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「ひ」The Beatlesと社会人初の傷心旅行を添えて

 「と」の記事が急に伸びてきた。なんか周期でもあるのだろうか。フォロワーの人にちょいちょい見てもらえるくらいのテンションで書いているので、多くの人に見られると自分の恥部をやたらめったら見られているような感じなのか変な羞恥心が湧きますね。書いてることが私的すぎるだからだろ!

さあ、今日のために取っておいたビートルズを紹介します。紹介だなんておこがましいがここから聴いてもらえたり、久々に手にとってもらえると嬉しいです。すべての人の音楽のどこかに通じているであろう、このバンドはなんだかんだみんな好きなんじゃないだろうか。

簡単な紹介から。

これを最初に拝見したのだが、まさかの年代形式で誕生の年月日から始まっていた。これはファンでしか見ないだろうというくらい細かく書かれている。ほぼ、日記なみに書かれている。ビートルズについてオタクになりてええ!という方は是非ご一読を。もはや、世界史の教科書のようだ。。。。

The Beatles(ザ・ビートルズ)は、1962年10月5日「ラヴ・ミー・ドゥ」で本国イギリスでデビュー。1963年1月11日のセカンド・シングル「プリーズ・プリーズ・ミー」がイギリスで大ヒットに。ここからザ・ビートルズの快進撃が始まる。以降、「フロム・ミー・トゥ・ユー」「シー・ラヴズ・ユー」「抱きしめたい」とイギリスでNO.1 ヒットを連発。デビュー・アルバム「プリーズ・プリーズ・ミー」は1963年5月11日にヒット・チャートの1位に輝くと、以降30週間1位をキープ、12月7日には2位に落ちるが、その時の1位は同じくザ・ビートルズのセカンド・アルバム「ウィズ・ザ・ビートルズ」であり、こちらも以降21週間1位をキープ。この2枚だけで51週間、ほぼ丸1年間1位を独占したことになる。イギリスを完全に制覇したザ・ビートルズは次にアメリカに進出する。1964年1月、「抱きしめたい」がアメリカのヒット・チャートで1位を獲得。同年2月、ザ・ビートルズはアメリカに上陸、テレビ番組「エド・サリバン・ショー」に出演。アメリカの人口の60%にあたる約7300万人が視聴したといわれている。同年4月4日付のビルボード誌では1位から5位までをザ・ビートルズが独占するという前代未聞の偉業を成し遂げる。  RENOTEより

要はリヴァプールの若者たちが辣腕を振るう音楽プロデューサーやマネージャーから熱い薫陶を受けて世界で一番影響力があると言ってもいいくらいのバンドになったという感じだろう。正味8年程度しか活動していない、バンドなのに作品数も豊富で、作品ごとの色も違い今ある音楽の殆どのジャンルが内包されていると言ってもいいだろう。

しかし、仕事の友人に話してみるとビートルズを聴いたことあるかと質問してみると、「1,2曲だけならって感じかなあ」とのこと。彼も自身もバンドも好きだし、ライブにもよく行く人間だが中々ビートルズまで深堀りはしていないとのこと。これはもったいない!と勝手に洋楽押し付け野郎と言われそうだが、ビートルズは音楽人生を豊かにしてくれる。これだけは断言できる。

なので、今回はビートルズの音楽的な凄さとはちょっと違ったアプローチと初心者用のこの曲知っているのコーナーで紹介をしていきたい。人によって読む項を変えていただければ幸いです。。。2日分の記事の量くらいになってしまいました。

あ、この曲知っているぞ

 中2の頃か、初めてビートルズのベストアルバムを借りると大体の曲を知っていることに驚かされた。赤盤青盤と言ってビートルズを前期後期に分けて代表曲を収録しているのだが大ボリュームだ。二枚組を二セットとという大容量なのだが、それでも大体の曲を耳にしたことがある。

