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昨夜のできごと

昨夜の詩の朗読会(10/25)は、実は直前まで開催を迷いました。
が、一日かけて悩んだ末に、せっかく構想もまとまってきたのだから…と己に鞭打って開会いたしました。
結果として、開いてみて本当に良かったです。

昨夜はいつにもまして参加者も少なく、こぢんまりとして、あたたかな会となりました。
夜の会ということもあり、お一人ずつの朗読や語りに深みがあり、お聴きしていて私もとてもインスピレーションを感じました。


この会を何回か重ねていて、おもしろいなと感じる現象があります。
いつも冒頭に私が詩を1つ音読してから皆さまに登壇していただく流れなのですが、それを受けて、せっかく用意していた詩とは別の作品を直前にアドリブで選んでくださったり。
前回に紹介してくださった詩に呼応した句を別の方が選んできてくださったり。
(ライブ感が出てきました)

…少しずつ、それぞれに、小さな化学反応が起こっているのです。

詩を紹介する以外はあまり互いに話さない会なので、割とさらりと毎回終わるのですが、それがむしろ「詩を通してのみ」やりとりが深まっている気がして。嬉しい誤算と言えるかもしれません。



話を昨夜の会に戻すと、参加してくださった皆さまの口から出てきたものは、ご自身の“経験”に基づく『詩との寄り添い方』。
日常で、あるいは非日常で起こった思い出が、「詩と共に刻まれている」ということでした。

私は時折、「詩が向こうからやってくる」と“直感”することがあるのですが、昨夜は皆さまのお話を聴いていて“確信”に変わりました。

大切にしまっていたからこそ、ふとした瞬間に取り出すことができる。蓋を開けることができる。
それが「詩のもつ醍醐味」なのではないでしょうか。

あふれる感情を扱いあぐねている時こそ、詩の力を借りて、自分の本当の気持ちを取り戻すことができる。
あるいは詩が「道案内」をしてくれる。
私はそう思っています。



詩を「読む」「意識する」
そして声に出して「詠む」。
それは・・・

・心と言葉をつなげるチャンネルを持つこと。

・社会との接点で自己を見失わないよう保ってくれる・支えてくれる。

・自分の言葉を取り戻すために、必要なプロセスが「いつでも」用意されている。

…そんな考えが浮かぶ、詩の朗読会。
「もちよる詩集の会」と名づけた通り、皆さまのお話ひとつひとつに発見があり、学びがあります。

会の最後にはいつも、
「皆さまと詩を1つずつ持ち寄るだけで、今日の日に『一冊しかない詩集』が編まれた…と思います」
と締めくくっているのですが、これも回を重ねているうちに自然と出てきた言葉でした。



言葉を奪われることが問題の根源にあると叫ばれる昨今、
一見、抽象的で曖昧に捉えられがちな(またはからかいの対象になりがちな)「詩」というものが、実は大きな力を持っているという事を忘れてはなりません。

時代によっては敵視され、排斥対象になるほどの力を、詩は持っています。
また、詩は(悲しいかな)生み出されたその時には評価されなくとも、後年、消えることのない光を放つ存在として表出し、私たちを照らし続けます。

権威主義的なものほど、その抽象性・普遍性を理解せず、詩や芸術をいつの世も徹底的に攻撃するのも、その力を恐れてのことなのだ…と理解できます。

いわゆる文壇・文豪と呼ばれる中でさえも、ヒエラルキーや権威主義が存在します。
詩は、ある意味そこから一線を引いた「良心」であり、ことばに対する「責任」を担い、「自浄」が眠っている文学なのでは…?とさえ思うことがあります。



話が大きくなってしまいましたが、日頃ぼんやりと感じていたことを、昨夜のできごとを通して、1つの考えにまとめることができた、それは本当に良かったな…と思います。

ご参加くださった方々にはこの場を借りて心より御礼申し上げます。
ありがとうございました。

これからも小規模ではありますが、
ひっそりと、より「深く」、詩の世界へ真摯に浸りたい…
と心から思う次第です。

想いをともにしていただけたなら幸いです。

🌿imo


🌿

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