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夏の幽霊(6)

 夏休み一歩手前の、終業式当日。倉田は教室にいた。彼女の隣に陣取り、僕をそっけなく一瞥する。そんなことしなくても、僕たちは教室のはぐれ狼だから牽制しなくていいのに。
 教室は浮き足だっていた。扇風機が回るのもいとわず、手元の下敷きで自身を仰ぐ。中には扇子を持ち込み、大仰に風を送りあっていた。彼女と倉田は、彼女が持ち込んだ扇子で仰ぎあいをしていた。豊かな風が彼女のセミロングの髪を湿気から乾かしている。蒸し暑い空気に「あついー」と言い合い風がくると「すずしー」と完結する。終業式前の休み時間だから思い思いに夏休みの話題を出していた。
「俺は彼女できたから、花火大会は浴衣デートするんだ」男は「じんべい着てな」と楽しげに井戸とクラスメイトは話していた。「へえ、お前さこの間の彼女と別れたんじゃなかったっけ」と井戸は物珍しそうに尋ねる。
「別れたら次だ、次。失恋は新しい恋愛でしか上塗りできないって」
 次々に愛する男を変える母親が思い出された。そのたびに僕に彼氏の名前を口にする。今は「悠」、前は「新」、その前は。忘れてしまった。そのたびに僕は僕を削りとられていったというのに。母親は、前の男を捨てて次にいく。本当にその男が好きだったのか、分からなくなる。
 家の怪物も、母親のことを常に思っていて嫌になる。やつは未だに母親への未練がある。いつ帰ってくるんだろうとか、たまに僕を見て泣く。汗まみれの涙と言葉に痛々しく僕はまた削りとられる。その視線は、僕ではなく母を見ていた。
 どちらも僕には気持ち悪く感じる。何をもってかは分からないけれど。
 机の上につっぷしてしまう。
 そこで、ぷぅん、と蚊が風の合間をぬって僕らの頭上に行き来きした。耳障りなモスキートーンに耳をはたきたくなる。僕の机の周囲に群がる井戸のつれと、井戸の間でどちらにしようかなと刺す方を選んでいる。
「お前らも彼女つくれよ」
 蚊がつれの方についた。皮膚を突き破り、針を刺していく。モスキートーンは瞬く間に僕ら周辺から教室にどこかへと。遅れてつれが刺された、かゆっと腕をかきむしる。浮き上がった白い楕円の刺し後にざまあみろ、とさえ思う。僕は笑みを堪えきれず、ケラケラと笑った。心の底から笑うと、井戸が珍しげに僕を捉えていた。
「お前なあ、人が蚊に刺されたってのに」
 苦しげに言うつれに、井戸も同時に笑う。僕たちは二人して、彼女自慢をするこいつを見下していた。どうせ次もそう言うだろし。そう言わなくても、前の彼女を幸せにできなかった罰がある。何も偉くはない。
 なのに。
「彼女いない歴年齢とか高校生にもなってありえねぇし」
 まあ、そうだな、と井戸が頷いた。男の中ではこいつには敵わないのだ。経験をしていないから。だから、こいつは僕らの中で一番高い地位にいる。恐ろしいほどにどうでもいいクラスカースト。何が偉いのだろうか。
「好きなやつとかいんの?」とつれ。あ、と気づいて、「お前は倉田とだったなぁ」と肩を叩き井戸を応援した。僕は倉田と付き合ってることになっているので、取られないようにな、と笑いかけられる。
 息を止めて、教室の中央にいる彼女の声を聞き込んだ。倉田と花火のことについて話していた。たまに「あついー」と合いの手を入れている。
 手元のウォークマンの充電は十パーセントを切っていた。次の夜聞いたら、このウォークマンも終わりだ。再び僕の耳元に、母の呪いの言葉が蘇る。怪物の嗚咽が体に満たされていく。
「まあ、好きなやつがいるっていいよな」
 まだつれの言葉が続いている。好きなやつがいるのが、彼女がいる次に偉いやつ、と定義をされる。まるで誰かを好きでいるのが普通だとか、それ以外は排斥するといったものがあるような。
 歪な気持ち悪さが胸の奥にどろりと流れていく。汗がとめどなく額から伝い、目にしみる。
 だから、「好き」という愛が消費物なのだろう。
