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夏の幽霊(5)

 日向葵のドラマが中盤にさしかかったのか、友達が大きな声であの展開はすげぇわ、と会話している。ウォークマンの残り充電残量が半分をきったのを確認しつつ話半ばに聞いていた。手元に光る残光に絶望を抱いているのに友達ときたら「日向葵」なるものが演じる春ちゃんにご執心で僕の絶望など、蚊帳の外だった。またすげぇと一声つついた。
「序盤に日向葵とくっつくと思っていたやつが、実はやべぇやつになってくのすごくないか。ぽっとでの青野が、優し過ぎだろ。昨日の日向葵に告白したシーン、思わず泣いちゃった」
「確かにあれはドラマ史に残るシーンだった」
 傍らで会話する彼らが鬱陶しい。
「なあ、藤本も昨日の告白シーンさ、泣けただろ」
 今ちょうどウォークマンの充電が五十五パーセントに減った。
「ああ、告白したところだろ。ドストレートに告白するなんてやるなあ」
 恋愛ものならドストレートの告白が受けるだろうことを適当に返しとけば良いだろう。それよりも、僕は今危機に直面している。手元のウォークマンの充電器がないということに今の今まで気づかなかったとは。
 僕の言葉が共感を得ているかとか、どうでもいい。
「『好き』って、言ったんだよね」
 教室にこだまする告白に、僕は思わず立ち上がった。
 その声は彼女の声だとひと聞きすれば分かった。
「すんごく羨ましいな。誰かに好きっていうのって、とっても綺麗なことなんだなあって、あのシーン見て思ったんだ」
 彼女の感想は、とりわけ美しく僕に響いた。手元のウォークマンを握りしめると手汗がべっとりとまとわりついていた。教室の雑音の中で彼女の声という一等星の輝きが駆け抜ける。
 それなのに、彼女の傍にいる倉田の表情は浮かなかった。あれだけ好んでいたドラマのはずなのに。青白い顔で教室の感想を受け止めている。蝉が大合唱しているくらい暑いのに、極寒の真冬のような冷気を放っている。
 で、実際はどうなのよ、と友達が僕に身を乗り出した。
「倉田って、ドラマみたいにドストレートにお前に告白してきたんだよな、あれをリアルでやったの。俺気になっててさ」
 僕は、うーん、そうだなあ、とか、生返事を続けた。実際告白してきたわけではない。
「日向葵は、彼の素直で裏表のない『好き』がぐっときたんだろうね」
 と、彼女は嘆息しながら思い浮かべていた。
 倉田は苦痛の表情をにじませる。痛みで顔をしかめてどうにもならないみたいだった。今にも倉田の鼓膜は破けそうになりながら、耳を手で塞ごうとしていた。
「俺さ、ずっと思ってたんだけどお前ら本当に付き合ってんの。ごめん。だって俺さ、まだ許せなくて。言えてなかったけど。お前に言いたいことがあって」
 行かなきゃならない。
「ごめん」
 僕は立ち上がり彼女達のもとへと歩み寄った。太ももに机の角がぶつかり、机がそっぽを向く。椅子が後ずさり行く手を遮った。熱風が汗を散らす。
「倉田、話がある」
 教室の中央にいる彼女からは見えないから、きっと大丈夫だ。これくらいは、僕の許容範囲内。教室の空気がさざめくのが手に取るように分かる。蝉の鳴き声が、教室の声に絡みつく。彼女は、他の友達の表情をつかみ取り、ようやく見上げた。倉田は無視し続けて、顔をうつむかせる。
「こんなことしていいの」と倉田の口が動いた。
 瞬間、二人同時に彼女へと振り向いた。
 彼女は目をぱちくりさせて頭を傾げさせていた。無邪気でかわいらしい相貌に何かこみ上げてくる。
 きっと、大丈夫。
 僕の無意識に口からでていた言葉に、倉田も僕も驚いた。お互いのことは見ないまでも、倉田の息づかいが分かる。倉田は立ち上がり近くによった。僕は倉田にいっさい触れずに教室を出る。倉田も背中越しについてきているのが察せられた。うずくまりうめくしかできなかった、あの夜に背中にしがみついた温度が倉田の気配を感知している。
 廊下にでると、教室よりも清々しい風が僕たちを突き抜けた。温度はどこかへ吹き飛び、先を見ると古典の先生が立っている。
「お前らどこ行くんだ」
「ちょっと、そこまで」
「授業の単位は取れないがそれでもいいなら行ってこい」
「なにか勘違いしているみたいだけど」と倉田が先生に言おうとして、口をつぐむ。「別にいいです」
