見出し画像

ウィズコロナ時代の祭りのかたち

人類史では約100年に1度、世界的なパンデミックが起きている。

1720年「ペスト」
その後、国王の中央集権化による防疫体制が整備された。

1820年「コレラ」
その後、公衆衛生という概念が生まれた。

1918年「スペイン風邪」
その後、戦時中であった第一世界大戦が終結した。

それぞれ多くの死者を出すと同時に、世界の何かを変えていった。

そして、世界が変わると祭りが変わる。
或いは、祭りが変わると世界が変わる。

音楽フェスのプロデューサーとして、世界の分断、ロックダウン、オンライン化、この後しばらく続くであろうウィズコロナ時代において変わっていくであろう祭りの形を想像すると共に、その変化の文脈からこれからの社会のヒントを探ろうと思う。

祭りの起源と社会

そもそも祭りとは何か。
未来を考える上で、まずは過去から紐解いていく。
まずは日本の歴史における最古の祭りらしき描写が日本神話の中に存在する。簡略化するとこんな物語。


太陽神である天照大御神が弟の須佐男(スサノオ)に怒って岩戸の中に篭ってしまい、国中から光が消えてしまいました。これに困った八百万の神は何とか出てきてもらおうと、祝詞を読んだり、鏡や勾玉を捧げたりしましたが、なかなか出てきません。そこでアメノウズメという女神が激しく舞を踊ったところ、他の神々は大いに笑い盛り上がり、天照はその大騒ぎが気になって岩戸から顔を出し世界に光が戻りました。

このように八百万の神々が自らのところに神様を呼ぼうと行った宴の形が、今の祭りの原型となったのかもしれない。
ちなみに、かの岡本太郎はこのように遺した。

”太陽は人間生命の根源だ
惜しみなく光と熱をふりそそぐこの神聖な核
われわれは猛烈な祭によって太陽と交歓し、その燃えるエネルギーにこたえる”

画像1

次に考古学から考えると、紀元前一万年前にあったとされる世界最古の遺跡「ギョベクリ・テペ」は宗教施設だったという説がある。探索のリーダーであった考古学者のクラウス・シュミット曰く”神殿から始まり、街が興った”と。そして、宗教の興りとは神ではなく儀式であると、昨年慶應大のビックデータ解析により論文が発表された。宗教の前に何らかの儀式の体系があったとするならば、もしかすると人類が調和し群と成す”社会”という形態の興りは祭り(儀式)から始まったのかもしれない。今も、世界中のすべての民族に”歌”という概念があるとされ、言語もまだなかった時代、人々は歌や音を通した祭りによって身体を共振させ、共同体感覚を得ていたのかもしれない。

スクリーンショット 2020-04-11 15.35.55


(神の興りの話は昨年下記の記事にまとめたのでもしご興味あれば)

社会が祭りを変えるのか、祭りが社会を変えるのか

人類文化や歴史を専門的に学んだわけでもなく、ただの素人知識なので本記事中の事柄はその程度に参照してほしい。では、祭りというかたちが興ったあと、どのような変遷をしていったのか下図にざっくりまとめてみた。(空欄はリサーチ不足で埋められてないところ)

スクリーンショット 2020-04-10 19.53.16

一番左が前述のギョベクリ・テペくらいの時代感で、祭りの原型となったような何かがあった時代。科学の無い時代、自然現象は大いなる何かの思し召しであり、畏敬の対象であっただろうから、自然を祀ることから始まっていったのではないかと想像する。中世までにはいくつか異なる意味でのまつりが興り、社会が形成されるにつれ対象が自然から人格神へも広がっていく。

中世からは神仏習合が市井に広がるにつれ祭りに仏教的な観念が混ざっていき、慰霊という文脈で新たな祭りの形態が生まれてきた。そして近代に移ると都市化が進み、祭りは宗教的な意味合いから離れ各地域における集合体統合の儀礼、年中行事として用いられていくようになった。それにつれ娯楽性も高まっていき、資本主義競争時代の現代では祭りの解釈が更に広がり、コンテンツとして商業化され、海外のフェスティバルカルチャーとも重なり、より多様化し、大衆化していった。

