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極限の状況の中で生きる意味を考える <「夜と霧」を読んで>

今回は読書記事です。
(本の記事はいつもはブログに書いていますが)

今回読んだ本は、あの「夜と霧」(新版)(ヴィクトール・E・フランクル/池田香代子訳)(みすず書房)です。

この本は「言語を絶する感動」と評され、20世紀を代表する本とも言われています。随分前から知っていましたがようやくこの歳で読むことができました。

初版は1947年ですが、今回読んだものは1977年に新たに手を加えた改訂版を出版された「新版」の翻訳版です。
(旧版は霜山徳爾訳)心理学者、精神科医だった著者ヴィクトール・E・フランクルは、1942年第二次世界大戦中にナチスに連行され、ユダヤ人大量虐殺が行われたアウシュヴィッツ強制収容所に抑留されてしまいます。
その強制収容所での壮絶な体験記がこの本です。

フランクルは強制収容所の壮絶さ、凄惨さをただ書き記したのではなく、心理学者、精神科医らしく「生きること」「生きる意味」「人間の本質」などをテーマとして書かれています。

〈わたしたちは、おそらくこれまでのどの時代の人間も知らなかった「人間」を知った。では、この人間とはなにものか。人間とは、人間とはなにかをつねに決定する存在だ。人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばをロにする存在でもあるのだ〉

裏表紙より

ユダヤ人の虐殺が行われた強制収容所では、命の尊厳や価値などは認められず、過酷な生活が強いられました。
氷点下の中での重労働。監視兵のサディスティックな暴力。労働に耐えうる人間はガス室に送られる。土の上の寝床。シラミ取り。栄養失調、飢え・・・

苦しむ人間、病人、瀕死の人間、死者などが溢れていて、これらさえも見慣れてしまうようでした。

まずは生命を維持することが最優先事項となるのですが、肉体的に苦しいだけでなく、精神も追いつめられていき、自我の価値、感情の消滅やいらだち。生きている意味があるのかと多くの人が考えるようになります。

そして極限の苦しみの中でこう感じたのです。

ドストエフスキーはこう言った。
「わたしが恐れるのはただひとつ、わたしがわたしの苦悩に値しない人間になることだ」

その人々(被収容者)は、わたしはわたしの「苦悩に値する」人間だ、ということができただろう。彼らは、まっとうに苦しむことは、それだけでもう精神的になにごとかをなしとげることだ、ということを証していた。
最期の瞬間までだれも奪うことのできない人間の精神的自由は、彼が最期の息をひきとるまで、その生を意味深いものにした。
なぜなら、仕事に真価を発揮できる行動的な生や、安逸な生や、美や芸術や自然をたっぷりと味わう機会に恵まれた生だけに意味があるのではないからだ。
そうではなく、強制収容所での生のような、仕事に真価を発揮する機会も、体験に値すべきことを体験する機会も皆無の生にも、意味はあるのだ。

P112

充実した生だけに意味があるのではない、苦しみの生にも意味はあると気づいたのです。

行動的に生きることや安逸に生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死ぬことの一部なのだろう。
苦悩と死があってこそ、人間という存在ははじめて完全なものになるのだ。

P113

苦しみと一言で言っても十人十色。しかし、強制収容所のような人間の尊厳も糞もないような状況のなかで、生きる意味を感じなければ果たして生きていくことができたのだろうかと思います。
実際に自殺をする人も多かったといいます。

「なぜ生きるかを知っている者は、どのように生きることにも耐える」(ニーチェ)
生きる意味を見出せず、生きる内実を失い、生きていてもなにもならないと考え、自分が存在することの意味をなくすとともに、がんばり抜く意味も見失った人は痛ましい限りだった。
そのような人びとはよりどころを一切失って、あっというまに崩れていった。あらゆる励ましを拒み、慰めを拒絶するとき、彼らが口にするのはきまってこんな言葉だ。
「生きていることにもうなんにも期待がもてない」

P128-129

フランクルは「生きる意味」について大胆な考えを打ち立てます。

生きる意味について180度方向転換することだ。
わたしたちが生きていることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。
哲学用語を使えば、コペルニクス的転回が必要なのであり、もういいかげん、生きる意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思いしるべきなのだ。

生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。

P130

この部分がこの本で一番有名な箇所だと思いますが、まさに180度転回した考え。自分が「生きる意味」を問うのではなく、「生きること」が私たちになにを期待しているのか。
哲学的であると思うのですが、「生きること」が意志を持っているのですから思いもよらない発想です。

また、人間は耐えるということを克服するために、自分の存在意義が必要だと言っています。

ひとりひとりのかけがいのなさは、意識されたとたん、人間が生きるということ、生き続けるということに対して担っている責任の重さを、そっくりと、まざまざと気づかせる。
自分を待っている仕事や愛する人間にたいする責任を自覚した人間は、生きることから降りられない。まさに自分が「なぜ」存在するのか知っているので、ほとんどあらゆる「どのように」にも耐えうるのだ。

P134

当然ながらこの本は収容所から解放されてから書かれたものですが、最後にこのように書かれています。

ふるさとに戻った人びとのすべての経験は、あれほど苦悩したあとでは、もはやこの世には神よりほかに恐れるものはないという、高い代償であがなった感慨によって完成するのだ。

P157


この本のジャンルは思想哲学に類すると思うのですが思ったよりも読みやすく、しかし思った以上に深い内容でした。

「人間」の持っている本当の恐ろしさと、また同時に恐怖におののく「人間」もまた同じ人間。
この不思議な「人間」の在り方を哲学的に書かれた本だと思いますが、体験した本人が書いているのだから説得力はこの上ないものがあります。

現代のような文明が発達した平和な先進国に生まれて考える「生きる意味」と、自由や命の尊厳などない極限の苦しみの中で考える「生きる意味」はそもそも起点が違うとは思いますが答えは同じなのではないでしょうか。

翻って自分はどう生きたら良いのか。僕にはまだ明確な答えがありませんが、期待に沿える生き方をしなければならない。誤ってはいけないと改めて思うのでした。
この本が生きる上で大切な一冊になったことに違いありません。


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