肌と語ってるかい。
いままで耳を傾けずにきたけれど、皮膚は喋るのである。
「痛い!」と喚くことがあれば「痒い。」と呟くこともある。必ずしも切りつけられたり蚊に刺されたわけではないのにも関わらず、である。「痒〜い」もあれば「かッッッゆ」もあるというように、痒みひとつとっても色調が千変万化する。
肌は、たんに脳に送られる電気信号としての痛痒だけでなく、皮膚表面の荒廃をも手段として用いて喋る。ニキビが鼻先や頬に群発する。赤いミミズ腫れが首や背中に走る。髪に手櫛を通すと粉雪のごとくフケが舞う。ナメコよろしく油分を多量分泌したかとおもえば、翌る日はやけに節減しヤスリに匹敵する乾きを生み出す。
可能な手練手管を全て弄して自分の思いの丈を表現し、十分に聞き入れられる日を皮膚は切望していた。しかし、僕は聞いていなかった。
いや、厳密にいえば聞いてはいたのだろう。
かつての自分に取材を申し込んだら、きっと、肌を申し訳なさそうに隠しつつ「でも!」としゃにむに釈明するに違いない。「でも、風呂には毎日入っているし、顔だって洗ってるもの。なんならアフターケアもやってるぞ。それでも痒い。それでもニキビが湧く。それでも荒れるなら諦めるっきゃない!そうだ、深層心理の所為だ!万事やんぬるかな!」
荒々しく宣言しおおせてから、乾いた頬を堪え切れずにぽりぽりやる。
神聖で不可触領域である深層心理の陰謀論に辿り着くまえに、その「風呂」「洗う」「アフターケア」をいちど問題化してみよう。洗えばいいってもんじゃない。何か塗ればいいってもんでもない。
第一に風呂。石川五右衛門父子の目を白黒させるほどに熱々の湯舟に浸かったら、皮膚が驚かないわけがあるまい。汗腺グランドオープンすなわち善と考えていたものだろうが、肌の乾燥をひどく促進するわ急激にノボせるわ、人体にとって決して好ましくない事態をいくつも招来してしまう。平生から繰り返しているから乾燥が常態化し、痒みは亢進、湯舟に入っているそばから爪で掻いてしまう。
湯船の内外を問わず、摩擦は肌の天敵である。どうも昔日の自分はそこを想像できなかったらしい。痒いから掻いてしまうのと時を同じくして、掻くからなおのこと神経が逆上して痒くなる。摩擦がもたらす災禍への意識が鈍かったことで、とくに洗顔の様式が長らく劣悪であり続けた。なんたって、つい最近まで洗顔フォームを泡立てさえしなかったのである。チューブから1センチほど練り出したソレを、そのまま頬にのせてぐりぐりと顔全体に塗り拡げていく。油脂だけでなく、顔面環境保持に欠かせない潤いまで駆逐し去る洗い方である。北条氏も青褪める排除ぶり、これを我が洗顔の黎明期から継続しておれば、畢竟、肌荒れは避け得ない。
かつての自分がまた何か言いたげである。「いや、父がね」と愚図る。「幼時、それも父とともに風呂に入っていたような大昔、父が洗顔フォームそのままでゴシゴシ洗ってたのです。それを見倣って、ね」
堂々責任転嫁するや否や、父のもとへ奔走、すかさず言質をとる。
「だよね?」「違う。俺は泡立てていたよ」
どこかの段階で勘違いして成立した、洗顔フォームをそのまま使う戦法。
当然のようにニキビが甚だしいインフレーションを起こした。「青春」「中高生の勲章」と称えうる規格を凌駕する記録的な顔面市場流通量を示した。みるみる間に自己嫌悪と別称される円安に見舞われた。
