リセット‐日常清掃員の非日常‐第3話

六章 授業のような研修会

 掃除庫に入っているのは、清掃道具だけではない。数々の備品がストックされている。そのため、ただでさえ狭い掃除庫に、カラーボックスが三つもある。そこに、ゴミ捨て使うビニール袋だったり、ハンドソープの詰め替え用だったり、各種洗剤や雑巾の詰め替え用などが収納されている。特に場所をとるのがトイレットペーパーの備品だ。大きな段ボール箱一つがまるまる一箱、常に常備されているのだ。現在、カラーボックスをテトリスのように組み、何とかトイレットペーパーの段ボールを置いて、机代わりにしている状況だ。その仮の机には、時々会社からの連絡事項が置かれている。仕事中に一声かけてから置いていけばいいのだが、他の社員も忙しいらしく、備品の不足分と共に掃除庫に押し込んでいく。ただでさえ狭い掃除庫に、ぐちゃぐちゃに物を置いていくのだから、見つけた時には毎回心が折れそうになる。しかし秋元は片付けも得意らしく、てきぱきとその大量の発注品を、カラーボックスに入れていく。綺麗に並べるので、どこかの店のディスプレイみたいだ。
 今回は一枚の紙が、備品と一緒に入っていた。題名には「研修会のお知らせ」とあった。時候の挨拶に始まり、弁当を用意しておくので明記された日時に、会社の研修室に来るようにと、ただそれだけの文面だった。最後には米印で、「全員参加」と書いてあった。俺は正直面倒くさいと思って、研修会に行かなくて済む理由を考えていた。全員参加と言うからには、秋元も当然行くのか思ったが、何故か秋元だけが研修会を免除されているとのことだった。理由を聞いたが、秋元は得意の「内緒」で、教えてくれない。
 俺は夜はいつもコンビニかスーパーの弁当で済ませていたから、弁当が出るならそれでいいかと、参加を決めた。食い物に釣られるのは、昔から変わらない。時間をよく見ると、研修の開始時間は、終業時間から一時間もなかった。これで「遅れないように」とあるので、無理があると思った。ここはまだ会社から近い方だが、もっと会社から遠いところで就業しているパートや社員もいると聞いたことがある。夜の六時から八時までの二時間、一体何をするのかと思っていると、秋元から紙を奪われた。
「毎回、講師を招いて講義をきくらしいです。意味があるのかないのか分かりませんが、この研修の後には、テストもありますよ」
それではまるで、学校の授業と変わらないではないか。俺はすでに拒否反応が出ていた。秋元は、書いてある内容をじっくり読んだ後、俺の方を一瞥した。
「車、乗せていってくれる?」
「は? 研修受けんのか?」
「はい。佐野君が受けることですし、以前から興味はあったんです」
興味をそそられる要素は、どこにもないと思ったのだが、言わないことにした。
「どうせ、受けなくてもテストは提出ですし」
「どうやってテストを出すんだよ? 講習内容のテストなんだろ?」
「会社のテスト、文脈さえ押さえれば、小学生でも満点が取れるんです」
「意味あんのかよ、それ」
秋元は俺の問いに、肩をすくめてみせた。
 研修会の日、俺と秋元は通常業務を五分だけ、短縮して終えた。俺は初めて車の助手席に他人を乗せた。今日は鬼に研修会のことを話して、車を借りてきていたのだ。他人、しかも女性を乗せるとなると、否が応でも緊張する。それはたとえ、無表情と無感情的な秋元だって変わらなかった。秋元がシートベルトをしたのを確認して、車を走らせた。
 ニ十分から三十分くらいで、会社に到着する。やはり時刻はぎりぎりだった。せめて、就業日以外の日程でやってくれよ、と思いながら研修室のある二階に続く階段を上る。研修室は二階の小部屋だった。そこにずらりと事務的な長椅子が並べられ、ほぼ間隔をあけずに、パイプ椅子が並んでいた。つまり、人が小さな部屋に押し込まれている状態だった。壇上の講師と見られる女は、遅れ気味の俺と秋元をねめつけてから、資料を渡した。社員、パートかかわらず、全員出席の割に、男が俺しかいなかった。壇上の机にはパソコンがあり、プロジェクターで講義内容が映し出されている。一つの部屋に押し込まれて、目上の奴が偉そうに壇上から話し続ける。まるで高校までの授業のようで、俺は落ち着かない。まだ始まっていないのに、早く終われと願うだけだ。
