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夏の幽霊(7)

 ウォークマンから流れてくる、ドラマ主題歌が途切れた。機嫌良く歌っていたボーカルが突然すねて舞台から下る光景が彷彿とさせた。夏の炎天下、聞こえてこないイヤホンを両耳に挿しっぱなしに、何もない舞台上を眺めている。ほとばしるじとっとした湿度にやられて、汗が止めどなく吹いてくる。唇に潮の味がのせられて、僕は舐め取った。ベランダで蹲り風鈴の音がイヤホン越しに聞こえる。ふわんとどこか外界から聞こえているよう。蝉が頑張って声を発している。生きている、生きている、と。じじじじじ、と耳を覆わなくとも伝わる。
 イヤホンを取る。耳に空気が浸透する。生きている、生きている、とまだ蝉は鳴いている。その声は僕の鼓膜を削りとるかのようで。風鈴がときたま揺らめき、僕の心を癒やしてくれる。
 ついにやってきた、〇パーセント。
 この中には、僕と彼女との繋がりが詰め込まれているのに、これではただの物体だ。夏の暑さに髪をかきあげて、次の瞬間地面にウォークマンを投げ捨てる。
 ウォークマンの近くに放置されているのは、夏休みの宿題と称されたテキストだった。しかも数学だけ。他のテキストは布団の上にあったり、ドア近くにあったり。やる気がない云々ではなく、どのテキストも散り散りに破けている。おそらくいくつかのテキストはゴミ箱に捨てられているはずだ。もう探す気力も起きない。ベランダから部屋に下りて、現状を鑑みることがこの上なくつらい出来事だなんて思ってもみなかった。何も聞きたくも、見たくもなかった。
 幽霊だなんて言ったけれど、幽霊自身は自分の聴覚も視覚も失っていない。死ねずにいるだけだ。こんなに虚しい存在はない。
 携帯の電池も残りわずかで、母からの金銭も高校の教科書代と日々の怪物に分け与えられる酒と、僕の食費で使い果たしてしまった。なくなってみるとあっけない。
 水道は止まっているから、公園の無料水道で手で洗い家で干して、ガスが止まっているからお風呂にも入れなくて、公園のカラスと一緒に行水した。すると公園に住むホームレスが仲間だと思って、段ボールを持ち寄ってきて、夜は一緒に寝るようなこともあった。ただ、外は暑いので、そんな生活いつまでも続けてられない。せめて家に帰って、まだ生きているタオルで体を拭いて過ごした。
 宿題どころではなかった。
 くらりと、体が揺れている。陽炎が立ち上った外の風景は見慣れたものになってしまった。脳内が機能を停止している。足取りおぼつかずに布団に倒れ込むと携帯が目の前に飛び込む。布団に放置されていた。汗をベッドに吸わせて暑苦しいタオルケットを体に引き寄せる。携帯、携帯、今何日だろうか。携帯を見つめていると、光輝く。倉田紗江の名前が液晶に流れる。既にガラパゴスとなった、携帯。進化を忘れてしまっても、その機能は明確にこなしてくれる。
 手にとってみると携帯のバッテリーも十パーセントを切っていた。電気コードにつなぎっぱなしだったのに。電気すら享受できない。食えるものもない。服も、洗えない。何もできないのなら何もしたくない。逃避物が僕の手元には残っていない。
『深淵トンネル』
 最後に届いたメールはかろうじて見れて、携帯はその息を絶った。未だに名義は母のもので、電波は届いていたのに全てがなくなる。届かない電波に期待なんてできない。ウォークマンは僕をどうにもできない。だから、倉田のメールに縋るしかない。
 蚊が飛んでいる。ぷぅん、と、僕の頭上を旋回していた。黒々しい渦を追っていたら、脳内に彼女の歌声が聞こえてきた。『とんぼのめがねはあかいろめがね、あかいおそらをとんだから』と流れてくる音楽で脳内を満たした。何も他のことを考えなくていいので、のっそりとだが準備ができる。まだ洗い立ての服を選び取り、身だしなみを最低限整える。水道は止まっているので、途中の公園で顔を洗おう。と、考えている間も彼女の歌声や、ピアノが鳴り止まない。その音は救いでもあって。
