エッセイコミック作家始めました 第二話
『アトリエMARIKA』のドアを開いたのは、午後四時を過ぎた頃だった。岡田さん夫婦と別れてから、どんな時間を過ごしていたのか、正直、覚えていない。何を考え、どんな景色を見て、どの道を通り、どんな風を感じていたのか、全く思い出せないのだ。ただ、気が付けばまたここに来ていた。
そして、まるで時間が止まっていたかのように、変わらない風景が私の目に映った。麻島先生も高梨も四時間前と同じ椅子に座り、同じように苦渋の表情をしている。白紙のコピー用紙も、飲みかけのコーヒーも全く変わらず同じ場所にある。唯一違うのは麻島先生の後ろのテレビから、音声が流れている事くらいだろうか。
「おっ、おかえり」
顔を強張らせた麻島先生が声を掛けてきた。
「あっ、すいません。急に飛び出して」
私は自分の席に付き、仕事の準備を始めた。真っ白なケント紙に杉山の笑顔が浮かぶと、靄が掛かり水滴が二滴落ちてきた。
「灰谷ちゃん、戻ってきたんだ?」
麻島先生の言葉は、まるで迷子にでも掛ける様に優しさと戸惑いが混ざっていた。
「えっ、仕事ですから」
今、私がここに居る、という事は、オートロックで呼び出しをして、誰かが解除してくれたのだろう。上着とマフラーがハンガーに掛かったまま、という事は薄着のまま四時間も寒空の下に居たという事だろうか。
「しっ、仕事するの?」
「ええ、そのつもりですが、どうかしました?あれっ、今日は私、お休みでしたっけ?」
「いや、そのう、確かに月曜日は灰谷ちゃんの勤務日だけど、いや」
麻島先生の表情は、鬼か悪魔にでも遭遇したかのように固まっている。そんな麻島先生と私の顔を交互に見ながら、池の中の鯉のように口をパクパクさせる高梨がいた。
「えっ、どうしたの?」
「いやあ、今日はゆっくり休んで構わないけど」
いつのも事だけど、頼りない彼の口調に少し笑えた。
「私は大丈夫ですよ」
えっ、何が大丈夫なの?もう一人の私が問い掛ける。
「だって締め切りもあるし」
締め切り、って、他人の仕事の締め切りがそんなに大切なの?
「大丈夫、大丈夫、さぁ、やりましょう」
知り合いが二人も死んでいるんだぞ。
「いや、実はまだネームも完成していないんだ。っていうか、それどころじゃ、無いだろう」
高梨はテレビ画面に目を移しながら、そう言った。岡田夫婦と抱き合う私が写っていた。
「そうなんですか?」
私はわざらしく驚いた……に違いない。今、私は、どんな立場にあるのだろう?気を使われる立場なのか、その逆なのか。社会人としての常識とか、道徳とか、ごく当たり前の感覚を失っている。
「今日はとりあえず帰って。ゆっくりしたらいいよ」
麻島先生の言葉に、うん、うん、と高梨が頷いている。
「いや、本当に大丈夫です。ネームが出来るまで待っています」
私がそう言うと麻島先生は俯いた。深いため息をつく様子を私の目は見逃さなかった。そこで始めて自分の立場を自覚した。明らかに今の私は、この場にいるのに相応しくない人間だ。世間を賑わしている凶悪犯罪の目撃者が傍にいたら、気になって仕事になるはずがない。四時間も経ってネームが進んでいない理由も理解できる。
「じゃあ、一回家に帰りますので、ペン入れが始まったら連絡下さい。うちも近いから直ぐに駆けつけます」
「そうだね。そうしようか。ごめんね、いつも仕事が遅くて」
「いえ、いえ、気にしないで下さい。今日はコンビニのバイトも入っていないし」
「例え入っていても、今日は無いだろう」
高梨の不謹慎過ぎる発言に室内が凍りついた。私は無理に笑顔を作り手を振りながら、それでは、と言い捨てこの場を後にした。自転車のサドルを跨いだ瞬間、上着とマフラーを忘れている事に気がついたが、流石に戻る事は出来なかった。
彼の不謹慎を責める事なんて出来ない。こんな私も頭の片隅ではまだ読めていない『週刊少年スカイ』と今日発売の『恋するエイリアン』五巻の事を考えていた。帰る、と決めた瞬間にはその色が鮮やかになっていった。
帰宅中に最寄りのスーパーに寄り、夕食にするコロッケパンとヨーグルトを買った。周りが皆、私を見ているような気がするが、それは気のせいだろう。例え気のせいでなくても、夕食を摂る権利はあるはずだ。
スーパーの二軒隣には馴染みの本屋がある。一度は通り過ぎたが、後戻りし入店した。コミックコーナーの前まで来て、改めて躊躇したが足が進んでいた。心の中で、傷ついた心を癒す為だ、と繰り返しながら『恋するエイリアン五巻』を手に取りレジに向かった。小銭を揃えて、それにポイントカードを添えて店員に渡す。慣れた手つきでブックカバーをしている様子を見ていると涎が零れてきた。
店を出て、一応スマホを確認した。予想通りネームが完成した、という連絡は入っていない。まぁ、あれから数十分しか経っていないから仕方無いのだろうが、恐らく今夜中にその連絡が来る事は無いと思う。私に気を使って、という事もあるだろうが、実際にネームが出来ていないのだと思う。
江戸川橋駅へ向かうサラリーマンの群れを縫うように、自転車が進んでいく。すっかり日も落ちて、自宅アパートに近づく頃には空は黒紫に染まっていた。
築二十五年の木造三階建てワンルームマンション。木造アパートとはいえ、定期的に壁の塗り替えなどがされており、外観は綺麗に保たれている。一階は学習塾になっていて、そこに子供達が入っていく様子が見えた。角部屋の303号室から明かりが漏れている。
何故だろう。急ぐあまり電気を消し忘れたのだろうか。悪い夢、いや、正確に言えば現実と想像がぐちゃぐちゃの混ざった後味の悪い夢から覚めて、混乱のあまり電気を消し忘れて家を飛び出したのだろうか。いや、そんなはずはないのだ。そもそも貧乏性の私には日中に電気を点ける習慣はなく、きょうも一切電気を点ける事なく家を出た。