この中からかいつまんで、子どもでも聴いたことあるぞ!という曲と各メンバーについて紹介していきたい。

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左から、ジョン・レノン(Gt Vo)、ポール・マッカトニー(Ba Vo)、ジョージ・ハリスン(Gt Vo)、リンゴ・スター(Dr Vo)全員がボーカルを担当しているがメインはジョンとポールである。作曲者の欄にはどれもレノン&マッカートニーと記述されている。

「Help!」

開運なんでも鑑定団のあの曲だ!なぜ鑑定する番組で助けてほしいのか不思議な採用だが、安い値段を付けられた人に向けた曲なのだろうか。だとしたら、皮肉が効きすぎている。

「Hey Jude」

ポールはジョン夫妻が揉めていた時に悲しんでいたジョンの息子に宛てた曲。ラストの「ナーナーナーナナナナー」はみんなで大合唱だ。

「Ob-La-Di, Ob-La-Da」

車のCMでも使われていた曲。童謡のような展開だが、このポップネスはビートルズだからこそ奏でられている。

「All You Need Is Love」

なんでだかは忘れたが昔から聴いたことのある耳馴染みのいい曲。フランス国家や、自分自身の曲を断片的に使っていたりとその後の展開も匂わせるような名曲。

他にも書きたい曲はたくさんあるのだが、それをやったらほぼベストアルバム状態になってしまう。この記事の意味がなくなるのでこのへんで。

カメラマンとバンドマン

ビートルズのアルバムのジャケットって印象的ですよね。例えばセカンドアルバムのこれ。

「with the beatles」

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白黒で陰影が印象的な作品ここからラバーソウルまで同じカメラマンがアートワークを担当したのだ。天才のもとには天才が集まる。これに尽きるがこのカメラマンの名前は、ロバート・フリーマン。色んな所でこのジャケットのオマージュしたジャケット見ますよね。

今回はロバートフリーマンが作り上げた前期ビートルズのジャケットを紹介していきたいと思います。

「A HARD DAYS NIGHT」

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これもよくオマージュされたりしていますよね。フィルムのコマ撮りを並べたかのようなこの構図モノクロとビビットな色合い。アンディーウォーホルを彷彿とさせるような色彩感覚のこのジャケットはアイドル時期の彼らにぴったりですね。しかし、みんな格好良すぎるよなあ。

「BEATLES FOR SALE」

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この前辺りにボブ・ディランと会うことによって自身の歌詞を見直すことになり、ディランの影響を受けたとジョンが公言する曲も収録されたアルバム。少しずつアーティスティズムというのだろうか。自分たちが作っているものは作品なのだという意識が湧いてきていることがジャケットからも伝わってくる。アイドルからの卒業前夜。

「HELP!」

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四人が手信号で表している文字はHELPになっていないことは有名な話これも、フリーマン指示によるものらしい。彼いわく、見栄えが良かったからとのこと。これがまさか50年後も愛され続けられるとは思っていなかっただろうし。初めてこのジャケットを見た人に毎回つっこまれることうけあいなのも、もはや味の粋だ。 ヘルプやイエスタデイと言った初期の代表が収録されていることでも有名。

「RUBBER SOUL」

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世間一般のアイドルのイメージからは完全に脱したこのアルバム。二番目くらいに聴き込んだアルバムだ。ノルウェイの森も最高だが、やっぱりノーウェアマンが最高に好きだ。一人ぼっちの自分のことを歌うジョンは格好いい。まだ、ジョンが作曲面でもリードしていたアルバムだったのか、ジョンの名曲が多いですね。サウンド的にもインドのシタールのようなサウンドも聴こえてきたりと、サウンドスケープ感がたまらんです。

この曲からもじってジョンの青年期を描く「ノーウェア・ボーイと言う映画もたまらんです。よければ御覧ください。

2021年にしての更新

 そして何より今年になってビートルズ映画が公開されるのだ。しかもドキュメンタリー。あのゲット・バック・セッションの模様を再構成しようという映画だ。トレーラー見たいなのも公開されたので御覧ください。