 結局この世に正しく誰かを愛せる人などいないのかもしれない。
 僕が彼女を正しく愛せないように。
 倉田が女の子以外を好きになれないように。
 咳払いをしてつれの言葉を遮る。視線を井戸へ。次に彼女へ。花火の話は、好機だった。
「好きなことは、本当にいいことなのか」
 僕はつれに鋭いつぶやきを浴びせかけつつ立ち上がった。井戸に目を合わせて頷く。ふんわりと空気が緩むのが分かった。それは井戸と競合をしているという安心感もあったが、教室に担任の教諭が入ってきたという空気の変化もあった。終業式のために廊下に並べと促される。
 これを待っていた。
 メールは返信されていないし、倉田から声をかけてくれない。それなら、僕からいくしかない。
 廊下へでようとする群れの中で、僕はまぎれて倉田へ近づいた。ちらちらと視線がぶつかる。痛々しくて節々が悲鳴をあげる。
 覚悟を決めて、
「なあ、倉田。花火大会一緒に行かないか」
 倉田がこちらを向いて、立ち上がる。スカートを揺らした。ボブカットの毛並みが一直線になって、くるりと円を描く。茶色い毛並みのカーテンを開けると、猫のようなつり目が僕を突き刺していた。
「は?」とでも言いそうな口の曲げ方を一瞬くみとってしまう。すぐにいつものお淑やかな笑みを貼り付ける。彼女には聞こえていないのを思い出して。「そうですね」と首肯する。彼女がいることをまず把握する。彼女の周りにいつものメンツ、メンバーがいることを遅れて理解する。僕たちはこういうとき、周囲の人に良い面を下げる。「早く廊下に並べ」と担任が呼びかける。早く行こ、と腕を引く彼女は倉田の前にいる僕に気づいていない。
「僕と君だけは味気ないから、井戸もいれてさ」
 僕は本来の目的である井戸のことを持ち出した。周囲の女子は先に行ってるね、と訝しみつつ立ち上がる。するりと机の迷路から抜ける。彼女は頭を傾げている。
「行かないの?」
 彼女視点なら、倉田が立ち上がっただけ。暑苦しい空気と僕と倉田が付き合っていると知っているなら、早く動きたいはず。でも彼女は動けない。他の女子が過ぎ去った後の清々しい教室が形作られている。
 背後には井戸が様子を見ている。この位置なら聞かれないだろう。
「井戸が君と話したいことがあるって。花火大会は、その場作りだよ」
 かったるくて、笑顔をやめた。演技をする必要もない。
「そうですか」
 倉田は相づちをうつしかない。思いっきり嫌そうな顔だ。僕は彼女から見えていないので言いたい放題だし。いつものしたり顔も彼女の前で見栄を張っている倉田にはできない。
 だけど、ここまで言ったら井戸が倉田に何を言うのかは検討がついているだろう。僕と倉田はなんのメリットもない。ただかったるい告白を受けるだけ。
「かといって、僕たち付き合っていることになっているらしいし、花火大会に僕と倉田と井戸で行くのはおかしいだろ。だから、二対二にして、倉田と僕と井戸、そして彼女を誘ったらいいんじゃないか」
 彼女と一緒に行けるなんて願ったり叶ったりだ。僕たちの共犯も周りからは怪しまれない。倉田も、僕への好意を披露できる。彼女がいる前で、倉田が口答えできないこの状況で、うんとしか言えない交渉をしたかった。
 案の定、倉田は深く頷いた。振り向いて、彼女に、「藤本くんが今花火大会に誘っているんです」と大きく説明した。彼女はぼんやりと僕を見上げる。
 透明な向こうを凝視していて。
「藤本君、ごめん。ぼんやりしてた」
 彼女の瞳は僕の左方あたりを見ていた。どこを見ているのだろうか。
 僕は虚しく口を動かす。
「花火大会、一緒に行こう」
「藤本くん、倉ちゃんも、でも今は終業式のために早く廊下行かなきゃ」
「倉田も俺も行くんだ」
「あー、ほら、先生が怒ってる」
「井戸がさ、一緒に行きたいって。ああ、聞こえてないんだったな」
「終業式終わったら、夏休みだよ~。楽しみだね」
 この笑みすらも、見慣れてしまった。
 でも倉田は改めて衝撃を受けて大きく目を見開いて、彼女を見つめた。本当に見えていないことなど、とっくの前から知っていただろうに。
