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遊離魔法・虎ノ巻

告白

わたくし、ふだんから、へんなことを想い浮かべています。

ひと口に「へんなこと」と云いましても、桃色ティックな妄想を指す狭義のソレとは違います。一切の前触れがみられず、また論理が貫かれてもいないような、突飛に展開される脳内風景を意味する、もっと広義のソレであります。
そのとき取り組んでいる行為がなんであれ、それと何の関係も持たないはずの想念が糢糊模糊もこもこと湧いてくる。これら有象無象は、「理性」を以て制御し、抑えつけようとするとむしろ猖獗いきおいつよめる。大学で所属した交響楽団にけっきょく挫折したのはこのへんに原因がある。みんなで一つの音を生み出す営為が求められるのに、そういう緊張の渦中ほどなにかユニークな事柄が閃いて集中できないんである。
意志に対して「反」作用する天邪鬼エフェクトとも少し違う。意志が目指している目標にとっての余事象ならジャンルを問わない。つまり、「生きたい」とするエロースに対して「死にたい」とタナトスに耽ってしまうのが天邪鬼だとすれば、わたしの脳裡にあるのは「生きたい」に対する「なめ茸」という項なのである。対立項とも呼べない奇妙な想念が、堂々と、つねに脳の一等地を占めている。
現実逃避に似たところがあるけれど、逃避というほど積極性や躍動性に富んでいない。「あー疲れた、別のこと考えよう」というより「(卒論どうしよう≦なめ茸)」なのだ。もっと主体性の消え去った境地——そう、「遊離」だ。
こうして気の利いた表現を入力するあいだにも「遊離ユーリ峨峨輪ガガーリン」と、至極どうでもいい宛字を考えてしまう。また、予測変換に現れる「遊里」の字面から出発して、怒濤のように狭義の「へんなこと」の一大絵巻物ドグラマグラが脳裡に展げられてしまう。そういった側枝を切り落として、ようやく「論理」の流れらしきものが貫かれている文章を書いている。
だから、夜神月をはじめ『DEATH NOTE』の登場人物が、かくも膨大な文字数の推理を展開するなかで少しも「なめ茸」的な夾雑物イントロンを挟まないのが不思議でならない。連続テレビ小説や、『孤独のグルメ』も然りである。心のなかに交響する声がああもクリアな人間が世にあろうとは努努信じられぬ。
それよりは、筒井康隆の短篇「底流」の描く心象風景に合点が行く。他人の心の機微が聴こえる「エリート」の青年が、学校の庇護から離れて会社に入り、人間の心理が秘める地獄——底流——に触れる物語。句読点も論理もフォントサイズも行の体裁も情緒も一定しない描写スタイルで、思考のうねりを極限まで文字化すべく足掻いた筒井の努力に脱帽するいっぽうで、それでも絶対に零れてしまう「なめ茸」の存在をひしひしと感じたものである。思考は完全に言葉にまとめられない。

それでは平生の自分は、どんなことを、考えるともなしに考えているのだろう?
「理性」への夾雑物としての「へんなこと」は、どれだけ不定形に見えても、意外と規則性が通っているようにおもう。そうそう突飛なことを想い浮かべるのは至難な芸当である。だから、以前用いたり最近得たりした「なめ茸」を機械的にリサイクルすることになる。そこでここからは、退屈な会議や、延々つづく道を歩いているとき、あるいは課題と睨めっこしているときなどにどこからか湧いてくる「へんなこと」を、随時思い出しながら記述していくこととする。

へんなこと①:コラッツ予想

浪人時代に小説『永遠についての証明』を読んでからのヒット・コンテンツ。
「任意の正の整数nが①偶数ならば2で割り、②奇数ならば3n+1の処理を施す。このプロセスを進めると、すべては1に帰結する……んじゃないスカ」という趣旨の、1937年にドイツの数学者ローター・コラッツが提唱した予想である。提唱されてから数十年が経ったものの、依然全てのnについての証明がされていないから「……んじゃないスカ」であり、「予想」なのである。
予想の一般証明をやろうとすれば<遊離>どころか本気で取っ組み合いをしなくてはならない。わたしはあくまで個別のnについて弄んでいるに過ぎないのだが、これが非常に楽しい。目に映る全ての数字がゲームのフィールドになる。暗算で4桁のnをほぐす血みどろの作業の末、無事に「1の楽園」に軟着陸できたときなぞは快感さえ覚ゆる……ふと目に映った数字、n=59について試しにコラッツしてみる。

59→178→89→268→134→67→202→101→304→152→76→38→19→58→29→88→44→22→11→34→17→52→26→13→40→20→10→5→16→8→4→2→1

n=59をコラす

かつては意識的に計算処理を始めていたものだが、いまは数字を視認したそばから始まる。他動詞から自動詞への転回。車のナンバー4桁を四則演算にかけて10を作ったり、2に2を掛けまくったり、数字をちらちらと操作するクセは昔からあったので、コラッツのコレもすんなりと受け容れられた。講義中、黒板に数字が書かれるなり目が据わり、「遊離」しているわたしを目撃したら、それはコラしている最中である。妨害しようとおもうなら適当な数を耳元で囁くだけで十分だ。それだけで撹乱になる。シャル・ウィ・コラッツ?