 倉田の演技が崩れている。
「行こう」
 急かす意味が理解できる。早くここから抜け出さないと。
 倉田と僕は二人が出会った、校舎の最奥にある階段の踊り場に足早に駆け込んだ。しみったれた場所すらも既に懐かしく思えてくる安心感があり、思わず二人して壁に手をつけて、その場に崩れ落ちた。どっと暑さが肩にのしかかり、湿気で頬をぬらす。なぜか分からないがとても疲れていた。手元にあるウォークマンを確認したら残り五十パーセントをきっていた。

***

 何も言わずに数十分、お互い違う方向を向いていた。チャイムの音がして授業が始まり、遠くで元気の良い先生の声がして、生徒の音読が高らかに流れ、プールに浸かり声を上げる少年少女達の無垢な声色が二人の中に浸透する。ちゃっぷん、と揺れるプールの水面を頭に描き眺めていると、倉田が「ありがとう」と告げた。
「『恋をするには、』見たことないって言ってたっけ」
 僕は、「言っていない」と言うと、
「でも見てないのバレバレだけどね」
 倉田が暑さを払い除けるくらいの冷笑を放つ。
「あたしは好きだった。バカみたいだけど、あのドラマに入れ込んでいたのかもしれない。こんなに傷つくなんて思わなかった。
 あのドラマ、あたしみたいな女の子が好きな女の子が出てくるんだよ。その子がドラマの中で主人公に恋をするの。主人公はどうしたらいいか分からなくなって。その上、元彼にしつこくかまわれて追い詰められる。女の子もその元彼もちょっとしたいじわるを主人公にしてしまうんだ。で、同僚の優しい男性に告白される。それが先週の話」
「ドラマの中の話だろ」
「そうだよ。でも、みんなの反応みた? あたしの居場所はないんだって、そう、暗に言っているみたいで。優しくされた男性にみんな肩入れするのが、今の風潮ってそうなんだって」
 プールサイドの女の子達が騒ぎ立てる中、倉田だけが違う目線で、彼女を見ていた。居場所も、定位置も確立しているというのに、心の安息地だけはなかった。漂う視線は僕に定まる。そして、悲しげに歯がみする。
「あたし、いちゃいけないんだろうな」
 それを言うなら僕だってそうなのではなだろうか。
「間違えてんだろうね」
 どこから間違えたんだろうか。もがいて苦しんで、彼女はそこにいるのが分かるのに、僕たちは宙に浮いているようにおぼつかなかった。陽炎が立ち上り、かすんで見えなくなる。
「あんたみたいに見えなければよかった。
 幽霊、になれたらよかった」
 そのまま倉田がいなくなりそうで胸騒ぎが止まらなかった。ぼんやりと漂う倉田の肌は青白い。
 父を前に離れられない自分がいることを思い出し、全て否定してしまいたくなる。でも、そうじゃないだろう。倉田がいなくなれば、僕はどこにもいなくなってしまう。そんな気がしてならなくて、この世にとどめておいておきたくて。
「僕の父親さ、トラックの運転手だったんだ」気づけば吐き出していた。「アルコールに弱くて、たびたび乗務を止められた。遠距離を運転するたびに乗車席で眠れず夜に無理矢理寝るために呑んでいたこともあったし、当時は飲酒運転の規制はゆるゆるだったから、飲酒していてもきちんと事故を起こさずに乗っていたら何も言われなかった。それでも、時代と共に飲酒運転についての規制が厳しくなっていって。会社から見放されるようになった。周囲の空気もあって。運転手としてやっていけなくなって。トラック会社を点々として。だから一念発起して、断酒した。それからは、家庭もギスギスせず、安定していった。一回、トラックに乗せてもらったこともあった。高い運転席は、遙かかなたまで見渡せて。道路はずっと遠くまで続いていて。大きなハンドルを回す、日焼けした肌には血管が浮き出ていて。豪快なハンドルさばきに憧れた。僕は誇らしかったし、今でも思い出して楽しくなる」
 縋り付いている自分に嫌気がさすこともある。でも、そうじゃない。今でもあの頃を否定する気なんてさらさらない。
「ほんの二、三年前。その日は、父親がとても陽気で。聞けば、給料が昇級するらしくて、僕はふいに『今日ぐらいはいいんじゃない』って」
 アルコールが家にしみわたっていく。じわじわと濃厚な匂いを放ち、香りたつ痛みが鼻をつん、とついていく。
