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思い出は確かめに行ってもいいものですか
幼稚園の年中くらいから小学校の1年生くらいまでにかけて住んでいた場所がある。当時、わたしはその場所が好きだった。それは、近くにプールがあるからだとか、大きな遊具のある公園があるからだとか、そんな可愛らしい理由からではなかった。わたしは"街"として、その場所が好きだった。仮にその場所を"A市"としよう。
A市は自分にとって、理想的な街であった。街の雰囲気が明るいのだ。どこを見ても、小綺麗なのである。当時のわたしがこれまで住んでいた街は、どこも薄暗くじめじめとしていた。活気がなかった。それに比べてA市は、晴れた日がよく続いた。道が広く見通しがよかった。偶然だが、通った幼稚園や小学校も新築同然だった。当時5,6歳の自分は、「ずっとここに住みたい」と強く感じたものだった。
しかし、幸せが長く続かないことは分かっていた。引っ越しをしなければならなくなったのだ。わたしはA市を離れたくなかった。A市を離れねばならないことに強いショックを受けた。もう二度とA市に戻ってくることはないのだ。
そうして別の場所に引っ越した。わたしはA市に戻りたいと強く願う。ただ、自分はまだ7歳の子どもである。どうすることもできまい。その後も何度か引っ越した。しかしわたしの中でA市以上の街に住むことは叶わなかった。そして、そうこうしているうちに今に至る。引っ越してから15,6年が経ったところである。
わたしは大人になった。行きたい場所に行ける程度の経済力を手に入れた。一人で電車に乗って、行きたい場所に行くこともできる。そして驚いたことに、今わたしは、A市から電車でたった30分程度の場所に住んでいるのである。
わたしはすぐにA市に行こうと思った。A市に行って、当時と同じ空気を吸って、通学路なんかをなぞって歩いてみようと思った。家を出るとすぐ踏切があって、紫陽花の咲く民家があって、坂があって、歩道橋があって……。そんな風景をもう一度確かめたいと思った。しかし同時に、まだ行きたくない、とも思った。15年である。15年もかけて作り上げてきたA市の思い出がある。思い出なんていうのはきっと、実際には多くの部分が頭の中で作り上げられており、美化されているに違いない。現実にA市に出向いたら、綺麗な思い出や強い思いが一瞬にして砕け散ってしまうのではないか。わたしは迷った。そして、わたしは迷っている。
こうしてわたしはA市に行きたいと強く願いながらも、行くことが叶わぬまま毎日を過ごしている。以下はA市に関する美化された思い出の詩。
住宅街から一歩外に出た細い道
6月の紫陽花とドクダミの花
そこにはカタツムリが住んでいる
そこには小さな命が住んでいる
黄色い帽子を被った子供達の列
どこかにあった未知の森への路地
同級生の靴が挟まった踏切は
今や無くなったのかもしれない
大きな水色の歩道橋は
今では少し小さく見えるのだろう
当時は分からなかったけれど
その下を走る車に気づくかもしれない
向かって右手は商店街だったそうだ
左手には大きな森があったそうだ
途切れ途切れでしか思い出せない過去
今なら確かめに行くことができるの
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