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[エッセイ] 熱い牛乳の話

クウネルマダムもすなるエッセイというものを、海抜0メーター地帯に棲むサラリーマンもしてみむとてするなり。

先週武田百合子のエッセイ集を買った。武田百合子という人を知らなかったが、挿絵の野田ユリの絵が魅力的だったのと、食べ物にまつわる話だったので買ってみた。さっそくウィキって見ると武田百合子は武田泰淳の奥さんだった人で、クウネルマダムに絶賛されているエッセイストだそうだ。武田泰淳もよくわかっていなくてさらに調べると人喰い事件を扱った「ひかりごけ」を書いた昭和の大作家だとわかりガッテンが行った。

武田の「牛乳」という文章を読んだ。
自分にも同じ体験があったコトを思い出す。2歳の時肺を患って以来度々肺炎になっていたので、脆弱体質だと扱われて配給制じゃなくなったばかりだった卵と牛乳を私は独り占めさせられていた。90年代、ベルリンの壁が崩壊する前の上海。

冷たい牛乳は飲ませてもらえず、口にするあらゆる飲み物や食べ物は全て温められていた。お隣さんと共同で使うキッチンに2台、二口のコンロが横並びになっているのを覚えている。隣の小区(団地群)よりも早く都市ガスになったのをお婆ちゃんはいつも自慢していた。雪平鍋にかけられた牛乳は急速に沸いていく。粟立つ牛乳の火を慌てて消すと手から離れた風船のように急に萎む。

私の熱々の牛乳は三人の爺さんが描かれた飯茶碗に注がれていた。子供の時の私専用の茶碗で、裏には「景徳鎮製造 made in china」と書かれていた。made in chinaの意味がわからなかったけどなんとなくエキゾチックな感じがした。

牛乳は膜が張っている。湯葉のことを中国語で
「豆腐衣」と呼ぶので、私はこの牛乳の膜を「牛乳衣」と呼んだ。牛乳衣は牛乳の1番美味くて栄養がある部分だと思い込んでいた。

毎朝同じ朝食で、ゆで卵二つと牛乳衣付きの熱々牛乳。味がしないパサパサの固ゆで卵を同じく味がしない熱々の牛乳で流し込んだ。味がしないくせに卵黄から妙な香りが鼻の裏を通る。温められた牛乳もコクや牛乳の香りは全て消し飛ぶのに牛乳の嫌な匂いだけが残る、厄介な善意。
武田百合子のように牛乳を吐かなかった。朝食のたびに吐いたら、別のメニューになったのだろうか?

あの時の牛乳のパッケージが思い出せない。牛乳パックではなかったはずだけどどうしても思い出せない。もしかしたら瓶に量り売りとかしてたのかもしれない。それとも毎朝お婆ちゃんが牛乳屋に行って買ってきてたのだろうか。私はお婆ちゃんが牛乳を鍋に入れている光景を思い出せない。思い出すのは沸いた牛乳と、薄い衣だけ。

小学校に入ると、三角錐のプラスチックテトラパックに入れらた牛乳が給食で配られた。それはそれは冷たい牛乳で、その牛乳の味と、分厚いプラの感触が好きだった。
教室のセメント床の上に25棹ぐらい机が整然と並べられていた。机は2人用で、「同卓同学」というのが、中国の小学生の初恋の一大ジャンルである。
一体成形されたアルミのプレートにご飯が盛られて、牛乳は別で配られた。プラの袋は手では開けられないし、ハサミもないので、奥歯でちぎって穴を開けた。この本物のテトラパックはもう姿を見ない。

日本に来て母親と住むようになってから温められた牛乳を頑なに拒み続けた。一方で冷たい牛乳への欲望は日に日に増していく。低温殺菌、ノンホモ、オーガニック、美味い牛乳があると聞けばどこへでも飛んで行った。牧場で飲むジャージ乳はアホみたいに美味い。もちろんほかの乳製品も貪るように買っている。バターは自家製するし、低温殺菌牛乳を週4本定期購入している。

私は牛乳が好きなのだ。漢方医学の何もかもを温めて体を冷やしてはいけないという思想に、その大好きな牛乳の良さが半殺しにされている。
結局、熱い牛乳を飲み続けても私は肺病が治らなかった。それどころかタンパク質過剰と診断された。日本に来て熱い牛乳と固ゆで卵から解放され、冷たい飲み物をガンガン飲むようになってからやっと元気になった。

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