「見えていないってのは、こういうことだよ」
 口から零れるのは怨念のような低い声だった。漏れ出る感情に無気力が熱されて、近くの机を蹴ってしまう。きゃっと彼女が飛び跳ねた。「なになに?」と首を傾げる彼女のしぐさは、小動物のようにかわいらしい。流れ出る黒髪の無垢さに冗談じゃないと吐き捨てたくなる。一点の濁りもない黒い瞳をわしづかみにしたい。無理矢理こちらを向かせて、僕はここにいると叫びたくなる。
「なあ、僕はここにいるぞ」
「倉ちゃん、机が動いたんだけど、倉ちゃん当たっちゃった?」
 にじりよる快感と悲哀に無理矢理口角をあげる。今度は彼女の椅子を蹴り上げようか。
「やめて」
 倉田が僕の腕を掴んだ。
「今はあんたの提案にのってあげる」
 痛々しいものでも見るかのような倉田の瞳は、無垢さはなく涙混じりの淀みが浮かんでいた。僕は憐れまれる筋合いはないのだが。
「いいですよ。藤本くんも一緒に行きましょう。歓迎します」と僕の腕をゴミでも捨てるように思いっきり離した。「ちょうど二人で花火大会に行かない? と話していたところですからね」
 ね、と倉田は彼女に目配せする。
「お前、僕がいないところで抜け駆けしようとしてたのか」
「花火大会?」彼女の晴れやかな声が響き僕の怒りを遮った。「藤本くんも来てくれるの?」
「はい、是非にって。わたしの浴衣姿見せられるって幸せですね」
 彼女に見せられるのが光栄だと言う意味だと深く探らないでも分かった。僕だって倉田の浴衣ではなく、彼女の浴衣姿を写真に収めたい。最近はこれといって大きなことはしていないし、ちょうどいい。
 ひゃーっと彼女は口元を抑える。
「で、でも、それじゃあ私は邪魔になるんじゃないかな」
「大丈夫です。藤本くんが井戸くんを誘って四人で行こうって」
 それに、と倉田が口ずさんだところで、僕と同じことを考えたに違いない。彼女がいないのなら、花火大会に行く意味などない。
「高校生にもなって、終業式サボるとかやめろよな。せめて終業式くらいでろ」
 しびれをきらした担任が廊下から教室に顔を出して、僕たちを叱り上げた。全員の体がこわばる。見れば、「まだかぁ」「かったるぅ」と重苦しい言葉をひっさげて廊下にみな整列している。教室に残っているのは、三人だけだった。井戸だけは、緊張した面持ちで、廊下の窓から様子をうかがっている。ひとっこひとりいない涼やかな教室に、名残惜しくも背を向けるしかない。
 僕は手を上げて「当日よろしく」と倉田に合図をした。ぐるりと心持ち気安く、井戸に戦勝報告した。花火大会は、夏休みに入ってすぐにある特大級のイベントだ。井戸は喜ぶし、僕も嬉しかった。夏の暑苦しさを吹き飛ばすほどに。
 廊下に整列すると、倉田と彼女が楽しげに会話をしているのが後ろから見て取れた。
 井戸が「ありがとう」とお礼を言っているのを端に、なぜか目を離せなかった。そういえば僕は教室で普段彼女の声だけを聞いていた。倉田と彼女がいるところを直視していなかった。
 彼女は倉田に、「私ね、りんご飴が好きなんだ」と活気づいている。形のいい唇を大きく広げて、綿飴、たこやき、人形焼き、型抜き、くじびき、と色とりどりの祭りの色を彩色していく。倉田も合わせて、花火大会、浴衣、下駄に鼻緒と、連想ゲームをする。彼女は思い思いに好きなことを描いていく。終業式までの道のりが花畑に移り変わる。彼女の陽気な声色と表情。倉田が特等席で受け取る。心が落ち着かなかった。
 さっき、彼女と花火大会二人で行こうって言っていたしな。もしかしたら、彼女と二人でデートとか僕には内緒で言ってたり。
 倉田は彼女を独り占めしている気がした。胸のあたりが、どんよりと曇っていく。その気はなくとも、付き合っている、みたいに受け取れる。倉田だけにあけわたされた席ではないはず。
 共犯者なはずだろうに。僕にもわたせばいいのに。
 すると、今度は怒りがふつふつと湧いてくる。周囲に生徒も集まって。終業式に向かう制服の群れは暑苦しさを増させる。
