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夏の幽霊(4)

 夜更けに、家の玄関からとりとめもなく母が帰ってくることがある。今日がそうらしい。ずいぶん酔っているようで、足取りがおぼつかない。家に転がっている缶を蹴っては転がして。からからから、と乾いた音が床を滑っている。僕はそれを二階の自分の部屋から音を聞き取り、布団をかぶって、また丸くなる。こっちには来るな。なんて思いはねのけて母は、僕の部屋の扉を開けた。
「悠くん」
 と弱々しげに呼ぶ。
 母のストッキングをはいている足が布団から覗く。その奥に蚊取り線香を敷き、薄らいだ煙が立ち上っている。線香の匂いでいっぱいにして、母のアルコールまみれの女性の匂いから守る。
「悠くん」
 名前を呼ぶたびに僕は背筋が凍る。そこへ母の柔らかな掌が僕の背中をなぜる。指先を伝わせて、何度も何度も。優しく丁寧になでていき、僕の布団をゆるやかにほだす。
「悠くん」
 一緒に寝よう。
 布団にもぐりこむ母に、僕は抵抗すらできなかった。女性のかいがいしい仕草が僕の全身を駆け巡り、男を刺激する。母もそれを狙っている。僕は必死に、脳内で押しとどめた。濁流のような思考回路に一旦シャットダウンをして。目の前にある母の表情を目に焼き付けた。
 疲れているのか目の下の隈が濃い。対して唇の真っ赤に熟れた口紅はつやがある。胸元に目が行き、一気に引き上げた。まつげにマスカラ、玉になっている。頬は上気し薄紅色に。鼻頭にふつふつと汗がうきあがる。布団をかぶり向き合っているためか湿気がひどい。
 唯一際立つ鼻を、僕はつまんだ。母がぐがぁ、と色気をとばすいびきをかき、手を離す。指先に汗のしめっぽさが残った。ここで一気に目の前にいる母が『僕の母』に急速に押しまとめられる。
 母の目尻にしわを見つける。ファンデーションを塗られた肌の隙間からところどころにシミが浮き出ている。体は小さくよぼよぼと寝返りをうつ仕草がおばさんくさい。
「んん、悠くん」
 呼ばれて、手が伸びて、僕の掌を握りしめる。しわのよった手だった。傷もついているし、今の仕事で酷使しているのか、指紋が薄い。
「どこにも行かないで」
 僕は手をつかまれ離せなかった。離しといたら良かった。
「愛しているの」
 ここまでくると、握り返すしかなかった。僕は、息を整えて、母の頑張りを労る。
「俺はどこにもいかないよ」
 それから、母は何度も「愛している」と請うた。僕はそのたびに、「俺はここにいる」と落ち着ける。悠くん、悠くん、と寂しそうな母の声に応える。体が軋むのを無視して。声が裏返って、喉がひしゃげ、瞳から落ちそうになる涙を寸でのところで押さえつけ、声を嗄らし。夜の間、ずっと。
 母がくらげと称した風鈴がりぃん、と吹き鳴り。窓の外が紺色に水を浸したように薄くなると、母は寝息をたてて、静かに眠った。しわくちゃの涙がしみた顔は幼子になっていた。起こさないように、僕はそっと手を離す。外にあるウォークマンをたぐり寄せて、イヤホンを耳に差した。
『とんぼのめがねはみずいろめがね』と鍵盤が穏やかな音色が耳元で叩かれる。『あおいおそらをとんだから』僕も同じように鼻歌を唄った。すると、彼女の鼻歌が同様に流される。透き通った鼻歌が僕の鼻歌と並びたつ。伴奏にウォークマンのピアノが背景を彩った。彼女が音楽室のピアノをひとりっきりで演奏していた。僕はピアノに腕をついて、彼女の鼻歌と放課後の橙の鮮やかな遮光を浴びて、目を閉じて、世界の全てを堪能する。『とんぼのめがねはあかいろめがね』彼女がこしょこしょ話をするかのように声を僕に近づけた。『ゆうやけぐもをとんだから』僕も合わせて『とんだから』と鼻歌で対応する。
「なにしてるの?」
 背後から熱せられた影が伸びた。