 そして定刻通りに、講義が始まった。プロジェクターを映すために部屋は薄暗くなっていたので、寝落ちするには絶好の場所だったが、初めての講習だったし、隣に秋元がいるので、緊張して眠れなかった。講師の年増女が一歩前に出る。
「では、講義を始めます。初めに、皆さんに言っておきたいことがあります。皆さんの仕事は、たかが掃除です。誰にでも出来る簡単な仕事で、頭を使いません。なので、今日はいつも使っていない頭を使う絶好の機会です。それを心に止めておきながら、この講習を受けて下さい」
いきなりの爆弾発言に、部屋の空気がささくれ立ったのが分かった。いくら講師だからと言って、他人の仕事を侮辱して言い訳がない。俺は立ち上がって講師を睨みつけ、部屋を出ようとした。そんな俺のズボンを、秋元が引っ張る。
「他人の話しは、最後まで聞くものです。質疑応答の時間を待ちましょう」
声をひそめて秋元が言うと、講師は原稿から顔を上げて醜く顔を歪めた。
「ちょっと、貴方何? 話もろくに聞けないの? 全く清掃員は小学生以下ね」
俺のせいでまた講師に文句を言われたと、周りの女性陣が俺をにらむ。俺が悪いのかと、思いながら、しぶしぶ椅子に座り直す。それにしても、さっきの秋元の言葉が引っ掛かる。質疑応答の時間を待ちましょう? そういうことは、秋元にも納得できないことがあるのだ。だから、質問や意見を最後に講師にぶつけるつもりなのだ。そのためにも、相手の話は最後まで聞こうと言うことだろう。普段は何があっても動じない、ある意味鉄の女だから、秋元が相手に対して攻撃の機会をうかがうこと自体、初めて見る。普段苛ついた様子も見せない人が怒ると怖いと言うし、質疑応答の時間が楽しみだった。それとも今、秋元は苛ついているのだろうか。ふと、俺は秋元の方を見やった。資料に講師のいうことをメモしながら、秋元は、わずかに笑っていた。ただそれだけで、怖かった。
 講義は続く。環境問題に配慮するために、使い捨ての道具を使わないことや、会社の環境目標の設定。世界の環境変動についてという真面目な話が最初に来た。その割に、二酸化炭素の排出量が多いのは家庭からだと言う説明もする。俺にはちんぷんかんぷんだ。次に講師はプライバシー保護について話し始めた。自分のデータはもちろん、他者のデータも大事に扱うようにという話だった。そして最後に、講師はある番組の話をした。それは世界一清潔な空港に選ばれた東京空港の清掃員の密着ドキュメンタリーと、東京駅の新幹線の清掃員たちのドキュメンタリーだった。
「いいですか? 清掃員でもこんなに素晴らしい仕事をする人もいるんです。こうして取り上げられるように、皆さんも日々、努力する必要があります。最後にこのドキュメンタリーを見て、講義終了とします」
そう言って、講師がパソコンにDVDを挿入し、プロジェクターにドキュメンタリーの映像が流れ始めた。空港の清掃員の生い立ちや、清掃を極めるまでの経緯まで、コンパクトにまとめられていた。そして新幹線の清掃は、目にも止まらない早業で、連係して無駄の動きをしていたことが印象的だった。しかし、最初にここに集まった清掃員たちを見下しておいて、テレビに取り上げられる清掃員を目標に頑張れというのは、何だか納得がいかない。どう言えばいいのか分からないが、どこか矛盾しているように感じた。
 ここで、俺の隣りから腕が伸びた。真っすぐ天井に向かって伸びた腕は、秋元の物だった。
「質疑応答、よろしいでしょうか?」
秋元の声がわずかに震えていた。緊張しているのではない。怒りのあまりに声が震えているのだ。そうとも知らず、講師は面倒くさげに、秋元に質疑応答を許した。秋元が椅子を引いて立ち上がる。そしてその曇りない眼で、真っすぐに講師を見つめていた。
「発言者は、講義の初めに、集団の話をしていましたが、最後には個人の話しで締めくくりました。これは本来分けて考えるものだと思いますが、何故十把一絡げに語られたのか、お答えください」
皆がぽかんとする中、秋元だけが静かな自信に満ちた顔で、立ったまま言った。良く通る声で、その表情からは清々しささえ感じる。まるで、水を得た魚のようだ。これにい対して、講師は嫌そうに顔をしかめた。