しかし僕はこの不況の原因を決して洗い方には求めなかった。「中高生だからインフレも仕方ないだろう」と言い聞かせ、密かに洗顔フォームに毒づいた。あらぬ罪を吹っかけられたものである。チューブを使い切ったタイミングで、たまには、とポンプ式で泡が出てくる製品を買うこともあった。平生の惰性のままに顔をごしごし擦過する洗い方にこだわっていたから効果は低減したものの、泡で洗うことでいくぶんニキビは減少した。しかし、あくまで絶無にならないということでポンプ式には早々と見切りをつけてしまった。泡と出合ったことで抜本的に洗顔スタイルが変わったかといえばそんなことはなく、「泡で洗う人もあるのか〜」ぐらいに局限して考えた。地動説がさかんに提唱されはじめた頃の天動説論者のようだ。
「ふうん、地動説。そんな考え方もあるんだね」と。
そうすることもできる。だけど、そうかといって我の手法の正当性を揺るがすわけではない。
(正当性の根拠といっても、父がそうしていたから、に過ぎないのだが)
僕の洗い方はなにも中高生の皮膚だけを荒らすものではない。予備校で蠢こうが大学に進もうが、摩擦は肌にとってタイムレスな天敵である。
予備校まではストレスの御名のもとに肌荒れを正当化できた。しかし、四年間の夏休みといわれるほどお気楽なパライソに足を踏み入れてなお変わらず荒んでいると、いよいよ不安に駆られた。いわゆる大学デビュウほどの革新的変身を遂げていないまでも周囲の知人みなニキビはおろか荒野を想わせる片鱗も見せず、すこぶる肌艶がよい。現役と浪人の違いに帰して合理化してしまおうかと考えたのも束の間、二浪の同級生の頬の放つ燐光にあてられて降参した。なにかまずいぞ。
自分で自分の習慣を客観視するのは至難の芸当だ。
「なにかまずい」と悟ったからといってすぐに洗顔スタイルを的確に修整できるとは限らない。そういうわけで二浪の彼含め知人に問い合わせた。どう洗顔してる?
まず、二人とも同じ洗顔フォームを紹介してくれた。ヘエこんなのがあるのね。
さらに、オンラインで別個に問い合わせたにも関わらず両人とも口を揃えて100均で買ったというプラスチックの円柱状の容器を示した。こちらが未知のソレの用途を訊ねるまでもなく、二人は懇切丁寧に述べる。
「これ使うと泡立てやすいよ!」
ようやく僕は、天動説を放棄する糸口を掴んだ。
自分これからケーキでも拵えるのか、と疑りたくなるほど濃密ふわふわに仕上げた泡を頬にのせたあのとき感じた温和なキモチは永劫忘れまい。「擦ってはダメ」という師の教えを遵守しつつ、慎重に泡を滑らせ、顔全体に配置する。そして冷たいぐらいのぬるま湯で洗い流す。瞬間、気づくのである。洗い終わりに肌がぴりぴりしない愉楽に。そして、長年に亘り絶えず痛切な叫びを上げていた肌への聴覚の弱さに。
洗顔後のケアも散々たるものだった、とおもう。今でこそおもう。
お約束通りバスタオルで総身を擦過するのはもちろんのこと、合わない化粧水等々でもとりあえず塗布して事足れりとしていた。利用者諸君は先刻御承知のことと察するが、化粧水はなんでもいいとは限らないのである。ヨカレとおもって使うことで以前よりむしろ荒野の養分を奪い去り、救いがたくすることがある。
「ホレ、肌よ。導入美容液に化粧水、乳液まで塗ってるんだ。乾いたり痒くなるわけがあるまい」名状しがたい違和感を覚えつつも、そう説き伏せていたのを想い起こす。肌の発する小さな声を聞き、肌に合ったケアをしなくては、件の円安は断ち切れない。
いまは無印良品の製品を試行錯誤しつつ使っているが、ときどき肌に合わない品に出合う。そんなとき、ともすれば「天下の無印なんだから痒くなるハズがない」と言い聞かせて、悲痛な訴えを退けてしまいそうになる自分に思い至る。確かに無印の品質は高い、が、それを用いる標的の肌は自分の肌という、代替の効かない特殊なもの。その事実に寄り添わなくては。
適宜知人の見地を容れながら、なにより肌と対話を重ねていきたいものである。
I.M.O.の蔵書から書物を1冊、ご紹介。 📚 かくれた次元/エドワード・ホール(日高敏隆・佐藤信行訳)