 床に置いてけぼりのウォークマンを拾い上げポケットに入れて、携帯を開けると電源がつかなくなっていた。
 一階に下りたら、怪物のいびきが聞こえてきた。昨夜も口論になり、僕は部屋にひっこんでいたのだが。怪物はのんきなもので。電気も何もないのに床の上で大の字で眠っている。抱え込んでいるものは酒の瓶。周囲には空き缶。カンカン、ころりん、と右の足指にぶつかる。怪物を中心に黒い渦が巻かれている。引きずり混まれる渦は、蟻地獄さながら僕の足を取った。渦の中心まで体が傾き、落ちていく。ぐらり、と視界が揺らめいた。体がふらつき壁に手をついた。熱中症のだるさが体に落とし込まれている。ぐらり、ぐらり、と揺らめく中にきらめく光がオーロラのように漂った。それは、祭りの匂い。草履の音がかすかに聞こえてきた。
 今日は花火大会の日だったのか。
 深淵トンネルに呼ばれたのは、大会の待ち合わせの前の作戦会議だったのかもしれない。
 足下に巻き付いた黒い渦から足を引き抜いた。重い体を動かし、後ろ髪ひかれる思いで走り出す。炎天下、熱せられた地面と夜の暗闇が分かたれる空間に飛び出した。

***

 深淵トンネルは、子どものたまり場になっていた。大人の背格好をしたやつは周りから浮いている。入っていくと、ぽた、ぽた、と衣服から水が滴る。先ほど公園で顔を洗った水滴がまだ乾いておらず、衣服に落ちてしまう。僕が通るたびに、近くの複数人の小学生くらいの女子達がよけていく。浴衣を着てお洒落していた。髪をまつりあげ、簪を挿す。いつもとは違い大人びて見える。女子達がよけた先に、深淵トンネルに背をつけた小柄な女の子が携帯を眺めていた。画面の人工灯が深淵を払い除けている。
「遅い」
 倉田は顔を上げずに、一括した。
 女の子の匂いがする。うなじが伸びて、茶色い髪を束ねられていて、毛先はくるっとウェーブしている。いくつかこぼれた髪先は浴衣に着地する。浴衣は黄色下地に青い花が咲き誇っていた。
 倉田の草履が地面をする。
「って、なんでそんなに濡れてるの?」
 僕の頭からどしゃぶりの雨をかぶったような姿を見てしまったようだ。幽霊が見える人は、なにかと面倒くさい。
「公園で顔を洗ってきたんだ」
 倉田の瞬きがいつもよりも大きい。
 もう既になにかと僕はやけくそになっていた。誰も僕を救ってくれないんなら、態度で示すしかない。
「児童相談所には行かないの?」
「珍しい。心配してくれるんだ」
「あたし、あんたが思っているよりも優しいからね。誰も傷つけたくないくらいに」
「そのわりに、彼女を貶める算段をするんだな」
 言うようになったな、と僕は自嘲気味に自分を鑑みる。弱みを握られているくせに。二人の関係は、そこにはないと悟ったから、か。
 僕は家にいる怪物に思いを馳せる。黒く渦めく中心。それでも怪物の皮を剥いだら、父が出てくる。
「行ったら、父さんがかわいそうだ」
 呟いた内容は、倉田に聞こえただろうか。
 むしむしと蒸し風呂状態のトンネルの中で、湿気が喉をつっかえる。相変わらず深淵の中に星が散っていた。僕の顎を伝い垂れる雫も光る。
「ふーん」あっそ、と倉田は何の気なしに吐き捨てた。
 僕は最初に前置きしておかなければならないことがある。「そういえば携帯つながらないし」
「は?」
「電気止まってるんだよ、僕の家。ウォークマンも充電が切れた」
「どうすんの?」
 肩をすくませて、目線は下に。あらゆる草履が行き交った。僕は立ち止まっている。湿気でしめった地面を目で舐め取った。
「彼女のものだけは返そうと思う」