「いけないんだよ。一回断酒した人にお酒をつぐのは。でも、僕はあの父の嬉しそうな顔をみたら、思わず言ってしまった。あとは、君の想像どおりの俺ができあがりだ。なあ、僕は、間違っていたんだ。それでも、それでもさ、あのときの僕を、僕は罪に思っているけれど、どうしても」
 父が怪物に成り果てたとしても。
 それでも。
 離れられないんだ。
「間違っていない、と信じていたい」
 僕のまつげが瞬きをするとひらりと目の前で落ちていった。ぼろぼろと視界から黒い翼が散っていくように睫毛が散って、瞼が軽くなる。蒸し暑い瞼の檻が開けていくように、目が軽くなっていく。目を見開くと、思ったよりも視界は開けていた。
 僕が言いたいことが冴えていく。
 そもそも、誰が間違いだと決めたんだろう。僕が父といることや、母が僕を見ていないこと、僕がつらく感じること、彼女にする僕のあれもこれも、どれもこれも、僕のものなのに、いつからこんなに罪を意識するようになっていたんだろうか。
 冷えた風が空間のぬるい風を切っていく。僕の体に傷をつけて新たな痛みを見せつける。さらされた肌は痛みを受けて鮮やかに白々しく輝いていた。
「きっと誰にも間違いだって言いきることなんてできないんだよ」
 僕はカッターシャツの腕をまくりあげて、二の腕をだした。水を含んだ絵の具が白い二の腕にところどころ垂らされてにじみ、彩っている。これは、傷。僕の鮮やかな、罪の証。隠していたのが、恥ずかしくなる。これだって正しい証で、間違えてなんていなかったんだ。
 倉田が僕の腕を見ても、何も言わずにただただ見据えて、愛おしそうに口をゆがめて。あのときの優雅な青い金魚の尾ひれが僕の視界に揺れていた。
「間違いなんて、この世界のどこにもないんじゃないか」
「でも、あたしが間違っていることは分かるよ」
「倉田は、なだけで正しさとか違いがあるってのは誰にも決められないんだよ。間違いを信じてたいだけだろ」
「そうだよ、信じてるんだよ」
 くるくると回る金魚が、おぼつかず宙に浮いている。
「あたしは、この世界が間違っていることを信じていて、だからあたし自身も間違っていることを信じている」
 金魚の尾びれの端が黒ずんでいく。水に一滴淀んだ絵の具が垂らされる。濁り黒ずみ脆くなり、ぼろぼろと落ちていく尾びれ。積もった尾びれの残骸が倉田の表情を沈めていく。黒々しい風が僕たちをくるんでいく。重苦しい、喉元が。瞳が、熱かった。
 どうしてこんなに自分が熱くそわつくのだろうか。綺麗な金魚の尾ひれを追っていただけだったのに。今は、そこに親しさがより強く感じられる。
 一緒だと思った。倉田が似たものどうしと称したように、僕も倉田と等しい物を共有している。
 世界につまはじきにされて、全てが等しく間違いに見えて。だから世界まるごと嫌いに思えて。誰にも見えていない僕という人物が嫌でたまらなくて。全てを嫌っているから、自分がまるごと嫌いになる。信じていたくなくなる。
 僕の肌に映し出された水玉が世界へと放出される。くるくると回転し、シャボン玉のようにおぼつかず金魚とこだまする。彼らは遊んでいた。世界そのものが、僕たちをあざ笑っているかのようだった。
「あたしの何を知っていて、そんなこと言うの?」
 何も知らない。ただ似たものを共有していることだけは鮮明に受け入れられた。金魚が漂う、この彩られた世界を同じように憎んでいる。そして憎んでいるからこそ、僕は俺を許せず、倉田は彼女を愛している自身を許せないでいる。
「僕は、」ふと口をついて、「君と秘密を持っている。君がここにいることを知っている。幽霊、でないことを知っている。君が、君であることを認めている。彼女に感じている壁が僕らの間にはないことを知っている。だから、そんな悲しいこと言わないんで」
 金魚が目の前に来て、鼻先を尾びれがかすめた。ひらひらと痣とともに踊り、彼女の袂まで戻っていく。青い彼女のドレスが彼女の身に降りていく。ただあの夜みたく彼女は化粧をしていないし、等身大の女の子だった。普通の女の子なんだ。身に宿った金魚がはちきれんばかりに大きくなって、しゃぼん玉が割れるみたいに弾けた。
 倉田は、唇を噛んで僕を一心不乱に求める。大き過ぎる瞳に見つめられた。つやつやした瞳が反抗的な眼光を僕に向ける。射すくめられ、なぜか数歩下がってしまう。彼女の唇がそっと開いた。
「それがなんなの?」
 息を呑む。
