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心はまるでたけのこのように

 どうしてもそうしなくてはならないと思ってたけのこご飯を炊いた。幼い頃から春になると必ず食べていた季節の味だが、今年は少しばかり思い入れが違うのだ。

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 夫のアルコール依存症と暴力を発端とした別居生活が始まってから半年ほどが過ぎた。私達夫婦が今後どうしていくべきかという決定的な選択をすることを私はずっと先送りにしてきた。人生を左右する大きな意思決定をするには気持ちが不安定すぎたし、家庭が崩壊したことを認めることはひどく怖く、そして悔しく、悲しかった。

 それでも、いつかはきちんと心を決めなくてはならない時がくる。コミュニケーションをとることすらままならずに、離れた場所でずるずると暮らして停滞しているのは二人にとって決して良いことではない。それはいわば下りのエスカレーターに乗っているようなものだ。その場に居続けているつもりでも、じりじりと二人の関係性は損なわれ、互いの人生の時間は少しずつすり減っていく。

 改めて自分の心に問うてみる。
 自分を怒鳴りつけ、モノを投げて暴れまわる男性と、この先何十年も同じ屋根の下に住まい、同じ食卓で食事をし、同じ部屋で眠りたいと思えるか。

 素直な私の心は答える。それは嫌だ。

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 カウンセラーに今の自分の率直な気持ちを話した時、こう言われた。

「ようやくすべての鎧が脱げましたね」

その通りだと思う。アルコール依存症という病を抱えた夫から手を離すことに対する「罪悪感」という鎧、周囲の噂を必要以上に心配する「世間体」という鎧、夫婦は添い遂げるべきだという「倫理」という鎧。幾枚もの鎧で私は本当の気持ちを抑え込んできた。

「何枚も鎧を着て、あなたはまるで皮に包まれたたけのこのようでした。
でも、あなたがたけのこであって本当に良かったと思います。すべての鎧を脱いだ時に、ちゃんとそこに本心があった訳ですから。これがもしも玉葱だったならば、すべての皮をむいてしまったらそこには何も残りませんからね」

夫の近くで生活していた頃のことを思い出して私は身震いした。彼の顔色を窺うことと世間体を保つこと、それが私の全てだった。本心と呼べるようなものなどなく、自分を守ることだけにすべてのエネルギーを費やしていた。あの頃の私は間違いなく「玉葱」だった。

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 自分の本心と向き合うように、ゆっくりゆっくりたけのこを料理する。

 私の今の生活には炊飯器がない。逃走生活ゆえの不便さだが、鍋でご飯を炊くことは嫌いではない。
 吸水させた米をどっしりと分厚い鍋にいれる。水煮にしたたけのこは薄切りにする。たけのこは歯触りがごちそうだから、わざと大振りに切る。あとの具材は油揚げの細切りだけでシンプルにしておく。米の上に具を乗せて、出汁と調味料を加えたら準備完了。火にかけて炊き始める。
 炊飯中の鍋の蓋の隙間からしゅんしゅんと蒸気が立ち上がる。これが鍋でご飯を炊くというしちめんどくさい行為へのご褒美だ。優しくほのかな良いにおいがする。炊き込みごはんの時はなおのこと。

 蒸らし時間ももどかしく、鍋の蓋をあける。一面のたけのこ。湯気の中で思わず顔がほころぶ。一人の食卓にもあたたかな春がやってきた。

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 自分の道を歩もうと決めた私には、これから数か月間に渡ってきっと多くの山場と修羅場が待ち構えているのだろう。停滞していることはたやすく、本心に向きあうことは鋭い痛みを伴う。
 それでもその痛みの先には心から笑顔になれる本当の春が待っている、そう信じている。

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