 あとは知らない。
「うん、潮時だったんだよ」
「今日はそのことだろ」
 思えば、短い間だったが、僕の幽霊は倉田の役に立ったのだろうか。携帯電話の中にある盗撮データも、最初は弱みにしかならなかったが。
 ここから先は断絶している。僕の目の前には崖になっていて、下を向くと暗闇が崖下から吹き荒れている。濡れそぼった髪が重たげに持ち上がる。僕だってこれしかないことは知っていた。持っているものを手放すには。吹き荒れる闇を振り払うには。足を滑らせて、この世界から消えるのだ。
 これがせめてもの、世界への対抗手段。
 でも、その前に倉田の言う「傷つけずに愛せる方法」に賭けてもいいんじゃないか。
 倉田の言葉を待つ。彼女は悲しそうに深淵トンネルの空を仰ぐ。子どもたちの笑い声が反響している。僕たちが笑っているみたいだ。幼い倉田と僕がトンネルを通り過ぎた。目をこすると、どことも知れない男の子と女の子が走り抜けただけだった。花火ってあっちで見れるんだよ、と。小さな呼吸音が隣から聞こえる。吸ったり吐いたり。他の人の声音も聞こえず、倉田の音だけに聴覚が絞られていく。
「最後の最後だけ、君の幽霊を使っていい?」
 傾けられた倉田の顔は、憂いを帯びていた。
 何か嫌な感じがして、「何をしようと、」と言いかけたとき。
「いた」
 トンネル内に明るい声音が弾けた。
 それは僕がどれだけ求めたか分からない、声。鼓膜を揺らして、胸に溶かして、頭を持ち上げる。トンネルの入り口にいる乱入者は白いワンピースをふわりと揺るがし、サンダルを蹴って中に入ってくる。
 真っ直ぐ透き通った瞳に吸い込まれる。
 彼女だ。
 思わず倉田がひるみ、彼女の名前を口にした。
「倉ちゃん、倉ちゃん」
 彼女の足音が全てを消し去っていく。さっきまでの憂鬱も何にもない。胸が締め付けられる。彼女の黒いセミロングの髪が、彼女の言動が、全てが一心に注がれていく。
「聞いて」
 倉田は彼女に飛びつかれて、抱きしめられる。隣にいる僕へ視線を移す。ほんの少しだけ唇が持ち上がったのを見逃さなかった。
 良いご身分だ。
「どうしたんですか」
「もうやだ」
 涙声をひたしながら。
「ただ今日は浴衣を着て、普通に倉ちゃんと井戸くんと藤本くんと回りたかっただけなのに、『デート?』って。そんなわけないのに。いやらしい目で言ってくるの」
「デートでいいじゃないか」と聞こえてないから、僕は簡単に言葉を付け加えてしまう。すると、「そういう目線で見られるのも嫌な人もいるのよ」と倉田は言葉で僕をとがめた。そういえば、僕たちが一緒にいることはそういう気持ちを逆手にとる行為だった。
「怒ったら、気にしすぎだろって。そういうことじゃないのに。私はただ普通の感情を抱いただけなのに」
 その悩みは、あまりにも等身大で、僕は膝から崩れ落ちそうになる。彼女の白いスカートの裾を目線で掴む。レースがあつらえてある。くしゃくしゃになった白が、なぜか目にこびりつく。
「普通、だからかなあ」
 彼女の息が荒い。
「私、普通なんだよね。お父さんもお母さんもいて、話を聞いてくれて。痛みを知らないから。こんなところに気になるのかなあ。もうやだ。全部嫌い」
 普通だからこそ、だからだろうか。僕たちのことを逆なでしているのに彼女も壁を感じている部分は同じなのかもしれない。
「『勉強できない』とか。『女の子の陰口嫌い』とか。そんなことばっかり悩んでるの。とっても普通で、繊細すぎる。ごめん、倉ちゃん。こうして悩んでいる自分が、悲劇のヒロインって感じで同情買ってるかもしれない。そういうところがいけないんだよね。もう、やだな。全部。帰りたくない」
 倉田が震える肩に手を置こうかどうか悩んで、僕に視線を向けて助けを訴えてくる。