青いカーテンが綺麗に閉まっている。そこに微かな影が流れていった。
何者かに私の心臓が掴まれた。額から油汗が垂れてくる。また何か悪い事が起こるような予感が働く。学習塾の生達の自転車の横に自分の自転車を並べ、ゆっくりと一歩ずつ確かめるように階段を上がった。301号室から水道の音が聞こえ、換気扇から焼きたてのハンバーグの匂いが漂ってくる。302号室はどうやら留守のようだ。ここは夜の仕事をしている女性が住んでいて、この時間はいつも居ないのだ。私は303号室のドアノブにそっと手を伸ばし音を立てないように回した。そして引いてみるとドアが開いた。僅かに開いた隙間からは黒い革靴が見えた。私は静かにドアを閉め、なるべく音がたたないように階段を駆け下りた。学習塾の看板に体を隠し、スマホから110番に電話をした。
〈こちら110番です。事件ですか、事故ですか?〉
私は聞き耳を立てた。上階から誰かが追ってくる様子はない。
「たっ、多分、事件です」
〈どうなさいました?〉
「私の家に誰かが居るんです」
〈あなたのご自宅に知らない者が居るのですね?わかりました。警察官を向かわせます。もう少し状況を詳しくご説明下さい。まずはあなたのお名前と住所を教えて下さい〉
「私の名前は灰谷由です。住所は文京区水道○○○コーポヒルタウン303です」
相手は私の言った事を復唱する。
「そうです。昨夜のコンビニ強盗の目撃者です」
警察は十分程で来るそうだ。私はここから離れ警察が来るまで待機するように言われた。アパートを離れようと思ったが、妙な胸騒ぎと正義感がそれを拒んだ。私は一階の学習塾のドアを開いて塾講師を呼び出した。二十代後半と思しき女性講師は、困惑の表情を浮かべながらも、私の指示に従い外に出てくれた。
「どうしました?」
私は人差し指を自分の唇に当て、声を落とすように合図した。彼女の顔には見覚えがある。よく近所で見かける顔だが、こんな近くで働いているとは思ってもいなかった。
「私はこの上の住人です。私は殺人犯を目撃しました。犯人はまだ捕まっていません。私の家にいる可能性があります。今、警察を呼びました。警察は間もなく来ます。何かあった時の為に子供達を守る対策をして下さい」
「わかりました」
塾講師はそう言って踵を返した。
程なくして警察車両がやってきた。私服の刑事(らしい人)が私を見つけて「通報者の灰谷さんですね」と問い「そうです」答えた。
「303号室ですね」
「はい、あの明かりの見える角の部屋です」
「分かりました。念の為に鍵を預かってよろしいですか?」
「ええ。勿論です」
「因みに住所を知られた心当たりはありますか?」
いや、ありません、と言い掛けた時、私の脳内に電撃が走った。
「あります」
私の発した声に私自身も驚いた。刑事はさっき私が塾講師にしたように、声を落とせと促す。
「私、今朝、杉山に連絡しました」
「杉山さんって、被害者の?」
「ええ、私は彼がまだ生きていると思ったので、その確認に連絡しました」
「電話ですか?」
「いいえ、メールアプリです。杉山に連絡すると返事が返ってきました」
そう言いながら、私はスマホの画面を刑事に見せた。刑事は「なるほど」と頷く。刑事は別な刑事を呼び「被害者の杉山さんの携帯電話が見つかっているか調べて下さい」と指示した。
「杉山さんは仕事中も携帯電話を所持していましたか?」
何かおぼろげに記憶が戻ってきた。こんな事を散々パトカーの中で聞かれた記憶がある。その時も同じ答え方をした。
「はい、いつも肩身離さず持っていました。仕事中でも暇があればポケットからスマホを出して見ていました。私の写真なんかを撮って楽しんでいました。事件があったその時も手に持っていた可能性はあります」
「そうですか、もし犯人が被害者のスマホを持ち去っていたら、この場所も分かりますよね」
「はい、杉山はいい加減な奴でしたが、細かい部分もありました。私の住所なんかも正確にアドレスに記録していたと思います」
一日に二度もパトカーに乗る機会なんて、もうこの先無いだろう。そう意味では私は貴重な体験をしているのかもしれない。私はパトカーの後部座席にもたれながら暇を弄んだ。自転車のカゴに納まった漫画達を取りに戻る訳にもいかず、警察の動向にも興味が持てず、真っ直ぐフロントガラスの向こうを眺めていた。車内は暖房が効いていて意外と暖かく、そのせいで自然と瞼が下りてきた。少し位なら眠っても良いだろう。警察も私が寝不足であるという事を知っているはずだ。私は自分の身体に任せて眠る事にした。が、そう上手くは行かない。制服を着た警察官が近づき窓をノックする。
「はい」
私の返事を聞くとドアを開いた。
「お部屋の中を確認致しましが、特別に何もありませんでした。一応、お部屋をご確認下さい」
「えっ、はっ、分かりました」
アパートの周りは人だかりが出来ていた。まだこの光景に慣れていないし、今後慣れる事はないのだろう。半開きの学習塾のドアから、あの女子講師が外を覗いていた。私と目が合うと彼女は軽く会釈した。
部屋に戻ると、私服の刑事が近づいて来た。お世辞にも綺麗とは言えない、いや、どちらかと言えば汚い部類に入る無骨な男だった。汚いジーンズ、よれよれのネルシャツに黒のダウンジャケットを重ねていた。まるで刑事ドラマや漫画の主人公とはかけ離れた印象を持った。その刑事はまるで昔からの知り合いかのように、親しく接してくる。今朝、私を見つけ、声を掛け、助け出し、事情を聞いてくれたのがこの刑事なのだろう。名乗って来ないという事はそういう事なのだろう。ただ、私にその記憶は無い。
「何か盗られた物が無いか、確認してもらえますか」
「はい、勿論です。分かりました」