少し話が逸れるが、私たちの日常におけるコントロールは意識が1~3%、無意識が97~99%とされ、ほとんど無意識的に行動し、そのあとに認知をしている。喉が渇いたから水を飲みたいと思って飲むのではなく、水を手に持った後に喉が渇いたと脳が認識する、というように。

既にある環境が無意識に行動を促し、それが認識され意識や認知となる。脳を動かしているのではなく、脳が動いているから脳が動いていると思うし、楽しいから笑うのではなく笑うから楽しい、感情は腸で変わる。

何が言いたいかというと、祭りの成り立ちにおいてもそれは人の意図より先に環境(社会的背景)があるということ。自然と人の関係性は科学がない時代、生殺与奪の権を握られている畏怖と、石器や火など生活に豊かさをもたらす恩恵の両面があり、恐ろしくも有難い、まさに神のような概念に当てはまる感情が芽生えたことだろうと想像する。神話は多分、そういった未知への畏敬を伝承するために創られる。

そしてその間には眩しい光が目に入ると目を瞑るとか、熱いものを触ると熱さを感じるとか、環境と身体における条件反射のような関係性があって、例えば太陽の眩しさで目を薄めると現実に見えてるものでないような幻が見えて、気温が上がれば人の脳はぼうっとしてより幻を実態だと信じやすくなるかもしれない。(実際に世界中の儀式の多くは身体に負荷やエフェクトをかけ、幻を信じやすくする体系だったりする)そういった環境→身体→認識という人間のプログラムにおいて、ウィズコロナ時代とはどういった環境であり、それは身体にどういった動作コードを与えているのだろう。というのが今回の想像の入り口になっていく。

閑話休題・これからの世界は分断の時代か、調和の時代か

この100年に1度の危機をどう乗り越えていくかで、世界は分断と調和どちらかの道に分かれていくだろうと『サピエンス全史』の著者ハラリさんは語る。

新型コロナに関してはウイルス自体がまだほとんど未解明なので、確定的なことは何も言えないが、パンデミック解決の基本的な方法は、感染者の体内でウイルスが死滅するまでの間誰とも接触せずにいることとなるだろう。それを世界的に同時に行えれば一旦終結するのだとして、そのための方法論がざっくりと2つある。
①市民がガイドラインに従うこと
②市民の動きを統制すること
前者は(家に留まるためには国家からの生活保障が必要だというのは一旦置いておいて)私たち自身が能動的にパンデミックを終結させようとする団結の力、後者は市民を監視し強制的に外出させないように操作するテクノロジーと権威の力。私たちが①の力でこの危機を乗り越えられれば、今後も起こりうる21世紀の課題に対して私たちは勝つことができるだろうと、彼は語る。

変わりゆく世界

分断と調和、世界はいまどちらの方向に向かっているのだろう。という問いへの答えあわせはもう少し先の話で、実際にいま国内外で起きている環境の変化をピックアップしてみる。

1/外出自粛

多くの企業はリモートワークにシフトし通勤が消え、カラオケやライブハウスなどの店舗が休業し、街からは多くの人が消えた。また、これにより2020年3月の警視庁への110番通報の件数は前年比で約20%減少した。

2/非接触

人々は3密を避け、ソーシャルディスタンスを取り、出来るだけ人と接触しないことを意識した。日本では世界73か国からの入国を拒否し、国外接触を絶った。

3/オンライン化

リアルな場に集まることが前提とされていた教育機関、イベント、飲食店、様々な箱物がソフトをオンラインに移行させ、オンライン上でできる新たな形態を模索し始めた。

4/地球環境の一時的な回復

産業の一時的な減速と世界の飛行機の運航減少により、ロサンゼルスのスモッグはすっかり消え、ベネチアの運河の水は澄み、中国の工場の排気物質はあまりにも劇的に減ったため、宇宙からその変化を確認できるほどになった。

5/経済の減速

大和総研の発表によると2020年の国内の実質GDP成長率は短期収束でも▲4.5%、2020年中の感染症の流行を前提にすると▲7.6%に落ち込むとされ、リーマンショク以上の打撃になるとされる。