「確かに、私たちは似たものどうし。でも、あんたはあんた、自分自身のことをも知らないくせに、あたしのことを知っているような顔をするの? あたしの悲しみを、あたしの感情を、あんたに左右されるなんてまっぴら」
 自分、ということに引っかかりを覚えて痣を掴む。腕がきりきりと痛み出した。肌が粟立つ。痣が全身で笑っている。聞きたくなくて、耳に膜をはった。
「知らないなら教えてあげる。
 彼女のこと、好きなんだよ」
 幽霊のくせに。
 後々についた、言葉ごと僕の鼓膜は突き破られる。
「あんたは彼女のことが好きなんだ」
 僕は奈落の底に突き落とされる。金魚の幻影も、音も何もかも真空に放り込まれて、呆然と立ち尽くす。知りたくもなかった真実を、勝手にあばかれる。
「あんたはあの子が好きでまるで小学生のいじめっこみたいに、幼稚でチンケないじわるをしているだけ。そんなことも知らないで、自分は被害者なんですって面をしてる。気持ち悪い」
 気持ち悪いんだよ、と言葉が反射する。空間に当たって跳ね返って、彼女にも僕にも当たってしまう。瀕死の重傷を負ったのはお互い様で。口からは血を吐いてしまうぐらいの吐き気を催す。
 僕は、彼女が。
 口を押さえて、なんとか吐かずにいられた。
「気持ちわりぃんだよ」 倉田は言葉に涙をにじませている。頭を振り乱して、僕を傷つけ続ける。「間違っていようが、間違っていなかろうが、悲しかろうが、悲しくなかろうが。あたしたちは、気持ち悪いんだよ。一般大衆からかけ離れた、理解しがたい存在なんだ。存在そのものが気持ち悪い。問題がたくさんあって、普通からはかけ離れている。こんなやつ今すぐ死んだ方がいい。でも、できないから、人を傷つけることでしか関わりを持てない。気持ち悪い。気持ち悪い」
 ついに僕は膝から崩れ落ちた。どこかで、違うと思っていたのか。目をそらし続けていただけではないのか。事実をそのまま差されただけなのに。僕の幻想は現実にもみ消されてしまう。事実は、事実だ。倉田の発言は間違いなんて何一つとしてない。この世に間違いがあるとしても。信じていようとしても。
 彼女との壁がそうであるように。僕と倉田が誰にも理解してもらえないから、自身の凄惨な現状を黙っているように。薄い膜のような壁があるのだ。
「そっか、あたしたち、傷をつくることでしか、わかり合えないんだね」
 彼女の言葉が過呼吸と共に抜き出される。
「ようやくあんたの言っていたこと、共感できた。お互い、こうやって傷つけあうことでやっと壁がなくなるんだね」
 悲しみに暮れて、傷に痛んで、互いを知り合うためにしか言葉を交わせない。あまりに陳腐で、幼稚な関係だ。倉田の言うとおり、気持ち悪い。他のやつらは、だから僕らのことを受け入れられないし、理解できないのだ。理解されないというのは、絶望するし悲しい。そうして、悲しむことを忘れて、人に対して諦めてふてくされていく。
 でも、仕方ないじゃないか。
 誰か僕らの現状を助けてくれる人はいたのか。誰も助けてはくれないじゃないか。
「だから、私たちはお互いを認められるんだ」
 手折らせた首を持ち上げた。倉田は頬をりんごのように膨らませて、目を潤ませてい、睫が湿っている。スカートを揺らして。視界が遮る。まるで金魚の尾っぽのようにゆらゆらと揺れたスカート。金魚の尾は死んだように落ちぶれていて。
「ごめん、あたしこのまま帰るわ」と倉田は捨て台詞を告げた。きゅっと、校内指定のスリッパが悲鳴をあげる。夏烟る湿度と涙を追い払って、僕を置いていった。
 放課後まで、僕は動くことができなかった。頭の中で『彼女のことが僕は好き』という事実が痛々しく屹立していた。違う方向へ思考を転換しようと、行き着く先でその事実が邪魔をする。蚊か蠅のようにしつこくつきまとう。ねっとりとからむ湿度に、身を任せて溶けてしまいたい。
 でも、僕はまだ僕だったから、なぜか知らないが傷ついた足をまた持ち上げて、教室に戻るのだ。

***

 荷物をとりに行かないと。
 倉田が消えた踊り場から体をひきずり、放課後の教室にこっそり戻る。冷えと気持ち悪さを覚えたままに。このときばかりは、なぜ彼女だけでなく他の人からも僕を消してくれないのかとお天道様を恨んだ。夏の暑苦しさも、湿度も体が苦しむだけではないか。
