2019/10/31「今日も黄色い線の内側で。」

 駅から一山超えた先にある私の住居は、もうすでにこたつを出したいくらいに寒い季節になってきた。世間では、今日をハロウィンなどとよび、思考停止した頭と体でお菓子などを配り仮装をし、街を練り歩く若者であふれるらしい。私はといえば今日も変わらず大学へいき、憂鬱にゼミを受け、普通の生活に息を切らすのだろう。「だろう」というのは現在朝の2時前であるため、これらは予定に過ぎないからだ。



 どうも、のどが詰まる。そして言葉も詰まる。世の中には「吃音症」という症状もあるが、おそらくそれとはまた別のもので、のどの違和感が収まらない。9月の一か月はなかなかストレスフルな生活を送っていたために、緊張とストレスによる嘔吐とうまく食事がとれなくなっていたが、それも終わって一応普通の生活に戻ったはずなのだ。それなのに、気持ちはコントロールが効かないほどひどく沈んで、ただ外に出るだけで涙が出てくる時がある。異常だなぁと思いながら、ひどく楽観的になれる時もあって、浮き沈みが激しいのが最近の私だ。



 前もって言うが、これは自慢ではない。決して自慢ではなく、むしろ私にとって絶望的なことなのだが、最近思うことがある。私は「ある程度のことは大概できる人間」で、それ故に苦しんでいるのだな、と。何かにおいて「選ばれる」という状況で、選ばれなかったことがあまりない。人に嫌われることもあまりなかった方だと思う(気づいていないだけかもしれないが)。課されたものは大概失敗なく応えてきた。それ故に、私は苦しんでいる。大概のことは何でもできる。その一方で私は苦しみながらそれらをこなしてきた。ある程度できてしまった勉強のせいで、中途半端にレベルの高い大学を目指し、ある程度できてしまったリーダーリップと真面目さで役職につき、一人その責任に苦しんだ。本当のところ精神的なキャパオーバーを起こしているにもかかわらず、誰かに弱い部分を見せたくない一心でできる顔をしてきてしまった。本当はできないのだ。本当は、できないのを必死でできるようにしてきたんだ。


「『生きる』ということは黄色い線をギリギリ越えないようにすることなんだと思う。」


 ふとつぶやいた言葉だけれど核心をついていると思う。以前までの私は、もっと楽に生きられるのだと思っていた。これだけこなしてこられたのだから、人よりも楽に生きられるだろう、と。なんて愚かな思考だろう。みな自分ができる限りのところで必死に生きてきたというのに。

いまだ越えられない黄色い線の内側で、今日も私は生きている。

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