見出し画像

言葉は器。言語化は呪いにもなる

自己肯定感という言葉がなかった時代には「どうすれば子どもの自己肯定感が育つんだろう…」という悩みは存在しなかっただろうし、自己承認欲求という言葉がない時代には、年賀状に家族写真を印刷して送ることに躊躇いもなかった。

言語化という言葉を目にする機会が増えた。
しかし、時として言語化は呪いになる。呪いとは、私たちの行動を縛り、動けなくする言葉たちのことだ。


議論好きの友人と久しぶりにランチをしている時、彼が話の切り出し始めに
この言葉が好きではないんですが、自己承認欲求ってあるじゃないですか」
と言った。

その後につづく本題よりも、この枕詞というか枕文に僕は引き寄せられ考え込んでしまい、肝心の話がうわの空になってしまった。

ある種の言葉は、使う際にとっさに
「あ、個人的にはあんまり好きじゃない言葉なんですけれどもね…」
という弁明を必要とする。僕もよく使ってしまう。

「自己承認欲求」という言葉には、こうした言い訳を必要とする何か。僕たちの美意識や生活規範に反する何かが、潜んでいるのかもしれない。

「自己承認欲求」という言葉を反芻しながら、今年、自ら生きることを終えてしまったある友人のことを思い出していた。

友人は華やかな舞台に立ち、人に見られることを生業としていた。とにかく仕事にストイックで、よく愚痴は言ってたけれど、決して No は言わなかった。

大雨の中でも文句一つなく仕事をやりきり、助けられたことがあった。
お酒が飲めないのに、みんなの士気が上がるならと深夜まで付き合い、場を大いに盛り上げてくれたこともあった。

しかし、いろんな事情が重なり、これまでと同じ仕事ができなくなってしまったのだ。他にも様々な形のオファーがあったけれども、友人は「人に見られる仕事」にこだわり続けていた。

誤解を恐れずに、そして、最大限中立的な視点から友人の原動力について語るなら(これもまた弁明だ)友人を突き動かしていたものは「自己承認欲求」だったと思う。

それは「イイネがほしい」というよりもっと根源的な、ほとんど存在証明と言ってもよいような欲求だったように思う。それが友人の完璧な仕事ぶりと、無関係だったとは思えない。
それもまた、友人は認めなかっただろうけれども。

どんな立派なことをしていても、そこに自己承認欲求がちらりと顔を出した瞬間、待ちかまえていたかの如く飛んでくる矢があり、視線がある。
でも、
「自己承認欲求があるから、自分は頑張れてるんだ」
とあっさり告白できる世の中ならば、そっちの方がずっと楽じゃないだろうか。
僕だってもっと素直に
「あなたのおかげで助かった」
と、言えばよかったのかもしれない。

今さら考えても仕方のない思考の堂々巡りを、僕はやめられずにいる。

言葉とは器のようなものだ。
カタチの定まらない水のような「思い」や「もやもや」も、その器の中に流し込むことで見えるようになる。

匂わせ。クソリプ。ブラック校則。自粛警察。マスク警察。東京差別。
日々、新しい器(言葉)が作られていく。

なんとなく「気に入らないもの」「怖いもの」「嫉妬の対象」「言いづらいこと」、そういったものを的確に小ぎれいにデザインした器にすることで、自分の中のネガティブな感情には蓋をしたまま客観化し、あたかも社会現象かトレンドですよという顔で扱うことを可能にする力が「言語化」にはある。それらは「わかる!」「あるある」という共感によって拡散し、定着していく。

でも、言語化自体が目的になってはいないだろうか。競い合うように“バズる”言葉を作ろうとはしていないか。
あくまで言葉は道具のはずだ。ものすごく切れる包丁や、ボケ味がキレイなカメラのレンズと同じ、道具なのだ。

とは言っても、道具はしばしば私たちの「見え方」を縛る。あまりに美しいボケ味のレンズを初めて手にした時、何でもかんでも背景をボカして撮影してしまうように。

言語化は一つの呪いである・・・と、最初に言った。ここまで書いてきたところで、これもまた一つの呪いになっていることに気づいた。

でも、呪いをかけるのが言葉ならば、呪いを解くことができるのもまた、言葉なのではないだろうか。
たとえば、noteでは「クリエイター」という言葉を大事にしている。これは、「クリエイター」ということばに染み付いた「選ばれた人だけの。才能のある人にしか創作ができない」という呪いを解こうとする取り組みだと、僕は感じている。

だれかを黙らせるための呪いの言葉よりも、できることなら、だれかの呪いを解く言葉を開発したい。

この記事が参加している募集

習慣にしていること

いただいたお金。半分は誰かへのサポートへ、半分は本を買います。新たな note の投資へ使わせて頂きます。