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なんで嫌われたんだろう。

今、UCURARIPのツイッターを整理している最中だ。

ファンの皆さんには申し訳ないが、メンバーのツイートを管理するために、一方的にフォローを外すという、俗にいう”サイアク”な行為を日々していて、心が痛い。

そんな自分を肯定するように、「個人のアカウントだったらめちゃくちゃファンとの交流大切にしてますから!」と、言い聞かせている。

なので、これを読んでるファンのみんなはこの個人のアカウントと仲良くなろう。UCURARIPのアカウントは情報キャッチのためにフォローしててくれ。

そこで少し思ったことがあって、フォローを外す過程でフォロワー一人ひとりを見てフォローを解除しているわけだが(一括解除もできるけど、それはなんか味気ないし、せめてもの償いとして数日かけてちまちまやってる)、すごく懐かしい人たちを見つけてしまって「今何してるんだろうか?」と最近のツイートを覗く。

昔はあんなにもいいねやリプライをくれていた人が、いつの間にかそれをやめてしまって、多分今やUCURARIPなんて頭の片隅にもないんだろうといった日々を更新している。

すごく悲しくなった。

そりゃTwitterにそもそも飽きることもある。特に歳を取ればSNSなんて情報量の多さにうんざりするだけだし、現代社会の疲弊源と言っても過言ではない。(現におれもバンドしてなかったらもうSNSなんてやめてるだろう)

それ以外にも”昔のUCURARIPが好きだった”と思ってる人も多いのかもしれない。5年前には全然想像もできなかった姿だし、UCURARIPの変化についてこれなかった人たち。

まぁ何らかの理由があって、今はUCURARIPのことなんてこれっぽっちも考えていない日々を送っている。

それがとても悲しい。

今のおれが、他のバンドマンよりも大切にしていることがある。
それはファンをリスペクトする(=人間として同じ立場であると忘れない)ことだ。

なのに、みんないいねしなくなったってことは、多分昔のおれはそれができてなかったんだろうなー

もちろんアーティストとしてファンにコンテンツを提供している立場ではあるが、それが形式的なものであってはいけないと思っている。

音楽が生まれて、配信されて、ライブをする。
音楽を探して、聴いて、ライブを見に行く。

それを”人間”がやっていることに価値があるんじゃないかな。
yskという人間が。
UCURARIPメンバーという人間たちが。

よくある”提供する側がえらい”という関係はおかしなものだ。どうしてもアーティストは崇拝される(されているように感じる)対象になってしまうからこそ、そこに慢心してはいけないと思っている。

コンテンツとして崇拝されることを、自分自身が崇拝されることと履き違えてはいけない。それって結局はコンテンツを言い訳に承認欲求の吐口にしているのと変わりがないと思ってる。
崇拝まで含めてコンテンツとして成り立ってる場合もあるが、それは表層的な部分で内的にリスペクトを失ってはいけない。

それが持続可能な提供システムを形成する一番大切なことだと思ってる。

なんか難しい文章になっちゃったけど、、、
要は”I love you”ってことだし、おれはそれを一人ひとりの顔を見て、イチ人間としてしっかりと伝えられるアーティストであり続けたい。

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