変わりゆく祭り

大人数で集まれない、接触できない、お金もない、とてもこれまでの祭りの形式が実施できる環境ではないが、日本は戦時中でもいくつかの祭りが開催されていたほど、執念が強い。人間に社会がある限り、恐らく祭りは消えないし、アップデートもされない、ただオルタナティブが生まれていくだけ。祭りの文化とはそのように継がれてきた。そして、新たな祭りの形を予感させる企画もいくつか既に始まっている。

毎年4月川崎で開催されていた奇祭は、関係者のみで神事を執り行い、その様子をオンライン配信し、ハッシュタグで参加を呼びかけている。

インターネット(ニコ動)の世界をリアルに体験できるイベントはリアルからインターネット上に舞台を変える(強い・・)

自身の企画にて恐縮ながら、こちらはオンライン会議ツールZOOMを使って複数のフロアを作り、来場者はZOOM上で部屋を移動し好きなDJのライブを楽しめるという企画。

共通項として、オンライン化、あるいはオンラインとリアルの融合といったことが挙げられる。しかし祭りの設計とは人間の五感すべてに訴求するものであり、オンライン化により視覚と聴覚のみに限定されてしまうこと、大人数で共同体感覚を得るエクスタシーが失われてしまうこと、生の熱量を浴びせられず狂いが伝染しにくいこと、スリリングで野生的な生を実感する体験が得られないこと、太陽の下でそれが行えないこと、例えばそういうことがオンラインでは現状得づらい。

一方でオンラインだからこそ得られる、新たな魅力というのも実際にオンライン上で催してみて実感したことがある。

・時空間に限定されない
例えばこれまで会社が終わる時間には始まっているから参加できなかった企画に通勤時間が消えることで参加できたり、熊本のオーガナイザーの企画に東京から参加できたり、ニューヨークのイベントにアムステルダムから参加できたり、国境のないインターネットを舞台にすることで、時空を超えた繋がりを創出することができる。

・参加障壁が低くなる
例えばこれまで怖そう、危なそう、友達もいないし不安、車椅子だけど大丈夫かな、急にお腹壊したらどうしよう、とか、祭りの場に行きずらい多くの理由が自宅で参加できることによって解決されていく。それはもしかしたらアフターコロナにリアルの場で開催する催しの新たな来場者層の創出にも繋がっていくことかもしれない。

・オンラインだからこそできる演出がある
例えばこれまで不特定多数でセッションを行う場合、重い楽器を遠くまで持ち運ぶのがネックになっていたとする。オンライン上であれば家にある楽器をその場で使うことができるので、簡易的にセッションすることができる。
また、自身を仮装することもオンライン上であれば簡単だ。Snap cameraなどのソフトを使って、現実ではできないような何かに変化することでオルタナティブな自分として、祭りに参加できる新たな面白さが加わる。

・環境を個別に最適化できる
例えばこれまで催しの音響、飲食、空間を参加者側で選ぶことはできなかった。しかしオンライン上では個人の好みに合わせて音響環境、飲食、空間を自らで選んでいくことができる。これは主催しているサイレントフェスの体験にも近くて、体験の裁量を個々に受け渡しそれが集団になると強烈な一体感がやってくることがある。(仏教的にいうと一は全、全は一という感覚)

これからの祭りの可能性

これらの事柄を踏まえて、更に変わりゆく、或いはウィズコロナ時代を経て加速していくであろうと思う祭りのトピックを予想していく。

1/バーチャルワールドの発展
しばらくの間、身体性をデジタルに移植して仮想自然を如何に構築していくかというテーマが出てくる。会議は既にほとんどオンライン化されているが、2次元ゆえのドライ感や余計な話が生まれづらい(これは意識的な慣れもあると思うけど)ことに対して、VR WORLD内で3次元的なコミュニケーションの方が良いというアプローチは当然発生してくるだろうし、昨年話題になったSF小説『三体』にあるようなVRスーツ(これを着ると五感すべてをゲームの設定に同期できる)のようなプロダクトに投資も集まるだろう。

