リセット‐日常清掃員の非日常‐第1話

あらすじ

不良の佐野は、就職先が決まらず焦っていた。
 そんな佐野は教師と縁のあった会社で、清掃員の仕事を始めた。そこで出会ったのは機械のように仕事をこなす秋元という女性だった。秋元と佐野はバディを組んで、職業差別や災害による断水、客同士のケンカなど、現場で起こる様々な問題を解決していく。
そんな中、秋元がかつて有名企業で働き、上司のパワハラによって職を失っていたことが判明する。しかし秋元は、現場にその上司が来ても頭を下げるのだった。佐野は秋元と共に仕事をする中で、成長していくが、かつての不良仲間に誘われ現場放棄を勧められる。しかし佐野は不良仲間の誘いを断り、秋元にも認められる。

プロローグ

 記憶はあいまいだが、おそらく夏を過ぎたころだったと思う。俺は高校二年で、ある人からの依頼を安請け合いした。それは、一年生の男子の制服を盗んでほしいという依頼だった。俺の先輩の友人からの依頼で、断るという選択肢はなかった。この高校の生徒は上下関係ばかりが厳しい割に、教師たちとは対立関係にあった。だから俺は、一年の体育の時間を狙って、こうして一人で、一年の教室に忍び込んでいるというわけだった。机の上には、乱雑に制服が置いてあった。何という無防備さだろう。この高校において、こんなに無防備では生きていけないぞ、一年生諸君。だからこんな風に、先輩から制服を物色されるという憂き目にあうのだ。この就職を控えた三年生が、一年生の制服を狙うという行為は、校是よりも生徒の間に根付いている伝統だ。それを知らずに盗まれる方が悪い。盗まれたらおとなしく、ズボンはジャージのままで過ごすしかない。そして両親に説明して、新しく買うことになる。
 ちなみに俺が一年生の時は、クラスで真面目に学校生活を送っていた三人が、盗難被害に遭った。その内の一人は、おとなしい女子で、盗まれたことにショックを受けて泣いていた。就職活動の面接の際、短く切ったスカートやだらしないズボンで面接を受けられないので、三年生は一年生の新しい制服を盗むのだ。それは男女ともにそうなのだ。俺は一年生の頃にはもう、先輩たちとのつながりがあったし、俺のズボンは裾が擦り切れ、だいぶくたびれていたから、盗られることはなかった。
「お、これ、いいじゃん」
俺が目を付けたのは、男子の割にきちんと畳んである制服だった。この荒んだ高校できちんと畳まれて置いてある制服なんて、目を付けて下さいと言っているようなものだ。用があるのは制服のズボンだけだから、上にあったシャツには用がない。俺はたたんであった制服をぐちゃぐちゃにしながら、ズボンのチェックを始める。この高校はブレザーだから、上辺だけきちんと見えればそれで良かった。そのため、シャツを盗む人はいない。
「どれどれ?」
俺は下になっていたズボンを広げてみる。まだ新しいし、汚れもなく、そして裾も切れていない。どう見ても新品に見える。
「いいね、いいね。サイズはっと」
俺はズボンをめくり、ウェストのサイズを確認する。まあ、依頼者のサイズが平均的だったので、サイズの問題は楽々クリアだ。しかも嬉しいことに、裾上げしてあった。この制服の持ち主は、やや胴長短足らしい。まあ、野郎の体格何て俺には興味がないけどね。
「よし」
俺はこのズボンを丸めて、一年の教室を出ようとした。廊下には見回りの教師がいたが、こんな状況でも別に慌てるほどじゃない。いつもなら、廊下で大乱闘を起こして、他のクラスの授業を妨害しているところだが、今日はこのズボンを先輩に届けるという使命がある。だから教師に見えない場所に座って、体を縮め、俺は教師をやり過ごして、ズボンを先輩が待つ理科室に持って行った。しかし、何が悲しくて、俺は男のズボンを盗まなければならないのか。せめて女子のスカートとか、リボンとかなら納得できる。これでは俺が、同性に興味がある泥棒ではないか。
 今は授業中だが、理科室は使われていない。俺はノックもせずに理科室に入る。そこには、俺が慕う鹿野(かの)先輩と、依頼者であろうもう一人の先輩がいた。
「うーす」
俺と鹿野先輩は、いつものように挨拶を交わす。もう一人の先輩は頭を俺に下げただけだった。何だかモヤシみたいで、鼻につく感じがする先輩だった。鹿野先輩は見るからに不良といった風貌だ。金髪の髪の毛はワックスで針鼠みたいに立てられ、男にしては長めだ。耳にはピアスが何個もあいていて、指にはメリケンサックのように髑髏の指輪が並ぶ。首からはこちらも武器になりそうはネックレスが、何本も下がっていて、動くたびにじゃらじゃら言っていた。制服はもう着ておらず、ほぼ私服だ。その上指定された靴ではなく、便所スリッパをはいている。もう一人の先輩は普通だ。肌が病的に白いが、そのほかは取り立てて目立ったところはなかった。特徴がない人間とは、こういう人を言うのだと初めて思った。何なら優等生っぽい。髪の毛は黒く、短髪で、この高校では珍しく制服を上下とも着こなしているし、装飾品もない。靴だって、ちゃんと指定の内履きをはいている。どう見てもちぐはぐな二人だったが、仲は良さそうだ。それに、先輩の友達にも、隠しても隠しきれないやんちゃさが見え隠れする。黒髪はさっき美容院で染めて来たばかりというくらい、不自然なほど黒いし、耳たぶには小さなピアスの穴がある。そして、制服のズボンは擦り切れいていた。確かにこれで面接に行けは、即退場となりかねない。
「で、佐野(さの)。例のヤツはどうだった?」
「先輩、俺を誰だと思ってるんすか? ほら、ちゃんと持ってきましたよ」
俺は丸めたズボンを先輩に向かって投げる。先輩は器用にキャッチして、品定めする。そしてそのまま、そのズボンを隣の先輩に渡した。
「一年のが欲しいって、先輩ショタコンすか?」
俺が煙草の脂で汚れた歯で笑うと、鹿野先輩が俺の頭を平手で殴った。
「ばーか。この時期にズボンといえば、この高校の風物詩だろうが」
「ふうぶつし?」
俺は頭の中でそれを漢字に変換できなかった。しかしその意味なら、何となく理解していた。この高校では、大半の生徒が制服を着崩したり、制服以外の服を着てきたりする。中でも俺たちの中で、ズボンをなるべく下げた状態ではく、いわゆる「腰パン履き」が流行った。そのため、ズボンの裾は床に擦れて汚くなり、挙句の果てに擦り切れてしまうのだ。つまり、二年以上の生徒がはいているズボンは、もれなくぼろぼろだ。だから、一年の綺麗なズボンが必要となる。そんな需要がこの時期にあるということだ。
「マジで? 先輩就職するんすか?」
「俺じゃねぇよ。こいつだ」
「高倉(たかくら)です。えっと、佐野、君だっけ? 今日は本当に助かったよ」
高倉は一見真面目そうに見えたが、俺の見間違いだった。あまつさえ知り合いの後輩に盗みを依頼し、それが何でもないように、ただ礼を言う。いや、礼は言っていないか。しかも、今更になって新品のズボンが必要だということは、高倉も同じ穴の貉で、腰パン履きの常習者だったということだ。そして、今になって急に真面目な印象になったのは、この高校の風物詩と関係しているのだろう。
「これ、約束のお金」
高倉は千円札三枚を、鹿野先輩に渡した。俺には金の話なんて一切してくれなかったのに、二人の間では金銭の授受が約束されていたらしい。当然、俺は面白くない。
「俺には?」
「あとでジュース奢ってやるよ」
「あ、子ども扱い」
「一つガキだから、子供でいいんだよ」
釈然としないが、先輩には素直に従うまでだ。そして俺は単純だ。売店の横にある自販機を思い出だして、コーラがいいと考えていた。
「じゃあ。俺はこれで」
高倉は、逃げるように理科室を出て行った。自分から依頼してきたのに、まるで俺たちには関わりたくないとでも言いうような態度に、俺は怒りを感じた。
「全く、就活、就活って、どいつもこいつも」
鹿野先輩は大きく溜息を吐いて、ぼやいた。
 この高校のこの時期の風物詩とは、就活である。ここはすべての人から見放されたような不良高校だ。授業は受けたい奴が受けるが、他の奴がさぼっても教師は全く意に介さない。数人しかいない教室で、淡々と授業は始まり、終わる。しかし、自由を持て余すのも三年間という期限付きだ。卒業は必ずくる。その前に進路を決める必要がある。進学何てできないような授業だから、ほとんどの奴は就職組だ。そこで一つ問題になるのが、制服だった。面接のときに、身なりを整える必要が出てくる。しかし、この高校の生徒が制服をちゃんと着こなしているのは、一年目の最初だけで、三年にもなると型崩れや汚れや破れも日常茶飯事だし、気にしていない。だから、この就活の時期になると一年生の制服が盗まれるという事件が多発するようになる。別にいいじゃん、と俺は自分を棚に上げて思う。今の一年生も、就活時期になったら同じようなことをするのだから。盗みは悪しき慣習だが、見方によってはいい伝統だ。後輩は先輩に制服を譲るのだ。盗まれる奴が悪い。だから、教科書の名前は本の天井に、油性ペンで書けと教わる。この高校に来て、一番に身の守り方を教わるのだ。素直に表紙や裏表紙に書く馬鹿は、当然ターゲットにされる。名前の部分を破って盗まれるのがオチだ。