 倉田が、僕のことを幽霊でもみるかのような恐ろしい形相で伺っていた。
 そこで、僕はぱちっと目を覚ます。ぱちぱちっと、瞼が開いて、母が身を起こし、周囲を見渡していることに気づく。朝の白いベールがカーテンの隙間から差し込んで、母の瞼が思いっきり開いた。僕の耳からイヤホンが外れて。母の視線が合わさって。僕を見て。前髪をくしゃっとかき上げた。白日の陽光が母の言葉をぬらした。
「ごめん、間違えた」
 たしなめるように、僕はゆるやかな笑みを母に向けた。母の甘い匂いが僕の全身にはりついていた。切っても切れなさそうな、母の長い髪が一本肩にかかっている。それをつまみあげて、ちょいと床に落とした。
「慣れてる。早く帰った方が良いよ。あいつ、今外で飲んでて、僕しか家にいないうちに」
「ほんとうにごめん」
 母が布団から這い出して、カーテンを開ける。眩しい太陽光が目に飛び込む。窓が開けられる。部屋にふんわりと土曜日の柔らかな風がやってくる。りりぃん……りりぃん……と窓につるされたくらげが鳴いた。おぼつかない焦点で眺めると、くらげが透けて見えた。すると、ふっと母が笑みを口に含んだ。
「まだ風鈴つけてるんだ。もうずいぶん前のものじゃない。いいかげんはずしたら?」
 くらげと共に僕も泣きそうになりながら、
「母さんも、いいかげん酔って家間違えんなよ」
「それはごめんなさい」
 謝る母の姿に意地悪をしたくなる。
 呼吸を止めて、
「ねぇ、『悠さん』とは上手くいってるの」
 母の表情にさっと影が差された。その表情を見ていると、あまりに憐れで母に恨み言ひとつ言えなかった。
 それから、母は慣れた足取りで家の台所に行き、コップを片手に蛇口をひねった。何も出ずに空回りする蛇口に、訝しみ、コップを置く。足下にはビールの缶が積み上がっていた。足を引けば積み上がった缶に足が当たり崩壊する。乾いた缶が転がる音が床をなめる。
 水道止まってるよ、と僕に振り返り、伝えると、まなざしを低くする。おまけに電気も止まっているよ、と伝えると、すぐにバックから財布を取り出した。万札を何枚か数えている。
「今日はごめんね。それにこの家の惨状も」母が足を上げて、足裏についた真綿のような埃を払う。「これ」強く僕に五万円もの万札を無理矢理握らせる。血色の良い母の腕に、うっすらと細かい治りかけの古い傷跡が刻まれていた。僕の手にある万札は、僕の手に似つかわしくすっぽりと収まっている。「少ないけど、使って」僕の手を離して、目を背けた。目線の先にキッチンの前にある食卓の上に、埃をかぶった離婚届があった。母の名前だけ記入されている。それを崇め奉るようにビールの缶が囲っている。饐えた香りがこびりついていた。
「早くこれ書いてって言っといて」
 悠さんにも失礼だし、と無意識につぶやくのを聞き逃せなかった。
「あんたも早くこんなところから出な。悪いことは言わない。いい年だし。独り立ちもできる。この家の貯金食い潰して高校行き続けるより、出て自立したほうがいいよ」
 颯爽と母は身なりを整えて、玄関に行き着く。放りっぱなしだったパンプスをはく。じゃあ、元気で、と何度も聞いた言葉を置き土産に、母は背中を見せて、扉を力強く閉めた。
 僕の名前は既に母の頭の中から消し去られているのだろう。『愛している』という言葉が体にしみこみ全身が悲鳴をあげる。ぎゅっと手を握りしめて拳を震わせていた。くしゃくしゃになった札束があまりにも軽くて壁に拳を打ち付けても響かない。体を壁に沿わせて、縮こまる。どうしようもない。札束にすがりつき、なぜだか嗚咽が止まらなかった。
 玄関で蹲り数時間。白い光が浅い紺色に移り変わったとき、僕は勢いよく飛び出した。近くにある大きな河川敷に、汚れをいとわずに踏み込む。整備されていない河川敷は僕の腰ほどにもなる草が生え放題。そこを押しのけへしのけ、やっと川に辿りついて。
 たった五枚の紙幣を投げた。