 教室に行き着くと、まだ誰かがいたので廊下で立ち止まる。誰もいない教室に二人の男子が机に腰掛けてだべっているのが聞こえた。なぜか僕は今誰にも僕の顔を見られたくなくて、廊下側の窓下に腰をかがめて、中の様子をうかがった。教室はいつもよりも人がいないので、がらんっとしていた。薄く汚れたカーテンが涼やかにはためいていた。扇風機は止まっていて。バレーボール部の元気良い外練習のかけ声が去って行く。女の高らかな声に、男子の静まった淡々とした話し声がのせられる。
「俺さ、倉田のことが好きなんだよな」
 その声は、僕がいつもつるんでいる男の一人の声だった。『好き』という言葉が僕よりも何倍も綺麗に聞こえた。誰かにそれを言われるとき、僕はおぞましくなる。なのに、彼のそれは何度でも聞いていたくなる。
「まだあいつに言えてないんだ。あいつら付き合ってるのに、むしゃくしゃするっつーか。思わずあいつに嫌なこと言うのだって、これが原因だし」
 僕の机の上に座って、彼は頭をかく。彼は今にも僕の机を壊さんばかりに手を握りしめて叩いた。裁判長のハンマーが叩かんばかりに、僕の机に「静粛に」と促す。こいつはきっと分かっている。自分が制御できていないことに。
 目を瞑ると思ったよりも疲れていて、喉が渇いたと体が叫んでいるのが分かった。動くのもだるい。しかも、この暑さだ。
 しばらく、友達の独白に耳を傾けた。
「前から気になってたんだよな」
 結局顔かよ、ともう一人の男子がけなす。でも分かるけど、と同意する。中身のない言葉が交わされる。
「あいつら、本当に付き合ってるのかなって思ってた。だって見合わなくないか。藤本だぜ。いつも昼飯忘れてるし、けだるげにしてるし。服に気をつかわないからくしゃくしゃだし。付き合い悪いし。サボるし。でもさ、今日倉田のこと連れ出したのを見て確信した。倉田は明らかに具合の悪かった。連れ出して逃げてやれる。あいつは正真正銘倉田の彼氏なんだって」
 僕の机はまた「静粛に、静粛に」と叩かれる。その音が鳴り止んだ。裁判長はこれから空気を吸い込んで、「これからどうするんだ?」という傍聴人の言葉に固唾をのんで、聞き耳を澄ます。
「応援だけしてられっか。俺は倉田に告白する」
 おお、ともう一名の男子が歓声をあげた。「勝訴」と言わんばかりに、机は一度叩かれ、とん、と机から立ち上がる。軽やかな足並みに罪悪感がはびこる。
 僕は恥ずかしい。彼は清々しい。彼は倉田紗江が好きだし、倉田は彼女が好きで、バレたくないから僕と付き合っているフリをしている。僕は彼女が……
 あいつみたいに、僕は正面から自身の気持ちに素直になれたか。
 あー、早く帰ってこねぇかなあ。なんてあいつは待ってくれている。帰ってこなければどうするんだ、と言われたら、「決まってる。学校が閉まるまで帰ってくるのを待つ。そして明日に言う」と豪語した。からっからに晴れた笑みを携えて言っているんだろうな。
 腹に積もっていくのはどうしようもない事実だ。
 出るか出ないか決めかねて、踏みとどまる。喉を鳴らす。口が乾いていた。水道水の蛇口をひねりだし、口を潤したかった。
 どうしようもないとき、運動部にも見放された校庭の隅にある蛇口をこっそり使っていた。みな家から持ってきた水筒や、自販機なんかで買っていたお茶で喉を潤すが、僕にはどれも高価で持っていなかった。毎度友達にもらうことなんてしたくはなかったし。既に春に数度もらっていて煙たがれていた。

***

 放課後の教室を見ていると思い出す。彼女が一人で教室で待っていたあの日を。誰を待っているんだろう、と今まさに窓下で彼女を見ていた。夕景に彼女の黒髪が反射する。白い肌は赤を吸って。夏先の熱くも寒くもない風を彼女は感じていた。
 そこで、携帯が鳴り響く。誰かと話している。家族の話をしているらしかった。相手の家族のことを、うん、うん、とつらいね、それ、と共感して頷きながら話している。たまに机の上に置いてある水筒の蓋を回し、水をごくっと。すぐに蓋をして、携帯の相手と真剣なまなざしで受け応える。でもね、と何か言い置いて。
「家族にそんな悪いこと言っちゃだめだよ」
 なぜだろうか。僕は彼女の目の前に佇むだけだったのに、無性に彼女のことをかきむしりたくなった。絵に描かれた彼女をとりあげ、びりびりと破る。花びらのように散っていく絵に懐かしみを抱く。
 僕は窓下から這いだして、立ち上がり、彼女の前に。彼女は携帯を離さない。でもね、とまた正論を相手に諭していた。天使のような黒い髪には天使の輪がはめられている。輪っかをとりあげて、天使の羽をもぎたい。
