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Do or Do not

以前、帰省したときのお話。久米島から最終便一歩手前の便で羽田に飛んだ。前回、飛行機が遅れて埼玉の実家まで帰れなかったので、今回はもう少し余裕をみたつもりだった。しかし、今回も飛行機は遅れた。私はまたも実家まで帰るのを諦めた。

しかし、機内でよくよく調べてみると、リムジンバスに乗れれば、なんとか帰れることがわかった。大急ぎでネットで購入し、バス停まで走った。

結果からいうと、私はリムジンバスに乗り遅れた。たった、1分の遅れだ。

そして、乗り遅れたのが分かった瞬間から、私は怒りが燃えてきた。

実は、その前にいくらでも遅れを回避する手段があった。

ローファーではなく、スニーカーでくる(友人の結婚式に出るための帰省で、荷物を減らすために慣れないローファーで来ていた)。

ちゃんとバスの出発時刻を確認する(帰れる!と思った瞬間に目線を切ったので、10分発を20分発と勘違いしていた)。

飛行機の席を前の方に移動させてもらう(遅れが出た時点でCAさんに帰れるか不安になって相談していた。一番後ろの最後尾の席だったのだ、気をきかせて少し前の席に移動してもよいと言ってくれていた。席を動くのもなんだったので、お断りしていた)。

人垣にちゃんと声をあげて通してもらう(走っていくときに、わざわざ人が一旦どくのを待って走っていた。声をかけるのを恥ずかしがった)

もうちょっと速く走る・・・(足が遅い(笑))

とりあえず、1分ぐらい縮める努力はできたはずである。それをしなかったことによりも、行ってしまったバスを恨んだ。

「あー、今出たばっかりですね」と無慈悲に言ったチケット切りの男性に怒りを覚えていた。

私はなぜ、こんなにも怒りにかられたのか?

「やらなかった」からである。最後の飛行機の出口から、バス停まで、てきることを「やらなかった」からである。

もともと、「帰りたい」と思ってなかったのに、「帰れるかも」というのがわかり、「欲」が出たのだ。しかし、「まあ、帰れなくてもいいか」と心の平静をとろうとしていた「慣性」に負けて、「やる」ことに身をいれなかったから、「バス」に怒りを覚えたのだ。

もっと言えば「中途半端に頑張った」から、怒っていた。


自分が「やりきらなかった」から「怒って」いるのだと気づいたとき、自然に怒りは収まってきた。それまで考えていた「こうなる前に手を打つべきだ」とか「やりきらないからお前はだめなんだ」とか、雑念はすっと消えた。

気も鎮まり、穏やかになっていた。

おそらく、「今日はまあいいか」としっかりと諦めるか、「なにがなんでもバスにのる」と思い、手を尽くすかをすれば、「怒り」はなかっただろう。

身の内と、行動を一致させるだけで、人間は上機嫌でいられる。

スターウォーズのヨーダではないが「やる」か「やらないか」なのだ。「やってみます」は「不機嫌」を生む。

以下オマケ

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