 ひら、ひら、と宙をいったりきたりする。そうして水面に着地する。ぽつりと、波紋が広がり、ささやかな喪失の音が高鳴る。ゆるやかに流れていく紙幣を眺めて、夜の光が瞳を眩ませて。ぱちぱち、と花火が弾けるかのような幽かな痛みが過った。
 何をしているんだ。
 川に足を突っ込んだ。
 冷水が衣服にしみこむ。肌にはりつきべたつく。ヘドロが足下で舞って、水面を濁らせる。紙幣は川下へと流れていく。そこを手で覆ってすくいだし。川魚を手に取るように掌の中に収めた。いち、に、さん、よん。最後の五枚目を救い出して、濡れそぼった紙幣ともども祈るように額にすりつけた。
 これは命綱だ。僕がどこに行こうと、これだけは手放してはいけない。投げ出してしまえば必ず後悔する。
 足取りは重く、川から体を上げると、湿った吐息が零れた。蒸し暑い熱気が湿り気と共に体に吸い付いている。一歩、歩くとともに、生ぬるい風が僕をもてあそぶ。一歩、もう一歩行くともに鼓膜に蝉の鬱陶しい鳴き声が打ち付けられる。河川敷に辿り着き、草をかき分けて土手へと歩み出すと、今度はポケットの中の携帯が震えた。くしゃくしゃになった顔と、紙幣をポケットに突っ込む代わりに携帯を取り出した。
『千鳥橋の下』
 倉田のいつものそっけないメールなのは分かっていた。どうしようもなく縋り付きたくてしかたがなかった。

***

 ちょうど僕のいた河川敷の傍に千鳥橋があり、その下には藍色に近い淀みがたまった窪みがあった。倉田がそこにいることはなんとなく分かっていた。中学の頃、クラスのやつらが面白がってたむろしていた場所で、今は飽きられて捨てられたところでもあった。忘れ去られた場所というものは、人目をはばかることは簡単だ。やはり倉田はそこで座り込んで待っていた。
 道に僕の足跡がとぼとぼとついている。重たい衣服は歩いて乾き始めていた。川の水か僕の汗か分からない水滴がぐちゃぐちゃに混ざり合って、頬を伝って落ちる。
 倉田がまっすぐ川面を見つめて、たどたどしく視線をどこにやるか迷い、瞼をじっくりと閉じた。鼻先に茶色いボブカットの髪先が触れて、白い肌を彩る。肌に伝う汗は、泣いているかのよう。哀愁を染みつけて。僕の足音に気づいたのか顔を上げた。
「泣いてるの?」と、僕が尋ねると、
「まっさかぁ」自嘲気味に笑った。
 真っ青な紺色のワンピースについたしわを手で払いのけて立ち上がった。倉田に映っていた透き通っていた水面は濁りを帯びていた。
「あんたこそ、何その姿」
「ちょっとだけ川遊びしたくなって」
 倉田の安定した僕をはねのける言葉に泣きたくなった。自嘲気味に言っているはずが、言葉尻が震えている。そんな僕を、チューボーかよと、倉田はどうでもいいように、目をそらす。
「呼び出したのは、あの子の家に行きたくて」
 かすかに倉田の言葉尻も震えているような気がした。僕たちは、二人して目をそらして、喉に力をいれている。蝉の音を楯にして、言葉の表情を隠す。
「さっきね、スーパーにあの子がいたんだ。その子の後を大胆につけてったら面白いかなって」
 倉田が腕を絡ませてくる。あまりに冷たい体温で、肩を跳ね上げさせた。最悪、すんごい濡れてるじゃん、と倉田は僕に対して悪態を吐くくせに離さない。
 僕も払いのけず、
「いいよ、そういうの慣れてるんだ」
 目の前には真っ青な倉田のワンピース。白い足首に、青いパンプス。ちょっと背伸びをして、僕たちは歩き始めた。ぺっちゃぺっちゃ、と僕の足下の歪な音と、こつこつ、と倉田の世界への反抗の音が交差する。熱せられたアスファルトの上に足跡がつかなくなった頃、スーパーに辿り着く。
 千鳥橋の窪みから数分、スーパー柳瀬は、いつもながらに閑散としていた。安売りワゴンセールのチラシがぺたぺたと貼り付けられて、大々的に客寄せを行う。目に飛び込む数々の広告にあてられ、スーパーの中にいる彼女を視線一つで探し当てる。彼女は白いTシャツにジーパンという簡素な姿だった。