へんなこと②:外郎売りと般若心経

どっちもまるごと暗記しているから、不意に湧いてくる。
早口言葉の旧約聖書「外郎売り」は小学校時代、音読学習を推奨する父の教育の延長線で勝手に覚えた。また、テレビショッピングの開祖「般若心経」は現役か浪人か、とにかく大学受験の憂さを乗り切るために覚えた。
どちらも、緊張や絶望のあまり卒倒しかけるごとに唱えているから長期記憶に刷り込まれた。たとえば——秋も暮れに差し掛かった折、入浴中に突如として温水機がストを始めて冷水を浴びる羽目になったとき。ただ歯をカチカチ鳴らしているだけでは寒さが滲み入るようなので、とにかく無我夢中で般若心経を唱えた。「カカカ観自在菩薩ゥウウウ……行深ンン、般若波羅蜜多時ィイイイ」と、『キングダム』の王騎将軍みたいな口調になりながらも、絶唱しているとなかなか快だった。心頭滅却すれば冷水もまた快し。
外郎売りは般若心経と比較してもかなりロングでスリリングなリリックのソングだから、唱え甲斐もあるというもの。「京の生鱈奈良生真魚まな鰹」とか。万能薬を売る口上のはずなのに莫大な量の無駄早口が全編を彩っているからして、早口言葉界のフィネガンズ・ウェイクと云えよう。高校で所属した放送部ではだいぶ世話になったものである。
てなわけで、この二つの呪文は折に触れて脳内に交響する。

へんなこと③:アナロジー渉猟

なにかしら、言葉を見てとったら、そこから類語や類推のネットワークを手繰って遠くに行く。それに、着実に手繰ってきた繋がりから「ぱっ」と手を離しても別のオモシロ・コネクションに逢着できるから面白い。喩えるならマリオカートのレインボーロードである。たまに「現実」という地表に激突してしまうこともあるけれど、想像の羽根は時におもわぬ境地に導いてくれるものである。
さていま、「OPUS」という文字が見えたので試みにそのへんを散策しよう。OPUS……同名の山下達郎のベスト・アルバムもあるが、なにより仙台にあるカフェ「cafe haven't we met opus」が浮かぶ。繁華なアーケード通りに入口を持ちながらも、店舗までは100メートルばかりアスファルト廊下が続いていて、ようやく入店する頃には大変静かだ。ここにかつて密かに想いを寄せていたレディを伴ってやってきて、水面下で失恋の苦みを嘗めた想い出。苦みといえばニガミ17才。「曖昧に再現したい曖昧に再現したい」と連呼するサイケデリック・リリックにダブってくるのは、哲学者ウィトゲンシュタイン。曖昧にウィトゲンシュタイン。「語り得ないものについては沈黙せねばならない」のウィットあるゲン及シタ偉人イじン。脳裡に去来するは翻訳者の柳瀬尚紀、柳瀬尚紀といえば猫、猫、猫ラーメン、ほんわか……
ま、こんな調子である。論理から放たれたところを漂泊してます。

へんなこと④:エヴァンゲリオンとシン・ゴジラ暗誦

わたしの用いる文語表現は森見登美彦と庵野秀明の作品から多大に影響されています。とくに、言葉が俳優や声優の声に乗ってこちらに届く庵野作品はわりと細かく憶えている。シン・ゴジラは複製台本をわざわざ買って丹念に読み込むほどの周到さであります。もはや本編は幾度観たか知れない。IMAX、4DX、通常版を劇場で目撃し、発売早々にディスクを買っては繰り返し鑑賞。わりと細かくセリフを憶えたので、ぼんやりしていると蘇ってくる。「東京湾内羽田沖、漂流中のプレジャーボートを発見との通報あり、はまなみ、了解——」サウンドトラックが流れたらそこに合わせてセリフ回しできる自信があります。なめ茸の矜持。
新劇場版エヴァンゲリオン四部作もなかなか。「これまでのヱヴァンゲリヲン新劇場版」という公式動画、ご存知ですか。「主よ人の望みの喜びよ」の荘重な奏でにのせて、シン・エヴァに先立つ三部作の名セリフを凝縮した3分ほどの動画。ここにもわたしは完全暗記の努力を向け、ついに完了しました。それはともかく、エヴァのセリフって本当にかっこいいんです。強さも弱さも語調に表れている。漫画『チ。地球の運動について』に近い、言葉の人情と密度。入念に入念に摂取するうちに無意識にまで刷り込まれ、いくらか洗練されたシン・なめ茸になりました。
この遊離を貫くと庵野その人になれるんじゃないかと密かに目論んでいます。
ま、貫こうとおもって貫けるもんじゃないとは感じますが。


建築科の課題が迫るなかですが、我が<底流>に想いを馳せてみました。
皆さまには「なめ茸」ありますか?

I.M.O.文庫から書物を1冊、ご紹介。 📚 東方綺譚/ユルスナール(多田智満子訳)