異邦人である二人と現代に生きるぼくら。星野源とオードリー若林の『LIGHTHOUSE』が素晴らしい。
動画のサブスクを自分に禁じていたんです。時間が溶けるに決まっているから。でも、星野源とオードリー若林が「悩み」について語る数ヶ月なんて。しかもプロデューサーは佐久間宣行で。この番組を観るためにNETFLIX に初めて加入しました。一気に観ました。本当に素晴らしかった。
生きづらさと異邦人
『LIGHTHOUSE』でオードリー若林が周囲と馴染めない自分を「来訪者」と称していました。その気分はとてもよく分かる。共同体の中にいるけれど自身が異分子な感じ。ぼくもあります。来訪者というより「異邦人」なんですよね。どこか違う文化、違う価値観から今この場所に流れついた人。旅をしているのか漂着したのか。何にせよぼくらは生きねばならぬ。この世界とつながる術を見つけなければならぬ。
異邦人だからこそ星野源もオードリー若林も異国での生き延び方が必要だったし、たとえ自分の居場所が作れたとしてもアイデンティティが充足する訳でもない。たぶんずっと足掻き続けるんですよね。自分の居場所を求めて。無かったら作る覚悟で。異邦人として。
『LIGHTHOUSE』に同時代性があるとしたら、異邦人である二人の「何か」と、現代に生きるぼくたちが持つ「生きづらさ」がどこか共鳴する点だと思います。だから音楽やお笑いといった「創作」をやっていないぼくたちでも共感する。見えない棘に傷を作りながら、見えない未来に苦しみながら、それでも面白そうと思えることにはワクワクしていいんだと。不安もあるけれどそれだけじゃない。見たことのないものへ、行ったことのない場所へ胸を弾ませていいんだと。
星野源の「やったことをやらないと死んでしまう」、オードリー若林の「行きたい場所は自分でつくるしかない」にぼくたちが共鳴するのも今の時代における補助線のような気がします。見えない未来に対して不安は払拭できないけれどワクワクはできるし、してもいい。二人の対話を聞いていると、不安とワクワクは背中合わせなんだと段々思えてくる。
世界をどう捉えるか
何が素晴らしいって、星野源もオードリー若林も何にも許してないんです。クソなことはクソだと思っている。正解も解決もないことを知っている。でも、面白いことはあるはずだと信じている。今ここになくても何処かにあるはずだと信じている。なぜならそれは自分が見つけて自分が生み出すことだから。
以前、縁があって大学生にゲストスピーカーをさせてもらったことを思い出しました。少し長いですが引用します。
自分を手放さない
星野源もオードリー若林も自分のことについては誰のせいにもしないんですよね。怒りを今でもずっと忘れてないのに。周りの人間と分かりあえず、上手くできず、怒りと怨念を持ち続けてもそれだけはきっぱり分けている。昔の自分も今の自分も未来の自分も決して人のせいにしない。自分を手放さない。
星野源の「前列がないことは面白いんだよ!」「真っ暗な道をそれでも進むんだ」を聞いてぼくは恥ずかしかったです。数年前、VUCA(先行きが不透明で将来予測が困難な状態)みたいな言葉が流行ったときにぼくは星野源のように思えなかった。賢しらに仕事で使って、そんな言葉に飲み込まれていた。恥ずかしい。ぼくは自分を手放していた。
星野源&オードリー若林の二人で、音楽とお笑いなら自分は関係ないな…と思う人もいるかもですが、むしろそういう方にこそ心の底からお薦めします。たぶんこれは同じような毎日を同じように過ごしながら言葉にならない何かを溜めていくぼくたちの物語だからです。しかも、言葉にできない「今」が捉えられないままに漂っている。ぜひ。
LIGHTHOUSE
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