何年も元年が訪れて結局来ていないVR業界だが、HMDの大衆化が起こるならウィズコロナ時代のどこかしかないと思うし、祭りのコンテンツも例えば映画『サマーウォーズ』のようにあらゆるコンテンツが詰まった仮想世界プラットフォームのなかでやがては行われていくと思う。

2/過疎地域の価値の向上と秘匿化
3密を避け、ソーシャルディスタンスを気にする人々は都市から地方へ移住を始め、人口密度の低い土地の価値が相対的に上がっていく。人が集まればそこで共同体感覚を醸成するために祭りも催されていくが、これまでのようなオープンに呼び込む形は衰退していく可能性がある。6~80年代のイギリスのレイヴのように、信頼できる人々の中だけで催されるインターネットには情報開示されないシークレットな催しが再興する可能性はあると思う。

そしてそういった対外性のない極めて個人的な体験の共有は、やがて儀式的になり新たな宗教、ひいては社会の興りに繋がる可能性もある。

3/アバターロボティクス
5Gの普及によりロボティクスの遠隔操作はよりスムーズに柔軟になり、没入度を高めていく。例えば在宅しながらOrihimeのようなロボットを介して祭りに参加し、ロボットを媒介にした相互のコミュニケーションやエンターテイメントも生まれていくだろう。HMDとドローンのカメラを同期させ競い合うドローンレースや、無機物に意識を憑依させるような錯覚をもたらすテクノロジーは新たな祭りの次元を見せてくれるかもしれない。

4/物語と体験を掛け合わせた没入型
神経を研ぎ澄まし、内面に向き合い、無意識に近づいていく体験の形は、ソーシャルディスタンスが保てるくらいの極少数だからこそ価値が上がる。単数参加だからこそ、複雑な物語の設計を保ったまま世界観に没入していくことができるし、インタラクティブに物語が変動していく演出もできるようになっていく。その点で、イマーシブシアターやセレモニーなどの体系はより深度を増す設計が出来るかもしれない。(この形の企画は1つ完成しているものがあるので、時期を見てリリースします)

5/密室公共型の祭り
例えば花火や、ドライブインシアターなど、それぞれ他者と触れ合わない個室にいながらも、全体として祭り感を共有できるコンテンツも実施していくことが出来る。現状の日本においては大変規制が厳しいが、例えばオリンピックで空いた土地を使って街を花火で彩ったり、数千台のドローンにつけたLEDを操作して夜空をキャンバスしながら街中を巡るような、公が味方になれば家にいながらも祭りを楽しめる企画はいくつかある。

おわりに

全体として割と希望的に書いてしまったけど、この事態の中で中止に追い込まれてしまった祭り、イベントは数え切れない程多く、その決断がどれほどのものだったのか、想像するだけで胸が苦しい。イベントオーガナイザーというものは、たった1日の企画がこの1年の生死を決めることもある。その中で中止を決めた覚悟を、僕らは決して安易な外出で無駄にしてはいけないし、奇しくもどれだけ祭りのように全体で一体となって行動を抑え込めるかで、この国の体力が決まっていく局面だ。

自分自身、イベントと飲食の事業を経営する中で非常に苦しい現状ではあるけれど、それでも、どれだけボロボロになったって、また必ず祭りを催す。きっと、今年中止になった多くの祭りやフェスも、ウィズコロナの時代が終わった暁には、命の鼓動を存分に共有できる素晴らしい祭りが開かれることだろう。

ハレの場は時に、日常の命綱になることがある。夏になればあのフェスがやってくる、秋になればあの祭りに参加できる、せめてそれまでは、と命を踏みとどまらせてくれることがある。社会の始まりからずっと続いてきたこの文化は、絶対になくならない。だから、それまで、生き残ろう。夜明けの太陽はきっと綺麗だ。


雨宮 優
https://www.yuu-amemiya.com/

画像4


「こんな未来あったらどう?」という問いをフェスティバルを使ってつくってます。サポートいただけるとまた1つ未知の体験を、未踏の体感を、つくれる時間が生まれます。あとシンプルに嬉しいです。