 僕だって何をしていいか分からないんだ。今日で最後にしようと思っていたところを、台風のような彼女が乱入した。台風の目を左右しようだなんて思っていない。
 なあ、どうしたらいい。
「羨ましいって思ってしまう僕はおかしいか」
 今度は倉田に問いかける。
「わかんない」
 ぐずぐずにふやけた倉田の言葉は珍しい。
「僕は今、どうしたらいい」
「わかんないって」

「そこに藤本くんがいるの?」

 彼女の声が瞬いた。深淵トンネルの中の深淵が消え去るくらいの強い声音。ふわっと彼女のワンピースが浮かんだ。風が彼女の視界を奪って、倉田から僕へと移す。しかし、そこは僕がいない場所で。相変わらず彼女はきょろきょろと見回す。
「一緒に逃げよう」
 僕は彼女に告げた。
 当然聞こえはしない。
「こんな世界が嫌なら、一緒に逃げよう。僕だって嫌さ、こんなレッテルを貼られる世界なんて。もうたくさんだ。全部、全部。でも君までそんなことを言うなら僕はどうしたらいいんだ。君が僕たちの指針なんだ。繊細で優しくて、普通だからいいんだ。普通じゃない僕らの指針が揺れるのは耐えられない」
 僕は彼女が好きだから、そんな顔をしてほしくない。そして僕に関わってほしくない。こんな醜いのだから。それでも君のためならなんでもしてあげたくなる。醜い体なら何でもできる気がする。失うものがなければ強くなるのは、世界の理に叶っている。
 そんな僕の一世一大の告白すら、彼女は聞こえていない。
「家出しよう、一緒に」
 虚しくとどろく声に痛みすら感じる。それでも言わずにはいられなかった。

「一緒に逃げましょう」

 倉田の言い直しに今度は「どうしてだよ」と叫んでしまう。どうして、ここまで言っているのに、彼女には伝わらないのだろうか。聞こえないんだろうか。
「ええ、倉ちゃん?」
 やっぱり彼女には聞こえていて。
「家出です。それくらいの非行、今夜は許されるでしょ?」
「そうだよ、どうせ僕らは居場所なんてないんだから。君を連れ出すくらいどうってことない」
 彼女の手を倉田は強く握って引っ張った。草履を地面に引きずる。浴衣の黄色が花火みたいに深淵トンネルで弾けている。彼女はエスコートのままに。
「でも、井戸くんが……」
「あんなやつ、どうでもいい」
 ふるふると倉田は頭を振って、茶色の毛並みを滑らせる。そうして顔を彼女と向き合わせて、頬を両手で挟み込む。柔らかな頬が倉田の指の間から零れている。
「今はあなたのことだけ考えて」
「うん」
「行こう」
 僕たちはトンネルから駆けだした。倉田は彼女の手をとり、彼女は倉田の手を握りかえす。深淵トンネル内の星空を駆け下りて入り口まで抜け出すと、土砂降りの雨がのしかかってくる。夕立のうだる湿気を全身にまといこむ。雨の中をなんのおかまいなしに、三人で走り抜ける。「突然降ってきたー」とか「こりゃー、花火大会中止になるかな」とか、人の喧噪を突っ切って、駅へと。いつもの町並みを置き去りにしている気分だった。生ぬるい雨を服が吸って体が重苦しくなる。髪が濡れて額に貼り付く。雨が前髪から頬にかけて雫が落ちていく。気持ちよくって笑い声をあげてしまう。まるで彼女を誘拐しているみたいだった。
 駅に辿りつく頃には夕立は晴れていた。夕暮れと暗闇が入り交じる空には雲一つなくて澄んでいる。
 どしゃぶりの全身をぬぐうことすらせずに、僕たちは駅ホームに乗り込んだ。他の人の視線は気にしない。人が溢れ出していく。かきわけぬぐいわけて、ぶつかりながら改札にのりこむ。切符など買う時間もお金もないから、「ごめんなさい、電車くるんで降りた駅で払います」と、倉田は駅員に言い、急いで横を通り過ぎる。僕は頭を下げながら後ろをついていった。花火大会の人混みに乗じて、しかし、人混みとは反対方向のホームへ。駆け上がると、「ホームからお下がりください」と言うアナウンスが場内放送されていた。ホームに三人で並んだ。鳩が泣き叫ぶような狂った警笛に耳をすませる。向かいのホームに電車が着いていた。ゆっくりと電車は歩み出す。待っていると、夕立を吸った服が足下に吐き出して水たまりを作り出す。反射する夕暮れに見初められ、視線を向かいのホームに上げると、井戸がいた。