「あと、犯人がここに居た可能性があるので、簡単に調べさせてもらって宜しいですか?」
「調べる?」
だって、何も無かったのでしょ。
「ええ、指紋とか確認させて下さい」
だから、何の為よ。何も無かったのでしょ。
「はい、大丈夫です」
その言葉が開始の合図であったかのように、何人かの警察官が動き始めた。恐らく、これが鑑識というやつだろう。その鑑識が薬物を使って私の部屋を調べ始めた。
私も自分の部屋を調べ始める。部屋は荒らされた形跡は無い。そして何かが盗まれた形跡も無い。そもそも金目の物など初めから無いし、DVDレコーダーの上に置いた貯金通帳も、印鑑もそのままそこにある。『サムライ刑事』全二十八巻も、『ファイトファミリー』全十六巻も、『キス オブ ブラッド』全七十二巻もちゃんと綺麗に並んでいる。勿論、私が過去に書いてボツになった作品達も、麻島まりか先生から預かった資料も全て残っている。
「何も盗られていません」
「そうですか。それは良かった。もし後で何か気が付いたら、いつでも連絡下さい」
私の不安を鼓動が知らせてくれた。もしかしたら最初から誰も居なかったのかも知れない。心が混乱しているせいで、誤って電気を点け、鍵を閉めず外出したのかも知れない。カーテンに映った人影も、玄関にあった革靴も幻だったのかも。そう思うと罪悪感が沸いてきた。私の虚言で多くの大人を動かしてしまったのかもしれない。その中には家族との約束や、彼女とのデートを断って残業をしている者がいるのかも知れない。
「ごめんなさい」
言葉にしてしまった時、目頭が熱くなっていた。
「どうしました?」
刑事が私の顔を覗き込んだ。腫れぼったい一重瞼で、無精髭の男が私の視野に入って来た。
「ちょっと頭が混乱していて、見えないものを見てしまったかもしれません」
「いや、まだ何とも言えませんよ。僅かな時間で逃げたのかもしれませんしね」
「そんな事ってあるんですか?私は出入り口をずっと見ていました」
「意外と逃げられる手段はあるんです。もし犯人がプロなら尚更です。それに、もし仮に見間違いだとしても、自分を責める事はありません。事件の目撃者や被害者は、意識が過敏になるものです。まして犯人はまだ逃亡中ですからね」
「ありがとうございます」
私は深く頭を下げた。例え社交辞令でも嬉しい。刑事の優しさが身に染みてきた。
「一旦失礼しますが、この辺りの巡回を強化します。新宿署と大塚署で連携をとってお守りしますのでどうかご安心下さい。何か気が付きましたら、捜査本部に直接連絡下さい」
そう言って、電話番号の書かれたメモを渡された。恐らく、この電話番号を渡されるのも、二回目なのだろう。
鑑識の作業も終わり、少しずつ部屋から警察官の数が減っていく。全ての警察官が部屋を出ると、指示通り鍵を閉めて生まれて始めてドアチェーンを掛けた。部屋の窓が全て閉まっている事を確認しながら、外の様子を覗いた。一台ずつ警察車両が去って行く。自転車のお巡りさんも散り散りに別れていく。最後の一台が離れて行こうとした時、怖さと寂しさが込み上げてきた。「ふうー」と長めのため息を吐いた時、私の背後に何かが迫る気配を感じた。恐る恐る振り返ると、若い警官がそこに立っていた。
「あっ、あっ、あっ、あっ、あっ」
こっ、声が出てこない。
あっ、顎の尖った、せっ、背の高い男だ。はっ、はっきりとこの男の顔を見た事は無いが、しっ、シルエットが近い記憶に張り付いていた。男は無表情で私の目を見つめている。私は今、何が起こっているのか直ぐに察した。
普段漫画を書くために座っている椅子。それを持ち上げ、渾身の力を振り絞りバルコニーに出る窓に投げた。窓ガラスは粉々に割れ、カーテンを沿って流れ落ちた。私はハードル選手のようにバルコニーに飛び出し、その勢いを借りてバルコニーからも飛び降りた。私の身体は一瞬宙に舞い、下の部屋のバルコニーに着地した。体のあちこちに痛みを覚えたが、恐怖心がそれに勝っていた。
「助けてー!」
閑静な住宅街に私の叫び声が走る。その声が向かいのマンションに当たってはね返って来た。帰ろうとしていた野次馬が一斉に振り返る。走り出したパトカーも急ブレーキを掛けた。自転車のお巡りさんも戻ってくる。
「男がいます。犯人の男が、まだ私の部屋にいます」
嘘じゃない。幻でも、勘違いでもない。間違い無く私はコンビニで杉山と陳君を撃ち殺した男と遭遇したのだ。念のためにバルコニーに寄りかかり、三階を確認すると、同じく私を確認するあの男と目が合った。男は歯を食いしばって私を睨んでいた。私は指を刺して再び叫んだ。
「あいつです。あいつが犯人です。早く捕まえてください」
男は慌てて部屋に戻った。ガラスの破片でも踏んだのだろう。「痛い」という声が聞こえた。
私の部屋のドアが開き、そして閉まる。廊下と階段を駆ける音がアパート内に響く。私は体勢を戻した。その時、一階の出入り口から警察官姿の男が飛び出した。男は右足を引きずっている。その男に向かって二人の警察官が飛びついた。男は倒れながらも暴れて逃げようとしている。別な警察官が加勢する。傍から見たら単なる警察官同士のじゃれ合いだが、そうじゃない。三人は本物の警察官で一人は偽者の警察官なのだ。そう考えると、愉快過ぎるが、笑っていられる場合では無い。
パトカーのサイレンが、辺りを再び騒然とさせた。次から次へと警察官が集まり、警察の塊が膨れていった。もうどれが犯人で、どれが本物の警察官なのか、区別が付かなくなっていた。しばらくすると警察の塊が少しずつ解け、手錠を付けた偽者の警察官が現れた。本物の警察官その男を抱えパトカーに押し込んだ。警察官の塊の跡には、まるでこの場で捕まった事を証明するかのように、赤黒い血痕が残っていた。
「灰谷さん、もう大丈夫ですよ。犯人を捕まえました」