「鹿野先輩は、ここ出たら、何するんすか?」
自分で言って、「ここ出たら」なんて、まるで「刑務所から出たら」と言っているようで笑えた。確かにここはとりあえずの場所だ。三年という長いのか短いのか分からない時間を、ただ「高校くらいは」という世間の目のために過ごす牢獄。自由はあるが、いつも物足りない。
「俺? 遊んでから考える。だって、大学生何て金払って四年間遊んでるんだぜ?」
「確かに」
「だったら、こっちだって四年くらいは遊ばねぇとな」
「そうっすよね」
俺と鹿野先輩は笑い合った。楽しければ、それでよかった。働いたら負けで、働く奴は馬鹿だと思っていた。

一章 働いたら負け

残暑厳しい秋。いや、残暑が死ぬほど厳しい秋だ。俺は無事に高校三年生になっていた。鹿野先輩とは連絡を取り合う関係が続いているが、鹿野先輩に新しい彼女ができてから、連絡があまり来なくなった。環境が変われば人間関係も変わって当然と言えば、当然だ。
まだ朝だというに、太陽が頑張りすぎるくらいに頑張っている。公園のベンチの木陰になる部分を選んで、俺は制服のまま溶けそうになっていた。この制服というのが曲者だ。春服と夏服があるが、夏服でも十分に生地が厚い。校章入りのワイシャツも、汗ばんだ体に貼りついて不快さを明らかに煽っている。それでも俺が制服をわざわざ着ているのには、重要な理由がある。それは俺の母親の目を欺くためだ。シングルマザーとか、女一人で子育てをしてとか、言われれば聞こえがいい。まるで聖母みたいだ。自己犠牲で子供を育てる、幸薄そうな印象だろうか。しかし、俺の母親には全くそれは当てはまらない。俺の母親は鬼である。比喩ではない。正真正銘の鬼である。ただ体が人間の女であるだけで、俺より年季の入った不良だ。だから誰も近づかない。口と目つきが悪い上に、態度はでかくて格好も変だ。頭はカメレオンの如く違う色に染まっている。自分で染めているのだろうから、根本は黒いままだった。くそ。あのババアの事を思い出したら、熱さが倍増してきた。疲れやだるさは、苛立ちに変わる。
鳩がうるさかったので、唾を吐いて追い払う。足のない鳩がいたが、普通の鳩に居場所を奪われ、立派な体格の鳩が、またその鳩の居場所を奪っていた。何だか人間社会の構図みたいで笑えた。
高校生なら、平日の朝から公園のベンチで寝転がるな。そう言いたい奴は沢山いる。犬の散歩に来た奴らの、目がそう言っている。まあ、高校にはエアコンがあるから、テキトウに、気が向いたら、行ってやってもいい。でも、教師がうるさいし、面倒だから、今日はここに一日いるつもりだ。授業に遅れるって言うけど、このそそり立つ断崖絶壁くらいの格差見たことあるのか。赤ん坊の内から知育教材だの読み聞かせだの受けてきた奴らと、ただ何もせずに暴力を受けるだけの奴。何が義務教育で格差は是正されているだ。生まれた時から格差だらけだ。当然、もう小学校に上がった時には成績の上下関係が、そのまま学校での評価と評判になる。中学出てからの事なんて、考えたこともなかった。母親が、高校だけは出ろと命令してきたから、とりあえず一番偏差値の低くて、俺でも入れそうな今の高校を選んだだけだ。俺はとりあえず、不良高校を名高い底辺の高校に行った。そこには俺と同じ奴が沢山いたから、高校にもこんな世界があるのだと、初めて知った。授業も簡単だった。英語の授業は単語どころか、ABCの書き取りから始まった。これなら俺でもいける気がしたが、それは幻想だった。その高校は「行ったら人生終わり」とか、「不良の掃き溜め」と言われていたのだ。しかも、俺が高校一年の時に、他のクラスの一年同士が音楽室でやりやがった。音楽室って所は防音の場所を選んだつもりだろう。そのせいで、俺たちの学年は不良の上に、はしたない学年という評判が付いた。まあ、俺が知る限りでは事件沙汰もかなりあるし、妊娠して中退した奴とかもいたから、その評判はあながち間違ってはいない。俺が高校に行かなくていいのかって話に戻す。これも大した問題ではないが、母親に知られるとまずいからだ。俺はさっきも言った通り、高校には行くことの方が珍しい。だから、テストは散々だ。あの高校はテスト結果だけはマメに保護者に通知しているから、テストは嫌でも受けなければならない。それに、テストの結果次第では、次の学年に進級できないこともある。先輩の話では、一年の内に七回も進級できずに中退したという伝説的な人物までいるらしい。もし仮に俺がテストをすっぽかしたり、そのせいで進級できなかったりしたらどうなるか。それこそ鬼が出てきて俺の人生が終わる。高校に行かなくても、高校に在籍している内はれっきとした「高校生」なので、職務質問とかも生徒手帳があればなんとかなる。そういえば、生徒手帳はどこにやったのか。鬼の手に渡る前に死守しなければならない。と、まあ。赤点を取って補習は毎回のように受けていたが、俺の高校の補習だからザルなんだよ。教師も、それほど力は入れていない。プリント一枚渡して、解けと命じていく。そして解けた奴から職員室に提出に行くだけだ。そんなプリント一枚なんて、俺が解かなくてもいいんだよ。同じクラスにちょっとはできるやつがいるから、そいつに解かせて、後は丸写しして持っていけば解放される。教師もこのカラクリに気付いているだろうが、この高校の生徒に注意しても無駄だと分かっていて、何も言わない。いや、一言いう。「次はないように」とか、「今度こそ赤点を脱出しろ」とか、どいつもこいつも似たことを言う。
「ああ、だりぃ」
俺が思わず声を上げると、公園に自転車が入って来た。もちろん公園は自転車禁止だが、そんな細かいことは気にしない。しかもその自転車は二人乗りだった。公園の地面に轍が付くが、これも気にしない。当然の如く、ヘルメットなんか付けてはいない。これも自己責任ということだ。
「よお」
そう言ったのは髪を緑に染めた同級生だった。名前は香川。下の名前は忘れた。きっと香川も俺の苗字しか覚えていない。とりあえず仲間だと認識できればそれで良かったから、名前まで覚える必要性を感じていなかった。
「またサボってんな?」
香川の後ろに座っているのは、茶髪でチャラ男の山口だ。黙って身なりを整えていれば、山口はホストに見える。実際、年齢詐称してホストのアルバイトをしていたことがあるらしい。しかし、俺より頭が悪い山口は、その頭の悪さからホストにも向いていなかった。要は、話し相手にもなれなかったのだ。これもある意味伝説だった。
 俺と香川と山口は、いつもの面子だった。三人で歩くと、ひとりでに道がひらけてくる。学校の通路でも、他の生徒が勝手に俺たちに道を譲った。俺たちはそれを気に留めることなく、有難くその道を歩いていた。
「サボってんの、お前らも一緒じゃん」
俺がげらげらと笑うと、「確かに」と香川がいい、「ウケる」と山口が言い、三人で笑った。やはり山口だけ、ちょっとだけ話がずれている。そしてそんな自分の言葉に、山口は笑う。
「しっかし、暑いよな」
「マジ、死ぬ」
「あ、せっかくだから行水しねぇ?」
俺の提案に、行水の意味が分からい山口は口を開け、そんな山口の頭を香川が叩く。
「水浴びだよ、水浴び」
「だったらそう言えよ」
「お前、バカだろ?」
「知ってるし」
俺たちは笑いながら公園の手洗い場の蛇口に近づく。日陰から出ると、容赦ない日差しでじりじりと焼けるようだった。水道の蛇口を捻った山口が、「あっつ!」と言って飛びのいている。香川に誘導されて、日差しをもろに受けていた蛇口を手で思いきりつかんだらしい。太陽の熱で熱くなった蛇口は、火傷をするくらいだった。それでも俺たちのことなので、心配どころか笑い者だ。
「引っ掛かった。ばーか」
「うるせー」
俺は笑って日陰になっている方の蛇口を捻り、水を勢いよく出した。
「せっかくだから、水でも撒こうぜ」
「いいね。少しはましになるかもよ」
そう言いながら、蛇口の水の出口を天上に向けてから、最後まで蛇口を捻る。水が一気に天に向かって放出され、からからに乾いた地面に落ちてくる。俺たちはその水を浴びて遊んだ。俺が二人に向かって蛇口の方向を変えると、二人は笑いながら水の出口を塞ぐ。水は四方八方に飛び散って、まるで噴水のようになった。その結果、俺たちは全身ずぶぬれになった。水遊びに飽きると、俺たちは、香川の自転車のカゴに入っていた酒と煙草で休んでいた。煙草のせいで、三人と歯が黄ばんで、黒っぽくなっていた。木陰でしゃがんだまま、紫煙をくゆらせていると、カラスが馬鹿にするような声で鳴きながら、頭上を飛んでいった。
「知ってる? 煙草って一本で寿命三十秒縮むらしいぜ?」
香川は得意気にそう言ったが、言っている本人がヘビースモーカーなので、全く現実味がない。俺は笑いながら自分を指さした。
「どこ情報だよ、それ。俺とっくに死んでんじゃん」
「俺も」
