見出し画像

Jリーグがやってくるヤァ!ヤァ!ヤァ!

※結構長めですご了承下さい。

しっかし水野晴郎氏はよく映画「A Hard Day's Night」の邦題を「ビートルズがやってくるヤァ!ヤァ!ヤァ!」とできたと思うんです。

邦題がどうしてこうなったんだと思えるように、どうして今治にJリーグがやってきたんだろう。と開幕した今でも未だに不思議に思えるのです。

たぶんこの街にそういう息吹のいの字もなかったように思う。もちろん僕にも。

1993年、当時5歳。幼稚園児。
we are the championがやたらテレビで流れまくってたのは覚えている。ほんと記憶がそれだけ。
あとサッカーしたいって言ったら危ないからダメって母親に言われたのもこの頃。

2002年、当時14歳。中2
W杯で日本にやって来た貴公子デイビッド・ベッカムの最終予選では坊主だったヘアスタイルがソフトモヒカンになっててくっそビビった。アレ別人だもん。
でも自分の力で外に出られなかった中坊にとって日本代表の躍進はテレビの中のことだった。
でも嬉しかった。

2006年、当時18歳。高3
W杯ドイツ大会
「やなぎさわ、たまーだ、まき。」
当時の高校生男子はあのジーコの物真似を何回したことだろう。
コミュニティ放送で持ってた番組であの物真似をやりすぎて局長さんに怒られた。
日本の敗退が決まった時、中田英寿がカイザースラウテルンのピッチの上に横たわったあの姿に涙した。

そして翌年から大学進学で関西に住み出して、長居、万博、神戸、西京極。在学中は年に10試合くらいはスタジアムに足を運んで観戦をしていました。

親戚と関西圏でのJの試合を観戦しに行った日、メインスタンドで観てたのだが、テレビで見た光景が目の前でやってんなーっていうのが当時の率直な感想でした。偶然にもその試合が05年最終節、長居の悲劇ってのが持っているというのか持ってないというのか…。
過去に見た愛媛開催された天皇杯4回戦くらいの試合とは全く違った景色だったのも新鮮でした。

…お気づきの方はいるかもしれないが2006年から愛媛FCがJ2に参戦することとなります。

しかし、当時の自分にとっては愛媛FCの存在が日韓W杯の日本代表よりテレビの中の出来事のように感じていました。

高校ラストイヤー、部活に受験にコミュニティ放送での活動にと今思い返せば割と忙しかった日々を過ごしてるやん!という具合だったのと、何より愛媛FC勝ったよー!と話題になるような事が自分の周りではなかったのがその要因だったように思います。
そのため隣の県都で行われているJリーグを感じられなかったのかなぁと。

その盛り上がり、というか完成されたカルチャーを関西で体験することとなるのだけれども。

そして数年後、夢破れ(いや、特段夢なかったけどさ)
帰郷した自分の前に彼らは唐突に現れた。

そして仕事や周りのことにちょっと余裕が出てきた時、僕は何かを思い出した様に彼らにのめり込んだ。

2020年、現在32歳(になる年)
自分の生まれ育った今治で、あの清正の裏の山だったとこでJリーグが開催される。

特にこの1年、職場で利用者さんから普通にサッカーやFC今治絡みのことで声をかけられるなんて帰郷した頃は夢にも思わなかった。
何なら学生時代サッカー部だった訳でもない。
本当に人生は何が起こるかわからない。

不思議に思えることって意外と必然だったりするのかもしれない。そう思えたりもする。

それと同時に今治の人はもちろん今治以外の人にも身近にこのチームのある、Jのある幸せを少しでも多くの人に感じてもらえたらいいなと。
ちっぽけな力だけれどもそう思ってもらえる助けになりたい。と思っている。

そして土曜日に鹿児島戦を夢スタで観た後の僕はこう言っていると思う。

サッカーって本当にいいもんですねぇ!!

…願わくば彼らの勝利を見届けて、
FC今治の勝利を。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?