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「普通」という言葉の危うさ

「普通〇〇だよね。」
なんて、常日頃から聞かれるような、ありきたりな言葉。
最近この言葉に危うさを感じていて、その感覚を大切にしたいので書き残しておきたいと思う。

「普通」とはなにか

とりあえずWikipediaからの引用。

普通の『普』は、「あまねく」「広く」を意味する字である。 「普通に良い」というように、「一定基準を満たしている」「問題が無い」「短所を持たない」といった好ましい意味で使用されることもある。 「平然と~を行う」「日常のように~を行う」という意味で「普通に~を行う」というように、広く『平』や『常』の口語として『普通』を使用する者も増えている。

Wikipedia

「普通」に籠められたモノ

「普通〇〇だよね。」という言葉を耳にしたとき。
そうだね。って思う人にとっては至極「普通」の言葉なのかもしれない。
でも、そうじゃない人にとっては、きっと違和感のある言葉。

この言葉に籠められているのは、境界線、なんじゃないだろうかと思う。

normal と ab-normal の境界。
この境界には様々な意味合いを含んでいて。

  • あなたはどちら側のスタンスを取るのかという同調圧力

  • 「普通」という派閥への所属意識、多数派であるというマウンティング

  • あなたは「普通」のことが出来ないという苦言や上下意識

  • それができて当たり前・こうあれかしという無言の要求

多分だけれど、どれをとっても、そうじゃない人にとっては受け入れづらいものなんじゃないかな。
多様性を謳う社会においてこの「普通」という言葉自体が社会的にも受け入れられなくなってきているんじゃないだろうか。
「ノーマル」という言葉自体を利用しないと公言した会社もある。

普通に使われる「普通」という言葉の危うさ

ジェンダーギャップ指数とか、ダイバーシティ&インクルージョンみたいな話題を見ていても、日本は遅れていると言われがちで。

「普通」という言葉で境界を引くのではなく、違いを受け入れながら共に行きていけるようになってほしいなと思ったり。
ネガティブスピーチみたいな要求ではなく、適切なフィードバックでもって共に成長していける世界であってほしいなと思ったり。

そんな風に思っている自分こそが「普通」じゃないんだろうな。
なんて思いながら、願っている。


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