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「ち」Chet Bakerと破戒について

 音楽を聴く時に大切にしていることはなんだろう。みなさんは答えをお持ちだろうか。例えば、楽しくなれる、歌がうまい、声がいい、演奏がものすごく上手い、などなど聴く人の数だけ聴く時に大事にすることはたくさんの種類があるだろう。私が、常々大事していることは、今まで紹介してきた音楽を内包する言葉になるので抽象化に抽象化を重ねて、こうなった。

「BLUEであるか。」この一点に尽きる。

BLUEという言葉はいろんな言葉に訳すことが出来る。

青い、青色の、藍(あい)色の、紺色の、青衣を着た、(寒さ・恐怖などで)青ざめた、青白い、(打ち身で)青黒くなった、憂うつで、悲観して weblioより

音楽的に言うのであれば哀愁を帯びていると言ったり、どこか後ろ暗い感じがあったりという事になるだろう。つまりは、現代の音楽としてブルースを起点にした、音楽が好きなのであって、そこからの音楽が好きなのだ。

ブルースにおける労働者の悲しみを歌にしたことから端を発する音楽。それが現代音楽における礎の一つであり、そこから音楽を聴いている人間が私である。

そんな中、ジャズ界においても大いにブルーを背負った人がいる。今回紹介する、チェット・ベイカーだ。

ブルーに生まれついて

 チェット・ベイカーについて説明を。

マイルス・デイヴィスを筆頭としたニューヨークの東海岸でのジャズが流行る前、白人主体の西海岸で流行ったジャズ文化があった。その名をウエストコースト・ジャズという。その寵児たる人物がチェット・ベイカーだ。

いわゆる、白人主体のジャズであるので、聴きやすいのである。そして、その最たる例が彼であった。

彼については最近半生を追った、「ブルーに生まれついて」という映画が公開され話題となった。

チェット・ベイカーの武器を3つ紹介していくとしよう。

トランペット技術

 ビバップなどジャズのその後の動きを見るに一時期は速さや演奏技術を競うような状態であり、リラックスして聴くという状況ではなかった。

しかし、チェット・ベイカーは違う。演奏の中に空白があるのだ。この余白こそ日本人の好きなところだろう。俳句然り、余白の中に物語を感じることが一番得意な民族はこの日本人であると思っている。そんなことを考えながらこちらを鑑賞ください。

伸びのあるフレーズと休符、そして気持ちの良いメロディ。これこそ気持ちのいいジャズの極みである。ご一聴を。

歌声(I Fall In Love Too Easily)

この曲はサミー・カーンの作詞、ジュール・スタインの作曲によるもので、1945年の映画「Anchors Aweigh(邦題:錨(いかり)をあげて)」に挿入された。その中で、主演したフランク・シナトラが歌いました。

この映画の中でシナトラが扮する役どころがまさにこの歌の内容を表していて、すぐ恋してしまう愚かな自分を自覚しながらも、また恋に落ちてしまう男が、自己嫌悪に陥るというものです。「ああ~、また恋に落ちてしまった・・・」という、やるせない片思いの歌です。xxokkunブログより

うわあ、俺じゃん。となる歌詞である。恐ろしい。

こういう内省的なことを歌った歌詞に引き寄せられるのはなんの因果なのか。男の悲哀を歌わせたらシナトラよりもチェット・ベイカーのだろう。そのくらい彼のボーカルにはブルーが乗っかる。

このチェット・ベイカーの歌声、大きな武器である。悲喜こもごもをすべて内包したようで儚いこの声は唯一無二。人生というものを20歳そこそこで語ってくれるこれこそがこの人の一番凄いところである。この後に書いていくが、彼の人生というジェットコースターのようなものを表しているかのようである。

人生

 この前のソニー・クラークの項でも書いたが、この頃のジャズマンは多くがジャンキーであった。彼も例外ではない。

黄金のような絶頂期を抜けた先には地獄しか待っていなかった。

色んな曰くがついてまわるが、彼は一時期歯の一部を失い、そのきれいな歌声を出すことは叶わなくなってしまう。(ギャングに前歯を折られたりといろいろな話が出てくるので各自調べてほしい)

そして、彼はまた戻ってくる。しかし、戻ってきたからは変わり果てていた。

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業という業を背負い、十字架を背負って丘をのぼっていくキリストのように彼は死にゆくことが見て取れる。その中でも、彼のブルーを奏で続けた。

それだけで、涙が出てくるというものである。間違っていたって、なんだって良い。一度歩みを進めてしまったら止められない道がある。それが茨の道であろうと。それが人生ってもんじゃないのかな。

チェット・ベイカーが教えてくれたものは今でも大きく私に伸し掛かる。

切り売りパート 破壊的友人I

 自分の人生を破壊につぎ込んでいる友人がいる。Iという男友達なのだが、今まで一番にクレイジーなやつだ。

褒めてもいるし、けなしてもいるが彼を愛せずには居られない。クズなのに愛される感じのそんな人です。みんなの周りにも一人はいることでしょう。

社会における自分を省みると、枠にはまって人の悪口一つも満足に言えずに悶々とする日々を送っている日だってある。彼はそういう事においてノンストレスなのだ。

なにより彼は生きたいように生きている。

「会いたい人に会い、働きたい仕事で働く」これを彼は体現しているのである。こんな尊敬できる人物がいるだろうか。高校の時から、小さな通学バッグにはタバコしか入っていなかったし、夜になればセクキャバで一晩10万近く無駄に使ったと話していたり枚挙暇がない。

彼といるとこんな現代に生きる自分も少し、開放された気持ちになるのだ。

飲み歩いた結果、財布をなくして友達の結婚式のご祝儀をなくしたときもあった。普通のやつなら貸さないだろう。しかし、私はいの一番にIに3万円を握らせた。そのくらい信用はあるのだ。やっていることはクズと言うほかないのだが、なぜだか彼は信用できる。一緒にいると心地が良いのだ。

中学からの付き合いで、私が本格的に組んだバンドのギターがIであった。バンド名を「I君とユカイな仲間たち」にしたことは今でも忘れることはない。

そして、色んな事が起こり、この、「I君とユカイな仲間たち」からIくんが脱退するという謎の状況が巻き起こった。

高2の文化祭のライブでラストとなったのだが録音が残っており、今でも聴き返す。ドンシャリのギターサウンドにか細いハイトーンなボーカルのIくんが脱退する時にライブに参加してくれたオーディエンスの先輩、同期、後輩が浴びせた一言は「死ねえええええ」であった。

こんなに愛のある「死ね」を聞いたことは今でも無い。愛情表現に死ねが使われる稀有な例だった。そんな彼と、色んなタイミングが変に重なりゲイバーに行った話はまた今度に。

では、また。

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