 あっという間に終業式が行われる体育館に辿り着いていた。駆られた怒りに、どう太刀打ちしたらいいか分からなかった。
 今すぐにでも、自身の胸を掴んでかきむしりたい。首を両手で絞め殺したい。その前に彼女の隣にいる倉田を引き剥がしたい。
 そんな時。
『深淵トンネル』
 携帯に淡泊なメールが送られてきた。
 彼女の隣に座る倉田に焦点を定めた。携帯を担任から見えない位置で持ち、僕に画面を見せつける。送信メールの欄に僕の名前が書いてあった。
 したり顔で倉田は彼女の手に自身の手を重ねていた。

***

 放課後のホームルームが終わると、僕はわきたつ教室の中で冷静に井戸からメルアドだけもらって、そそくさと教室を後にした。倉田と彼女が仲睦まじく話している様を見ているのがどうにもつらかった。彼女の声だけ、聞いているだけで良かったのに。
 向かった先は深淵トンネル。小学生の頃、同級生の間でそう呼ばれていたトンネルは、高校から十五分歩いたところにあった。小学生の通学路で。ランドセルが足下をうろちょろし、通り過ぎていく。彼らも明日から夏休みらしく、時折大きな植木のプランターをもって帰る子どもも見かけた。僕の横を過ぎ去って向かったのは薄暗く背が低いトンネルだった。小学校から下にくだると大きな道路が敷かれているため、抜け道としてトンネルが作られた。僕たち、小学生の子どもはここを通って、近道をした。薄暗く長いトンネルなため、ニーチェの名言『深淵を覗くとき深淵もまたこちらを見ているのだ』を引用して、『深淵トンネル』とあだ名がつけられた。あの頃は頭を下げて入るなんてしなかったのに、下げないと入れない。先ほどのプランターを持った子どもを危惧して、見やると添え木部分が引っかかっていた。「これじゃあ帰れないよぉ」と今にも泣き出しそうだったので、微笑ましくなり、横に倒して持ち上げてあげた。彼は晴れやかな表情になり、「ありがとうお兄さん」と感謝される。僕の心はこそばゆくなる。そんなこと言われて良いやつじゃない。トンネルを抜けると、黄色い光が射して。瞼を閉じる。
 遠い昔、僕もここを通っていた。深淵トンネルは、僕の小学校に行っていたやつらなら誰でも知っている。振り返ったら、小さなトンネルにいる僕が見える。「今日はお父さんにトラックを乗せてもらうんだ」と息巻いていた。トンネルの中はブルーの宇宙が描かれていた。星がまばらに散って。きらきら。僕の瞳も輝いていて。天の川を駆けていく。手には学校に置いていた大量の置き傘。走るたびにぽんぽん足にあたる。僕は逆行する。トンネルの中に戻り、壁に背をつけて、ずるずると膝を崩す。その場でうずくまり、ハリネズミのように心の針をたてる。
 もう僕を待つやつなんて、家にはいない。
 外の蒸し暑さも影に浸り、いくぶんか楽だった。何度も手元の携帯を確認する。時間、メールの文、彼女の声と、倉田のしたり顔と。胸騒ぎがした。
 深淵トンネルに、女の子の集団が入ってくる。和気藹々と。全員流行の赤い色のランドセルだった。ぷらぷらと給食ぶくろが片側にひっさげられていて。振り子のよう。目を遊ばせていると、その中の一人がいたずらに友達のランドセルの留め具を外す。リコーダーをぶっさしている女の子だった。外されたランドセルは所在なく開け放たれる。「やったなー」と女子同士でじゃれていた。僕はいつもこういういたずらをされたり、したりしていた。もちろん、女子にも。もっとずっと背が小さかったからすばしっこかったのだ。そうして、女子に白い目を向けられる。
「なにしてんの?」
 と、こんな感じに。
 重い頭を持ち上げると、倉田が立っていた。彼女の背なら十分低いトンネルも立てる。
「君を待ってた」
「わざわざ呼び立てたのはあんたのほうだけど」
 彼女への好意を暴かれた一件、あるいは花火大会の件でなんとなく倉田は鼻につく語気があった。
「もしかしてだけど、『深淵トンネル』を知っているってことは、倉田も同じ小学校だった?」
「もしかしなくても、同級生。今更すぎるでしょ」