いつの間に戻っていたのだろうか、あの刑事が私の方を見上げている。
「ありがとうございます」
「お怪我はありませんか?念のために救急車を呼びましょうか?」
「いいえ、結構です。全然大丈夫です」
「そうですか、良かったです」
203号室の住人が、不在である事を始めて知ったのは、飛び降りてから二十分程後の事だった。初めから居なかったのか、この騒ぎに恐怖を覚え非難したのかは分からない。私は警察が用意した梯子を使い、下にゆっくりと降りた。その時、誰よりも先に駆け寄ってきたのは、あの塾講師の女性だった。
「これでも履いてください」
塾講師は地面にスリッパを並べた。
「ありがとうございます」
私は彼女の優しさに甘え、そのスリッパを履いた。
「大変でしたね」
彼女はそう言いながら、紺色のカーディガンを肩に掛けてくれて、暖かい缶コーヒーを差し出してくれた。
〈コスプレ強盗殺人犯逮捕〉
この見出しを日本中の人達が目にした頃、私は自宅のある文京区の警察署で目を覚ました。コンビニで従業員二人を殺し、目撃者の自宅に侵入した男は、初めの事件が起きた新宿区の警察署に連行されたらしい。
容疑者となったその男の名前は三瀬憲和。28歳のフリーター。杉山との面識は無く、何処の劇団にも所属してはいない。サンライズマート早稲田店の付近で暮らしているらしく、金銭目的で犯行に及んだのだろう。銃の入手先や周辺で起きた未解決事件との関連性などを警察は調べている。事件を良く知る当事者であり、警察署にいながら、私はその事実をネットで知ったのだ。良く考えれば被害者なんてそんなものなのかも知れない。犯人が捕まった時点で、私の役目も終わったのだろう。この事件で次に呼ばれる事があるとしたら、検察か容疑者の弁護士だと何かの漫画で読んだ記憶がある。
たった一夜でも、私を泊めてくれる身寄りが東京には無い。その現実を思い知る夜でもあった。恋人の高梨一樹には家族があるし、友人の杉山昇は死んだ。過去にアシスタントをした先生の家に厄介になる訳にもいかず、ここで保護してもらう事になった。疲れきった身体、小柄の私には余してしまう程の大きなソファ、ここが警察署である事が安心感を生み、寝心地は良かった。お陰でスッキリ目覚める事が出来た。私は世話になった当直の女性警察官にお礼を言い、彼女の勧めで裏口から警察署を後にした。
二つ目の事件現場となった私の自宅には、今日の夜まで戻る事が出来ない。捜査自体は夕方までには終わるのだが、その後にガラス屋が来て、割れたガラス窓をサッシごと交換する事になっている。ただでさえ懐が寒い上に、コンビニのバイト代が保障されない状態にあるので、暇潰しに遊びに行く事も出来ない。今の私に居場所があるとしたら一箇所しかない。それは『アトリエMARIKA』だ。
昨夜、高梨からしばらく休むようにと伝えられてあったから、私が来る事を想定していないだろう。そもそもこの時間は、普段の出勤時間よりかなり早い。しかし今の麻島先生に私を拒む理由などないはずだ。
自転車のカゴには『恋するエイリアン五巻』が入ったままで、アパートに置きっぱなし。取りに戻ったところで捜査中の警察官に迷惑を掛けるだけだろう。そんな遠い訳でもないので『アトリエMARIKA』には歩いて行く事にしよう。
想像通り、麻島先生は私を快く入れてくれた。相変わらずネームは進んでいなく、睡眠もまともに取れていないようで、顔色は冴えない。笑い事じゃないが、今の私なんかより遥かに事件被害者面している。
私は世間の注目と同情の的だと思っていた。ここまでの道中、行き交う人々の視線は全て私に向けられていると思っていた。しかしそれは単なる思い違いだったようだ。少なくとも今、目の前にいる人間は、私に関心を持つ余裕などないようだ。
「何かする事ありますか?」
「ごめん、ちょっと待ってくれる」
笑顔を覗かせたが、苛々は隠せない。心の中で私は友人の死を目撃して、その後命を狙われたんだぞ、少しは興味を持ちなさいよと思ったが、その気持ちを押し殺した。
「朝ご飯でも買って来ましょうか?」
私のこの言葉に麻島先生は驚きながら振り返り、テレビ画面を確認した。ちょうど私のアパートが映っていた。麻島先生はそんな事に気を留める事はなく、左上に表示された時刻を確かめた。そして「七時四十五分かぁ」と呟きながら髪を掻き毟った。
午後二時過ぎ。難渋の表情を全面に押し出し、高梨が『アトリエMARIKA』に来た。昨日と同じジャケットはしわだらけで、寝癖と無精髭が目立つ。高梨は私が居る事に一瞬動転したが、直ぐに何事も無かったかのように平静に戻った。そして顎で合図をし、麻島先生を別室に呼び出した。
別室は麻島先生が、寝室として使っている部屋だ。唯一プライバシーが守られたこの部屋に、我が物顔で高梨は入っていく。麻島先生も当たり前のように、それに付いていく。
二人が何を話しているかは分からないが、高梨の焦りは伝わる。私は二人の会話を干渉しないように努めた。真っ白なケント紙の上にキャラクターを動かしていると、不安や恐怖は薄れていく。
十分程が過ぎるとドアが開き、肩を丸く屈めた麻島先生だけが出てきた。麻島先生は私の肩をトントンと叩き、か細い声で「高梨さんが呼んでいるよ」と告げて自分の席に戻った。私を見る麻島先生の口角は上がっていたが、目は笑っていなかった。私は背中に複雑な感情を浴びながら別室のドアをノックした。
「失礼します」
「おう、入れ」
この部屋は、しばらく誰も入っていなかったのだろう。室内は外と変わらない程に冷えきっていた。高梨はベッドの端に座り頭を抱えていた。
「色々大変だったな」
「ええ、まあ」
「大丈夫なのか、身体は?」
「ええ、まあ」