「質も内容が分かりませんね? 何を言っているのかはっきりさせて下さい」
「では、分かりやすいことを伺います。貴方は清掃が素晴らしいからDVDに出てきた女性たちを見習えと言ったのではなく、テレビに取材されたから見習えと言ったのではないですか?」
講師は一瞬ハッとしたような顔になり、ついに口をつぐんだ。
「そんなことはありません」
「では、空港でも新幹線でもない私たちは、努力が足りないからテレビに出られないということではないのですか? 貴方は初めに、こう言いました。皆さんの仕事は、たかが掃除です。誰にでも出来る簡単な仕事で、頭を使いません、と。実際の清掃は本当に簡単で、誰にでもできる頭の使わない仕事なのでしょうか?」
秋元は、いつになく楽しそうだ。俺はもっと言ってやれと思っている。おそらく、周りの皆も同じ意見だっただろう。あれだけ饒舌だった講師は、もう何も言えないまま黙るしかなった。それを見た秋元は、これ以上追求しても講師が答えられないと思ったのか、残念そうに首を振った。
「残念ですが、時間です。私の質疑はここまでです。お時間、ありがとうございました」
講師は顔を真っ赤にして、講義をしめ、逃げるように部屋から出て行った。それと同時に弁当が配られ、それぞれが解散していく。
 俺は秋元の応援ばかりしていて、講師が黙った時には快哉を叫んだが、皆の反応はあまりよくなかった。
「出しゃばり。時間が押しちゃったじゃない」
「本当に迷惑ね。明日早いのに」
「時間ばかり取って、何様のつもりかしら」
秋元はそんな苦情に対して、頭を下げていた。俺はその光景に苛ついた。秋元は皆のために質疑応答に手を挙げたのに、そんな言い方はないだろう。悪いのはあの講師であって、秋元ではない。確かに清掃員は業務外のスーパーなども請け負っているから、朝早く出勤したり、逆に夜勤だったりと大変だ。時間をやりくりして、それぞれが集まっていることも分かっている。しかし、秋元は皆の声を代弁していたに過ぎないのではないか。それを責めることは、誰にもできないのではないか。俺は弁当を二個棚から持ってきて、一つを秋元に渡した。
「ありがとう」
素直に弁当を受け取った秋元は、どこか寂しげだった。
「かっこよかった」
俺は素直な感想を述べたが、やはり気恥ずかしかった。秋元が目を見開いて、俺を見ていたので、俺は部屋を出た。秋元も慌てて俺の後をついてくる。
 車に乗り込むと、会社の事務室の明りが点いていて、その中で講師が泣いているのが、暗い外からよく見えた。正直に言って、ダサイと思った。自分から見下しておきながら、思わぬ反撃にあったからといって、大の大人がめそめそと泣くなんて、バカバカしい。俺は秋元が乗り込むと、すぐに車を発進させた。俺が運転していると、秋元はつぶやくように言った。
「ダメですね、私。またやっちゃいました」
「何が?」
何が駄目で、何をやってしまったのか。つまり、何を後悔しているのか。
「講師の人を傷つけて、皆に迷惑をかけてしまいました」
「講師の方が駄目なんだろ。それに、迷惑なんて誰にもかけてねぇよ」
「そうでしょうか? 私の昔取った杵柄は、もう必要なんてないのに」
「何だよ、いきなり。杵柄?」
「過去に得た経験と言う意味です」
その言葉から、わずかに沈黙があった。俺は沈黙が苦手だ。
「何で、あんなに怒ったんだよ?」
「皆の仕事を侮辱されたのが、許せなくて」
「だろ? 皆、案外スカッとしたかもしれないぞ?」
「嘘です」
「は?」
「本当は、皆のことなんて考えていませんでした。私は自分の仕事に口を出されて、怒ってたんです。それに、講師の説明にも腹が立っていました」
「先輩、俺は先輩がかっこよく見えたし、言ってもらって嬉しかった。いいじゃん。たまには人に迷惑かけて自分を優先させたって」
俺はコンビニに車を停めて、秋元に待っているように言った。コンビニに駆け込んで、ホットコーヒーを二人分買う。そして一方を秋元に差し出した。
「ほら、先輩にご褒美」
俺がぶっきらぼうに言うと、秋元はおずおずとそれを受け取った。
「ありがとうございます」