「それも、そうか」
「あんた、小学生時代のこと覚えてなさすぎない? 一応あたしは覚えてた。あんたが楽しそうにクラスの中心でしゃべっていたことも。ドッチボールではよくボールを持っていたことも。あんたの父親がトラックの運転手だったことも。今日は乗せてもらえる日だって、自慢してたことも。あの頃、あんたはみんなの憧れだった」
「その頃の僕は死んだんだよ」
 あまりにつらすぎて、忘れてしまいたくて、いつしか本当になかったことになってしまった。だから、あの頃の僕は別人で、僕の中では故人なのだ。
「だから、」僕は言って、倉田の瞳とぴったりピントがあってしまう。薄茶色の瞳は、鳶のように澄んでいて、僕の何もかも見通してしまいそうで怖かった。「僕を選んだのか」
「は?」今度はきちんとした声となって倉田から発せられる。宇宙に立っているかのような魔女、倉田。
 彼女の隣にいるからこそ、恨めしい。
「僕が君の彼氏のフリをする意味が分からないんだ」
「あんたの弱みを知っているから」
「確かに、それもあるけれど。これからは僕である必要はなくなるんじゃないか」
 違和感があった。僕は倉田に操られているけれど、彼氏のフリまでする必要はない。それに倉田を占領しているようで。それは僕が倉田に抱く感情と同じだ。彼女を独り占めしている。
「お前を好きなやつがいる。井戸は、お前のことを本当に好きなんだよ。なら、そっちの方が隠れ蓑としたら優秀だ。共犯者は続けて良いけれど、もう彼氏のフリをするのは終わりにしないか」
「なん、で」
 遠くで子どもが子どもを呼ぶ声がした。ランドセルの引き止めをしてなくてカチカチとランドセルの蓋が当たる音がし、傘を落として拾って、僕らの前を通り過ぎた。ふんわりと牛乳の匂いがした。僕の匂いは今どんな匂いだろうか。ゴミだめの中の、生臭い匂い。鼻をつまむほどの、気持ち悪さ。
 僕は倉田にも彼女にも見合わない。
「考えた。僕は、君の言った通り、彼女が好きらしい。君と彼女がいるところをみると、体中の熱がせりあがる。まるで体から炎が燃えさかるんじゃないかってほどに。もやもやとした微睡みに苛まれて、耐えられない。拭いさるために首を吊りたくなる。君が花火大会に彼女と行くと聞いたとき、反射的に怒っていたのなんて、良い例だろ」
 今も体内に、彼女と倉田が話している光景が残っている。でも、僕はいつでも、彼女からは見えずにいる。
 彼女と生きている世界が違うのだ。
 反対に、彼女と倉田はお似合いだった。僕なんか介入できないほどに。
 トンネルの宇宙に目を向ける。星が瞬いていて倉田と踊った日を思い出す。僕はトンネルの夜空に向けて盗んだウォークマンを振りかざす。でも手放すことはできない。幕引きを自身で決めることができない、情けないやつ。ぷらぁん、とウォークマンが振り子よろしく揺れる。僕の瞳の表面に規則正しく左右に揺れるウォークマンは時を刻む。
「僕はようやく自分の好きを認めたんだ。でもさ、僕は好きな人にやってはいけないことを散々した。大切な人のはずなのに」
「盗撮、盗み、尾行、恐喝、そのくらいじゃない」
「そのくらい? 好きだからこそやってはいけないことだろ。倉田の言っていた通りだ。僕は気持ち悪い。
 最初は彼女の目の前で、彼女の水筒に口をつけたことが始まりだった」
 気持ち悪い、と頭の中で濁した。
「最高だった。ポルターガイストまがいのことなんかしょっちゅうしていて。クラスで楽しげにしゃべっている彼女を僕が動かしているんだと考えるたびに、快感でしびれそうだった」
 井戸に胸ぐらをつかまれた。胸に痛みが残っている。僕は彼女が誰かといるたびに、そうやって怒れない。倉田が『気持ちわりぃ』となじった悲痛な声がこびりついて離れない。忘れてはいけないことは忘れて、現状しか僕は見ない。血と鉄の匂いの違いなど知りたくはなかった。暴力と愛情が同じだということを悟りたくはなかった。
「僕を見てほしかった。
 彼女に期待していた。