私はここに呼ばれた意図を探っていた。コンビニや自宅での事件を案じて呼ばれたとは、ちっとも思ってはいない。私の身体を気遣う言葉は単なる枕詞に過ぎない。
「元気なんだな」
彼は明らかに安堵の表情を浮かべた。でもそれは私に対する気持ちでない。
「ええ、体は元気です」
「そうだよな、元気だからここに来たんだよな。コンビニのバイトも無いから、暇だよな?」
デリカシーの欠片も無い言葉だが、驚きも苛立ちも覚えない。彼の口から他人を慰める言葉や、敬う言葉が生まれるとは思っていない。
「まあ。暇といったら、暇ですが」
私がそう答えると、高梨は確信を得たように笑みを浮かべ、立ち上がった。そして私の両肩を押さえ、とんでもない言葉を滑らせた。
「漫画を描かないか?」
一瞬でも抱きしめてくれると思った自分が情けない。彼のデリカシーの無さを知りつつも、心の片隅では私を抱きしめ頭でも撫でながら、ここ数日の恐怖から癒してくれるものと期待していた。
「えっ」
意味がわからない。漫画なら子供の頃から毎日描いている。今日だって漫画を描きに来たのに、今更こいつは、この大馬鹿野郎は何を言っているのだろう。
「麻島の代わりにお前が描け」
と、言いながら、高梨は馬鹿のような笑顔を見せた。
「えっ、えっ『週刊リバー』にですか?」
「当たり前だろ」
漫画雑誌じゃないのに、という言葉が頭を過ぎったが飲み込んだ。漫画雑誌だったら描けるのか?と言われても返す言葉はない。今の私は漫画雑誌が良いとか、男性誌が嫌、だとか理想を言える身分ではない。
「ネームも出来ていないのに、どうやって描くんですか?」
「誰も麻島の続きを描けとは言ってないだろ。そんなの無理だよ。今週だけお前のオリジナル作品で穴を埋めろ、って言っているんだ」
「私のオリジナルですか……えっ、えっ」
私は思わず仰け反った。
「場所もここを使え。麻島には了承を得ている。お前の作品を描きながら、麻島のネームが完成したら手伝ってやれ。それ位できるだろう」
「でっ、でも何を描けばいいんですか?読み切りの構想は何もありません」
高梨は自信に満ちた顔をしながら「あるだろう」と返した。
奴はいったい何を考えているのだろう。今まで散々「お前にはストーリーを書く才能が無い」と創作力を真っ向から否定してきたくせに、自分が困った時には持ち上げてくる。なんて都合がいいのだろうか。
「ありませんよ。そんなのあんたが一番知っているだろ!」
怒りのあまり、思わず強い口調を発してしまった。間違いなく麻島先生にも聞こえている。
「事件の事を描けばいいじゃないか」
「えっ」
「『リバー』は漫画誌じゃないから、大丈夫だよ。世間を騒がせた凶悪事件を扱うんだから、ある意味ジャーナリズムに沿う」
大きな音を響かせてドアが開くと、私の横に軽蔑の眼差しで、担当編集者を見る麻島まりか先生が立っていた。私と麻島先生は高梨の顔を見上げ、ほぼ同時に怒声をぶつけた。
「あんた、何を言ってるの!」
無謀というか、常識を逸脱した提案だった。だが、まんまと高梨の口車に乗せられて、とりあえずネームだけでも描くと、という運びになった。呆れ顔だった麻島先生も、自分の仕事の落ち度を指摘され口を閉ざすしかなかった。
どうせ私に物語を創る才能はない。ネームすら完成せず、この仕事は他の先生に流れる事になるだろう。私は、そう割り切ってこの作業を始める事にした。負けが決まりながらやる試合に力も気持ちも入るはずはなく、プロットもキャラクター設定もせず、机に向かう。案の定ペンは全く進まない……と思いきや、進む、進む。自分でも驚く位にペンが走っていく。ネーム用の安物のコピー用紙が瞬く間に私の描く漫画で埋まっていく。初めて描くはずのキャラクター達が、個性を持って動き始める。描写も事細かに描かれていく。
自分で言うのも何だが、これは実に面白い作品だ。キャラクターも設定も完璧だ。ストーリーもしっかりしている。ページを捲る時の期待感がたまらない。自画自賛ではない。客観的に見て優れた作品だ。今まで私が書いていた物とは比べ物にならない。何かが違う。違い過ぎる。
なんだ、この感覚は。
私の中に神でも舞い降りてきたのだろうか?そうじゃなかった。ネームを読み返した時に気が付いた。私のやった作業はただ自分の記憶を辿って、それを漫画に変換したに過ぎない。
罪悪感が私の心からジワジワと染み出してくる。その後から強烈な高揚感が追いかけてくる。高揚感が罪悪感を飲み込み、私の小さな体を支配する。全身に鳥肌が走ると、私は大きな声を発していた。
「これ、一週じゃ、足りないよ」
時々作業を覗き見していた高梨は、私の言葉に興奮を深めた。震える手でネームを手荒に奪い、目を見開いて検めた。そして大きく何度も頷きながら、再び自信に満ちた笑みを零した。彼とは長い付き合いになる。仕事のパートナーとして、恋人として様々な表情を見てきたつもりだったが、私に対してこんな表情は見せた事はこれまで一度もなかった。
「よし、二週使え。いや、いや、三週使え」
「えっ」
「大丈夫だ、三週使え。俺が責任を取る」
二週目までは麻島先生の枠を使う。三週目は彼が担当している別の連載を休載させると言う。完全に会社を巻き込んでしまった。しかしもう罪悪感は微塵もない。
「はい、ありがとうございます」
私はまるで上官に応える下級兵士のように、敬礼をしていた。戸惑いより先に、身体が動き始めている。私は再び机に向かいペンを走らせた。
いつの間にか麻島先生の姿がなくなっていた。高梨によると「一眠りしてくる」と言って寝室に入ったそうだ。