黙ってそのことを聞いていた山口が、まだ残っていた煙草を、地面に無造作に捨てた。俺たちはカツアゲでもしない限り、いつも金欠なので、煙草は貴重品だ。いつもフィルターぎりぎりまで吸う。それなのに山口が捨てた煙草は、まだ吸い始めたばかりだった。
「あ、もったいない」
「どうした? 急に」
「別に」
酒を水やジュース代わりにしながら、俺たちは駄弁っては笑い合っていた。
「あ。俺、便所行ってくる」
そう言って立ち上がったのは山口だった。何だかいつもの山口と違う気がした。時々見せる顔が、深刻で切羽詰まったように見える。何か隠しているのか。それとも具合が悪いのか。そんなことを考えていると、その山口がすぐに戻ってきた。
「どうした? 便所は?」
「立ち入り禁止って、立て看板があって」
「は?」
俺たちは公園の中に設置されている公衆トイレに三人で向かった。すると確かに、トイレの出入り口の前に、「立ち入り禁止」の立て札が置いてあった。山口が言っていた「立て看板」なんて仰々しい物ではなく、ただの黄色の立て札に、「清掃中」と「足元注意」と書いてあるだけだった。ただの掃除の目印であって、山口の言ってたことと何一つ合っていない。「立入禁止」なんて嘘だろう。こんな物、いつもなら無視して当然だ。それなのに山口はこんな立て札一つを、真に受けていたのだ。山口は何か変な物でも食べたのかもしれない。
「何だよ、何にもねぇじゃん」
俺は男子便所のドアを開けた。もちろん、一気に全開だ。中には紫色の制服に身を包んだババアがいた。俺の行動に眼を見開いているのが気に喰わなかった。何だよ、少し可愛くて、できれば年下なら構ってやってもよかったのに、年増のブスじゃ何にも面白くない。俺は溜息をついて、山口に向かって叫んだ。
「空いてるぞ」
俺は清掃ババアの存在を無視していた。山口が顔をのぞかせると、清掃ババアは引き攣った笑顔を見せて、男子便所から出てきた。
「どうぞ」
清掃ババアは俺とすれ違いざまにそう言ったが、俺はなおも無視した。しかし、心の中では苛ついた。こんな汚い所掃除して、その上俺たちにビビッて出て行くくせに、何ヘラヘラ笑っているのか。バカじゃないのか。俺たち三人はついでに三人で連れションをした。
 そこで、俺は妙案を思いつく。香川も同じ考えを持ったようで、俺と香川は顔を見合わせて、歯の間から笑い声を漏らした。俺と香川がわざと便器を避けて放尿する。
「汚ねえな」
「お前こそ」
「おい、お前もやれよ」
「で、でも」
山口はやはり今日はノリが悪い。いつもは俺たちと同じ事をするくせに、今日は反抗的な声を出す。
「あ、いいこと考えた」
俺は公衆トイレを飛び出して、酒の容器や煙草の吸殻を持ってきた。便器の中に、それらを撒く。
「ああ、いいね! 俺も俺も」
今度は香川がゴミ箱から飲みかけのジュースを持ってきて、その缶の中身を床に撒く。先ほど綺麗にされたばかりの床が、べとべとのどろどろになり、異臭を放つ。
「何だよ、山口。今日はやけに消極的じゃん」
「ああ、いいよ。いいよ。もう行こうぜ」
どうせあの清掃ババアが掃除することになるんだからと、俺たちは別に悪いことをした認識を持たなかった。ドアや鏡を破壊して器物損壊で厳重注意を受けたことがあるが、それに比べたら、軽い方だと思った。十分に汚した便所に興味はもうない。清掃ババアは女子便所を掃除しているようだ。どれだけがっかりするのかが楽しみだった。しかし、やり放題やってしまうと、急に興味が薄れた。まあ、泣くにしろ、発狂するにしろ、想像するだけで面白い見世物にはなっただろう。
「困ってるかな? あの便所ババア」
「そういえば、昔、紫ババアってあったよな。怪談話で」
「ああ、あったな」
 俺たちは便所を汚してすぐに公園を出た。あんな気が弱そうなババアなら心配はいらないだろうが、警察に連絡されたら厄介だ。まあ、俺が高校の制服だったから、高校に苦情でも入るのかもしれない。駅に向かう俺たちは、全員徒歩だった。香川が乗ってきた自転車は、その辺に停めてあった物を勝手に持って来たらしい。鍵をかけないで自転車を放置するなんて、「持ってけ泥棒」と本気で言っているようなものだ。香川が悪いのではなく、自転車の持ち主が悪いのだ。
 そんな時、歩きながら香川が顎でしゃくった。その先には、一人の男の姿があった。男は高校の制服を着た女に、声をかけて何か話し始めた。お互いに指を立て合っていることが分かった。その指が値段の交渉であるということは、すぐにピンときた。
「あれ」
「いいね。俺、今月の金、もうないし」
「いっちょやりますか」
俺と香川はやる気だったが、ここでも山口が怯んだ。しかし結局歩いている内に、値段交渉中の男女の目の前に出た。駅の裏側で、人通りが少なく、目につきにくい所だ。だから、俺たちも堂々とやりたいことをやれた。
「あれー? ミサトじゃん。何やってんの?」
俺が女に向かって声をかける。もちろん初対面の女の名前も知らないから、女の名前っぽい名前なら、何でもよかった。女の方は睨んでくるが、男の方はもう逃げ腰になっている。そして怯えた様子で、ヒステリックな声をあげる。
「畜生、騙しやがったな⁈」
男が逃げようと走り出した瞬間、植木に潜んでいた香川が足を引っかけ、男は顔面をアスファルトにもろにぶつけた。ウシガエルが潰れた時のような声を出す男は、やっと自分の状況を理解したらしい。腰が引けているくせに、ビジネスバッグから財布を取り出し、万札をばら撒いて立ち上がり、今度こそ駅の中に逃げ込んだ。香川と山口が金を集め、女に一枚渡す。女は舌打ちして、とぼとぼと歩いてどこかに行った。残った金は三人で平等に分ける。一人、一万三千円ずつになった。香川が札を手にして拝んでポケットにねじ込むが、山口は顔をそむけた。
「何だよ、いらないのか?」
「うん」
「今日のお前なんか変だぞ? 何かあったのか?」
俯いていた山口が、急に顔をあげた。意を決したような顔で、俺たちに問う。
「お前ら、高校卒業したら何すんだ?」
あまりに突拍子のない山口の言葉に、俺と香川は思わず山口の顔を見て固まった。それえでも、山口は続けた。
「進路、どう考えてんだ?」
進路なんて正気で言っているのか。進路何て考えるものじゃないだろ。勘弁してくれよ、山口。今まで通り遊ぶに決まってるだろ。学校の何が楽しいといのか。教師は何であんなに偉そうなのか。成績がなんだって言うのか。確かに、いつもの面子がそろっていれば、マンネリ化はあるだろう。俺だって、時々楽しさの中に物足りなさを感じる時がある。でも、このままでいいだろ。家から持ってきた酒飲んで、煙草吸って、金がなかったらカツアゲして、また遊ぶ。それでいいはずではないか。なんで今更「進路」なんて考える必要があるんだ。
「あ、あのさ」
山口は再び俯いて、急に声を大きくした。これから何かの決意を叫ぶみたいだった。
「俺、彼女妊娠させちゃってさ」
尻つぼみだった。山口にとって、一世一代の告白だったのに、情けないくらい声が震えていた。しかし、その言葉の衝撃で、俺も香川も表情が抜けた。
「え? マジ?」
香川がにやついて嗤った。
「やるじゃん」
肩を組んだ香川の腕を、山口が振り払った。俺はまだ混乱していた。何。お前彼女いたのかよ。確かに顔がいいけど、チャラ男が妊娠ぐらいで狼狽えるなよ。何より、何抜け駆けして、童貞卒業してんだよ。いつの間にそんなことになったんだよ。本当に訳が分からない。山口は急に立ち上がって、宣言した。
「だから、俺、働こうと思って」
なるほど、こいつは完全に女に主導権を握られてやがる。もう、パパなんだな。頭の中にはもうパパになることしかない。何だよ、今までさんざん警察に謝りに行って、俺たちと毎日つるんでいたのに、今更就活とか、進路とか、もう手遅れなのではないか。身の程を知れよ。お前みたいな不良で成績も出席日数も内申点も底辺な、そんな奴を雇う会社なんてあるわけないだろ。しかも正社員志望だっていうから、ウケる。バカじゃん。働いたら負けだろ。
「だから、ごめん」
俺と香川に頭を下げて、山口は走り去った。何故謝罪したかは知らないが、おそらく謝罪の言葉は、俺たちと縁を切るという意味だったのだろう。
 この日から山口は髪を真っ黒に染めて短髪にして、身なりを整えるようになった。クラスの女子からは「似合うね」とか、「その方がいいよ」とか、さんざんに褒めちぎられていた。そして山口もまんざらでもないようだった。俺たちと山口は、完全に縁が切れた。こっちだって、そんな真面目ちゃんと付き合う義理はない。勝手にしろよ。
 俺は山口の変貌ぶりを見てから気分がなんだかもやもやして、また学校から足が遠のいた。そして相変わらず、香川や先輩たちと相変わらず遊んでいた。

