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歯折って、心かためる

思い返せば、その伏線は年末のあの日からずっと張られていたのかもしれない。

12月31日に熱を出して、フラフラの状態で爆竹が放たれまくるフィレンツェのヴェッキオ橋沿いを歩いた新年最初の日。が、そのあと2日ほどですっかり元気になり、シチリアにホームステイに出かけるも、またそこで咳が止まらないという未だかつてかかったことのない風邪を発症。自宅に戻ってから医者にもらった薬でなんとか完治し、学校に通う通常の生活を再開させた、というのがここ数日の話。

日本に帰るまであと2ヶ月もないから、今ここにいられるうちに出来ることを、と知らず知らずのうちに焦っていたのかもしれない。いや、というより、浮かれてしまっていたのかもしれない。

でも、でも、まさか。留学10ヶ月目にして、道で転倒するなんて。それも、歯が折れるほどの、まあまあな怪我だ。右目の下のところに2cmほどの傷と紫のあざ。膝小僧はしっかりまあるく擦りむけて、周りのところがぷっくり腫れた。膝に絆創膏を貼るのなんて小学生、いやいや、そんな活発な小学生じゃなかったから、もしかすると幼稚園ぶりかもしれない。そして、歯が折れたのは人生で初めてだ。

なぜそんなことが起こったのか。検証してみる。
その日、学校を終えた私は、家から200mほどのところにある99セントショップ(いわゆる百円ショップ)へ、珍しく寄り道した。前日の夜、音楽を聴くためにヘッドホンを使おうとしたら充電コードを差していたはずなのに電池がなく、いろいろ試した結果、充電のためのtypeCコードが壊れてるということが分かったのだった。

店のレジの横のところのラックには、やはり、ちゃんと求めていたtypeCのコードがあった。レジには先客がおり、その後ろに並んでいると、左横に小さなスナックコーナーにレーズンとナッツのセットの袋が売られていた。ちょうど私の目線の高さのぴったりのところにあった。その日の昼食は、シチリアに行った時にホストに教えてもらったブロッコリーのパスタにしようと決めていた。彼はそのパスタにレーズンとナッツを入れていて、せっかくならそれをできる限り本物に近いものにしようと思い、その袋を手にとった。が、ちょうどその日、財布を持っていないこと、手持ちのデビットカードの残高が1.60€であることに気がついた。

レーズンは昼食で必要だし、typeCコードもできる限り早く手に入れて、ヘッドホンで音楽を聴きたい。どちらか一つを選ぶ、ということができなかった私は、一旦家に帰って、現金を持って、欲しかった2つを同時に手に入れようと思った。というか、実際2€だけ持って、二度目の来店をしようとしていた。今度こそ、完璧な買い物をして、気持ちよく家に帰るつもりだった。が。

店のすぐ目の前のところで華麗に転倒した。雲のない、まさに冬晴れといった青空が広がっていて、いつもより三度くらい気温が低い日だった。コートのポケットに手を突っ込んでいた。スマホを見ているわけでも何かに夢中になっていたわけでもなく、ただ歩いて店に入ろうとしていたところだった。ひとり、転んだ。

石畳は固く、冷たかった。そこに這いつくばった状態の私は、痛い、とかよりも何よりも、やってしまった、という言葉が一番に浮かんだ。ひとまず、立ち上がった。意識はある。大丈夫ですか、と声をかけてくれた人に、ありがとう、大丈夫です、とイタリア語で返す。そう言いながら、口の中に「なにか」があるのに気づく。石ころ?いや、もしや。嫌な予感がして口からそれを恐る恐る吐き出した。白いカケラだった。前歯が折れていた。逃げるようにして三歩ほど歩いて99セントショップに入り、typeCコードとレーズンをじんじんした手でレジまで運ぶ。2ユーロを払い、釣り銭をもらう。お姉さんからBuona Giornata (よい一日を)と言われ、前歯のないままAnche a te (あなたも)と答えた。お姉さんの顔は見なかった。

家に帰ると、キッチンに家を出る前に用意していたパスタのための鍋が、なに一つ変わらずにコンロの上に置かれていた。お腹は空いていたけど何を食べる気にもならなかった。脱衣所で鏡の前の立ち、おそるおそる口を開けた。全体の半分が無くなった前歯がいた。間抜けでおかしくて、悔しくて、涙がでた。擦り切れた目の下の赤いところに滲みた。痛くて、それでまた涙が出た。

もし、その日、雨が降っていたら。もし、typeCのコードが壊れていなかったら。もし、シチリアでホストがパスタにレーズンを入れてなかったら。レーズンが、もしくは、typeCのコード、どちらかが店には置いてなかったら。レジに人が並んでいなかったら。カードのチャージを前もってしていたら。その日、学校で1.2€のエスプレッソを買っていなかったら。小銭が入ってる方の青いジーンズを履いていたら。いろんな可能性があったはずだったけど、それらを選んで、その日、私は転んだ。前歯を折った。

幸い、ホストマザーの知人の歯医者さんがその日の夜にカケラとプラスチックの樹脂で欠けた歯を補強してくれた。でも、歯はもう元には戻らない。日本に帰ったらまず歯医者で歯を治さなければならなくなった。

食べることは私の生き甲斐なのに、噛みつく系のものは当分食べられない。なにかを噛むたびに欠けた前歯のことを考えなければいけなくなった。帰国前も美味しいものを食べることを楽しみにしてたし、日本でもまず最初にお寿司を食べて、お気に入りのクレープを食べるつもりだったのに。悔しい。よく考えると、もともとの買い物の目的はtypeCコードであって、パスタのためのレーズンはあってもなくてもどうだってよかった。美味しさのこだわりのために美味しさが半減。どころか美味しいと言うチャンスさえ減らしてしまって。どうしようもなく阿保らしい。

でもそんな阿保らしいことでも気づきはあった。生きていくうえでは、こんなふうに、あるかもしれなかったことが突然消えてしまったり、できなくなってしまうということは、避けられないことだ、なんて思った。それとどう折り合いをつけて、新しい可能性の中を歩いていけるか。あり得たかもしれなかった無数の可能性の中で、ときどき戻ったり止まったりしながらも、立ち上がって、そして進むしかない。転んだ直後のあの時の私みたく。それが逃げでもなんでもいいのだと思う。立ちあがり、そして、歩く。進む。

当分の間さようなら、すべてのかぶり付かなければ食べられない系の食べ物たち。ピッツァマルゲリータを大きな口でかぶりつける日が、トマトの乗ったカリカリのクロスティーニを食べられる日が、いつかまたやってくることを切に願う。

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