コーヒーを無言で二人で飲んでから、俺は車を再出発させた。秋元は、重要な部分や自分の過去にかかわる部分を絶妙にかわし続け、結局俺は秋元の過去を全く聞き出せなかった。しかし、今日の秋元の様子から、秋元の以前の仕事は、論理や発言を伴う何かだということは分かった。それならば、前に話していた顔に汗をかかないことも、納得がいく。他人に何か説明している時、汗を拭きながら説明されたら、大丈夫なのかと心配になるだろう。それをマジシャンだとは、とんだ食わせ物だ。
「家まで送るか?」
「いえ、結構です。現場に下ろしてください」
ここでも秘密かと思ったが、俺に家を知られたくないといことは、今まで何度か聞いたことがあったので、それ以上何も言わないことにした。言われた通りに秋元を現場の駐車場で降ろし、俺はそのまま帰宅した。
 後日、掃除庫にまた会社から書類が届いていた。今度は厳重にファイル入りだ。何かと思えば新しい出勤票と、研修会のテストだった。テストや授業には拒絶反応が出る俺だから、今回も拒否したかったのだが、テストには全員提出と書いてある。しかも、出来が悪ければ再提出となっている。つまり補習のようなものだ。それは絶対に避けなければならない。ファイルにはもう、俺の分しか残っていなかった。秋元は俺より先にテスト用紙を受け取っているようだ。あわよくば写させてもらおうと思っていたところを、ノックされた。
「はい」
俺が返事をして掃除庫から出ると、秋元が立っていた。
「もう就業時間です」
秋元はすっかりいつもの調子に戻っている。
「あ、先輩。これ書きました?」
「テストですか? 一応書きました」
やはり先輩は書くのが早い。
「簡単だったので、すぐに佐野君も書けると思います。では」
そう言って、秋元はフリースモップを手に取り、玄関ロビーを拭き掃除に向かった。俺も業務用の重たい掃除機を持って、玄関に向かう。秋元は簡単だと言っていたが、俺の頭をバカにしてはならない。本当に莫迦なのだ。しかし、再度秋元にテストの写しを頼んでも、全く相手にされず、結局俺は最終手段に出た。
「あの時のコーヒーの代わりに。頼むよ、先輩」
さすがの秋元も、コーヒーのことを出されては無碍にできず、ヒントをくれた。実は今回のテストに限らず、半年に一度ある研修会のテストは、毎回、研修会の初めに渡された資料に基づいたテストが出るのだと言う。そのため、研修会で資料を貰った時点で、答えも渡されているのと同じなのだと言う。それならば、ということで、俺も資料を見ながら空欄を埋めていった。そして、今月分の出勤簿と共に、テストの回答用紙を提出した。このテストも、かなり上から目線だったのだが、問題を解くのに必死だった俺は、そんなことを気に留めていられなかった。
 さらに後日、テスト結果が発表された。俺以外の高木、杉本、秋元は満点で文句なし。俺は零点で再テストとなった。再テストも同じテスト内容だったので、いかにこのテストが簡単だったのか分かった。今まで誰も、再テストする人などいなかったから、再テスト用の問題を作っていなかったのだ。今度こそ、秋元は、俺にマンツーマンでテストを教えてくれた。その時、衝撃の言葉を浴びせられる。
「どうやったら、あれで零点取れるんですか? 逆に外しにいってませんか?」
「本気だよ。くそっ」
俺は何度もテストを書き直し、やっと提出することができた。もちろん、今回は満点だった。今更ながら、学校でも家でも、学ぶことは多かったのだと反省した。

七章 キッズイベントの洗礼

 うだるような暑さが続く夏に、俺たちも衣替えをした。衣替えと言っても、上の制服を長袖から半袖にするだけで、ズボンはそのままだから、高校までの劇的な制服の印象の違いはない。高校までは制服が夏用になるだけで、さっぱりとした夏らしさがあったが、今は言われなければ気付かれない程度だ。俺たちの仕事場は休憩所の掃除庫も含めて、エアコンがない場所を清掃することだから、ズボンも半ズボンにしてほしいところだ。今にも熱中症にかかってしまいそうだ。しかし、足を出すことは原則禁止されているし、半袖をこれ以上まくることもできない。少しでも着崩すと、クレームが入るらしい。事務の方はクールビズをいいことに、ポロシャツと言う軽装でも許されているし、図書館はエアコンがガンガン効いている。この待遇の差は、一体何なのか。
