【日常的な】「哲学をくれよ」

 日々はうつろう。それ以上もなくそれ以下もない。
 今回は、自分なりの"詩"の創作法 (メソッドというよりも、どのような過程で詩という形を成していくか) について書き記す ("哲学"の話をするわけではありません。タイトル詐欺ではありません。どうか。)。

 「よし!詩を書こう!」という積極的な意識でもって詩を書き始めることは、まずない。なにか、霧のような異形に後ろをぐいぐい押されるように、むずむずと詩を書こうとする。要は半ば強制的に書く、のかもしれない (自分でもよくわからない)。
 詩の創作過程だが、今のところおおむね2パターンの方向性がある。
 1つ目は、無意識的に、パッと思い浮かんだワンフレーズを取り上げて、そのフレーズから世界観を構築していく方法。2つ目は、普段から意識下にある、裏でうごめく気分を言語化する方法。

 1つ目について。下のような感じで進む。

  1. どうしてだか知らないが、その一文が頭に咲く。パッと咲く。不意に咲く。その一文が何を意味するのかは (今は) 分からないが、妙に気になる。そんな一文がある。

  2. とりあえず気になるのでいろいろ考えてみる。その一文と私の今の気分とを照らし合わせてみる、その一文を何らかの象徴と捉えてその一文から真意を掘り出してみる、などなど。つまり、その際の気分、象徴としての意味として、解釈を行う。

  3. 2の工程にて行った解釈をもとに、"詩"として形作っていく。(一応) 完成。

 こんな感じである。ちなみに、本題のタイトルである「哲学をくれよ」は、1の工程に示すように不意に沸いたフレーズである。浮かんできてから時間は経っているが、何だか意味ありげなフレーズなため今でも解釈を行っている。そのうち詩にするかもしれない。しないかもしれない。
 下には、1つ目の創作法によって生まれた詩の例を示す。
 「泣きたくなるよな空のした」、この一文を伝えるためにそのほかの言葉はくっつけられているようなもの。

泣きたくなるよな空のした
パッとしたこんな景色が
ボクのこんな願いをサッと殺す
あんな光が胸を焼いて……
泣きたくなるよな空の下で

 繰り返す日々の願う先
 皆みなの夢見る希望の光
 良くなるきっと良くなる明日の行方……

何よりも諦めたかった日常が
輝きをもってドアの前に
手みやげでもくれるのかい?
やぁ、少し中へでも入らないか?
きっと、前よりも仲良くなれる気がするよ
きっと、前よりも生きやすくなるよな

 次に2つ目である。下の工程で進む。

  1. 普段感じてる思いがまずある。言葉にこそまだしていないが、言葉にしないとやってられない思いがある。届けたい思い、棄て去りたい思い、とがった思い、ゆがんだ思い、冷たい思い、まぁさまざまな思いがある。

  2. 心のうちに問いかける。多次元空間である心の中にうごめくその"感じ"を、言葉に変換する。なるべく"その感じ"が伝わるような言葉を選び、並べる。そうして"詩"が完成する。

 だいたいこんな感じである。
 1つ目の方法でも、2つ目の方法でも、「よしやろう!」という気概で詩が創作されているわけではないのがよく分かる。
 ちなみに2つ目の創作法で生まれたのが下の詩である。

引き裂こうと幾度も試みたが、
やはり途中で立ち止まる
引き裂くゆえに伸ばしたが、
やはり途中で怖くなる

 影を落とすには十分過ぎた…​…​

無闇のぬるま湯にキミの煌めき。
それを大事そうに見つめている。
温もりの笑顔なキミがいる。
変わりない誉れ、

無情の雲は流れ、太陽は生きている

 影を落とすには十分過ぎた…​…​

切り裂いた、至極容赦なく
空空空から…
不定形のそれは、霧消した
見えなくなってしまった、

 影を落とすには十分過ぎた…​…​

 ただ、一つ重要な前置きを話すことを忘れていた。
 それは"詩"とは何か、というところである。つまり詩の定義である。
 しかし、これはここでは話さない。あまねく人類に共有すべき事物の構成を"定義"と呼ぶ。しかし、私が創作している私が"詩"と呼んでいるものが、私の創作法によってその定義を満たしているとは限らない (要は、自分がつくる詩を詩であると言えないという自信のなさの現れでしょうか。いえ、自信がないのならばこんなnote出さないですよね。可笑しいですね)(もしかすると、詩の定義がぼんやりしているのでしょうか)。
 ゆえに、詩の定義はこのnoteでは明示しない。それぞれのもつ詩の定義、もしくは辞書的な定義で補ってくれ。

 にしても、「哲学をくれよ」とは、なんとも横柄なやつなんだ。いろいろ解釈が行えそうである。

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