肯定は、鎖のようにつながってはじめて

今日、大好きな人たちにお会いした。EMSを共にした仲間だ。

会うだけで出てくるパワーが全然違う。温泉に浸かったようにポカポカしてくる。ふわっと自然でいられる。

こう書くと宗教臭いのでもうすこしラフに言えば、気のおけない友達とずっと一緒にいるイメージである。単純にそれだけ。

ただ、そういう関係になれる人数が今まで少なかっただけで。

一体全体何が起こっているのかを考えた。

肯定ファーストはかなり大事。今日も、みんな気持ちよく人の話を聞いていた。気遣い合い、その人の話を面白がる。楽しいから大笑いする。

そこで、ふと気づいた。

「肯定される経験が、連鎖すること」が大切なんだと。

「その肯定に、どれだけの肯定がぶら下がっているか」を、じつは人は感じているのかもしれない。

僕は自己肯定感が低い。しかし、いつもどこかに違和感があった。

スポットスポットで、褒めてもらえたし、できることもあった。自己肯定感や効力感は、育ってもいいはず。

特大の肯定をもらったこともあるのに、なんで自己肯定感が低いのか?

そこではっと、肯定の連鎖が切られていたことの可能性に気づきました。

僕の脳みそは馬鹿なので「あっちではよくて」「こっちではだめ」なものが、未だにわからない。なんで、同じような状況で判断がみんな一緒にならないのか?

そんな「制約」を課しているから、一方ですごく肯定されても、一方で否定されると、すごくその「否定」に引っ張られてしまうのだった。

それは、まさに論理的である、ともいえる。人の反応を論理で解釈しようとしている。

ある論理を証明するためにはいくつの肯定的サンプルがあっても、論理を否定するものが一つあるだけで、本来はその論理は成り立たない。

だから、肯定は鎖を編むように「連鎖」している必要がある。肯定の量(すっごく肯定してくれる人、全霊をもって肯定してくれるような人)がいたとしても、たとえば、東京ドームいっぱいに肯定してくれる人がいても、おそらく肯定力は満たされない。

贈られる肯定に、どれだけ肯定がつながっているか、が実は大事なんじゃないだろうか。

「あの人が肯定しているあの人が肯定しているあの人が肯定してくれること」に力を感じるのだろう。

手っ取り早くその欲求を満たすためには有名人から肯定をもらうことだろう。だから、有名人に会うと嬉しいのだ。有名人は少なくともたくさんの段階で肯定を連鎖させたものを、もらっている。

いくら有名人だからといって、殺人鬼に肯定してもらっても嬉しくない理由の一つがそこにある。

その肯定の連鎖はもろい。前述のように否定が一つでも入ると肯定の鎖は壊れて、解けてしまう。

全員の一致とはまた違うのだが、肯定は「いかに連鎖させるか」が非常に重要な気がしている。

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