末期のビートルズはめちゃくちゃ険悪だったみたいな通説はずっと聴いて回っていたのに、この映像を見てみたら度肝を抜かれた。みんなめっちゃ仲良しじゃん!!前回作成された映画の方は仲が悪かったように切り貼りして公開されたということがどうやら現実味を帯びてきた。ビートルズを聴き始めてはや14年。未だに新しい情報がやってくるということにこのバンドの大きさを感じる。そして、それにみんなで一喜一憂しているというのもなんだか良いですよね。今の時代「正義」のような音楽は中々これだ!とは言えない。

しかし、あの頃は限りなくビートルズがそれに近かったんだろう。そして今だって聴いてて最高だよ。ありがとうジョン。ポール。ジョージ、リンゴ。

切り売りパート くよくよすんなよ傷心旅行編

 ジョン・レノンの声を聴くとどうしようもない哀愁を感じる。彼ほど悲しさや孤独を内包した声の人はいないだろう。魂で歌っているといえば良いのだろうか。そんなジョンに元気をもらう時は決まって振られた時だ。また、そんな話かよ!とお思いだろう。今日は振られた後について書くからちょっと違うよ!!

大学を卒業して、社会人一年目、急に迫ってくる仕事に面食らって中々に疲れを溜まっていた時に、サークルで仲の良かった子とその時、良く連絡をとっていた。その子をOとしよう。いつもの調子で惚れていきます。

①色々はしょって、告白する。
②待ってほしいと言われる。
③その後、Oが地方にいるということもありそっちに赴く。
④いつもの調子で(イケるぞ、、、イケる、、、)
⑤楽しく旅行を終えた一日目の終わりに答えを聞く
⑥爆散
⑦地獄の二日目

こんな感じで振られた。もう、色々やってられなくなり、友達と傷心旅行に行こうとなった。そう言えばそいつは上野公園で振られた後に笑って話を聞いてくれたやつだった。

そいつで二人でどこかにいこうかとなっていたのだが、うーん人数多いほうがいいだろ!ってなって個々にサークルの時の同期の仲間に声をかけていった。そうしたら、恐ろしいほどの出席率となってしまった。

同期が15名くらいだとしたら13名くらい集まってしまったのだ。もはやこれは傷心旅行ではなくなった。ただのサークル同期旅行になってしまった。そこから私は傷ついたことなど忘れて、ツアーコンダクターと化した。

貸別荘を取り、レンタカーを手配し、タイムテーブルの作成、持ち物も書き出し、ラインのグループも作った。そして、極めつけにめんどくさいのが精算だ。ある程度の予算を事前に出しておくがノリで日本酒を買ったりするもんだから結局一人あたりこのくらいな!と伝えて集金までしていた。10人くらいのツアーならどんとこいだ!

いや、私は何者なのだ!!傷心はいずこに。

さあ、旅行当日。台風直撃かと言う日に私は強行した。そしたら、どうだろう、台風が押し出されたように消えていった。海はビカビカに輝いていた。そして、台風予報もあり、海には私達だけであった。

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みんなで夜に花火を上げたり、日本酒一升瓶を一晩で飲み干したりと最高の旅行であった。ちなみにここから私は年二回の旅行係となり、未だに同期の旅行を企画している。しかし、みんな子どもができただのなんだので中々集まれなくなってきた。みんな人生ゲーム着実に進んでいるのを感じながら私は酒を飲むだけです。

後日談として、風のうわさでOもこの旅行に行きたかったみたいなことを聞いた。

いや、誘わねえだろ!!!趣旨!!元々の!!!

と心のなかで突っ込んでいた。まあ、一回好きになった人に強く出られないので言えないんですけどね。それがその後も災いしていくんですね!

では、また。



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