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【日常的な】上澄み

 たまに日記を書こうという気が起きる。でも気が起きるだけで終わる。実行に移されることはない。0%。日常がHAPPY ENDに終わる可能性に等しく。
 どうしてやる気が起きないのだろうか。雪が舞うが如く分析する。

  1.  日記を書こうとする時間帯による影響
    日記を書く時間帯は、当然ながら夜になる (朝に書く日記というのはナンセンスである。たぶん)。
    →夜は眠たい (当然である)。
    →よって書く気が起きない (そんなことせず、さっさとベッドに入りたいからである)。

  2. 日記を書くことの意義を考えてしまうこと
    日記・人生・将来の夢etc.etc.において、意義などない、そんなものないと十分に理解している。はずである。それなのに、日記を書こうとするその瞬間にその思考が舞い降りる、しらじらしい初雪のように。

  3. 日記の価値の逆流によるもの
    私にとって日記の価値とは、内容を読むことにある。どういうことか。その時分に何があり、感情がそれによりどう揺れ動いたのか、知ることに価値を置くのである。他人の日記は簡単に読める (他人が書いていてくれているから)。しかし如何せん、私の日記は私にしか書けない。しかしそれは大変だ (なぜならば、手を動かし頭を回すというマルチタスクをなさねばならないからである。そんな芸当、私には到底できない)。言葉を紡ぐという行為の重要性は十分承知しているんだが。要は、読みたいがそれには書かないといけない (価値の逆流)、そのジレンマ、ということである。

 ひっきょう、書かないですむ理由を探しているようだ。
 こんなことを寄せては返す波のように日々繰り返し考えて、大津波のように後悔してしまっている。そのような現実が私には存在する。
 後悔する理由については上記3が特に当てはまる。やはり、読むためには書かないといけないのである。しかし、書くのは大変なのだ ("書く"というのは言葉の綾で、実際には"打ち込む"なのだが。しかしその違いが何を意味しようか)。
 また、私が日記を書こうとする理由はほかにもある。
 それは、思考の上澄みを掬い取りたいためである。人間は日々軽いものから重いものまで、種種雑多な思いを巡らしているという。その中でも言語化されるものからされないものまで。私は、その言語化されない思考を何とか言語化したい。それが時には、砂金のようなきらめきを備えていることだってあるから。そういうことである。
 なお"上澄み"と表現したその理由もついでに記しておく。日々感じた種種雑多は多次元空間に沈む。それらのいずれかは幾何学的化学反応を起こしあう。言語化されるレベルに鮮明なものは、それは上澄みと呼べるものなのであろう。そういうことである (どういうことなのだろう)。

 こんなとこでいいだろう。マルチタスクは疲れるし、昨日は雪が降ったし、ちょうどお昼だし。

昨日なんか降った雪。地面に舞い落ち、積もった様子は確認できるが、はたしてそれは皆が共通して想起する"雪"であると言ってよいのだろうか?

 日記をつけることを習慣化してしまえばいい。そうすれば、難なく続けられる。そのためには、今回の内容を踏まえてそれなりに改善していけばいい。人は歩むために後悔をする。
 今日はレトルトカレーにします。おわり。


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