 倉田の腕が離れて、青いワンピースのひだが揺れる。指先のラメ入りのブルーのネイルがかかった細い爪先が視界の片隅をかすめた。遠くの彼女はにんじんを手に取り、何の色も塗られていない健康的な桜色の爪が、にんじんの赤から浮き彫りになる。ちょっと焦げ付いた肌色に、背筋を正される。
 僕はこれから、彼女の後をつける。
「そういえば言ってなかったけど、このスーパー柳瀬に僕は入れないんだよな」
 倉田に告げると、「は?」と訳が分からないことを聞いたかのような顔をした。「どういうこと?」
「出禁だ。父親が昔やらかして、それから僕はここでバイトできなくなった」
 ついでに僕のバイトをするという選択肢もへし折られた。どこに行っても父親がやってきて金をせびるのだ。コンビニ、カラオケ、フードチェーン店。一週間で代わる代わるいろんなバイトをしたが、もう面倒くさくなった。やったところで、全てアルコールに変わる。
 それでも、ほんの数ヶ月前にしたスーパー柳瀬のレジ打ちだけはしっかりと僕の脳内に記憶が残っている。たどたどしくレジをうっているときに彼女が目の前を通った。今日の夕飯の食材だろうか。数点のインスタントと、野菜に、アルコールをそなえて、かごが横に流された。店内の冷ややかな空気をない、ビニールの袋に彼女は購入したものを入れていく。はち切れそうなビニール袋に、腕にくいこませつつ通し、スーパーを後にした。僕は、誰もいないスーパーをかえりみて、レジから身を乗り出し、彼女の後を追った。桜で道は浸されて、視界はピンク一色に染まっていた。それきり、だ。
 たった一回バイト中に抜け出したことと、たびたび来る父親のアルコールの要求を応えること、これが僕が出禁になった理由。
「じゃあ、どうすんの」
 倉田の視線に、「まあ見とけって」と今度は僕から答えた。入れなくてもつけられる。それに、彼女を貶めるやり方など、他にもたくさんある。
 彼女はいつもどおり数点のインスタントと野菜をいれて、ぱんぱんに膨れ上がったビニール袋を手にして、スーパー柳瀬から出てくるのを待った。倉田は瞬時に近くにあった棒っきれのような電柱に身を隠す。柳瀬からの道のりは簡単だ。一本の道路の通り道を沿う。だが、僕はそれだけで終わりたくなかった。
 かつて、彼女の後を追った僕が重なる。湿り気を帯びたスーパーの袋は汗をかいていた。熱せられたコンクリートの肌に影を落として、彼女に駆け寄る。影を添わせて、スーパーの袋から落ちそうになっている銀色の缶を一本、つかみ取る。崖から落ちそうになっているビール缶は僕に助けられたがっている。もう一本、手にすっぽりとはまり、彼女の肌を介さずに、手に取った。掌に伝う冷気。彼女の前に足早に躍り出て、ぽちゃっと鳴る缶を二本前に出して見せた。彼女は意に介さずに、歩みを進み続ける。すぐに僕の横を通り過ぎて。
 暗く落ち込む夕日が、彼女の顔に影を差す。黒々しい瞳は何も映していなかった。瞳の中を突き進む。黒い瞳の海をたゆたい、奥にいる倉田へと行き当たる。オレンジの遮光を浴びた茶色い透き通った瞳が、彼女をギラギラと見つめていた。焦がされた瞳に言葉を失ってしまう。
 倉田へと歩み寄り、何も言わず二人で彼女の後を歩き続けた。その間中も倉田は彼女だけを、一心に瞳に映し続けていた。僕に傷つけられた後も知らず知らずに彼女は歩き続け、帰り道の長い坂を上る。ゆるやかな傾斜にのぞみ、一旦立ち止まる。目の前には横断歩道。そこで赤信号。
 ようやく彼女は気づいた。
 手に食い込んだビニールの紐をはずし、重そうに地面につけて。頭をこてんと傾げ、黒い長髪が表情を隠す。紺色の夜空が下りてきた。赤信号の灯りは濡れたように映えていた。傍らに蹲る、彼女。腕を抱えて。背中を丸めた。かっこ、かっこ、と鳥が信号機から鳴りだし、青い快晴のような灯りが横断歩道の開通を知らせる。だけど、彼女は動かずに、ビニール袋の中に首ったけだった。