私はネームを書き、ケント紙に下書きをし、ペン入れ、背景、トーン貼りの一連の作業を順調に終わらせた。高梨は一週分の原稿を持って『アトリエMARIKA』を踊るように飛び出した。残された私は直ちに二週目と、三週目の原稿に取り掛かった。私はまるで魔法に掛かったかのように、一心不乱で描き続ける。二人のコンビニ従業員をピストルで撃ち、血飛沫を全身に浴びた凶悪犯は、レジ金を盗む事を諦め、目撃者の遺体の衣類を探りスマホを抜き取り、現場から逃走する。その頃、主人公はビルの屋上にある物置小屋で、捨て猫のように震えている。商品棚の配置、鼓膜を震わす爆発音、階段の形状、全てが白い紙の上で鮮明によみがえる。主人公が恐怖のあまり、自分が犯人であると幻覚を見る描写は、実に漫画らしくて面白い。私は二週目の原稿を一気に書き上げ、それを茶封筒に収めた。茶封筒の表に『二週目の原稿』と書いた付箋を貼り、躊躇せずに三週目の原稿を描き始めた。三週目はネームすら描かなかった。担当者に確認する事もない。彼の首が横に振られる事は絶対にない。詳細な構成から台詞のひとつ、ひとつが私の頭の中で出来上がっている。私は、ただそれに従ってペンを進めるだけだ。犯行の翌日に犠牲者の友人からメッセージが届く。犯人はその相手が目撃者だと察し、口封じのため殺害に向かう。主人公は犯人と対峙する。そして果敢に戦い勝利を収める。主人公はヒロインになるのだ・・・・・・。
三週目も三時間程で描き終え、二週目と同じくそれを茶封筒に収め付箋を貼った。机の上を整頓し重ねた茶封筒をその上に置く。私は覚めぬ興奮を抑え立ち上がった。
「まりか先生、大丈夫ですか?」
「ごめんね」
ドアの向こうから力無い声が返ってくる。
「終わったので帰りますね」
「そうなんだね」
「ちゃんとご飯食べて下さいね」
「うん」
「何かあったら連絡下さい。いつでも駆けつけるので」
そう言い残し、私は意気揚々と『アトリエMARIKA』を後にした。
トンボ出版のインターネットサイトは、誹謗中傷の嵐で荒れていた。いわゆる炎上ってやつだ。それに反し『週刊リバー』の売れ行きが絶好調だった。寧ろネットの炎上が購買欲を後押しているようだ。出版不況と言われるこの時代の中で、どの雑誌も苦戦を強いられているらしく『週刊リバー』も例外ではない。そんな中、二週連続で売り上げを伸ばしている。私の作品がその理由である。
「作家さんは何かしら身を削っているんだよ。ネットの非難を気にする事はない」
私はトンボ出版の広い会議室にいた。普段は大物作家さんを呼んだ時の応接や編集会議に使われているらしく、机も椅子も一般的な物に比べてグレードが高い。私は借りてきた猫のようにおとなしく座っていた。この日、私は始めて『週刊リバー』の編集長と会った。編集長の横には自信に満ちた表情をした高梨が並び、海老が沢山乗った天丼のセットが三つ運ばれてきた。
「そうなんですが……」
私は言葉を詰まらせた。確かに漫画家として評価をされている喜びは否めない。そりゃそうでしょ、子供の頃から、ずっと、ずっとこの日が来る事を願っていたんだもの。書店の週刊誌コーナーで積み重なる『週刊リバー』を見つけて、それを震える手で開き、自分の作品を見つけた時の全身で覚えた高揚感は他に例える事はできない。多分、一馬を産んだ時よりも喜びは強かったと思う。それ位、嬉しかった。しかし友人の死を利用してしまった罪悪感は棄てきれない。相反する二つの感情が入り混じっている。それを納めるはずの私の心は、宙をフワフワと彷徨っている。
「せめて一年位過ぎてからの方が」
私の言葉を最後まで聞かないうちに、編集長の言葉が追い被さってくる。
「何言っての。このタイミングだから注目を浴びたんじゃないか」
高梨は頷いている。
「確かにそうなんですが」
溢れんばかりの編集長等の笑みに少し困惑した。編集長等は自分達が世間から袋叩きにされている事に、恐さを感じてなんかいない。恐らくこの状況に慣れているのだろう。袋叩きにされている、という意識さえ無いのかもしれない。
「いやぁ~、君はうちの救世主だよ。ヒーロー、いやヒロインか」
屈託のない笑顔をした編集長の言葉が、私の懐に飛び込んできた。このまま一本背負いでも決めてこられたら、私の心が弾けてしまう。
「救世主ですか?」
「そりゃ、そうだよ。廃刊している雑誌も、潰れる出版社も少なくないのは知っているだろ。うちは君のお陰で廃刊どころかボーナスが出そうだよ」
誇らしげな彼等の顔を見ていると苦労や喜びが透けて見えてきた。私が彼等の人生の一部を支えていると思うと感慨深い。
「警察にはちょっと怒られたけどな」
高梨が無邪気な少年のようにペロっと舌を出した。
「そうだったのですね」
「そりゃ、そうだよ。立件より早く詳細な事件状況が露になったんだからな。でもこれがジャーナリズムってもんだよ」
得意そうに語る高梨の顔を見ていると、何だか笑えてきた。何がジャーナリズムだよ。お前は入社以来ずっと漫画畑で育った編集マンだろ。たまたま今『週刊リバー』の編集を手伝っているだけなのに、報道記者を気取っている馬鹿さが何か可愛い。
「まあ、冷めないうちに食おうか」
編集長の言葉をきっかけに会食が始まった。スーパーで値引きされた天丼を買って、自宅でチンをして食べる事もたまにあったが、それとは比べ物にはならない位美味しい。なんで天丼であるのかは知らない。恐らく編集長の好みでこうなったのだろう。
私は冒険漫画の主人公のように、口いっぱいに天丼を詰め込んだ。そして馬鹿なふりをして「これってご褒美ですか?」と訊いてみた。何気なく訊いた質問に、編集長が返した答えは想像を超えていた。
「こんなのでご褒美になるなんて、そこまで無礼じゃないよ」
「えっ、まだあるんですか?」
何だろう、人気のスイーツかな?それとも私が欲しがっていた新しい自転車かな?いやいや、わざわざ会社に呼ぶ位だから、物ではないような気がする。もしかして、大物先生のアシスタントの仕事を紹介してくれるのかしれない。