 むしゃくしゃしながら、掃除庫に入り、掃除機を運び出すと、珍しく事務方から声が掛かった。
「今日はイベントがあるから、気を付けて掃除してね」
事務方は俺たちに対してため口だが、俺たちは事務方には敬語を使わねばならない。これは雇用関係だと秋元に言われたので、ぐっと我慢して「はい」とだけ答えた。しかし、返事はしたものの、何のイベントなのか知らなかった。玄関ロビーに今日の予定がホワイトボードに書いてあることを思い出し、掃除機をかける前にホワイトボードを読んでみた。すぐに、読むまでもないことが分かる。ホワイトボードには、何かが書いてあるのではなく、紙が貼ってあったのだ。広報誌に挟んであったチラシのようだが、俺はそんなものを見る習慣がない。そのため、今日の「わくわくキッズランド」という催し物が、この施設で行われることを知らなかったのだ。十時から十七時までの全館利用となっている。この時間があてにならないことぐらいは、もう経験から知っていた。催し物には準備がいる。特に子供が集まるのだから、当然準備は手の込んだものになる。この鄙びた町に子供が少なくても、他から集まれば、全館子供だらけになる。そして子供にはもれなく親がついてくる。全館で様々な催し物があるから、人ごみの中をどうやって清掃すればいいのか、全く見当がつかない。
「何してるんですか?」
モップを器用に扱いながら、秋元が声をかける。
「だって、これ。どうすんだよ?」
「ああ。毎年の恒例行事だそうですね」
「毎年?」
俺は頓狂な声をあげ、ホワイトボードの上の紙を見た。確かに「第六回」とある。今まではどこか近くの施設でやってきたらしい。今回は新しく出来たこの文化施設に白羽の矢が立ったというわけだ。
「お子さん、いっぱい来ますよ」
「それぐらいは分かるけど、掃除できないだろ」
「避けながら清掃します。大丈夫だと思います。それより、掃除機を早くかけないと玄関の邪魔になります。急ぎましょう」
そう秋元は言って、モップをいつもより早く動かして、どんどん先に行ってしまう。この施設は出来たばかりだから、秋元もこれが全館利用は初めてのはずだが、全く動じていない。しかも、大丈夫だと言う自信はどこから来るのだろう。不思議に思いつつ、俺も倍速で掃除機をかける。風除室に出ると、蝉の声と共に、湿気の多い熱風が入り込む。暑いと感じていた館内には催し物のために冷房が効いていたのだ。それでも、いつもの倍は動き回る俺の汗は額を伝い、首筋に流れていく。服もべたついて気持ちが悪い。これでも清掃員が臭いと言わせないように、工夫しなければならない。汗はこの季節なら誰でもかくし、かかなければならないものでもある。それなのに、汗臭くしないようにというお達しだ。俺はポケットの中に入れていた冷感作用をうたうデオドランドシートを取り出し、トイレで汗を拭いてゴミ箱に丸めていれた。一方の秋元は、本当に夏でも顔に汗を全くかいていなかった。羨ましいと同時に、恐ろしいと思った。
 掃除機をしまい、スポーツドリンクを飲んでいると、秋元が入ってきた。汗をかいていないだけで、涼しげに見えるから事務所受けがいいが、汗をかかないと言うことは体には熱がこもってしまうから、熱中症の危険度は増す。秋元もスポーツドリンクで熱さをしのいでいる。そしてキャップを閉めながら、秋元は毅然とした様子で言った。
「今日は主にトイレ清掃になります」
「げ。マジ?」
夏のトイレは清掃しても換気扇を二十四時間回しても、臭気がこもってしまう。特に俺たちが使うSKはトイレの奥にあり、常に締め切っているので湿気も臭いも酷い。まるでどぶのような臭いだ。その上、ゴム手袋は下げて保管しているのに乾かず、夏場はいつも手を入れるとぬめぬめしていて、鼻をつまみたくなるくらい臭い。そんな物を一日中つけていたら、俺の手の方が腐るのではないかと、心配になる。本当は嫌だと叫びたかったが、自分の子供の頃を思い出すと、確かにトイレはよく使った。そして使う割にはマナーなんて知らなかった。トイレットペーパーを引っ張って遊び、破りまくる。珍しいものはとりあえず手に取って遊ぶ。さらに手はハンカチなんて持っていなかったから、ぶるぶると大きく振って水滴を飛び散らかしていた。小便器から垂れた自分の尿を踏みつけて、そのまま走ってどこかに行くことも日常茶飯事だった。これを考えれば、トイレに貼りつくのが清掃員の役目であることもうなずける。