 井戸の瞳は丸まっていた。警笛を耳になじませていると、次第に瞳が丸から解けていく。制服姿ではない井戸は新鮮で。私服もどこかの雑誌を模しているのだろうか、似合っていたし、勝負服なのが分かった。きっと告白するために髪もセットしたのだろう。いつものむさ苦しさなんてどこにも感じられない。井戸は倉田と彼女を見ると泣きそうな顔をした。倉田もどうしていいか分からずにたじろぐ。まさかここで井戸に会うなんて。
 こっちのホームに電車がくる。
 その前にぐいっと倉田は彼女の手を引いた。ふわりと少女の匂いが舞う。きちんと結われた茶色の毛並みはほどけきり、口元を隠す。もう一方の手で、頬にあてがい唇を彼女に近づけた。
 茶色い髪のカーテンで見えないけれど、その行為は遠くの井戸からでも理解できただろう。
 胸が締め付けられるのは、井戸だけじゃない。僕もだ。
 井戸への告白の答えをきっぱりと行動で見せやがって。
 電車がホームに辿り着く。
 それは一瞬の出来事だけれど、見せつけるには十分だった。
 彼女は弾かれたように倉田を押し出した。明らかな拒否に、目に茶髪の前髪が覆い被さり、唇がねじ曲がる。泣きそうな大きな瞳を堪えて。それでも頬は嬉しそうに赤らんでしまう。僕へと顔を持ち上げて、したり顔になって、それでも落ち込んで顔を下げてしまう。
 電車の扉が開かれる。逃避行への入り口へようこそ、と告げられているようだった。入ったら戻れない。でも、今は入るしかない。向かいのホームにいた井戸が、背を向けて走っていくのが、電車の窓から通して見えた。おそらく僕らのホームまで来ようと思ってのこと。僕らは逃げるしかない。
「行こう」 
 立ち止まる隙など与えずに僕は言い放つ。倉田だって気づいている。もう一度彼女の手をとる。
 僕たちは電車に飛び乗った。
 ホームから舞台の上にのったような、眩しい明るさに目を閉じそうになる。世界が明滅して、電車の扉が満員いっぱい御礼と閉まっていく。井戸が駆けつけた直後に逃避行は動き出す。
「待てよ、どこ行くんだ」
 井戸の怒声が響きわたる。藍色の外の世界に井戸の声は置き去りになって。怒りでむくれた井戸の言葉を聞かずに。現実世界を置いていく。
「これからどうする?」
 電車内を見回す。車両に沿って備え付けられた座席には誰も座っていなかった。今さっきの駅で全員降りてしまったらしい。僕たちだけの専用列車になっていた。途端、呼び花火が開く音が遠くから聞こえてきた。車窓を覗くと花火が暗闇に溶けていくところだった。静まった車内で倉田と彼女を改めて見つめた。

***
 
 僕を真ん中に、倉田と彼女が両隣に座っている。車窓からの景色はすっかり暗くなってしまっていた。猛スピードで流れていく。点々と街灯と家々の灯りが点っている。景色すら置き去りに。もっと暗がりに。
「どこで降りましょう」
 沈黙を軽はずみな提案でうち破れるのは、倉田しかいない。体を傾けて、僕の隣にいる彼女に問いかける。白すぎる肌は夕立にうたれても、白く透き通ったままだった。しかし、僕の隣の彼女はそれ以上に蒼白で血の気がない。濡れそぼった髪からぽとり、と雫がしたたり落ちる。電車のクッションに水がしみわたり気持ち悪い。靴も水を吸ってしまって、踏み直すたびにぐっしょりと水が溢れ出す。髪も顔もそろそろ乾き始めていて、電車内のクーラーが逆に寒さを助長させる。
「どこまで行きますか」
 倉田は楽しそうに、浴衣の袖で顔を拭った。
 やけに明るい。
