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~Life is a journey~旅の前~②バリバリのビジネス時代


二〇一六年の五月(当時三十六歳)からこの旅を始めた。

旅で出会った人の興味深い話や道中の出来事などを書いていくけれど、その前に今までの自分の事をここでは紹介しておきたい。

どのようないきさつでキャンピングカーライフになったのか?

仕事は?収入はどうしているのか?

みなさんの率直な疑問はこんなところではないだろうか。

まず初めに、家が裕福なわけではない。

父親は印刷会社のサラリーマン。母親は僕が小学校の頃からパートに出ていた。
四つ下に弟が一人いる。
小さい頃から「鍵っ子」という、東京の下町ではごく平凡な四人家族だ。
裕福ではないにせよ、不自由なく育ててくれた両親には今でも感謝している。

少年時代は運動神経がよかったこともあり、クラスの人気者だった。
子供の世界は足が速いというだけで主導権を持てる。
そのおかげで勝ち癖が付き、自信が持てる人間性ができあがる。
子供にスポーツをさせる親が多いのはこんなところだろうか。

高校生の時はヤンチャだった。
仲間と集団でバイクを走らし(反省している…)、朝帰りは頻繁で、学校や警察から自宅に電話がくることもあった。

のちに母親はいう。
「いつ呼び出しの電話があるかわからないから、あなたが成人するまではお酒は飲まなかったわ」。
警察から呼び出された親が、酔っ払っているわけにはいかない。という理由からだ。
親にはかなり迷惑をかけてしまった。

社会人になってからは多くの仕事を経験した。
日焼けサロン・レスストランのウェイター・引っ越し屋・宅配便・先物取引や健康食品の営業・現場監督など…。
どの職業でも人並みには仕事ができ、すぐに上司からも気に入ってもらえるタイプだった。
しかし、仕事が慣れてくると面白みが感じられず、どの仕事も長くは続かなかった。
この頃から、雇われて働くことへの不自由さを感じていたのかもしれない。

そんな半端な日々を過ごしていた僕に転機が訪れる。

ヤンチャで有名だった地元の先輩と偶然に再会した。
先輩とは小学校からの付き合いだ。
若いころは声もかけられないほどの迫力で、憧れの存在でもあった。
起業し、恵比寿に事務所を構えていた先輩は、
スーツ姿にゼロハリバートンのアタッシュケース、腕にはロレックスのエクスプローラーが輝き、変わらぬ迫力に加え、大人の魅力が漂っていた。

『忙しく動くのは好きか?』

確かこんなことを聞かれたと思う。
それを機に先輩の会社を手伝うことになった。


イベント業を経営する先輩のサポートをしていたある日、一つの案件が舞い込む。
先輩の知人で芸能プロダクションの社長が、在籍モデルの委託営業をさせてくれるという。

これが人生の最初の転機となる。

クライアントの新規開拓をし、営業やモデルの管理も僕が一人で行った。
利益が上がれば、給料も比例する出来高制だったため、考える力が重要だ。
これまでの仕事と違う点だった。
二年後には先輩が社長で僕が専務取締役となり、新会社を設立するまでとなっていた。
プロダクション業に加え、BARを二店舗経営し、すべての管理を任されるようになる。
当時二十七歳で月収は百万円ほどになっていた。
外食も頻繁になり、知り合いも増えていった。


そんなある日、ヤンチャ時代の旧友数人と飲んでいたときのこと。
【地下格闘技】の話がでた。

地下格闘技とは、喧嘩自慢の不良たちが観客の前で殴り合いをするイベントだ。
総合格闘技のように薄いグローブはするが、ルールはなんでもあり。
今では全国にも複数の団体がある。
その先駆けとなった東京の団体が知り合いだという。

『稲、やってみれば?』

なんだか知らないが、誘われているようだ。

『おもしろそうだな』

この程度の返事しかしていないと思う。

すると、友達はその場で電話をかけ出し、

『もしもし~、あっ、お疲れ様です。いや、俺の仲間で一人強い奴がいるんですよ~。
次回の大会に出たいというのでお願いします。』

とあっさり出場を決めてしまったのだ。

『出たい』と言った覚えはない…。

しかし何事も経験である。

その日から、仕事をしながらトレーニングをする日々が始まった。
お酒も辞め、心身を鍛えていく行為は僕にとって苦ではなかった。
結局、それから二年間で五試合に出場し、負け無しという結果を残すことができた。
こんな経験はできるものではない。
その友達には感謝している。

※【ストイックスター稲】で検索できます。


【~LIFE IS A JOURNEY~僕の半生記】
キャンピングバスで生活しながら旅をしていた僕が、
道中で奇跡的な出会いをし、妻に公開プロポーズをした自伝小説。




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