 中学校の頃から、俺は普通の生徒から怖がられていた。危ない奴だと距離を置かれ、そんな評判の悪い連中とばかり遊んでいた。授業を抜け出す癖は、この頃に獲得したのかもしれない。きっかけは、中学一年の時の家庭科の時間だった。初めての家庭科の授業で出てきたのは、白髪交じりのババアで、ひたすら教科書を読み聞かせられるという苦痛を味わった。そう、この老いぼれババアは、黒板に何一つ書くこともなく、教科書以外の事を口にすることもなく、ただひたすら五十分間、教科書をぼそぼそと読み上げて、授業を終えたのだ。この時は俺たちだけじゃなく、他の生徒も同じ感想を持ったようだった。今の時間に何の意味があったのか。そもそも、あれを授業と言って良かったのか。そして、家庭科のたびにあの苦痛な時間が繰り返されるのか、という不安や憤りだった。だから俺たちは家庭科のたびに、教室を抜け出すことを覚えた。授業に付いていけなくなるという心配はしなかった。何故なら、所詮家庭科の教科書を読めば内容は書いてあったからだ。後で読めばいいやとは思ったが、結局は読まずじまいだった。そこから、俺は徐々に学校の異物として見られるようになった。授業にはほぼ出なくなり、遅刻や早退、無断欠席が続いた。校則なんて、何があるのかさえ知らなかった。俺はたびたび呼び出されて、恫喝に近い注意を受けたが、そのたびに荒れたので、教師達も俺の更生を諦めていった。どうしようもなくなった時、教師達は、ついに奥の手を使った。俺の母親を呼び出したのだ。俺はその三者面談の予定を聞いて、血の気が引いた。逃げろ。そう思っても、鬼から逃れられた試しはない。おとなしく殺されるしかなかった。
 そしてついに、地獄の三者面談の日がきた。俺と母親と、担任の教師の三人で、使わなくなった教室で始まった。俺と母親が、担任に向かい合う格好だった。口火を切る前に、俺の顔面は、目の前の机にめり込んでいた。突然の衝撃と痛みで、俺は「ぐえ」という変な声しか出なかった。
「この度は、息子が御迷惑をおかけし、大変申し訳ありません!」
母親はそう言いながら俺の頭を鷲掴みにして、机に向かって俺を押し倒したのだ。
「この通り、息子も反省していますから」
そう言いながら、母親は何度も俺の顔面を机に叩き続けた。俺の鼻からは鮮血が流れ出し、机を真っ赤に染めた。これには担任も驚き、戸惑ったようで、「落ち着いて下さい」と弱弱しく言った。これが俺の母親、鬼の正体だ。この鬼は、擬態する。他人の目があるところでは、おとなしそうな淑女みたいな風貌であるが、その中身は天然暴言暴力女だった。
「ああ、すみません」
母親は俺の鼻血には目もくれず、すんなり椅子に腰かけた。そして俺の方を見て、ぎょっとする。
「どうしたの? 話し合いの前に洟垂らして。さっさと拭きなさい」
俺は母親からポケットティッシュを受け取り、鼻血を抑えた。洟じゃなくて鼻血だ。お前のせいでこうなっているのに、分かっていないとは、やはり鬼である。担任は調子を取り戻そうと、軽く咳払いをした。
「家庭での息子さんの様子はいかがですか?」
いきなり確信に迫る教師の発言だったが、鬼はそんなことは汲み取りもせずに、ポカンと口を開けている。そして、教師の鼻っぱしをへし折る。
「元気です」
「え?」
思わず声を出す教師に、鬼は満面の笑みである。担任が家出の様子を聞いてきたということは、家庭での学習や態度のことに決まっているのに、そんな話は鬼に通用しない。教師は再び咳ばらいして、気を取り直す。
「そうではなく、そうですね、進路のことなどは、話し合ったりしていますか?」
もはやこの天然鬼のせいで、担任の日本語まで崩壊している。
「まだ、ですけど?」
「しかし、このままだと、息子さんの高校進学は難しいかと」
「働けないのは困ります!」
少しずつ会話がかみ合っていないのだが、そこは担任だ。ベテラン教師の意地を見せるように、ここぞとばかりに畳みかける。
「そうですね。今は大学卒業していても就職は難しい時代です。高校にも行かなかったとなれば、地元の企業でも就職口は見つかりませんよ」
「なるほど! 先生は大学進学を勧めて下さるのですね!」
「え? いや、そこは……」
俺は腹を抱えて笑った。もう、腹が痛い。俺が受験して受かる大学なんてないだろう。それに、担任は今のままでは高校も無理と言っているのに、全く鬼はそこを理解していない。これは良くできた漫才だ。担任は鬼に敵わないと白旗をあげて、俺に向き合った。俺には言いたいことは、十分に伝わった。だから担任が口を開く前に、俺は机を蹴飛ばした。机が床に倒れ、大きな音が出た。
「お前に俺の人生に口出しする権利あんのかよ? ああ、だりぃ」
俺はそう言って、カバンを引っかけると勝手に部屋を出た。鬼と担任はまだ話をしているようだったが、おそらく話にならないだろう。
 この三者面談後も、俺の素行は変わらなかった。むしろ、悪化した。そのまま中学二年に進学し、秋ごろには受験という言葉も耳にするようになった。少子社会である現在は、何かに特化しない高校は定員を割っている。定員の半分なんてところもあった。そう言ったところは、高校自体が存続の危機に直面しているため、簡単に入れると思っていた。特に地元の××高校という公立校は普通科しかなく、不良高校として有名だった。ここだな、と俺は早々に進路を決めた。本当は高校なんて行きたくもないが、俺みたいな奴しかいないなら、教師も校則も緩いと思っていた。クラスにどこかピリピリした雰囲気が広がり、志望理由や点数に関心が傾いても、俺はいつも通りだった。
 そして、俺は何の苦も無く、第一志望の高校に進学した。この高校に入学してまず思ったのは、ある意味「終わっている」という感覚だった。あるいは「掃き溜め」という言葉が浮かんだ。皆が俺のように脱力系で、居心地がいいだろうとばかり思っていたのに、違っていた。すぐに暴力に訴えるしか能のないバカ。発情期の猫みたいな恋愛バカ。クラスに一人二人いる真面目バカ。連日のように苦情が学校に寄せられ、そのたびに学年集会やら全校集会やらが開かれて、本来の授業時間が削れた。これぞ本末転倒って言うのではと俺が思ったほどだ。授業がなくなるのは嬉しいが、ムカつくことが多かった。何でバカのために俺が集会なんかに行かなくちゃならないのか。
 暴力バカのせいで、保護者集会まで開かれた。教師に怒鳴られた腹いせに、廊下に並ぶロッカーを、片っ端から殴ったり蹴ったりして破壊したバカがいるらしい。そのロッカーの修繕費用が修学旅行の積立金から出されることになり、修学旅行先が近場に変更されたらしい。俺の高校時代の唯一の楽しみが消えた。
 留年だけはしなかったが、それは授業もテストもいわゆる底辺のものだったし、補習なんて形だけだったから、何とかなったというだけの事だ。だから、高校三年になって「就職」という問題があることすら、俺は考えなかった。四年間は遊べる時間という、鹿野先輩の教えに従うつもり満々だった。
 しかし、いつもつるんでいた仲間の内の一人が、進路指導室から出てくるのを見てしまった。俺たちが進路指導に呼ばれるということは、怒鳴なられるときだけだったから、慰めてやろうとした。しかし、そいつは律儀に「失礼しました」と進路指導室に一礼して出てきた。その挙句、俺と目が合って明らかに狼狽していた。俺は面白い物を見つけたとばかりに、そいつ、島崎(しまざき)の肩を組んだ。いつもなら軽く挨拶するところだが、こともあろうに島崎は俺の手を振り払った。まるで、汚いものをどけるような、蔑んだ眼をしていた。
「何だよ。つれねぇな。あれ? お前……」
島崎のアッシュグリーンのパーマだった髪の毛は、真っ黒でストレートだった。しかも、制服も小奇麗なものに変わっている。島崎は俺からあからさまに目をそらした。
「お前、マジで?」
俺がからかおうとすると、島崎は俺の方を見て吐き捨てるように言った。
「俺は、お前らとは違う」
「は? 何それ?」
「俺はちゃんと自立すんだよ。親の脛かじりながら文句だけ垂れてて、恥ずかしくないのか? だから、もう俺に構わないでくれ」
島崎はそう言って、教室へと戻っていった。暗い廊下に、俺は一人残された。これで、山口に続いて二人の造反者が出たことになる。俺が廊下に唾を吐こうとしたとき、後ろから風が吹いてきた。その瞬間、バラバラと紙が風に弄ばれる音がした。大量のプリントが風に舞いあげられたような音だった。思わず振り返ると、職員室から進路指導室までの廊下に張り出された求人票が、一斉に風で捲れあがっていた。この学校のもう一つの風物詩。「求人票の廊下」と呼ばれるものだった。
 就職を控えた学生は、毎日のようにこの廊下に通う。お目当ての求人票を探すためだ。進学校では信じられないだろうが、俺たちの高校では、社会の時間を使って、求人票の見方を教わるという授業まである。だから、給料や仕事内容の欄をただ見るのではなく、福利厚生や残業の欄もチェックするのだ。それに、これも進学校ではあり得ないだろうが、この高校では文化祭の折に、「出張ハローワーク」というものまである。その名の通り、高校に職業安定所の職員が出張してきてくれるのだ。三年生はこれに強制的に参加させられる。もちろん、俺は参加したことがないが、山口や島崎は行ったことがあるのだろうか。俺の視線は、求人票に引き付けられた。しかし文字を見る前に、正気に戻った。俺が就職に興味があるなんて、地獄に仏並みにない。しかし、島崎から言われたことが小骨のように引っ掛かり、俺はこの廊下を通るたびに、意味もなく壁際に目が行くようになった。だから、俺はその廊下をなるべく通らないことにした。