 僕は歩み寄り、目の前で見せでもしようかと、一歩踏み出して。
 こっつん。
 と、思ったのに、隣にいた倉田がしくじった。ヒールがアスファルトを叩く。息が張り詰めて。僕は倉田に視線が行き。倉田は面を食らう。空気が震えて、彼女に伝う。彼女は瞬時に袋を抱えた。大事そうに胸に思いっきり抱きしめて。
 走った。
 突風のごとき早足で振り返りもせず、ぐるぐると足を回す。彼女は家まで一直線に。住宅街の中に入り僕たちの視界に彼女の姿がはいらなくなるまで、それはあっけないほどに。
 次のヒールの音がしたときには、既に僕たちは後をつけることを諦めていた。僕は見えないが、倉田は見える。僕たちが彼女に見えていたら、この行為自体意味をなさないことを、深く理解している。
「バレちゃった、ごめん」
 それでも、倉田は彼女を傷つけることに笑みを隠せない。
「近くで見れて満足?」
 僕は倉田の言葉に縋った。
「ほんっと、最低だけど」
「僕は、」
「あたしは、あの子の慌てた表情見れて最高だったな」
「今すかっとしてる」
 二人して、宵闇をまとい歪な笑みを見せ合った。口角を無理くり上げて、唇をつっぱねて。目を細めて。頬袋を蓄える。
 悪役を演じている。お互いの胸の内にある淀みだけ拭い、罪悪感だけをため息で吐き出した。はぁ、と倉田が先に。僕は口をちいさく開けて。恍惚のため息だと偽る。
 そんなわけないのに。
「心底、僕はすかっとしてるよ」
 長くなった前髪を上げて、額を掌で押さえる。
「うん、さいっこう」と、倉田ももう一度言って。
「あー、最高だったなぁ」と、持っていた、缶を倉田に投げた。倉田は受け取って。僕は、プルタブに指をひっかける。爪が長くて、上手く開けられない。倉田の青い色をした爪先が割れて、プルタブが引き起こされる。ぱら、ぱら、と割れた爪先の青い星屑が夜の影に駆ける。沸き立つビールの噴水を口先ですくいあげて、喉元を鳴らす。猫が甘えたような声音をたてて。僕のプルタブが開かれる。すると、倉田が自分自身の頭上に缶の口を掲げて、滝のように流した。茶色い繊維が湿って、焦げ茶色に変色した。毛先からアルコール五パーセントの雫が垂れ、伝い、アスファルトの上に楕円をいくつも描く。夜風の冷風が僕たちを突き抜ける。喉もとの汗がべたついていた。
「いつもこんなことしてるんだったね」
 言い知れない言葉が迫る。なぜか焦っている。手元の缶の冷たさが爪先に当たって痛い。思わず地面に落っこちる。
「そうだよ、いつもこんなんばっかだ」
 肌寒い空気が吹きすさび、半袖から伸びる細い腕に鳥肌を立たせた。足下は先ほどのアルコールが煮え立ち上気している。湯気をたたせて、蒸発していった。足下の暑さが駆け上がり、僕の鳥肌を沈ませて、頭上にかけてほてらせた。
「こんなんばっかなんだ」
 嗚咽も、涙も、でなかったのに、首を絞めていく熱がまとわりついている。そのまま天井に引っ張って、殺してくれたら良いのに。蹲るしかない。ふんわりとした青いワンピースが僕の頬をなぞった。
「とんでもなくむなしいよ」倉田が僕を覆うように抱きしめた。頬が背中につけられる。「うん、さいっこうにむなしい」僕は、「気持ち悪りぃ」と言い放ち倉田を払い、下を向き続ける。先ほど落としたビールの缶が僕の袂にころころと転がってくるところだった。
「気持ち悪いよ」

***

 月明かりもない夜更けに、カーテンの隙間から電灯の木漏れが差していた。ちらりと、一瞬人がよぎり、すぐに光はまっすぐに倉田と僕に向かった。彼女の家から差す灯りすら、僕たちは輝かし過ぎて、二人して影に身を避けてしまう。辺り閑静な住宅街に連なる、一家庭の住宅でしかないのに。やけに彼女の家のかすかに聞こえる笑い声が耳を叩く。
