許容しよう、受容しよう。考えよう。
学校、仕事、プライベート。
人と人が営む空間では様々な価値観が交錯します。
価値観の相違が噛み合い、より良い何かを生むようなことができる環境が生まれたり、また価値観の相違から互いを嫌い、険悪な環境が出来上がってしまったり…。
人同士が関わるのであれば、何かしら起こるのが当たり前でしょう。
しかし、そのような価値観の違いを許すことができない人が、社会には一定数存在します。
自分が考えることが正しく、外部の意見には必ず粗があって、それを許すことができない。だから態度に出して相手を威圧し、屈服させる。
相手を屈服させたら自分が正しいと証明できた気になって、悦に入る。
どうしてもこのような人は存在してしまいます。
具体例をあげましょう。
僕が家電量販店でパソコンを探していた時のことです。
ある男性がスタッフに声をかけ、なにやら話をしていました。
よくよく聞いてみると
「この店のこの部分の商品の陳列は俺の気に食わない。だから俺の言うとおりに陳列を変えなさい。そうすればこの店の売り上げは必ず上がる」
…とこんな内容だったのです。
当のスタッフも困惑していました。
しっかりとユーザーインターフェースを考えて陳列した部分を一人の客の意見で変えなければならないのか。
よくよく考えたら…いえ、よく考えなくてもおかしな話です。
僕は用があってすぐにその場を離れましたが、ここで考えたポイントを考えると、
・店の決めたことと一人の客の意見とで、どちらを取るべきなのか
・なぜ男性客は自分の言うとおりにすれば売り上げが上がることを確約できるのか
・そもそも男性が自分の意見をあの場で通そうとする理由は何か
以上の3つになるわけです。
特に、僕が一番疑問に感じたのは3つ目の
そもそも男性が自分の意見をあの場で通そうとする理由
なのですが、ここでこの記事の主題に戻ってきます。
あくまで僕の考えですが、あの男性は「自分の意見を通すこと」そのものが行動理由であり、目的だったのではないかと思うのです。
世の中には「目的のためには手段を選ばない」人がいますが、
ごく稀に「目的と手段を混同してしまう」人が存在します。
本人は否定すると思いますが、あの場での男性の行動は、
自分が関わることで自分より目下の人間の行動を変える→
自分の言葉で行動を変えた他人を見て「やってやった」と自己満足に浸る→
「自分の言うことは正しい。これからも周りを正してやろう」と更に過激な思考になる
という流れだったのではないでしょうか。
価値観の違いを許すことができない人は、他人を自分に合わせようとしがちです。自分の主張が間違っていないか、欠点がないかなどを顧みる習慣が少ないのが原因なのではないでしょうか。
僕にもこの思考が少なからずあります。
友人の言うことに噛みついて自分の考え方に寄せようすることも多少あります。
ですが、これって考えることを放棄しているから生じる考え方なんです。
少しでも他人の言おうとしていること、やろうとしていることを受容して、認めようと考えれば頑固に自分の考え方を押し付けるようなことにはなりません。なのにこのようになってしまうのは、許容、受容するための思考を放棄しているからだと思うんです。
異なる価値観を許すことができるのなら、他人の思考や行動を理解できるだけの思考力があるのなら、僕たちはもう少し幸せに生きることができるのではないでしょうか。
少なくとも例に挙げた男性のように、自分の理想とは異なるから他人の行動を変えさせる人にはならずに済むのではないでしょうか。
幸せを享受したいのであれば、許容しよう、受容しよう。考えよう。
そんなことを考えながら書いた2022年一本目の記事でした。
playing:ブライアン・タイラー「the Ranch」
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