 公園で酒盛りをしていて、警察に通報されて停学されること三回。学校でタバコを吸って怒鳴り散らされたことは数知れない。それだけじゃない。店の商品を壊したり盗んだりして店員と喧嘩して、校長と親が呼び出されて再び停学。この時は酒がばれた時よりも停学期間が長かった。カツアゲは脅迫罪に当たるとか当たらないとかの瀬戸際で、周りがおろおろしていたが、俺は反省もしなかった。ただ、後になって刑務所一歩手前だったと聞いて、カツアゲと万引きの頻度は減った。ただ、高校近くの店からは出禁を喰らって、買い物ができなくなった。全校集会で、そのことが問題になった。どうやら俺が万引きした店から学校に連絡が入って、「××高校の生徒は全面的にお断り」と言われたようだ。他の奴らに不便をかけても、俺は平気だった。そんな俺が、ただ紙が貼ってある廊下を通ることができないだって。何でそうなるんだよ。何ビビってんだよ。そんな自分にむしゃくしゃして、廊下のごみ箱を蹴った。大きな音がして、中のごみが飛び散ったが、そのまま通り過ぎた。
「車の免許だけは、取っておくか」
階段を下りる途中で、何となく呟いていた。
「バイクは乗りたいもんな」
呟いたその声は、かすかに震えていた。別に就職を意識したわけではない。
俺は暑い中、教習所に通い始めた。就職を意識したわけでは一切ないが、車の運転ができるのはカッコよかったし、どこへでも行けると思ったからだ。教習所は俺たちの高校の近くにあったから、教習所の事務員も教官も、俺の格好を見てもビビらなかった。歴代の先輩方を見ているのだから、当然の反応である。学校の授業よりも、教習所の授業の方が楽しかった。何故なら、方程式だの漢文だのをやっているよりも、道路標識や交通ルールの方が、実際の生活に役立つと思えたからだ。買い物に方程式は使わないが、道路標識は必要だ。どこか遠出するのに漢文は役に立たないが、ギアの上げ下げは必要不可欠だ。そんなやる気の問題なのか、俺は初めて一発で赤点以上の点数をはじき出し、車の運転実習にも慣れ、余裕で自動車学校の授業について行くことができた。高校よりは全然自動車学校の方が良かった。自分でも信じられないくらいに、俺の自動車学校での成績は良くなった。ケンカで鍛えた運動神経がここで役に立ったのか、道路での運転練習も楽にこなした。
そして、免許を取るための筆記試験の日が近づいてきた。俺の成績から計算すれば、楽勝で運転免許が取れるはずだ。俺は初めて自分から職員室に向かい、担任に休暇届を提出した。いつも高校自体をサボっているのに、こんな時だけ律儀だった。この高校は就職するしか道がない高校だから、免許取得を後押ししている。運転免許の筆記試験の日だけは、公的な休暇が認められているほどだ。悔しそうに俺を見る担任たちの視線を楽しみながら、俺は職員室を後にした。運転免許は、難なく取れた。自動車学校を卒業した俺は、また何にも所属していないような生活に戻った。
 そんな中、香川の姿を職員室の廊下で見つけた。髪が緑ではなく黒になっており、制服を着ているが、俺が香川を見間違えることはない。三年間もずっと一緒にいれば、いやでも背格や声だけで分かってしまう。
「よう。何してんだよ?」
香川はびくりと肩を揺らした。慌てて手を放し、背を向けたのは、求人票だ。進学校では信じられないかもしれないが、この高校では、授業で求人の見方を習う。給料だけではなく、福利厚生の記述や、実際の作業内容を見ろと教わった。ブラック企業が多い中でも、教師たちは必死にまっとうな職を、生徒に選ばせようと必死だ。だが、高校卒業、しかも悪名高いこの高校の卒業生だから、ブラックではない企業の方が珍しかった。土木作業や下請けの工場での作業、清掃業など、いわゆる3Kの求人ばかりが目立つ。香川が見ていたのは、建築業の下請けの会社だった。
「裏切ったな?」
島崎に続いて、とうとう香川も就職に手を染めていたらしい。
「俺たちは、お前と違って筋金入りじゃないんだよ!」
そう大声で言うと、香川は廊下を走り去った。それでも、俺は焦らなかった。残り物には福があるというではないか。それに果報は寝て待てとも、言う。俺は一人で、まだ遊んでいた。さすがに一人ではふざけても反応が帰ってこないので、つまらなかった。先輩にメールしても、彼女と遊ぶのが忙しいと、断られた。俺は何かに苛ついていた。好きなことを好きなように、今まで通りやっているのに、何故かむしゃくしゃする。その原因は分からない。公園にいても一人なので、学校に行くようになったが、俺を誰も相手してくれなかった。
 そんな俺のところに、香川からメッセージが届いた。そこには、山口の訃報がつづられていた。
「嘘だろ?」
俺は香川のクラスに走り込んでいた。まだ休み時間だったから、注意する教師もいない。
「香川、何なんだよ、あのメール」
俺は、苛々のぶつける場所を見つけたのだと思う。
「彼女に付き合って、産婦人科に行く途中だったらしい」
そう言えば、山口は彼女を妊娠させたから、就職し、素行も直したのだった。
「車に突っ込まれたらしくて。あいつ、彼女を庇って、死んだらしい」
山口が庇いたかったのは、彼女であると同時に、そのお腹の中の赤ん坊であっただろう。だから、咄嗟に、自分の体を犠牲にした。
「それで、彼女の方は?」
「それが、亡くなったらしい。病院で」
言いにくそうに、香川は俯きながら言った。
「赤ん坊は?」
香川は、これ以上聞かないでくれと言わんばかりに、首を横に振った。俺の苛立ちは、いつの間にか、やり場のない怒りに変わっていた。どうして、あいつが死ななければならなかったのか。あいつが死んでも守りたかったものが、どうして助からなかったのか。
俺は憔悴しきった香川の方を叩いて、自分の教室に戻った。

二章 まさかの内定

 三年生の学年集会は、柔道場で行われた。山口のことは、前回の全校集会で通達があったばかりだ。それなのに、この時期のこの学校で、三年生の学年集会の話題と言ったら、就職しかない。学年主任が、マイクを持って前に立つ。
「残念なお報せがあります。昨日、大口の内定先が一つなくなりました」
ざわざわと漣が立ち、不安そうに皆が顔を歪ませる中、俺は山口のことでいっぱいだった。そして、教師や学校というものは、非情なものだと思っていた。人間一人が死んだというのに、葬式への参列も学校名を理由に断られたくせに、もう過去のことのように扱われている。実際、もう過去のことだが、人間一人を忘れるのに一か月もかからないものなのだろうか。
「君たちの先輩が、過去に内定を貰った企業でしたが、その先輩が、髪を染めて、ネイルをして、作業着を着崩していたとのことです」
その大口の就職先というのは、菓子メイカーの製造工場だった。髪の色はとにかくとして、ネイルは危ないと俺でも分かる。折れたり、落ちたりして、菓子の中に混入すれば、異物混入事件として大ごとになる。服だって、糸一本入ってしまえば、異物混入事件だ。
「上司の方は、何度も注意をしたそうですが、全く聞き入れず、しまいには仕事を無断欠勤していたそうです」
この高校の先輩らしい反応だが、中止されたからと言って、無断欠勤はさすがに子供っぽく聞こえた。
「その上、電話で勝手に辞めると言って、制服をクリーニングしないまま会社に送り付けて来たそうです」
これはもう、嫌がらせだろう。企業側が怒るのも無理はない。
「このことから、企業側は二度とうちの高校から内定者は出さないそうです。求人票も、もちろん今年から出ません。いいですか? 君たちが就職した後でも、問題があれば、後輩がこのような目にあうのです。しかと肝に銘じておくように」
この高校に、初めから求人を出さない企業は多い。それなのに、慈悲で求人を出してくれている企業が、一つ減ったのだ。高校にとっては大打撃だろう。それにしても、もう既に、内定者向けの話しぶりには苛々した。まるで、まだ内定を貰っていない人間は、いなかったかのように、学年集会は終わった。
 学年集会が終わり、教室に戻ろうか迷っている俺の背中に、大きな声がぶつかってきた。
「おい、佐野!」
学年主任の声だった。その後ろには、進路指導室の教師も控えていた。
「佐野、ちょっと進路指導室まで来い」
「うっせえな。俺は就活なんてしねぇんだよ」
「そんなこと言うな。もう、内定がないのはお前と数人しかいないんだぞ?」
その数人の中に俺が含まれていたことに、わずかながら驚き、狼狽える。
「お前の親御さんからも、心配する電話がかかって来てるし」
やはり、俺の人生を決めるのは俺ではなく、鬼であるらしい。我が家は鬼が島だ。確かに、鬼ヶ島から脱出すれば、本当の自由が待っているかもしれない。そんなことを考えて、俺はおとなしく進路指導室について行った。