「さっきの、」と僕が言おうとしたら、
「そうだ、この際だから、思いっきり非行しましょう。ラブホテルって行ったことありますか。実は行ったことなくて」
「行ったことあるだろう。いろいろ済ませてそうだし」
 ぼやくと草履で柔らかく片足を踏まれる。何も言うな、という合図。あまりにも軽い暴力に逆に驚いて口を塞いでしまう。
 彼女にしてみれば倉田とひとマス空けて座っていることになるのだろうか。僕が座っているマスはその際、透明なのに水でクッションの色が変化していっているのかもしれない。
 彼女は倉田の顔も見ずにどこ吹く風で黄昏れていた。花火の破裂音が響き渡る。電車が振動している気がした。彼女の体もそのたびに震えているみたいだった。大きな瞳に映るのは黒だけで。
 今なら、あの夢の中のように僕が何をしても動かないんじゃないか。
 ポケットの中のウォークマンがなぜか重く感じる。耳元から今にも彼女の下手な伴奏が流れ出す。それは、ウォークマンに入っていなかった彼女のラ・カンパネラだった。上手く弾こうと必死で正しく立とうとして失敗している。彼女も、多分僕もやけになっているからどうしていいのか分からない。
「行こう、きっと新しい体験だと思うよ」
 倉田だけは、何かを必死で隠そうと行き先を示してくる。大きく振る舞いすぎていつもの丁寧に振る舞う倉田は迷子になっている。指針をなくして非行という言葉に縋り付く。
 僕はそっと「敬語忘れてる」と伝えてあげると、今度は太ももをつまみあげられる。蚊が刺したんじゃないかってほどに非力だった。
「その前に、普通の服を買わせてください。この格好じゃ目立ちますよね」
 車窓の外に巨大なショッピングモールが見えてきた。暗闇の中で血の気がない肌色をした壁で横に広がっている。倉田の言う、『服を買うのにちょうど良い場所』だった。こういうとき、僕たちは打算的に動く。倉田はショッピングモールが次の停車駅にあることも、この近くにラブホテルがあることも折り込み済みだったのだろう。
 ちらりと、横の彼女を伺うがやっぱり何の反応もなかった。
「流石に分かりやすすぎだろ」
 毒づくと、今度は脇腹をぐーで殴られる。怪物のうん万倍優しくて、涙がでそうになった。
 そんなに優しいと安心してしまう。
 頬が痛み出して視界がぼやける。が、横に彼女がいる。ぐっと堪えて背筋を正す。教室のノリを思い出すけれど、一体全体どう振る舞っていたのか忘れてしまった。それよりも彼女が隣にいることだけで嬉しくて。涙と共に顔がほころんでしまう。すると、どんっと、倉田が肩をぶつけてくる。
「ずっとニヤニヤしてる、気持ち悪い」
「あの家から逃げてるんだって思ったら、気が楽なんだ」
 花火の音が遠くになっていく。全て放り出して逃げて。隣に彼女がいることは幸せ以外言葉にならない。
 そ、と興味なさそうに相づちする倉田すら、今はどうあれ嬉しかった。

***

 ホームから降りて、駅員に切符の料金を申し出る。僕はお金がないので目をうろちょろさせていると、「三人分、あたしがまとめて払う」とため息まじりに言って、駅員に不自然のないように「後で払ってね」と僕と彼女に一言置いてくれた。
 ショッピングモール前の公園に辿り着くと、今度は「ここで待ってて」と敬語を忘れて倉田はあくせくショッピングモールに入っていってしまった。浴衣で動きにくそうに。草履の鼻緒が切れそうだった。
 二人っきりになった公園で、彼女は呆然と立ちすくむ。街灯が申し訳程度にしか公園内を照らしていなかった。小さな滑り台の下の砂場、ジャングルジムの頂点、親子の鉄棒の親の方といった部分を影になっている。夜の公園には虫が飛び交い、動かないでいるとすぐにでもひっつこうとする。僕は虫たちを眺めながら彼女がどうするのか、観察していた。
「藤本くん、いるんだよね」