 だって、《俺》はとりつくろえるけれど、|のことは何にも知らないじゃないか。僕はあんな両親の中で生まれてきてしまって。成長して。どうして笑っていられることができるんだ。
 彼女が羨ましかった。携帯電話を買い換えることができることができて、ドラマの話をなにげなく話せて、クラスの中心でいつもひまわりみたいに笑っている。
 僕は、いつもお腹をすかせている。水道がついに止まった。家に怪物がいる。
 比べれば比べるくらいに、彼女と違っている。そして、『好き』だって、思うほどに苦しい。こんな僕が抱いてはいけないものを抱いている。
 なあ、もういいだろ。僕はこの程度の男なんだ。あんたの隠れ蓑には似つかわしくない。花火大会の日、井戸の告白を受けて綺麗な隠れ蓑を使えよ」
 ふらふらと僕は立ち上がり、宇宙色の天井に頭が激突する。同時に振り子のように揺れていたウォークマンが手から離れてしまい、地面に体が当たる。彼女の白いイヤホンが僕へと伸びている。目線で辿り、手で受け取ろうとした。
 が、にゅっと倉田の白い枝みたいな手が遮り、ウォークマンを拾う。
「あんたでしかできないことがあるから、あたしはあんたを選んだの」
 倉田の手の平で覆われたウォークマン。白いイヤホンが垂れ下がっている。細すぎる手の平の先は小さな桜の貝殻のような爪が生えそろっている。なだれかかるは、薄茶色のボブカット。彼女よりも短く並べられた毛先。背後にはトンネルの外の眩しい光。神々しく、倉田を照らしていた。ばさばさと大きな瞳にのっかった不自然な毛量の睫が舞った。眩しい光で縁取られている。振り返らず、倉田は僕の真正面に立ち、片手で隣の壁にどん、と手を置いた。小柄な体が一生懸命背伸びをして僕を見上げている。
 知らず知らずのうちに、僕の脇や背中、足の裏といったところ、汗でぐっしょりと濡れていた。最後に頬に伝う。
「舐めんな」大きな口が、ゆっくりと動いていた。「あんたが感じている、独占欲。あたしもあんたにいつも抱いてんだよ。あんたは、彼女の一人っきりの空間を堪能できる。二人でいる顔しかあたしは知らないのに、あんたは、あの子の本当を見ることができる。羨ましくって仕方ない。嫉妬で狂いそうになる」
「なら、写真を撮ってくる」
「そういうことじゃない」また倉田は壁を叩く。「あたしは、写真じゃなくあの子と同じ空間にいたいの。あんたには分かるでしょ?」
「分かる」
 僕だけが知っている彼女の秘密が宝物みたく思えてくる。
「それにあたしだって、井戸に見合わない。あたしを好きで付き合っても先はない。だってあたしは、生涯女の子しか好きにならないから。
 だって、あたしはレズだから」
 ひっく、と倉田の喉が鳴った。ボブカットが下がる。間からきらきらと星が零れ落ちていく。
「健全な付き合いをするなら、井戸なのに」
「健全な、普通なって基準がそもそも無理でしょ。あたしたち、自分の好きな子のためなら、盗撮も、盗みも、恐喝も、する。したい。傷つけることでしか好きを表せない」
「僕たちの愛は歪んでる」
「とっくの昔に気づいてる」
「それでも好きでい続けることしかできないんだな」
「だから、あたしたちはお似合いなんだよ」
 まるで呪いみたいじゃないか、ぽつり零した言葉に倉田がくすくす笑い出して、手をのけて、腹をかかえ、大笑いした。深淵トンネルに笑い声が反響する。教室ではなしえない、下卑た笑い。ひきつり、とどろき。涙で濡れたぐしゃぐしゃなまっ赤な顔で、指で涙をぬぐい。
「愛は呪いなんだね」
 愛はなくてはならないもの、ではない。僕たちにとってはついて回るものだった。切っても切り離せない。こびりつき。気持ち悪く。世界すらも見放している。なのに、愛は近くにある。よく言うフレーズ、『世界は愛で満ちている』は、どこもかしこも愛が神聖化されすぎているということ。世界が愛で満ちているのなら、僕は愛に対抗する手段がほしい。呪いを解除する魔法がほしい。世界に対抗できる術がほしい。僕たちは歪んでいるから。好きが醜く腐り落ちてしまい、世界から見放されてしまっているから。