いつも通り挨拶もせずに部屋に入ると、机の上に一冊のクラフトファイルが置いてあった。しかも、薄いファイルだった。クラフトファイルでなくても、普通のクリアファイルで事足りるのに、体裁を整えようとしているように見えた。俺は学校の、この体裁を大事にするとことが気に食わないと日々思っていたので、この時点でかなり不機嫌だった。座れと言われなくても、目の前の椅子に勝手に座る。学年主任も進路指導の教師も、俺を見えて、これだから就職なんてできないと思っているに違いない。学年主任も、パイプ椅子に座り、進路指導の教師も、俺を向かい合って座った。
「残り物には福があるって言うけど、残り物すらなくなったら、意味がないぞ」
何を思ったのか、学年主任は俺が日頃思っていたことを、最初から切り崩した。ぼんやりと、残り物には福があるから、何とかなると思っていた節がある。しかし少し考えれば、今年の求人倍率は高卒には厳しいのだから、残り物の争奪戦になることも分かるはずだ。俺の表情を見て、心理指導の教師はため息を吐いて、机の上にあったファイルを俺に寄こした。そして、衝撃的なことを言った。
「今回の求人は、もうこれで最後ですよ」
「え?」
受け取ったファイルの軽さに、愕然とする。慌てて中身を確認すると、求人票が三枚だけ挟んであった。いくら捲って数えても、たった三枚だった。
「あるだけ有難いと思えよ」
学年主任は腕を組んで、重々しく言った。いつもの俺なら、その教師の横柄な態度に食ってかかっているところだが、今はそれすら忘れていた。求人票が三枚ということは、企業が三つ残っているということではない。同じ企業が、部門別で求人票を出していることもあるため、一つの企業が何枚か求人票を出すこともある。俺は企業名を確認した。三枚とも同じ企業からの求人で、部門は清掃業となっている。皆が避けた求人だ。俺だってこんな仕事は御免だ。しかし、この企業しかもうないのだ。
「とりあえず、エントリーシートだ。履歴書でもいいと言っている」
ここでやっと、俺の収束活動は始まった。公園で出会った紫ババアを思い出す。そして、その紫ババアにしてしまった俺たちの悪行も、同時に思い出す。まさか、自分が紫ババアの立場になるとは、想像していなかった。
 進路指導の教師が、俺の手からファイルを取り上げ、求人票のコピーを取った。そしてその中の一枚を、俺に手渡した。
「明日までに、これをよく見ながら履歴書の下書きしてこい」
そう言って、学年主任は求人票のコピーの上に、真っ白な履歴書を叩きつけるように置いた。今まで俺は、未来はいくつも枝分かれしているものだと思っていた。しかし、今の俺の未来には、3Kの仕事一つしかない。いつの間にか枝分かれしていた道が、崩れ去っていたのだ。だから、今目の前の一本道は、細くて険しい道しかなかった。山口のことを思い出した。島崎のことも、香川のことも、先輩のことも、浮かんでは消える。そして初めて今までのことを後悔した。タイムマシンがあったら、公園で悪ふざけしていた自分を殴りたいくらいに、猛省した。それと同時に、やはり人のせいにした。山口も、島崎も、香川も、どうして就職活動を黙っていたのか。不良のくせに就職活動をしていることが、恥ずかしかったのか。どうしてあの時、俺も誘ってくれなかったのか。どうして先輩は、もっと手本になってくれなかったのか。
「くそっ!」
俺は廊下の壁を蹴った。もう壁には求人票は張り出されていなかった。次に廊下の壁を埋め尽くすのは、今の二年生に向けた求人票だ。
 教室に戻ると、教室では現代文の授業中だった。俺を睨んでくる教師を、俺は睨み返して、自分の席に着き、両足を机の上に上げた。誰も注意しないのは、相変わらずだ。ただ、いつの間にか俺のように髪を派手に染めている奴も、授業中に席に座っていない奴も、制服を着崩している奴も、いなくなっていた。いつの間にか、俺は置き去りにされていたのだ。もうこのクラスの奴等だって、数か月後には正社員で、社会人なのだ。それなのに、俺だけが子供のままだった。そのことに、イライラした。履歴書を思い浮かべてみても、書くことが思いつかない。学歴なんて、この高校の入学と卒業見込みしか書くことはないから、たった二行だ。免許や資格は、普通運転免許証くらいだ。英検も漢検も受けていないから、仕方がない。趣味や特技はケンカだけだし、志望動機はない。短所は思いついても、長所はない。こんな履歴書で、企業が俺を採用するとは思えなかった。給料も安月給だし、汚いし、俺だって御免だ。留年でもして、新卒で来年の就職にかけることも考えたが、大卒ならまだしも、この高校で留年していたら、今度こそ求人はなくなるだろう。
 俺は午後の授業を寝て過ごし、放課後に職員室に行った。自分から職員室に行くのは、免許の筆記試験ぶりだ。これで二回目なる。教師たちが目配せする中、すかさず学年担任が寄って来て、俺の頭を軽く叩いた。これでも体罰になるご時世だが、教師に軽く叩かれたくらいでは、痛くも痒くもない。
「ドアから入ったら、立ち止まって挨拶だ。お前は失礼しますも言えないのか?」
俺は面倒だとしか思えなかった。しかし、今回ばかりは分が悪い。
「失礼、しやす」
「お前はいつから江戸っ子になった? 失礼いたしますだ」
「失礼いたします」
言い慣れない言葉に、危うく舌を噛みそうになった。隣で学年主任が満足そうにうなずいているのが癪に障った。
「言えるじゃないか。で、何の用だ?」
「あ、これの書き方、何か、ないかな、と思って」
俺が履歴書を取り出すと、学年主任はますます満足そうに笑い、進路指導室に俺を連れ込んだ。連れ込まれるなら、若い女の教師がいいのだが、贅沢も冗談も言っている余裕はない。事務的な机に、折り畳みの椅子で、向かい合って座る。机の上には白紙のままの履歴書がある。そして学年主任は、進路指導の教師に一言かけてから話を始めた。
「お前、履歴書にひな型でもあると思ったのか?」
「見本みたいなの、あんじゃねぇのかよ?」
「あのな。確かに売っている履歴書には見本がついているが、それをそのまま写しても仕方ないだろ? この履歴書は、お前の人生の説明書みたいなもんだろ? お前の人生の説明書を他人が書いたひな型が当てはまるのか?」
あくまで見本は見本、ということだ。確かに誰かが勝手に俺の人生に説明を付けるとしたら、俺はそいつを殴り飛ばしているところだ。他人の人生に口出しするんじゃない、と。
「山口たちも、何回も書き直して、自分で書いたんだぞ。少しは見習え」
「え?」
聞き間違えたのかと思った。飽きっぽくて、何をやっても続かなくて、結局その場しのぎの遊びにしか時間を費やせないあいつらが、履歴書を何度も書き直したなんて信じられない。山口は必死だったと思うが、島崎や香川までそうしていたのか。黙る俺に、学年主任は鉛筆を渡して、履歴書の下書きをするように迫った。仕方なく、俺は久しぶりに鉛筆を持つ。
「ちなみにな、香川は十社近く受けて、採用になったのは一社だ。落ちるたびに履歴書は巧くなる。書き慣れてくるんだな。でも、お前の場合は元から一社だ。これで落ちたら春には無職だ」
俺と一番仲が良かった香川が、陰でそんな苦労をしていたなんて、全く気付かなかった。十社受けるということは、十枚の履歴書を書いたことになる。それでも、受かったのは一社という厳しすぎる現実に、俺は打ちのめされていた。職に就くとは、こんなにも難しくて、大変なことなのだ。
 俺は鉛筆を握りしめ、書けそうなところから書き込んでいった。名前、読み仮名、誕生日。住所と電話番号。そして二行しかない学歴と、かろうじて持っていた運転免許所。そこまで書いて、鉛筆が止まった。問題はここからだ。志望なんて初めからしていない。今でも嫌だと思っている。どうしても業務内容と月給が、釣り合っていないと感じるのだ。向かい合う学年主任は、履歴書を食い入るように見つめていた。そして、そのまま俺にきいてきた。
「佐野。掃除は嫌いか?」
「当たり前だろ」
「そうか。じゃあ、何で嫌いなんだ?」
「そんなの汚ねぇし、臭ぇからに決まってんだろ?」
「それを綺麗にできるなんて、凄い仕事だと思わないか?」
「思うかよ。バカじゃねぇの」
俺はそう言いながら、頭の片隅に生じた罪悪感と戦っていた。あの紫ババアには、悪いことをした、と思い始めていた。しかし、今までの俺がそれを邪魔し、自分の行為を正当化しようと必死だった。そんな俺に学年主任はいきなり、脈絡を無視して話し始めた。
「社会学者で、ブルデューって人がいてな。趣味っていうのは階級と結び付けられるとか、言ってたんだ。で、低俗と見なされるのは、学校の授業で習うものではなく、家庭で習うことの延長のものだとか、なんとか言ってたんだ」
学年主任の担当教科は日本史だ。同じ社会の括りではあるが、「社会学」という響きからすると公民とか倫理とかが近いような気がする。しかも、どうしていきなり趣味なんて言葉が出てくるのか疑問だ。一体何が言いたいのか、語っている本人がうろ覚えのせいで、全く分からない。