 僕は何も言わずに彼女の横に立っている。学芸会で行われる劇で使われるどうでもいい背景の木役になった気分だった。舞台に上がってはいるけれど、きっと誰も見ていない、数あわせの役柄。
 それでも幽霊よりかはマシだ。
「もうバレちゃったよね。私が、あなたのことを見えていないの」
 そんなこと、最初から分かっていた。CDショップで君が熱心に曲を聞いていたあの日から。僕が君の隣で君を見ていたことすら知らないだろう。
「どうしてかは分からないけど本当に見えないの。だから、いるのなら何か反応して」
 彼女は公園内を歩み出す。先ほどから隣にいるのに、公園のどこかにいると思っている。滑り台の砂場の影、鉄棒の親、ジャングルジムのてっぺんを仰いで、それでも見つけられない。蝉時雨が彼女の肩に重くのしかかる。夕立で洗い流され、乾いた髪は絡みあい、いつもの光沢はなく力なく萎れている。彼女はセミロングのひと束をすくい上げて、「枝毛だ」とだるげに放った。
「怒ってる? 私があなたを見えなくて。それか、本当にいないの?」
 最後に彼女はブランコに歩み寄り、ぶらさがった鉄の鎖を握った。ゆぅらりと白いワンピースが揺れて、まるで公園を跋扈する幽霊かのような彼女。するりと、ブランコに座り込む。きこ、きこ、と揺らして。また彼女の存在がぶれていく。僕は彼女の背後にまわり、背を押そうか悩んでやめた。
「いないなら、いい。私の勘違いなら。私の独り言にさせて」
 彼女は手を離し、指で唇をなぞった。紅の唇に赤茶の鉄さびが塗られる。その部分だけやけに落ちぶれたように見えて。僕は正面から彼女の唇を見定めた。今すぐにでも、彼女の唇を奪いたくなる。呆けてどこを見つめているのか分からない、この状況は。
「夢で見たのと同じだ」
 壊れた人形のように瞳は曇っていて。どこかけだるげに体を放置している。街灯がブランコを照らしていて、スポットライトを浴びているかのようだ。僕が何をしてもいい、だって今の彼女には魂が宿っていない人形なのだから。夢でみたのと同じ精巧な肌。彼女は今、僕が見えない。
 彼女の髪先を手のひらで揺すった。こしょばゆくて僕の体が泡立つ。ゆっくりと髪を持ち上げる。風が舞っているかのように。
「倉ちゃんの、あれってそう言う意味なのかな」
 途端、僕の体が停止する。鉄錆びた唇が動き出す。人形がぎこちなく、一つ一つ言葉を噛みしめる。人形が魔法をかけられて動き出した。
 かまわず僕は顔を近づけた。髪を持ち上げて耳を触らず覆う。小さな耳だった。この耳が多くの音を拾っていた。この唇が僕の、倉田の、大好きな言葉を零していた。ごくり、と生唾をのみ込んでしまう。
 ぼんやりと陰った瞳に瞼がぱちり、と瞬いた。
「男の子」
 そんな聞き知れた音が近くでこだまする。音が彼女の口で留まって、落下しそうになるのを支えていた。
 ぱちり、ぱちり、と長い睫が近くで羽ばたいた。大きな蝶が羽ばたいていく。瞼を閉じるたびに瞳の陰りに光が宿る。恐ろしい事実に気づいたように。僕は知って欲しくなかったのに。
「男の子の、匂いがする」
 落としきった彼女の口元が震えた。
 それは盗撮したときの、言葉。
「藤本くん?」
 冷えて凍えた言葉に、胸がしめつけられる。後ろに後ずさる。ポケットの中の携帯を掴んで、握りしめて、カメラを彼女に向けるのに、何も写らない。電源が入らない。体が言うことをきかない。
「そこにいるんでしょ?」
 まっくらやみの画面に僕の怯えた表情が写っている。罪悪感で打ちのめされて、冷え切った、虚しく、崩壊している僕の顔。見たくなかった自分自身。
 怪物にぶたれて右頬が大きく晴れている。左目がパンダのように青くなっているし、瞼を頑張って持ち上げても見えずらく。細い視界しか捉えない。右手は怪物を殴った跡の赤腫れ。ずるむけた皮。節々が痛んでいた。