 救われないけれど、報われたい。
 くるり、と彼女は体を回転させて、隣の壁に体をくっつけた。同じ方向を向いて、トンネル内の夜空を眺める。同じ空の下、僕たちは共犯者を続ける。
「あんたはおかしい」
「それは君もだ。普通は井戸にいくだろう」
「あたしもおかしいから、君で満たすんだ」
「僕は彼女の悲鳴で満たされている」
「でも、そんな彼女があたしたちは好きだ。同じ子を好きになったんだ」
 黒いセミロングの、背丈は倉田よりも高め。小柄な倉田の手を引っ張っていく豪胆さ。クラスの中心で咲く笑顔が憎くてしかたない。
 でも。
「うん。僕は彼女が好きだ」
 にひひ、と倉田が歯を見せて笑った。白いつぶつぶの歯がいたずらっ子のように生えそろう。
 ねぇ、どこに惹かれたの、と倉田が言って、僕たちは彼女の好きなところをあげつらった。彼女の無垢なところ、僕たちには持っていない、純粋さ。普通なところ。抽象的でしかない事柄を次々に。憧れていたのだ。恵まれた環境に行き着いた者しか見せない笑みや自信、そういったふるまいに。僕らにはないものを欲していた。
「だから、好き」
 好きと、儚く朽ちるような言葉で倉田は紡いでいた。気づいたら、それしか零さない。星に願いを捧げる。「好き」と。敵わぬ恋であっても。「あの子に嫌われたくないなぁ。好きだから」とまた涙声で続ける。
「倉田のそれは、伝えないのか」
「まさか、伝えたら一貫の終わり。嫌われる」
「僕も、まあ、そうだしな」
「人の口に戸は立てられないっていうし。誰かに言ったら終わりの綱渡りをいつも繰り広げているの。もう疲れちゃった。あたしの本心を隠して、今のあの子に好きって伝わっちゃったかもしれないって不安になるの。怖くて仕方がなかった。それならいっそ、嘘でも誰かと付き合ったほうがマシ。女の子ってね、出る杭は怖いの。基準はいつだって最先端をいく子。ファッション、持ち物、化粧の流行を捉えて、それが当たり前と化していく。あたしは、常に気を張ってた」ごくん、と涙を呑んで初めて倉田が何かを意を決したように。
「あたしは、ママが好きだから。ママが最先端。でも教室では、違った。ママが見てくれないから、自分の最先端を見つけられなかった。あの子はそんなあたしにとって避雷針だった。あの子を辿れば必ず最先端に行き着く。出る杭にならずに済むから、あの子を追いかけた。すると、なんでか知らないうちに好きになってた。住む世界が違う、ただの避雷針だったはずなのに。あたしと何もかも違うからこそ、楽しげに最先端を行く彼女が羨ましかった」
「時折、僕は壁を感じるよ」
 見えない壁を、同様に倉田にも感じていた。本当の倉田と出会うまでは。
「それは、あっちの世界の人には見えない壁なんだ。みんなは惰性的に過ごせる日常が、僕には常に針の山で踏みこむように気を張って、考えて、ようやく歩み出せている。そんな認識の違いに、ふとした瞬間驚かされることがある。恵まれた人が普通に過ごせることが、僕にはできなくて。たったひとつの動作、お箸を持つ手であったり、たった一つの単語を知らなかったり、挙手をする動作であったりすることが大げさに動いても、慣れなさそうに動いても、丁寧に動きすぎても小さく動いても不自然に思われる。みんなが当たり前にしている動作が、何かしら変に思われる。僕は必死に考えてしている動作であるものが、あっちの世界の人たちは気がかりになることなんてない。そういうとき、ああ、この人達とは違うんだと悟らされる。その違いの原因が家庭環境や触れてきた身近な家族であることで、絶望する。避雷針が僕にはなくて。足下が覚束ない。本当にここであっているのか。こうじゃないんじゃないか。結局踏み外して、今の状態に至ってしまう。僕はみんなと違うことが怖い。そんな覚束ない視野の中で、彼女は分け隔てなく僕に接してくる。僕は俺を必死になってつくり上げているのに、彼女はなんなんだって最初は怒りすら感じた。しかも彼女は僕が見えないんだ。壁を通り越して、僕は彼女の視野にすら入らない」