「君に連載の枠を用意する事にした。『DESAIRE』で月8ページだ」
「デ、ザ、イ、ア?」
「そう、三十代から四十代の働く女性をターゲットにした新刊だ。編集長は私だ。高梨も釣上げた。漫画雑誌でないのが申し訳ないが、その雑誌で、働く女性のリアルな日常を漫画にして欲しい」
「リアルな日常ですか?」
「そう、リアルな日常。勿論、読者の好奇心をそそらせるような面白みは必要だが」
リアルな日常……読者の好奇心……面白み……これまで私の中で相反していた三つの言葉が、どう交じり合うのか見当すらつかない。でも、それが売れる漫画の要素のひとつである事は理解できるし、そこが自分に足りない事も分かっている。
「例えば今回の事件みたいに、灰谷さんが実際に経験した稀な出来事とか」
「でもあれは、滅多に遭遇する出来事ではないし、リアルでもないと思いますが」
「リアルだろ。実際に経験したんだろ。それ以上にリアルな事はないだろう。別に事件に限った事じゃなくていいんだ。君が実際に経験した事とか、他人とは違う境遇とか」
編集長は高梨の目を一瞥した。二人の表情には何かしらの含みがあった。
「描く事があるだろ?」
描く事……
ある、ある。
確かに私には描く材料がある。溢れているといっても言い過ぎでないはずだ。同世代の読者の好奇心をそそらせつつ、けして現実に遠くはない境遇を持っている。
「あります。私には描く事が、描かないといけない事があります」
私は父が大好きだった。父も私を溺愛してくれていたと思う。父は優しく、懐も深く、私を守り楽しませてくれていた。その父を母が裏切った。子供ながらにも、悔しくて悲しい感情を持った事を覚えている。父が転勤の単身赴任で数年間家を離れていた間に、不倫を繰り返したのだ。家に娘、つまり私を独り残し、毎晩遊びまくっていた。時々、家に知らない男を連れてくる事もあった。酒に溺れ自制を失い、制御不能な感情を娘への虐待で静めていたのだ。私の心は不安定になり、臥せるようになる。そんな私を教室の他の生徒達は異端に感じたのだろう。次第に友達にも避けられるようになり、教室でも独りになっていった。私は部屋に引き篭もり、漫画に救いを求めた。
父の単身赴任が終わり、家に戻ってきても、母の裏切りは終わらなかった。初め父の前では良き妻、良き母を演じていたが、次第にぼろが出て来る。何らかの理由を繕っては、自宅を留守にするようになり、その回数が増えていった。妻の不貞を父は感じていたはずだ。それでも黙って耐えていた。その時、私の耳には、家庭が崩壊する音が聞こえていた。
高校卒業を機に、母から離れるために上京する。母と縁を切る事は、大好きな父と離れる事であり、父と母を二人にしてしまう事でもあった。心は痛んだが、母を棄てるためには、父に犠牲になってもらうしかなかった。私は腐り切った感情を全て漫画創作にぶつけた。漫画を描き、出版社への持ち込みを繰り返すが、全く認められず、自分を責め続けた日々。闇はどんどん深くなっていく。私はその癒しを求め、あの嫌いな母と同じ罪を犯してしまう事となる。漫画雑誌の編集者であった高梨との不倫に走る。そして未婚の母になる。
父の病気を知らされた時、私は罪悪感を抱いた。自分を憎み切れない程憎んだ。もしお腹に子供が居なければ、自らの手で自らを殺めていたと思う。大きくなっていく私のお腹と、悪化していく父の病がリンクしていく。しばらくして一馬が生まれた。そして父の訃報が届いた。
物語は自分の中に眠っていた。今までどれだけ力を込めて絞っても出てこなかった果汁が、いとも簡単に滝のように溢れてくる。しかも甘さも酸味も詰まった極上の果汁が。その素材も活かして、今すぐにでも描き始められる。熱くなる胸の奥に僅かな葛藤はあったが、高梨の言葉がそれを簡単に蹴り飛ばした。
「お前の主戦場は漫画雑誌じゃない、情報誌だ。ゴシック誌やスポーツ新聞だ。自分の身を削って漫画を描け。エッセイコミックで頂点に登ってこい」
身を削る……
「エッセイコミック?」
戸惑いの表情は見せたものの、気持ちはガチガチに固まっていた。そんな私の顔を覗きながら編集長は「何か可笑しい事でもあるか」と問う。
私は可笑しな顔をしているのか?編集長が言うのだから、きっと可笑しな顔をしているのだろう。恐らく笑みが零れてしまっているのだろう。
「ごめんなさい。ついつい笑っちゃって。二人の顔を見ていると。時代劇に出て来る悪代官と越後屋みたいなんで」
「そうか、私達は悪代官と越後屋か」
悪代官はそう言うと声を裏返しながら笑った。越後屋がそれに続けた。
「お前、冴えているじゃないか。まずはそこから始めろ。悪代官と越後屋に唆されて、この話を描き始めたと」
「おお、それは名案だ。本が売れるなら私等は幾らでも悪役になってやる」
キャラクター設定は容易だ。だって登場人物は全て私が知っている人物だから。杉山や岡田夫妻絵はノートに溜まっている。それをそのまま描けばいいだけだ。では、主人公、つまり私はどう描こうかな?ちびで童顔、黒髪のショートヘアー、顔も全く個性が無い。我ながら薄っぺらいキャラだ。一般的な作品に登場するような、魅力的なキャラにしたら、嘘になってしまう。嘘は描きたくない。作品の趣旨を大切にするため、このまま描く事にしよう。
じゃあ、学生時代や幼少時期のシーンはどうしよう?髪型もスタイルも服装も、全くあの頃から進化がない私の年齢を描き分けるのは意外に難しい。学生服とか、ランドセルとか、その辺のアイテムを使って書き分けるしかない。顔もヘアースタイルも変わらないけど、身に着けている物で年齢を表現する。うん、それはそれで意外と面白いかもしれない。
と、いう感じで、人生初で念願の連載漫画の制作が始まった。それは、まるで坂道を自転車で走っているように楽な作業だった。ブレーキを握りながら、漕ぐことなく加速していく。
