田の、僕が撮った彼女の下着姿の写真を見つけた時の、恍惚な顔。
「さっきの教室の、あれは僕へのあてつけか」
「あれはあんたがお昼がないから助けてあげただけでしょ」
「僕が、うらやましいのか?」
 ピントを合わせていた針が、一気に弾け飛んだ。白いトゲが方々に突き刺さる。縮こまっていた体を起き上がらせて、倉田の前にそびえ立つ。彼女は小さい。あの子よりも断然。小柄で、鼻が高く。外国風の顔立ち。薄茶色の、他とは浮いている薄い髪の色素。白い肌。僕の汗でべたついた手が、倉田の手首に絡みつく。
 周囲には塩素の香りが漂っていた。プールのさざ波が立ち、どこかの教室で教鞭をふるう先生の声が響き渡る。手に持っていた携帯のシャッター音が幻聴として高鳴る。
「あの子から見えない僕に嫉妬してんだろ」
 違う。もっと言うことがある。
 倉田と目を合わせて。
「そんなにあの子のことが好きか」
 一息に。倉田のことを射殺すんだ。
「お前は、レズなんだろ」
 ようやくつかんだ手首から倉田の汗が噴き出した。目の前にあった瞳がそれとなく逸れていく。薄茶色の瞳がくゆり、深い淵を覗く。僕を映すのを諦めて。どんどん沈んでいく。表情も真顔に近くなり、どんよりと重たい熱風が僕たちをくるんだ。昼の日差しが陰りを帯びる。
 離して、と倉田が小さく呻き、顔をうつむかせる。
「あの子ってさ」倉田の一呼吸が浅い。「あの子ってさ、良い子だよね」皮肉気味に笑っている。こっちのほうが倉田っぽさがあった。少なくとも教室の倉田よりも、断然僕はこっちの倉田の声の方が通っている。「あの子ってさ」と再び同じ言葉を紡ぐ。「誰にでもあんな感じなんだよね」まるで自白しているかのようで。それは僕が、彼女の覗きをしていたのを倉田にバレたときのようで。なけなしの情が痛んだ。つまりは、倉田の返事は、「あたり」ということなんだろう。「もういい」と僕は言ってしまう。
「あの子ってさ、あたし達みたいに嘘っぽくないんだよね」
「だから、いいって」
「なにがいいのさ。あんたも聞きたいんでしょ。あんたにあたしがしたことと同じだよ。そうだよ、今のあたしの立場は、あの子があんたのこと見えてないってあたしが言ったときと同じ」
 押し黙ってしまって、
「あの子ってさ、人が困っているとどんな人でも助けるんだよ。クラスでおざなりにされているあんたがお昼ご飯ないって知ったら、簡単に手を差し伸べるし、この間なんて体育で一人だった子に話しかけて。みんながゴミだなんだと言った子にも、ちゃんとした名前で、呼ぶんだよ」
 あの子ってさ、あの子ってさ。過呼吸気味に倉田が続ける。あの子ってさ、陰口をいっさい口にしないんだよ、みんながあんたの悪口言っている時でも。あの子ってさ、あんたのことを何一つ悪く言わないの。見えないのに、嫌な顔一つせず。誰にでも、可愛い顔して、それは普通のことで。あの子ってさ。あの子ってさ。ぐっと堪えて、唇を噛みしめる。頬が紅潮して、瞳の淵からひと雫、頬をかける。何度か歯を噛みしめて。唇を開けて、閉じて。僕は力をほだし、その一瞬で倉田が手首をふりきった。逆に僕の手首を掴んだ。きりきりと手首を締め上げる。
「あたしの、言っている意味わかる?」
 わからないよ、と言いたくなる。透かした瞳が僕をとどめさせて、倉田の力が強くなる。
「今日もさ、すごかったねぇ」
「すごかった」
「あの子、自分が何をしているか分かってないんだよ」
「俺じゃなかったら、あれは良いことなんだよ」
「そういうところもひっくるめてさ、すごいんだよ」
 しばらくして、倉田は僕を見上げた。答えなんてとっくに分かっていた。とっくに、倉田は、僕に告げていた。あの交渉は、そういうことで、僕にあてつけたのは全部そのためで、倉田の言葉や声や、心は実はかなりわかりやすい。陰っていた男子更衣室に燦々と日光が降り注ぐ。彼女の濡れた頬の跡がてらてらと照っていた。その足跡をなぞる。湿った白く柔い肌はぶくぶくと膨れて水気があった。
「うん、そうだよ」
 小さくぽつんと言った正解は、どこから引っ張った質問の答えかも分からないほどに、長い長い正解だった。
「あたしは、そう。だから、あの子にも周りにも、あたしのこの想いを知られたくないんだよ。それにあの子の傍にいたい。あんたがあの子にしてきたことも知ってるし、でも、羨ましくもある。あたしがまじまじあの子を見てたらどう思う? 引くでしょ。何かあるってバレるでしょ。あんたみたいに、浮くのは勘弁してほしい」
「僕だって好きで浮いているわけじゃない」
「でしょ。あたしにはなんとなく分かるよ」
「僕はようやく、今倉田のしたいことがなんとなく分かった」
 放置されているトゲが、萎れていく。熱されてしなだれて、湿気でぼとぼとと雫が宿る先端を見つめる。喉元に突きたてて、僕の目を伏せて、コンクリートに広がる汗の雨を見下げた。とん、とん、と小刻みに僕の鼻の頭から落ちていた。
「きみは俺と付き合うフリをする」
「私は自分の気持ちを体面的に隠せる」
「その代わり、僕が彼女に見えないことは伏せる」
「むしろ、あたしはあんたのすることに協力する」
 変わった契りの交わし方だ。
「だって、あんただけずるいもの」
 はは、と僕は笑って、
「やっぱり羨ましかったんじゃないか」
 でも、この利害関係は僕の好むものだった。彼女のように何のためらいもなく、与えるだけ与える利益の損得もないようなものよりも、ずっと。家族の愛よりも、ずっと。トゲを抜いて、お互いを刺す寸前で止めているこの状態が心地良いし、なによりも安心できる。
 ポケットの中のメアドが記された紙の重みが軽くなる。今なら、僕の携帯アドレス帳に倉田のメアドを登録していいかもしれない。

#創作大賞2024 #恋愛小説部門

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