わたしが心地よく居るという表現
しばらく、濃い予定続きだった。締め切りがぎりぎりで焦っていた仕事をなんとか終わらせたら、季節は春に変わろうとしていた。今日一日で、だいぶ雪がとけたな。
2月23日に、出版社をやっている友達とトークイベントをした。テーマは、「日常の表現と思考を行ったり来たり」。その出版社の本を新潟で扱うお店をやっている相棒と3人で、考えていることやその場で浮かんだことをあれこれ話した。本を参加チケットにした雑談のような公開ラジオのような、トークイベント。
「表現って暮らしの中で自然に出ているものだよね」という話から、「大きなくくりではなくて、まずは自分が心地よいと思える『動作』とかでいいよね」という言葉が出て、心に残っている。「誰にどう思われるか」をやっぱり意識してしまう私たちだけど、本当は表現の本質はそこにはないのかもしれない。自分が心地よく暮らしているということ、その中に表現がある。
いやー、いい時間でした。トークイベント前後の、その友達が県外から来てくれて車の中やごはんやさんで過ごした時間・何気なく話した話が、なんだか私の勇気になっている。すごくわくわくしている自分がいる。
偶然、その次の週に「スタ☆ダン!全国ツアー」という、福祉とアートに関する研修のおてつだいをした。「表現未満、」をコンセプトにした、福祉施設の利用者さんたちがつくる音や仕草を披露し、共有して優勝者を決める企画「スタ☆ダン」の主催者である静岡の団体クリエイティブサポートレッツさんと新潟の団体「みんなで生きる」さんが開催していた研修。レッツの代表の方がこれまでのことを発表してくれた。利用者さんの中には、「水をかぶる」という動作をひたすら毎日やってしまう男性もいるそう。その動画にうつる表情がなんとも気持ちよさそうで、思わずにやっとしてしまった。
レッツさんの職員の方がトークセッションの中で言っていた、「あ、今利用者と職員という関係を超えてなにか一緒にできているって感じる瞬間がある」という言葉が残っている。でも、その瞬間は1週間に1回も来ないそう。そういう瞬間のためにやっているところってあるよなあ。なんというか、その瞬間が来ると本当にこれまで大変だったことも忘れてぐんと元気になる瞬間。
3月は、絵やものづくりで表現活動をしている大学生が滞在することになって、一部屋貸して一緒に暮らしている。彼女は、本当に感受性が豊かで、素晴らしい才能も持っているのだけど、いつも「人と比べる自分の心」と戦っている。それをどうしてもぬぐいされない、という話をしてくれる。私は日頃から創作する人というわけではないけれど、人と比べる自分はすごく居るから、とても分かる。つきあいかた、どうしていこうねえ、と一緒に考えている。
彼女の話を聞いていると、創作する側の人は、たしかに人の作品と比べてしまうだろうなと思う。SNSでも自分の作品を披露している人がたくさんいる。いろいろな人の目に触れられるのはとてもいいことだと思うけれど、次から次へと流れてくるスマホの画面は、刺激が少し強い。
「悔しさは別にバネにはならないよね」という話を彼女とした。よく、スポーツの話や受験の話などで中学・高校のとき聞く気がする、「負けない!という気持ちで頑張れば成長する」的な言葉。でもそれって本当なのかな?私はもともと、バスケとハンドボールをやっていたけど、誰かに負けても悔しいと思わない自分を感じていた。それよりも、良いプレーができたなとか、楽しかったなとか。むしろ大学以降の方が、SNSなどを見ては自分と他人を比べて落ち込んだりしているし、その感情があるときの自分はあまり好きじゃない。
少なくとも私に関しては、「あの人よりすごくなりたい」というような「人と比べる悔しさ」からなにか素敵な表現が生まれるようなエネルギーは湧いてこない、と思う。人と比べて悔しくなると、なんだか頭がぽっとして、心臓がどきどきして、見たくない「自分」がもりもりと目の前に現れる。
漫画「バガボンド」でも、「誰よりも強くなりたい」と思って力んでいた時は結局あまり強くなれず、そういう自我にとらわれないで力を抜いて流れるままに身体を動かしていくようになったら強くなった、という話があった。(またバガボンド笑)きっとそういうことなんだろう。肩の力を抜いていられるような自分の心地良さを見つけるとき、そこに表現らしきものが生まれるのかもしれない。
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