 僕はビールを呷りながら、遠目に彼女の家に恋い焦がれた。身のうちから燃えたぎる熱が暴れ回っている。背中に移された倉田の甘い熱が僕を突き動かす。
 あれは、スーパー柳瀬のバイトを抜け出した時のこと。彼女の後をつけて、この家まで辿り着いた。何も盗まずに、彼女の後だけをつけていった。足音も、周囲の視線もあったはずなのに、彼女は僕がいることすら気づかなかった。到達した彼女の家に、彼女が玄関を開けて入ると、その真後ろにつけて、僕も彼女の家に侵入した。
 フローリングの床は磨かれていて埃一つなかった。つるつると滑りそうになるくらい。そして彼女の、檸檬のような甘酸っぱい匂いがした。息をするたびに肺に這わせる香ばしい空気に酔いそうになる。慎重に足を這わせながら、彼女の横を通り、奥まったトイレに入った。頭上には突っ張り棒。トイレットペーパーが置かれていて、ラベンダーの匂いが蔓延っている。檸檬とラベンダーが一緒くたになって、身体に淀みを渦巻かせる。ぐるぐる、と回る匂いにやられ、彼女の家で吐きそうになった。
 いっそトイレに頭を突っ込んで、ゲロでもぶちまけようか。たとえ、そこで僕のものが残っていようと彼女は僕が見えないのだから。
 そんなことを思ったときぷしゅっ、と爽快なプルタブをひねる音がした。この家には似つかわしくない。トイレの扉を閉じて、音の根元をうかがう。食卓の上にはビールの缶二本と、今日出た課題。シャーペンを握りしめ、書き込む彼女の必死な姿に、傍らにはアルコール三パーセントのアサヒビールが添えられていた。歩みよってみると、数学の問題をしていた。一問解くごとに、ビールを呷り。一問丸されると、ビールを呷り。喉がごくりと動く。彼女にしては、あまりにも恐れ多いもので。まさかの代物で。つまづきつつ、家の玄関へ急ぎ、僕は逃げてしまった。 彼女は、とっくの昔に汚れていたのかもしれない。
 だとしたら、僕のしていることはなんなんだろうか。
「あたし、今日ママに会ってきたんだ」
 倉田が空の缶の尻を回しながら、そっと告げた。その唇は柔らかく、一目で愛おしい人のことを言っているのが分かった。
「そうしたら、ついついあの子を汚したくなっちゃった」
「僕もそうだった」
 僕も、怪物になった父や、僕を見てくれない母を思い出すといつもそうだ。あの子に募る思いが止められなかった。
 彼女の家のカーテンが揺れて、灯りが瞬いた。透き通った夏の夜の風が僕たちの間を突き抜けて、後からだるい空気がまとわりついた。見上げると、視界の月が揺れていた。目が湿ってきていた。
「あの子に、春の始まりにタワーレコードで会ったことがある。僕は夜の時間の暇つぶし。彼女は純粋に音楽を楽しんでいるようだった」
 ぽつんっと落ちた雨粒が彼女のイヤホンからこもれ落ちる音の粒を思い出させる。黒いつやのある髪がショップの電灯できらめいていた。まだ僕が見えていないことに対して確信がもてなかった。見えていないなんて、わざとだろう。どうせ彼女の中で僕を見ないゲームでもしているはずなんだろう、と。
「僕は彼女の名前を呼んだ。何度か呼んだのに、顔すら僕の方へ向かなかった。だから、音楽を聞いているから聞こえないんだと思った。聞き終わるまで適当なCDを見つけて、隣で待っていることにしたんだ。彼女が横にいることが新鮮でなんでか彼女のことばかり見ていた気がする。音楽なんて聞いているかいないか分からなくて、彼女が聞き終わるのをつぶさに感じ取って見ていた。そうすると、彼女が満足げに聞き終わって、嘆息してCDを取り出した。買うかどうか悩んでいる時に、もう一度彼女の名前を呼んだ。呼んだんだ。ヘッドホンを外したときに一度。『なあ、何のCD聞いてるんだ』『突然話しかけてびっくりしたよな。俺同じクラスの藤本だけど』『よくここに来るの? 俺もなんだ』そうやって話かけていくうちに惨めさがこみ上げてきた」