「要するに、家庭で習ったことの延長は、侮られやすいんじゃないか? 例えばお前が職業差別をしている掃除も、学校と言いうより家庭で習うだろ?」
何が要するになのか、分からないが、俺が今差別論者だと決めつけられたことは分かった。それから、家庭的な職業ほど、下に見られることも、何となく分かった気がする。医者とか教師と比べたら、他の職業が霞んで見える。特に縁の下の力持ち的なものは、表に出ない分、努力が目には見えないから、分かりにくい。
「でもな、佐野。ブルデューの凄いところはそこで終わらないところなんだ。実はブルデューも低い階級出身だったんだが、ちゃんと社会学者になっている。つまりだな、低いと見られていた人でも、ちゃんと努力は認められるということなんだ」
俺は舌打ちしたくなったが、何とかこらえた。何を言い出すのかと思えば、結局ありきたりな言葉ではないか。努力は報われる。そう言いたいだけだ。担任の代わりに要約すれば、掃除も低く見られがちだが、努力は報われるということだろう。志望動機はそんなことを書けばいいのかもしれない。努力すれば必ずいつか報われる職業だと思うからです、と。俺が志望動機の欄にそう書くと、学年主任はうなずいた。誘導されているようで気に食わないが、書かなければならないので、おとなしくしておく。
次は長所と短所だ。志望動機が書けたことで、俺は何となく、書き方が分かったような気がした。要するに言葉の言い換えをしているのだ。一般的に「喧嘩っ早い」ことは、短所である。しかし、言い換えれば、「正義感が強くてすぐ行動に移せる」となる。そして短所はそのまま書けばいい。ただし、オブラートに包む必要がある。言い換えた長所を、また言い換えればいいのだ。「正義感が強すぎて、視野が狭くなる」とでも言えば、格好がつくのではないか。なんだ、簡単ではないかと俺は思っていた。趣味の欄はどうせ見られないから無難に「読書」とでも書けばいいのだろう。俺はすらすらと履歴書を書き終えた。俺って天才かもしれないと高を括っていた。
「こんなもんだろ」
俺は学年主任に、書き終わった履歴書を渡した。
「お前が、読書? 最近読んだ本とかきかれたら、何て答えるつもりだ?」
「は? テキトウだろ、そんなの」
「佐野。相手は大人だ。大人が真剣に、自分たちと一緒に働く仲間を探しているんだ。そんな大人を甘く見てはいけない。で、何を最近読んだんだ?」
「『ごんぎつね』っすかね」
「お前、それは小学校の教科書だろ?」
そう言いつつも、学年主任は俺に履歴書の清書を許した。ボールペンで書かなければならないらしい。二度手間であることに不快感があったが、間違えて一から書き直しになるのが嫌で、紙一枚に一時間近くかけて清書した。そして乾いた後で下書きの鉛筆書きを、丁寧に消した。履歴書を入れる封筒も、下書きが必要だった。学年主任に、ここでもいちいち注意された。株式会社は(株)と略してはならないとか、企業名は「様」ではなく「御中」だとか、面倒なことばかりだった。それでも何とか封筒も準備して、履歴書の写真の裏に名前を書いた上で、糊で張り付け、今度こそ俺の人生初の履歴書が出来上がった。しかしこんなに手間と時間をかけたのに、落ちればゴミ箱行というから驚きだ。
「御中を知らないということは、相手の呼び方も知らないな?」
相手の呼び方など、「てめぇ」しか知らなかった。そんな俺に学年主任は再びため息をもらして、「御社」や「貴社」というのだと教えてくれた。
「じゃあ、これは出しておくから、制服をなんとかしておきなさい」
俺は顔を引きつらせた。制服を新しくするということは、鬼に買ってもらわなければならないということだ。確かに俺の制服は、みすぼらしかった。擦り切れたズボンの裾に、煙草の灰であいた穴まである。制服の上は着たことがなかったから、新品のままどこかにあるだろう。それと一緒に、ネクタイやネームプレートもあるはずだ。
「それから、その頭もだ。分かったな?」
黒一色なんて、今どき信じられない。髪の色で人間性が分かるのならば、履歴書も面接もいらないではないか。今の俺の髪はグレーで、ワックスでまとめている。最近気に染めて気に入っていたのに、残念だ。
 俺は家で鬼に頭を下げ、美容院で髪を黒く染めて短髪にした。黒でも悪くないとも思ったが、俺の場合すぐに飽きるので、いつまでこの黒髪でいるかは疑問だ。内定が決まったら、染め直そうと思っていた。鬼は就活のためというと、あっさりズボンを買ってくれた。気持ち悪いくらいに優しかった。ブレザーとシャツ、ネクタイなどは、俺の部屋のクローゼットの中に、新品のまま眠っていた。新しい制服に袖を通し、鏡に向かうと、まるで俺ではないような人物が見つめ返してきた。形だけは、優等生に見える。あの全体的に白い履歴書が通るとは思えないが、せっかく俺もここまで擬態したのだから、面接も受けてやってもいいと、思うようになっていた。当たるも八卦、当たらぬも八卦。果報は寝て待て。そんな気分で履歴書の結果を待っていた。
 だが、信じられないことに、俺はその書類審査に通ってしまった。いつものように授業中に廊下をふらふらしていると、学年主任が俺のところに飛んできて、俺を進路指導室に連れ込んだ。何度も言うが、連れ込まれるなら若い女性教師がいい。
「書類審査、通ったぞ!」
俺は耳を疑った。あんなに見た目が白くて、漢字が少なくて、字も汚い。つまりは小学生が書いたようなあれが、企業の書類審査を通った。その事実はあまりに現実味がなかった。夢なのではないかと思ったほどだ。山口も島崎も、香川も、何度も書いては落ち、書いては落ち、という作業の繰り返しだったはずだ。それなのに、俺が一発で企業の書類審査を通るなど、あり得なかった。
「次は面接だな。ほら、企業のパンフレットと地図だ」
俺は押し付けられた企業のパンフレットと、インターネットから印刷されたと思われる地図を受け取っていた。
「ここからは遠いから、電車で行ける。だが、駅からも遠いんだ」
「車で行けるだろうが」
「お? お前、自動車学校、卒業できてたのか?」
「一発殴るぞ。ジジイ」
「面接は今週の日曜日の十時だ。私も同席するから、頑張ろうな」
「は? 何で同席なんだよ? 保護者でもねぇくせに」
「それは相手方に行ってくれ。でも、面接に同席を勧めてくる企業は多いんだ」
この高校の特色を忘れていた。ここは県下一の不良高校で、暴力や暴言は日常茶飯事だ。この県の企業ならば、それを熟知している。だから面接中のトラブルを避けるために、面接に教師同伴ということがあった。特に就活も後半になると、就活生が元不良だったという割合が増す。企業も面接をスムーズに行いたいし、高校側もいざとなったら生徒を持ち上げることもできる。両者の利害が一致した結果だった。
 そして、ついに面接の日が来た。いつもより早起きしたせいで、寝ぼけ眼だ。ピアスの穴は、結局ふさがらなかった。黒くなった髪を整え、ネクタイを締める。鏡の中の自分が、やはり気に食わなかった。内定さえ貰えばこちらのものだ。就職したらまたもとに戻そうと思っていた。何故かため息が出た。黒い鞄を手に持つと、手が汗ばんでいた。まさか、俺が面接で緊張しているのか。そう気づいて、バカバカしいと首を横に振る。朝食をとり、テレビを見ていると、もう九時だった。そろそろ行かなければならない。鬼の軽自動車を借りて、会社の建物を目指す。地図によれば、北にひたすら国道を走ると着くらしい。途中で「前園クリーンサービス」という看板があり、危うく見過ごすところだった。急ブレーキをかけて、その看板の奥に車を勧めると、大きな平屋の建物があり、その横に駐車場があった。そこに車を停めて、学年主任を待つ。しばらくすると学年主任が改まったスーツ姿で現れ、俺を頭からつま先まで見下した。
「うん。じゃあ、行こうか」
俺は学年主任に連れられて、建物のドアをくぐった。目に飛び込んできたのは、誰もいないがらんとした広い事務室だった。今日は日曜日だから、社員は全員休みなのだ。求人票に書いてあった通りに、土日祝日の休日は取れるということだ。ここまではブラック企業ではないらしい。
「こんにちは」
学年主任が声をかけると、恰幅のいい一人の男性が、応接室というプレートのある部屋から出てきた。何だか信楽焼の狸の焼き物に似ている。
「ああ。どうも、どうも。遠いところ、わざわざすみませんね」
男性と学年主任はさっそく名刺入れを取り出して、交換を始めた。
「学年主任の富岡です。よろしくお願いします」
「社長の前園です。こちらこそ、よろしくお願いします」
いい大人がぺこぺこしているのは、笑えたが、必死にこらえた。すると学年主任がいきなり俺の背中を叩いた。
「いいえ。ほら、佐野」
俺はそのまま学年主任に背中を押され、社長の前に出た。
「佐野(さの)晶(あきら)です。よろしくお願いします」
俺は初めて、出会って最初に頭を下げた。これがケンカなら屈辱的だが、今回は面接だ。ひたすら腰を低くするしかない。それにしても、第一面接からいきなり社長が出てくるなんて、おかしいのではないか。