 彼女の手元にある水筒に目がいく。僕はそこらの男子よりも背が高い方なので影が大きく膨れ上がり、彼女の姿を覆い尽くす。
 喉が渇いていた。体の奥底から乾きの風が駆け上る。砂嵐が通り過ぎて。僕の体は砂漠となっていた。砂粒がはり付いた喉はざらざらとして。目の前にある水筒にごくりごくりと唾をのむ。
「きっとね」と彼女は声を大にしてかろやかに奏でる。「何かあったんだよ。大切にしてあげなよ」
 頭の中を激流が駆けていく。
 力強く水筒を手にしていた。蓋を勢いよく開ける。飲み口は淡く白く。話している彼女の目の前でこれみよがしに。舌の先を白に触れさせる。飲んだことないほどのフルーティな香りが鼻をぬけていく。洒落ている匂いが僕を誘っている。口をつけて。ごくりごくり。砂漠に一滴の潤いを。彷徨い続けた先のオアシスのような感覚に陥る。中身はジャスミンティーだった。甘く軽やかな味で、飲んでも飲んでも、飲んでいる感じはしなかった。飲んだふちから、砂漠がジャスミンティーを吸っていく。水道水のような生臭さはなく高級感がしっかり蓄えられている。水筒を持ち上げて。もっと水分を。水筒を下げると、中身は空っぽだった。底が見えている。
 音をたてて水筒を机の上に戻す。
 彼女はうん、うん、と言いつつ僕の方を見る。何も見えないから背後にある窓から差し込む夕日を見通している。机には空っぽな水筒がのっている。僕は見下ろして。彼女が手に取るのを待った。電話を切って、ブレザーのポケットにするりと携帯を入れる。手前にある水筒を握り持ち上げる。あれ、と瞼が開かれた。くつくつと僕は笑いが堪えられなかった。蓋も軽く外れてしまう。彼女は中を覗き込む。
「僕が飲んだんだ」
 僕は声を発するが、彼女は物珍しそうに中をしげしげと覗き込むのみ。底には何もないのは変わらない。彼女は水筒を持ち上げ、底を上に返す。
「ないものはないんだよ」
 聞こえていないんだ。
 目の前に立ち、こんなに近くで声をかけても彼女は僕がいることを知らない。伝える方法がない。知る方法がない。僕がいることすら知らない。
 彼女は、首を傾げて水筒を机に置いて。こっつーん、と人差し指で水筒を弾いた。鉄の音は虚しく教室に響きわたる。僕の声よりも鮮明で、水筒の中身よりも現実味があって。彼女の耳には、弾かれた音のみが事実だ。
 彼女は頬杖をつき、むちっと頬を持ち上げた。
「たぶん、さっき飲みきっちゃったんだろうなあ」
 彼女の声は、携帯をしていたときと変わらない軽い声で呟いた。
 ふざけるな。
 口の中で乾きが爆発していた。ふざけるな、ふざけるな、ふざけるなと脳内に破裂した言葉が散り散りとなって行き交う。瞬く破片をかき集めるようにして、近くの机を蹴り上げた。
 きゃ、と彼女が突如として動いた机に飛んで、音から避けた。彼女が僕を認識している。僕の中での散り散りとなった言葉が輝き、合わさり、不死鳥のように再生する。脳内は恍惚の汁を垂れ流す。ひた走る輝きの泉を、欲望のままにくみ取り、振りまいた。机を体で払い除け、がたがたと音をたてる。彼女は椅子から立ち上がり、周囲を怪しげに見回す。まるでポルターガイストさながら。彼女が左を向くと僕は右の端の机を蹴った。彼女がその机を追うと、僕は彼女の前へと歩き出して、机を払い除ける。
「なあ、僕はここにいる」
 僕は彼女に語りかける。
 机を払い飛ばし。
「ここにいるぞ」
 怪物のように叫ぶ。
「お前の目の前に」
 でも、彼女は僕の咆哮には気づかないから、僕は怪物ではなく幽霊なんだ。
 幽霊だから、怪物になれないんだ。
 中途半端ものだから。
 人間ではないのだ。
 僕は彼女の前に立ち、手を彼女の頬へ覆う。が、しかし、彼女の息がかかり、手を止めてしまう。彼女の体がぴくっと動く。僕の手に柔らかい髪が触れた。大きく動いたからか、僕は大きく息を吸ってしまう。彼女が吐いた呼吸は甘酸っぱい味がした。尾を引いて苦みが舌に沁みていく。彼女に触れてはいけない。彼女のものをのみ込んではいけない。なぜか、自身の中で引かれた線は、罪悪をたらす。それは僕が汚いからで。彼女とは違うからで。
 僕は彼女が、好きだからだ。
 そんな彼女を僕が好きだなんてお笑いぐさだ。
 彼女を好きだと言ってはいけない。
