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最近気づいた苦手なこと

前書き

最近の生活の中で思ったことをつらつら書いただけなのだけれど、なんだか胡散臭い自己啓発記事みたいになってしまった。
胡散臭い自己啓発記事に書いてあることは決して嘘ではないのだけれど、結局記事を読むだけじゃ絶対にそこには到達できなくて、自分でいろんな経験をしないといけないんですよね。そしてそうやって到達した経験を人に伝えようとすると、結局胡散臭く、かつ説教臭くなるという。難しい。


本題

2023年に入ってから、世間的にコロナが落ち着きはじめたこともあり、狂ったように社交的に生きている。土日はたいてい両方とも誰かに会っているし、なんならはしごしている。

会っている相手は様々で、馴染みの友達から、しばらくぶりに会う古い友人、顔を出し始めて5,6回目のサークルの人たち、初対面の人。
性別も男女問わず。年齢も様々で、一番下は6歳。一番上は65歳かな?

もともとそんなに社交的なほうではないが、人とコミュニケーションをとることで初めて学べることもあるな、と思うようになって、積極的に行動をとるようになった。しかしさすがに疲れて、そろそろ休憩を検討中。


さて、人と会えばそれなりに楽しいが、
まあ当然嫌な思いをすることもある。
運の良いことに明確な悪意には晒されていないが、
誰が悪いわけでもないが、傷つく、という経験くらいなら、少しした。

そんな中で気づいたことがある。
それが、
「私、傷つくのが結構苦手なんじゃないだろうか」
ということ。


待て待て待て、と言われそうである。当たり前だろう、と。
何を馬鹿なことを言っているんだ、傷つくのなんで誰だって苦手だと。
得意なやつなんていないだろと。

少し説明させてもらうと、
ここでいう「苦手」は「不快だ」「いやだ」の意味ではなく、
「下手だ」の意味である。
私は多分、傷つくのがとっても下手なのである。


精神的「受け身」

私はスポーツを全くせずに生きてきたので詳しくは知らないのだが、
武道には「受け身」というものがあるようで。
これが「攻撃を受けたときに、傷つかないような姿勢をとる」というものらしい。

精神的にも、きっと傷ついたときにとるべき「受け身」があって、
どうやら私はそれをちゃんと身につけられていないのではないか、
というのが、最近の気づき。

それができないから、私は「傷つくのが下手」なのである。

では、精神的な「受け身」とはどういうことだろうか。
それは傷ついたときに、ちゃんと「今自分が傷ついている」という感情に向き合うことなんじゃないかと、最近思っている。


下手な傷つき方

今までの私は、傷つくような事態に直面した時に、
感情ではなく状況に目を向けて判断をしていた。

「これは相手が酷い、私の側に正当性がある、だからひどいと主張すべきだ」とか、
逆に「こんなことで傷つくなんて、私の側には正当性がない。これで怒ってはダメなんだ、私がもっと強くならなければ」とか。

これはなぜかというと、
第一には、自分の感情に自信が持てなかった。
自分が傷ついているということがそもそも許されるのか考えてしまう。
自信がない人間には往々にしてあることだと思うけれど、
感情にすら大義名分がないと動けないのである。

第二には、「傷つく」というのはやはり弱さを想起させることで。
「こんなことくらいで傷つく弱い自分」を認められなかった。
認めなければ、ないものにできる。わけなんてないのに。

「こんなことくらいで傷ついて怒っちゃう心の狭い自分」
を自分で認められないから、
傷ついているくせに傷ついていないふりをする。
その結果、傷は正当な処置をされないまま放置され、
じくじくと悪化し、手を付けられなくなっていく。

たぶん、それが「下手な傷つき方」なのだ。
ちゃんと初手で正しい対処ができないから、一つの怒りを長引かせ、
悪化し、自分を、周りを、自分の人間関係を苦しめる。


上手く「傷つく」ということ

じゃあどうすれば、ということなのだが。
これからはまず「自分は傷ついている」ということを、
ちゃんと認識しよう、と思った。

傷つくことの正当性や弱さはいったん考えない。
「とはいえ今私は苦しいんだな、苦しいのはどういうロジックによるものなんだろう」といったん向き合ってみる。
「今回、どうして傷ついたんだろう。相手の拒絶か、嘘つかれたのが悲しかったのか、はたまたそんなことを考えてしまう自分の弱さか」と。

そのうえで、適切な処置を考える。
「自分もこういうところがダメだった、じゃあ今度からこうしよう」とか、
「相手にこういうことをされたのがつらかった」なら
「じゃあそれは伝えてみよう」とか
「もう二度と会わない相手だし、『ばーか』って心で呪ってやれば十分」とか。
考えるべきはそこを伝えるべきかどうかの正当性であって、
自分が傷つくべきかどうかの正当性ではないのである。
だって事実としてもう私は傷ついているのだから。

人の考えていることはわからない、というのは嫌と思うほど経験しているけれど、
じゃあ、自分の考えていることを正当に認識しているかというと、人間意外とそれすら怪しいもので。
もう少し、自分の感情を素直に受け止めて、行動できるようになったほうが、きっといろいろうまくいくんだろうな、と思う今日この頃。

ポジティブな感情はなるべく口に出すように心がけて生きているが、
ネガティブな感情を表現するのは、表現すべきか否かの判断を含め、結構難しい。
そこがもう少し上手くなれれば、生きやすくなるんじゃないかなと思うので、心がけてみようかと思います。

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