 深淵トンネルの暗闇が僕の体を包みこんだ。倉田も僕の境界もなくなって、真っ暗闇の中で息をする。誰にも僕は見えていなかった。母親も父親も、僕を見つけてはくれなかった。じんわりと闇が全てを浸食する。輪郭はなくなり、存在が溶けていく。深淵自身になって、それでも輝く星がトンネル内できらきら輝いていた。
 あれは、僕が捨てていた、僕の意思だ。手を伸ばして深淵トンネルの天井に手をつけた。ひんやりと冷たい天にまき散らされた星を撫でた。僕の感情をまっすぐに受け止める。
「僕は怖かったんだ」
 忘れかけていた感情を一つ一つ受け止める。
「僕が何者でもないから。駄々をこねていたんだ。彼女の弱みをいくつか見つけたり、彼女の反応がほしくて、幽霊であることを利用してちょっかいをかけていた。怖くて仕方なかった。毎日死んでいるみたいで。僕はいなくて仮面を貼り付けて、痛くないふりをしていたけど。限界だった。なんで、なんで。気になって仕方なかった。どうして彼女が。そうして彼女を追うと、彼女のことで頭がいっぱいになった。現実逃避をするように、彼女に固執した」
 陰湿な空気が僕の肌にまとわりつく。息がしづらくなる。言いたくない。気づきたくない。誰かにこれを言うと本当になりそうになる。
「彼女は、とても純粋に反応してくれて。こんなことしている僕にも、きちんと会話しようとしている。見えていなくて不安なのに。彼女に甘えていた。彼女と繋がるために、いたずらをするようになった。繋がりたかった。それは、もう。
 彼女が好きであることと違わないじゃないか」
 涙腺が緩み始める。僕は男だ。目の前に弱みを抱えた女の子がいる。だから、泣いてはいけない。情けない姿は見せたくはない。気を張っているのに、どんどん頬は引きつっていく。感情が今にも溢れ出しそうだった。
 僕は、僕が嫌いだけど、彼女とは繋がっていたいと思っているんだって。そんな僕の中にある許されない愛情。僕が憎むべき世界。どうして、こんな近くにあるのだろうか。認めたくない。葬ってしまいたい。でも、目の前のトンネル内に輝く星は、夜の暗闇を吸って、一層険しく輝いている。鋭い光が地上にまで下り立つ。
 着地する光を手のひらに載せた。
「傷つけることでしか、人を愛せないんだろうな」
 今になって倉田の言葉が響く。私たちは気持ち悪い、ということの自覚。僕たちは傷つけることで愛している、という自覚。どこをとってもどうしようもない。
「そう」と、僕の告白を倉田は簡単に一蹴してしまう。そして倉田がステップを踏み、トンネルの外へと歩みを進める。真っ暗な中へ。星もない本物の空へ。
 突然の行動に、僕は後を追う。
 深淵トンネルを抜けると、星ひとつない暗闇の天井がある世界に迷い込んだ。街灯が点々と道を照らしている。誰もいなくて、夏の涼しい風が生ぬるい世界を乾かしていく。倉田のセミロングの髪先が揺れた。するり、と一直線の切りそろえられた髪束。ぐるりと一周し振り向いた。
「それなら、」
 歪で大きな瞳が、光となって僕を突き刺した。世界の星が倉田の双眸に宿っている。
「傷つけてしまう私たちのままで、どう傷つけずに彼女を愛せるか、考えてみない」
 言いにくいことも、今なら言える気がした。
 うん、その言葉がどれだけ嬉しかったか、きっと倉田はわかんないだろうけど。そうだけど、僕は力強く頷いた。うん、彼女のことが僕も君も好きなんだから。
 星から下った神の手、倉田の手。
 手を取ろうとして、そういえば、僕は倉田以外の体に触れることを躊躇っているのをふと思い出した。自身の身が心底醜く思えて、触れた途端その人を穢してしまうと考えていた。どうしてだか、倉田には、それがない。同じように汚い、から。そんな悲しい理由って、ないよな。
 僕は神から下り立った、醜い倉田の手に掴んだ。
 あまりに悲しい理由、を噛みしめながら。

#創作大賞2024 #恋愛小説部門

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