始まりは編集長達の助言に従う事にした。長年の友人の死を漫画にしてしまい、心を痛める主人公、灰谷由(私)は旅籠に呼ばれる。襖の向こうに不敵な笑みを零す、悪代官と越後屋が待っていた。二人は言葉巧みに私を悪事へ誘う。私は戸惑いながらも『待て』をされた犬のように目の前の餌(天丼と漫画連載)に涎を垂らしている。そして『よし』と許された次の瞬間には、無我夢中で餌を貪っていた。
私の中から淀みなく流れる創作の川、いや、滝。その滝の音が私の雑念を流してくれた。私の頭の中を巡っていた、二発の銃弾の音、友人の死、凶悪犯と対峙した恐怖、『それを金に換えた』という非難の声、それらの汚れが、滝の流れで鮮やかな色に洗浄されていく。
『DESAIRE』は世間の話題をさらい、発刊毎に発行部数が伸びていく。当初は三十代から四十代の働く女性をターゲットとしていたが、予想外に層が広がったそうだ。全ての年代の働く女性、そして『DESAIRE』独特の目線に興味を持った男性層までもが購読者となった。
女性アイドルグループで、常に影の存在でしかなかった子が『DESAIRE』のグラビアで妖艶な姿を披露し、そこから女優の坂を駆け上っていった。
男女平等に足踏みする日本の状況を発信した記事が、野党の女性議員の目に留まり、国会での質問に引用された事もあった。
私は引き続き自分の病んだ人生を洗いざらい漫画にして、日本一売れるエッセイコミック作家となった。母が父にしてきた事、母のせいでいじめを受けてきた事で私は国民の同情の対象となった。もはや無双状態なのだ。
私が描けば皆が共感する。父が拾ってきた茶色い猫の『ラム』が生きた蛙を咥えて帰って来た事を書いただけで『かわいい』『びっくり』というSNSの投稿が拡散される。トンボ出版には私のプレゼントとして猫や蛙のぬいぐるみが大量に届き、その処分に困る。私の人気はどんどん上昇し、使いきれない程のお金が振り込まれる。
小石川の3LDKのマンションに引越し、そこを仕事場兼居住スペースとした。部屋の一つは仕事部屋、一つは私の寝室。そして残りの1つは子供部屋とした。息子の一馬を母の下から私の下へ呼び戻す事にしたのだ。これは高梨の提案だった。
「お前、北海道に帰ってこいよ」
私は一瞬、耳を疑った。そして直ぐに冷静になり状況を俯瞰した。
確かに、男遊びを繰り返し私や父の心を蔑ろにしてきた母を漫画の材料にしながら、子供を預けているのは虫が良すぎる。そもそも嫌いで預けていた訳でもないし、引き取る事に異論は無かった。問題は一馬自身がそれを受け入れるかだった。就学前の5歳とは言え、自我もある一つの人格だ。一馬の想いを無視してまで、強引に引き剥がす事はしたくなかった。ずっと祖母の下で暮らしてきた環境が変わる事に、戸惑う事は容易に想像できた。
「そうそう、一度北海道に帰って、お母さんと話をした方が良い。お蔭で原稿は溜まっているから2~3日空けたところで問題はない」
「そうね」
「俺も一緒に行こう」
えっ、何を言ってるの。今更母の前で一馬の父だと宣言でもするつもりなの。まさか奥さんと離婚して、私と再婚するつもりなのかしら。嬉しいような、嬉しくないような複雑な気持ちになった。
「現金な人だね。ずっと放っておいたくせに私が成功し『DESAIRE』が成功すると手のひらを返して」
「何を言ってるんだ。俺はずっとお前を信じて使ってただろ。他の出版社に持っていかれないように色々やっていただろ」
高梨はバツが悪そうに視線を逸らした。そういえば最近抱いてこない。こうやって二人きりになるのも久しぶりだ。高梨はトンボ出版の利益を上げた立役者だ。『週刊リバー』の売上を伸ばし『DESAIRE』を現役世代の代名詞的雑誌に押し上げた。社内での待遇が上がったのは彼の服装をみるだけで明らかだ。忙しくて私の相手をする暇がない。一馬が帰って来たら尚更そのタイミングが失われる。
「結婚してくれるのかと思った」
産まれて初めて『結婚』という言葉を発していた。私の唇は震えていた。心臓の鼓動が戸惑わせた。でも、もう一人の自分がこの状況を漫画にする構成を立てていた。
「馬鹿な事を言うな。なんでお前と結婚しなきゃならないんだよ」
高梨は顔を引きつらせながら笑った。不思議と腹は立たなかった。がさつでデリカシーのかけらも無い事は知っていたし、仮に結婚できなくても、貰った物を大きさを考えるとこれ以上のわがままは言えない。
「ごめん、ごめん、冗談、冗談。そんなに怖い顔をしないでよ。一緒に母に合うって言うから、結婚の報告かと、ハハハ」
「娘さんを下さい、って奴ね。かみさんの両親にもしてないわ」
高梨は自分でボケて自分で笑っている。目じりの皺が愛しく思えた。でも、こんな単純無神経モンスターとの結婚生活は大変だろうとも思った。
「承諾も無しにお母さんの事を世間に晒しているんだから、担当編集者として一言挨拶位でもした方がいいだろう」
「ううん、私一人で大丈夫。これは私と母との事だから」
「いや、トンボ出版を代表して挨拶はすべきだ。俺も行く」
高梨は珍しく食い下がる。奴にそんな責任感があるとは思えない。灰谷由という運を掴んでたまたまハイブランドを着る事が出来てるだけの奴に、会社を背負っている意識があるとは思えない。きっとジメジメした東京を抜け出す為、経費で北海道に行く口実を作りたかっただけなのだと思う。そんな策にひっかかる私ではない。二人きりに時間ができて、また私の体を思い出すのでは、という期待も過ったが、二人での帰省は断固拒否する事にした。
こんな僕ですがサポートをして頂けると嬉しいです。想像を形にするために、より多くの方に僕の名前・創作力・作品を知って欲しいです。 宜しくお願いいたします。