「では、さっそくどうぞ」
応接室に通され、社長に声をかけられてから、学年担任と共にソファーに腰を下ろした。社長が、俺に向き合って座る。近くで見ると、威圧感がある。俺は気圧されていることを隠すように、背筋を伸ばして心の中で毒づいた。狸のくせに、と。そこに、女性の声がした。
「失礼します」
若いスーツ姿の女性が、盆に飲み物を持って入ってきた。俺はその女性に見覚えがあった。そして声にも、聞き覚えがあった。服が違っていて見過ごすところだったが、この女性は公園の紫ババアに違いなかった。公園の清掃をしているのは年寄りばかりだと思っていたから、あの時は紫ババアという認識しかできなかった。こんなに若いとは思ってもみなかったのだ。女性は俺に気が付いたらしく、俺の顔を見ながら棒立ちになっている。俺は、この面接が失敗に終わったと思った。
「どうした、秋元(あきもと)さん?」
「いえ。お飲み物をどうぞ」
そ言いながら、秋元はコースターの上にお茶を配って、部屋を出て行った。おそらく、この面接の後に、俺の所業が秋元の口から社長に伝えられ、俺は不採用となるのだろう。卒業しても、俺はどこにも所属できなかった負け犬となるのだ。
 そして、俺の面接は始まった。しかし、ここでも予想外のことが起きた。社長の息子が、どうやら学年担任の教え子ではないかという話になったのだ。
「お名前拝見して、社会の富岡先生じゃないかと思いまして」
「ああ。そうでしたか」
「息子が生徒の時は手を焼いたでしょう?」
「いえいえ。手のかかる生徒ほどかわいいものですよ」
「いや、そう言って頂くと報われます」
「それで、息子さんは?」
「今、副社長です」
「そうですか。立派になられましたね」
「いえいえ。まだまだですよ」
そんな会話が十分以上続き、俺はその間、ずっと放置された。俺の面接のはずが、ただの昔話になっている。しかし、俺から口を挟んでいいのだろうか。迷っている内に、やっと社長が俺の方を向いたので、俺は身構えた。
「富岡先生の生徒さんなら、大丈夫だね」
「は、はい?」
返事をしたつもりではなかったのに、社長は返事と受け取ったらしく、満足そうにうなずいた。そして、俺の履歴書を見て言った。
「正義感が強いなら、公共のものを汚すのも許せないだろう?」
「は、はい。もちろんです」
返事をすると、急に罪悪感がこみあげてきた。公共の物を汚して笑っていた奴は、俺だ。それなのに、さっきの秋元を困らせて、楽しんでいた。自己嫌悪に陥りそうになるが、ここで嘘を通しきらなければ、不採用になる。その将来的案事の方が、俺にとっては大事だった。社長は豪快に笑った。
「心強い生徒さんですな」
「いえいえ。軟弱者なので、どうにか使ってもらって、鍛えてやって下さればと伺った次第です」
「なるほど。分かりました。結果は後日学校の方に電話させて頂きます」
「はい。お待ちしております」
「え?」
俺の面接は、たったこれだけだった。ほとんどが社長と学年主任の昔話で、俺への質問はたった一問だけだった。本当にこれで終わるのか。それとも何か罠があるのか。お茶には手を付けなかったし、一応背は伸ばしていた。余計な言動もなかった。
「ありがとうございました。ほら、佐野、何ぼーっとしてる? 帰るぞ」
「はい。ありがとうございました」
俺は立ち上がり、社長と秋元に見送られながら、会社を後にした。秋元の笑顔を見ながら、背筋がぞっとした。女の笑顔がこんなに恐ろしいと思ったのは、これが初めてだ。俺の車が見えなくなったところで、きっと秋元は社長に告げ口をする。俺が公衆トイレでしたことや、清掃員に対する態度など、言いたいことは山ほどあるに違いない。俺は運転しながら、卒業後の自分を思い描けなくなっていた。
 後日、俺は階段に座り込んでいた。面接を受けてから三日が立っている。そろそろ結果が来てもおかしくない。そう思って、俺の足は自然と職員室に向かった。職員室の窓ガラスの部分をちらちら見ながら、通り過ぎようとした時、進路指導室から学年主任の声が聞こえてきた。電話で何か話しているようだ。
「本当ですか? 採用ということで。ええ。はい。こちらこそ、ありがとうございます。これからもよろしくお願い致します。ええ、もちろんです。はい、はい」
電話が終わったところを見計らって、偶然を装って信組指導室のドアを叩く。何も言わずに部屋に入ると、電話の近くにいた学年担任が、俺のところに近寄って生きた。そして、俺の方をがっちりとつかむ。
「おめでとう。内定だ!」
一瞬、目の前の学年主任が何を言ったのか、分からなかった。俺はあの白い履歴書しか出していないし、面接の時も俺は珍しく緊張しながら、座っていただけだ。面接の時、社長と話をしていたのはほとんど学年主任で、まるで俺は蚊帳の外だった。それなのに、俺が一発で内定を勝ち取ったと言うのだ。夢か冗談、もしくは幻聴ではないかと疑うのが当然だった。
「あんな面接で内定? 馬鹿にすんなよ」
俺はおちょくられているのだと思った。あんな履歴書と面接で内定が出るならば、山口や島崎、香川がやってきた苦労は何だったのか。何度も履歴書を書き直し、何度も不採用になり、心が折れそうになりながらも努力を続けた。そんな奴らにとって、俺の内定は許させれないものだろう。それに、社長の横には紫ババアがいたのだ。あの女が俺の内定を阻止しようとしても不思議はない。俺の嘘を看破し、社長に言い含めることもできたはずだ。それでも内定が出ているのなら、その会社は何か大きな問題があるのではないか。俺に睨まれた学年主任は、学校あてに送られてきた手紙を、俺に手渡した。封筒には前園クリーンサービスの社名とロゴが入っている。中には紙一枚しか入っていない。その紙には確かに、「採用」の二文字があった。「不採用」の間違いかと思ったが、「今回は御縁がなく」などと言った、不採用に使われる定型文もない。つまり、俺の内定は本当なのだ。自然と口角が上がる。しかし学年主任に、それを悟られるのが嫌だったから、我慢した。
「お礼状、書けよ」
「おれいじょう?」
今まで就活してこなかった俺は、その単語を初めて聞いた。授業でやったかもしれないが、俺がサボっていた時の授業だったのかもしれない。内定が出たら企業に向けて、謝意を伝えなければならないらしい。俺は手紙なんて書く趣味がないから、もちろん便箋も封筒も持っていない。そう言うと学年主任は鞄から無地の白い便箋と、封筒を取り出して、俺に押し付けた。まさか学年主任は、俺が内定することを見越して、初めから手紙セットを持ってきてくれたのだろうか。俺をここまで気にかけてくれるなんて、思いもしなかった。完全に敵視していた俺は、教師たちも十把一絡げに、俺たちを敵視していると思い込んでいた。しかし、捨てる神あれば、拾ってくれる神もいたのだ。学年主任は俺の恩師に値するのだろう。
「座れ。書き方教えるから」
「ああ」
俺は素直に学年主任に向き合って座った。そしてお礼状を学年主任に託して、俺は進路指導室を後にした。
 俺が進路指導室を出てから、学年主任は背伸びをした。俺という頭痛の種がなくなったからだ。現在の三年生の中で、一つも内定を貰っていなかった生徒は、俺一人だけだった。自分の受け持つ生徒の中で、一人でも進路が決まっていないことは、学年主任にとって大きな痛手となる。何故なら来年入学予定の生徒に向けたパンフレットに、卒業後の進学・就職先の円グラフが、毎年載せられるからだ。その進路を見て高校を選ぶ受験生も多い。ただでさえ、不良高校と名高いこの高校に置いて、一人でも進路未定者がグラフに入ることはあってはならないのだ。その一方で、不良高校として有名でも、全員が無事に卒業して進路が決まっていると、受験生にそれをアピールできる。親御さんの目も緩み、受験生の警戒水準も低くなる。だから、この高校の三年生は、どんな手を使ってでも進路を決めさせなければならないのである。
 学年主任に、進路指導の教師がお茶を出す。
「富岡先生、今年もお疲れさまでした」
「ちょっと強引だが、仕方ないだろう。もうあそこしかなかったし」
「求人票をよく見ない方が悪いんですよ」
進路指導の教師は自分用にお茶を持ってきて、学年主任の横に座る。
「もし、すぐに退職しても、卒業後の話しですしね」
「こんな女だらけの職場、俺でも勘弁だ」
そう言って、学年主任は前園クリーンサービスの求人票を見た。求人票の右上に、社員やパートの割合の他に、男女比が載っていた。俺はそんな細かいところを見ているはずがなかった。前園クリーンサービスの男女比は、男一に対して、女が九という比率だった。


リセット‐日常清掃員の非日常‐第2話|imatakei (note.com)
リセット‐日常清掃員の非日常‐第3話|imatakei (note.com)
リセット‐日常清掃員の非日常‐第4話|imatakei (note.com)


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