 悔しくてたまらなくて。涙がでそうになる瞳を押しとどめた。彼女への気持ちが分からなくて、それから彼女にいたずらをし始めた。何もできず卑しさや、虚しさが積もっては満たされる毎日に、満足していた。
 でも、今日本当の好きを見た。

 ***

 倉田を好きだと、教室の同居人は告げた。彼の透き通った気持ちは偽りなく貫いてくる。
「僕は気持ち悪い」
 つぶやき、再確認。
 倉田の言ったことは本当にそうだ。
 僕は立ち上がり、教室に入った。教室にいた二人は僕を見るなり、やっときたぁ、と安心した様子をした。夕暮れの熱視線が窓から差してくる。熱いのか、手や下敷き、カッターシャツをつまみ上げてぱたぱたと仰いでいた。僕の汗がこめかみからぽとりと落ちる。ため息すら暑いことを助長する。
 待ってたのか、と僕は彼らに何も知らないふりをした。言いたいことがあるんだ、とそんなまっすぐな目で見ないでほしい。言葉に重みをのせるなんて暑苦しいだけだ。まるで青春そのものなんて顔をして。
「実は、俺、」
 意図的に僕は耳の感覚を遠ざけた。なぜ、そんな思いを曲げずに伝えられるのか不思議でならなかった。
「倉田が好きなんだ」
 それでも渾身の一撃は僕の中に響いた。
「お前は、倉田と付き合ってる。大切にしてるのも知ってる。お似合いだよ。でもだからって、諦めきれる感情は俺には持ち合わせてなかった。そんで、俺は正々堂々倉田に思いを伝えたい。お前に言っときたかったんだ」
「そうか」
「それだけか」
 彼は僕に鋭い視線を送る。気持ち半分の浮ついた返答しかできない。
 今、倉田の秘密を言ったらどうなるのだろうか。こいつはそれでも好きでいられるのだろうか。
「お前はそれでいいのか」とまだ責め立てる。
 彼氏なら、どう答えるだろうか。俺が宣戦布告でもする体でもして……いや、と踏みとどまり、僕は笑みだけを表に貼り付けて、いつも通り表情を動かしてしまう。
「いいよ」そもそも僕は倉田をかばう意味なんてない。「場をとりもってやろうか」携帯を出して唯一電話帳に登録していた倉田のメルアドを開く。「俺はお前のことも応援したい」きっとこれが正解に近い。
 世界は僕や倉田のような答えを求めていない。好きにも正解がある。相手を思いやれるかどうか、とか。倉田も僕と付き合うよりかはこいつと付き合う方が良い。お互いの好きの方向が違っているかよりかは、少しでも互いに矢印が向いている方が、間違っていない。
「藤本、お前、ほんと」同居人は声音が震えていた。僕の肩に腕を回す。「良いやつだな」
「そんなことないよ。俺は親友の想いも掬いあげたいだけだよ」
 ぺらぺらと簡単に嘘がでる。本当は僕と倉田は付き合っていないのに、同居人は僕の言葉を真摯に受け取る。
 こいつと僕は生きている世界が違う。
 その場で初めて誰かにメールを送るということをした。送信一覧に自身が紡いだ誘いのメールがある。
『話がある。』
 たった数語。見慣れなくてそわそわする。いろいろあった直前なので、倉田もあまり良い気はしないだろう。返信はまだかまだかと心が待っている。お前に何言われるかとひやひやしたぜ、と言うクラスメイト二人に曖昧な返事をした。閉校のチャイムが鳴る。夕日は沈み、涼やかな夜の空気が薄く流れた。荷物をもって、三人で教室を出た。誰かと出たのは初めてだった。初めてづくしで、また気持ちが落ち込んでしまった。僕は、こんなことをしていい人間ではないのに。
 廊下をでたところで、誰もいないことを察した上で、
「なあ、井戸・・、倉田のどこが好きなんだ」
 教室の同居人、井戸・・はにかっと笑い学校指定の鞄を持ち直した。
「かわいいだろ」
 さあ、帰ろう帰ろうと校門をくぐる。
「お前の家どっち」
「俺はあっち」
 なぜか教室よりも気軽に話せているみたいで、いろんなことを聞いてくる。でも、僕が話せることなんてない。きっとそのうち僕に飽きてくる。みなそうだった。僕の情報なんて知りたがらない。みんなと同等で健やかな価値観を抱く者に集まっていく。
 それなのに、井戸は僕を離さなかった。違う方向であるはずなのに、近くのコンビニに寄ろうと誘って、アイスを買い食いした。僕はお金を持っていない。羨ましそうに見つめるだけ。井戸はそんな僕をけらけら笑って、アイスを突き出した。食べさしのアイスの欠片は外気にあてられて、湯気がたつ。暑さでアイスが消化されていてもったいない。僕はぱくつく。舌の上でとろけるアイスは甘酸っぱかった。すぐに溶けてしまい、食べている気はしない。まるで今の今までの出来事が幻かのよう。
