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しあわせよ、こんにちは

映画「ジョーカー」が公開された時期に、インスタグラムに投稿した記事です。
書いた当時から、文章を少し手直ししてあります。
今回の投稿とは別に、京王線での刺傷事件について考えたことを書いた記事を次回投稿する予定です。
そちらも読んでいただけたら嬉しいです。


しあわせ?
『ジョーカー』という映画としあわせって関係あるの?と、疑問を抱く人もいるかと思います。
ジョーカーを観て、しあわせという言葉とはなかなか結びつかないでしょうから。
その疑問も、この記事を最後まで読んでいただければおそらく解けるのではないだろうか、と想像しています
おそらくですが。


この映画を観ている間、そして観たあとしばらくの間、
ジョーカーに内臓を掴まれているような感覚に陥ってしまいました。
「気を抜くなよ。いつでもお前の臓物を握りつぶすことができるんだぞ。」
と、まるでジョーカーに耳元で囁かれているよう。
予期せぬ暴力的な何か、が突然画面上で起こるのではないかと片時も気が抜けない。
観終わったあとは、ぐったりと疲れ切っていました。

この映画を観てとにかく怖いなぁと感じたんですが、
何が一番の怖さなのかと考えてみると、
もし自分が主人公と同じ境遇であったのなら、自分もジョーカーになる道を歩んでいたかもしれないという怖さ


ではなくて、
自分以外の周りの誰かをジョーカーになる道へと歩ませてしまう行為を自分が意図せずにしているかもしれないという怖さ、なのではないでしょうか。
被害恐怖より加害恐怖に近い。
気付かない内に、自分の周りに憎しみや怒りを増幅させているかもしれない、という怖さ。


そういう憎しみや怒りを撒き散らす行為って、
『呪い』
だと思うんです。
馬鹿にしたり、見下したり、裏切ったり。
どんな行為であれ相手に対して敬意を欠いたものであれば、それは『呪い』として相手に刻み込まれる。
そして、呪いをかけられた相手は呪いを贈り返してくる。

映画を観た方なら分かると思いますが、主人公がジョーカーへと変貌していく過程でも、誰彼構わずに傷つける訳ではありません。
敬意を持って接してくれた相手には、主人公も最低限の敬意は欠かさない。
傷つけてきたら傷つけることで返し、敬意には敬意を持って返す。
挨拶されたから挨拶を返す、のと同じです。
されたことを仕返している。
言い換えると、
贈与されたものと同じものを返礼している。

この映画はおそらく、
「呪っても良いことはないですよ」
ということを描いているのではなくて、
「贈ったものと同じものが返ってくるみたいですよ」
という世界のルールを忠実に描写しているのだと思います。



優しくしたら優しくされる、馬鹿にしたら馬鹿にされる、素直になったら素直になってくれる、認めたら認めてくれる。
世界のルールってそういうものだよね、と全編を通して描いている。
そして、このルールは私たちが生きている現実とも地続きです。
映画も現実も何も変わらない。
毎日私たちは誰かになにかを贈り、なにかを贈り返されている。
違いがあるとしたら、映画の中では贈り物の中身のほとんどが『呪い』だったことです。

私たちが贈り合っているものは「呪い」だけではありません。
生きていると、周りに感謝や喜びを贈っていることもありますね。
相手の生きる力を奪う「呪い」の言葉ではなくて、その相手の生きる力が増すような暖かい言葉。
そのような贈り物は
『祝い』
と、呼んでいいのではないでしょうか。
そう、「祝福」です。


そして、周りにいつも『祝い』を贈っている人には結構分かりやすい特徴があります。そうではない人と簡単に見分けられる。
どういう特徴かというと
「機嫌が良い」
という特徴です。

他人に対する最高の『祝い』というのは、
『あなたが存在してくれることそのものに対する祝い』
です。
今ここにいてくれることに対する感謝と祝福。
何かを達成したから、何か嬉しいことが起こったから、
「祝う」
ではないんです。
目の前にいてくれるという事実それだけで、嬉しい。
赤ん坊に対して言う、
「生まれて来てくれてありがとう」という台詞は、まさに存在していること自体に対する祝いです。
今この場所にいてくれることがただただ嬉しい。
そんな赤ん坊に贈る祝いを、他人に自然と贈ることができる人がいます。

そして、そのように他人の存在そのものを祝える人は、
そもそも自分が生きていることを自分自身がまず第一に祝っているんです。
それは機嫌も良くて当たり前ですよね。
ただ生きているだけで祝ってくれる自分という一番身近な他人、が常に一緒にいてくれる訳ですから。
自分自身の存在を祝える
だから、
他人の存在も祝える
というのが「機嫌が良い」人の祝う順序なのでしょう。
まずは、自分から祝う。


自身を祝い、自分の機嫌が良く、他人も祝い、だからこそ周りの機嫌も良くなる。
『祝い』の贈り物をしている人の周りは、自然と機嫌の良い人達の集まりになっていきます。
『祝い』の循環ができるんです。

ちなみに、他人に対して最大限の効果を発揮する『呪い』は
『シカトする』
という行為です。
シカトする、無視することで、
お前の存在には何も価値がない
という呪詛を相手に贈り付けているんです。
シカトされるととても傷つくのは、自分の存在そのものを脅かす『呪い』だから。


「呪い」の循環に生きている人は、「祝い」の循環が存在していることが中々理解できない。
お互いに敬意を持ち、尊重し合あう関係性があることが分からない。
この人とは理解し合えないと感じた時は、
そもそもの「呪う」「祝う」についての生き方が違うことが多いのではないでしょうか。

僕は、「呪い」の循環で生きて行くことが間違っているとは考えていません。
正しいか間違っているかではなくて、自分がどうしたいか。
あなたはどうしたいのか。
僕は祝いの循環に身を置きたい。
というより、目の前にあなたがいてくれることがただ嬉しい。
祝う理由はそれだけで充分です。


そして、周りの人々から敬意を持たれ、存在そのものを祝福されている状態を、
『しあわせ』
と、呼んでもいいのであれば。
「しあわせ」の定義は多種多様で、一言では決めきれないものではあるでしょう。
それを踏まえてそれでも仮に呼んでいいのであればですが、自分が周りに祝いの言葉を贈りそのお返しとして、しあわせが周りから与えられるのではないか。
僕が言いたい、
『しあわせ』
とは、こういう意味です。




周りくどく聞こえるかもしれません。
ただ、映画「ジョーカー」を作った監督や出演者、スタッフたちは憎しみの連鎖を生む行為は私たちの身近に潜んでいる、という事実を理解していたのではないか。
一見すると救いのない絶望を描いた映画に見えますが、あなたが周りに贈るもの次第で現実は変えることができる。
そんなメッセージを読み取ることもできそうです。
少なくとも、僕はそう読み取りたい。

この投稿自体が読んでくださったあなたへの『お祝い』です。
ここまで読んで頂いてありがとう。
たまたまこの記事に巡り合えておめでとう。
あなたのこれからの人生のしあわせを願い、お祝いします。
あなたがどこにいようと、僕のそばにいなくても。




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