 ぐっと瞼を閉じて視界が暗くなる。もう一口ビールを呷って。雫が落ちる前に世界にカーテンを下ろして。何も感じないように。でも、さきほど呷ったアルコールのせいだろうか。熱で頬がほてり、ぐしょぐしょに浸される。
 見えていないことが、これほどまでにくるとは思わなかった。『愛している』と告げた、母の言葉が僕に向いていないことも、父の『寂しい』も僕を想っていないことも耐えられたのに。僕がここにいないことを明確に物語る彼女があまりに悔しくて仕方なかった。
「こんなこと受け入れられっかよ」
 アルコールを呷ることすら億劫になって、倉田と同じように頭からビールをぶっかける。惨めな表情も思考も全て洗い流してくれそうだった。
「それに、彼女はとりわけ綺麗だった。クラスの中で浮いている僕を友達みたいに面白がって話しかけて、ドラマの話題をふるなんてことしない。ご飯を目の前で見せびらかしたり、僕のことを簡単に下に見たり、かわいそうだな、なんて無自覚に見たりしなくて、それはまるで、」
 家族のように優しくて。
 言いそうになって、しゃくりが上がる。倉田の前なのに、嗚咽がぶりかえす。ひっく、と喉が笑っていた。こみ上げる胃液にこみ上げるたびに抑えて。酸っぱさを飲み込んだ。髪からしたたる雫がぽつん、と夜の道路に溜め池を作った。泥まみれで、アルコールのべたつきで気持ち悪くて。
「お、れ、だけが」抑えて、彼女の家を見上げる。「俺だけが彼女から見えていないから」灯りがてらてらと僕たちを照らした。それは頭上から照っていて。彼女の家の上へ。首を上へ。もっさりとあげて。月が煌々と輝いているのが見えた。だけど、僕だけは彼女の弱さを知っているから。プルタブに口をつけて、おいしそうにビールを飲んでいる彼女を思い浮かべてしまう。
「絶対にあの子の名前を呼んでやるかって思ってるし、とことんいじめてやるんだ」
 その感情は、さ、と倉田の唇が動いた気がしたけど、すぐに、ははは、と乾いた笑いが沸き立った。
「じゃあ、これまで通り。あたし達は共犯者で」と倉田が空っぽのビールの缶を差し出して、
「その通り」と僕はカンツとその缶に僕の空っぽの缶を当てた。
「あんたのことちょっと知れて良かった」
「どういう意味?」
「つまりは、あんたとあたしは、」むふふ、と変な笑いをこみ上げさせて言いよどみ、
「やっぱり似たものどうし」
 そんなこと知っていると悪態を吐こうとしたとき、倉田はふっふっとこれまたおかしな笑いを含ませて、僕の何もかもを遮った。視界も、声も、唇も。ちょこん僕の唇にのった倉田の唇は柔らかく、ぐずぐずに溶けてしまいそうだった。視界一面の倉田に、僕は背筋に悪寒を走らせる。これまで整っていると感じていた少女の顔は、鼻が高すぎて、唇が赤すぎて、頬が痩せすぎて、目がどんよりと曇っているように感じられて、全てがアンバランスで。魔女みたいに妖艶で気色が悪かった。残った唇の残痕を袖で一生懸命に拭う。僕の肌が逆立っていた。
 やっぱり、やっぱり、しめ、しめ、と笑みを讃えて、倉田は踊り出す。お互い酔っ払っていることを忘れていたのだろう。僕はなすがままにされて、倉田の手に力なく連れ去られる。倉田の青い金魚のおひれのようなワンピースが翻る。わん、つ、とステップを踏み。くる、くる、と倉田が陽気な鼻歌を流す。音楽に疎い僕でも分かった。これは、ウォークマンの中にあった日向葵のドラマ主題歌だ。倉田が鼻歌を続けるから、僕は対抗して彼女のウォークマンの中にあったとんぼのめがねを小さく口ずさんだ。だっさぁ、と倉田が言った。僕はそれでも口ずさみ続けた。夜の踊りは、彼女の家から、夜明けまで続いた。

#創作大賞2024 #恋愛小説部門

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