 アイスみたいに溶けたら良かったのに。
 僕の罪悪は胃に落ちてもたれさせる。
 涼しげな夜の闇にも蚊は飛んでいる。足下を差された井戸はかゆがゆしげに爪をたてて皮膚をかきむしる。赤く腫れた皮膚が痛々しい。
 明日終業式だなあ、と夏休みが近いと嬉しげに言いつのる井戸。僕は、そういえばそうだったなあ、と危機感を隠しながら応える。終業式からの夏休みは僕にとっての地獄の宣言だ。学校がない、家にいる、そして僕は怪物と近しくなる。
「終業式前まで授業あるとか最悪だよな。まあお前はサボってたけど。倉田をあの後保健室にでも送り届けたんだろ」
「まあ、な」
 意味もない嘘を固めていく。
「夏休みに花火大会があるだろ」
 さきほどから、井戸はなぜか演技じみた会話を続けていた。アイスの棒をせわしなく振って。コンビニを背に人工の明かりを二人で受け止める。僕と井戸の間の影は明暗がくっきりと分かれていた。
「花火、の、とき。俺、告白したい」
「そうか」
 たどたどしくなる会話も、舞台上に上がった素人の役者みたいに嘘っぽい。僕も井戸も続く会話など知っていた。いわば、これは儀式。
 蚊がぷぅん、と僕の耳元で羽ばたいた。黒い影が目の前に立ち塞がる。誰もいないはずなのに体が強ばる。
「一緒に花火を見に行こうって誘っていいか」
 それ自体が告白だ。
「いいよ」
 どうせ断られる。僕は、知っている。倉田が女の子以外を好きになることなどないということを。井戸が振られるところを想像すると笑えてくる。真っ青な青春の苦いヒビを入れられる様は滑稽で。
 アイスはきっとこの告白のために払った代償なのだろう。中途半端な思いやりはつらいだけだ。
「なあ」
 僕は井戸の憎々しげな声に反応する。フラッシュをたかれた。ぐるんっと脳内の思考は周り、視界の端でアイスの棒は道ばたに投げ捨てられるのを捉える。遅れて頬を殴られたのだと悟った。手を頬に。すると、次はどんっ、と胸のあたりをどつかれる。僕の方が体躯が大きいため今度は動かない。微動だにしない体は、驚いて動けない。
「良いやつだって言ったけど、ごめん。抑えられなかった」
 僕の巨体に小さな井戸の体が収まっていた。ずるり、と僕の体を壁にして体が下がる。足が崩れていた。
「なんで、付き合ってるのに、嫌な顔ひとつしてねぇんだ。お前はいつもいつも。なんでそんな薄ら寒い顔しかしねぇんだよ」
「それが普通なのか」
 付き合っていないからなんて言えない。
「好きなら、嫌だろ。俺なんてお前が今日倉田とサボったとき、胸のあたりがもやついた。倉田が幸せならいいと思っていても止まんねぇよ。あいつは俺のもんじゃないのに」
 本当は好きじゃないからなんて言えない。
「本当に好きなのか。あいつのこと思ってんのか」
 女みたいなやつだな、という言葉を頭の片隅に追いやる。この言葉は不適切だ。早く体から離れてほしくて、目線を地面に伝わせる。
「俺にくれよ」
 ぱんっと、何かが弾けた音がした。
 僕もほしかった。ほしかったんだ。手元にあるこんなウォークマンじゃなくて。彼女からの言葉を。誰かが僕を呼ぶ声がほしかった。僕の鼓膜を揺らす僕自身への言葉を。
 情けなくひしゃげる彼の言葉は、僕へと重なってしまう。見て見ぬふりをしていた感情をつまびらかにさせてしまう。放っといてほしい。傷がつくから。皮膚が裂かれて炎症を起こし、無視できないくらいの悲鳴をあげる。
 忘れさせてほしかった。
「ごめん」
 でも彼女のことを眺めるためには、倉田も僕も付き合い続けるしかなかった。
 まだ、居続けているだけで。
「でも、俺は応援してる。花火誘ってみるよ」
「何に謝ってんだよ」
 また、どんっと僕の体を井戸は叩く。
 さあ、分からない。
 僕は何に対して謝りたいんだろうか。彼女が好きだと忘れていたことか。井戸への申し訳なさか。僕が倉田をとられることに対して何の感情も抱かないことか。
 はたまた。
 思い当たるものは一つだ。
 倉田を僕であてがい続けていること、かもしれない。
 崩れ落ちていう井戸を立たせる。足下にアイスの棒が地べたにくっついていた。

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