 もう限界なんてとっくの昔に超えていた。
 ホームの先に井戸を見たとき、電車の前に飛び込んでいてもおかしくはなかった。でもできなかった。
 走ったときに傷んだ左足を引きずっていた。喉もからからで、夕立に降られたときは恵みの雨だとすら思って口を上に向けていた。油でぎとぎとの髪は雨で洗い流されて、綺麗さっぱりとしていた。
 怪物との長い戦いのせいで、声は潰れていて。聞こえないのもそのはず、僕の声帯はかすかすで、声が出ているか出ていないかすら危うい。倉田はそんな中で僕の声を拾ってくれていた。
 一緒に逃げよう、なんて言って。
 何もかも置いて、逃げたかったのは僕だ。
 彼女への性欲で全てを代替させようとしていた。浅ましくて、卑しい。彼女のためだなんて言って、結局全部自分自身のためだった。彼女のためを想うなら、本当は家に帰してあげるべきだった。
 僕は脆く弱く、目の前の餌に吊られてしまった。
「何してんだろ、僕」
 噴き出した声音は霞んでしらけてしまう。
 こんなはずではなかった。それなのに、ウォークマンは重くて、携帯の画面は真実を映し出してくる。生きるために何かをしたかったのだろう、と。それでも、こんなことじゃないのは理解できた。彼女の発した言葉が脳内に刺さっていく。傷んだ脳内細胞はヒートアップして。
 僕はおそらく本当の幽霊になる前に、もう一度だけ何かをしたかっただけなんだ。
 それは、きっと彼女に意地悪をすることではない。
「ねぇ、藤本くん」
 白いワンピースがふんわりとブランコから降りる。ふわふわと、幽霊のように。お仲間だと言わんばかりに。
「もう隠れないでいいんだよ」
 幽霊と幽霊は視線は合わない。彼女と僕が一生視線が合わないように。
それでも。
「そこにいるんだよね」
 夜の特別な空気を編み込んでようやく、つなぎ止めてくれた。
 僕は隣のブランコの鎖を手のひらでなでつけて、ぎゅっと握った。ぎこ、ぎこ、と鎖を揺らす。闇の中でブランコだけが揺れている。ぎこ、ぎこ、と鎖がおぼつかなくブランコを揺らしている。揺れる、揺れる。
「ああ、やっぱり。藤本くん、いたんだね」
 彼女はようやく僕に気づいた。
 編み込んだ夜の特別な空気は澄んでいて。僕は自然と口元がほころんでしまう。彼女の世界で僕が認識された。そうして、必死につないでいた緊張の糸がぷっつりと切れてしまう。眼にため込んでいた水分を滝のように流してしまう。これからのことも考えず。ありったけの水を流しきる。
「僕は最初からいたんだ」
 ここにいたんだ。
 きこ、きこ、と虚しく反響する音に耳を澄ませる。彼女がピアノで弾いていた。『とんぼのめがねはみずいろめがね』と。懐かしい童謡に残酷さを感じて。
 とんぼのめがねがみずいろめがねだったから、僕は見えなかった。虹色めがねを持っているとんぼなんていないから。同じ視野じゃないと見えないと思いこんでいた。
 でも、最初から彼女は見えていたのだろう。
 匂い、で。
 でも、それは、彼女と二人で更衣室を共にしていたってことだ。
「お待たせ」
 新たな匂いが訪れて、僕の涙は落とし終わった。振り向くと白い幽霊がもう一匹現れていた。
 その子は彼女と同じ白いワンピース姿で。彼女のように純粋無垢な瞳を傾ける。
「倉ちゃん、そのワンピース」
「おそろいだって思って」
 倉田は僕と彼女の間に入って、「行こ」と既に敬語も何もかもはずれた調子で言って、彼女の手を引いた。だが、倉田の弱い力なんて彼女だって振りほどける。
「離して」
 二人の距離が空いて。僕は後ろから眺めてるだけ。
 また振り出しに戻ってしまった。

#創作大賞2024 #恋愛小説部門

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