「モップ掛けは、小さい子も来るので、床だけでなく周りも注意して下さい。落とし物や迷子が見つかった場合、事務室にすぐに連絡してください」
「はい、はい」
トイレに貼りつくから、他のところは掃除に入らずに済むかと思いきや、通常の清掃にトイレの見回りが追加されただけだったので、俺はうなだれた。事後清掃が基本だから、明日はもっとひどい状態の部屋を掃除することになるのだが、俺はそこまで想像力豊かではなかった。
 そこに、ノックの鋭い音がする。ノックのしかた一つで、清掃員を人間として見ている人物なのか、それとも人間と見ていない人物かが分かる。ヒールマークもそうだ。偉そうにしている奴ほど、ヒールマークが長くて大きい。自分の足音の響きに、酔っている人間の歩き方だからだ。それに、立場が上の人間ほど、黒い靴をはくから一目瞭然なのだ。
「子供がアイス落としたみたい」
事務室の男はドアを開け、その言葉を投げ込んですぐに、ドアを閉めた。
「すぐ行きます」
秋元はそう言って、俺に目配せして掃除庫を飛び出した。俺がアイスをどうやって片付けるか考えている内に、秋元は女子トイレから水拭きモップを持って出てきた。そして床に視線を走らせると、親子ずれに挨拶しながら、素早く階段の下に向かった。俺は戸惑いながら、その後を追う。階段の下には、棒が刺さった白いアイスが半分解けた状態で、床にべちゃりと落ちていた。香りから判断して、バニラアイスだろう。秋元はおもむろにアイスから突き出た棒を引き抜き、ポップに擦り付けて俺に渡した。そしてモップを解け落ちたアイスに被せると、くるりと水モップを半回転させた。すると床にはもうアイスはなかった。俺は驚いて目を瞠るが、秋元の視線はなおも床を走っている。半回転させた水拭きモップをさらに回転させ、点々と残されたアイス液を拭いていく。アイス液はアイスの自動販売機まで続いていたが、秋元は全て拭き終えてしまった。そしてそのまま、女子トイレに戻り、何事もなかったように戻ってきた。俺は慌ててアイスの棒を、燃えるゴミに分別して捨てた。
「何だよ、今の。本当に手品師だったんじゃないか?」
「何がですか?」
「アイス消失」
「ああ。一応、これくらいは」
「何であれだけで、分かったんだ?」
「だから、何がですか?」
「どこにアイスが落ちてるとか、どのくらいの汚れだとか、全然言われてないのに」
「ああ。それですか。経験の差です」
それを言われてしまうと、俺の経験不足が際立ってしまって、何も言えない。そう思って俺が黙ると、秋元は少しだけ笑って、冗談ですと言った。
「今日は暑いので、アイスを食べたがる子供が多いだろうな、と初めから思っていたんです。そして子供なら、すぐに食べたがるだろうって、予想は出来ます。つまり、自動販売機からアイスを買ってもらった子供は、すぐにアイスの紙を取ってしまうんです。でもアイスを買ってあげた大人としては、ちゃんと座って食べさせたい。だから座る場所を探すわけです。その間に、この暑さでアイスは溶け、子供の手に余る。そしてアイス液が棒を伝って子供の手を濡らし、アイスが手から落ちてしまう。子供が歩けるのは自販機からそう遠くありません。おおよそ、階段の下あたりだと思います。もし、大人がアイスを落としたなら、もっと先の場所だったと思うのですが、子供がアイスを落としたと言っていたので、見当がついたんです」
「探偵向きだな」
今なら俺にも分かる。「子供がアイスを落とした」ではなく、「子供がアイスを落としたみたい」と、断定的な言い方でなかったから、アイスを落とした瞬間は誰も見ていないのだ。つまり、アイスが落ちているのを見た事務員が、掃除庫に言いに来た時には、もうアイスは溶けかけていた。そうなると、水気を吸い取る水拭きモップが最適な掃除道具となる。しかも、子供がアイスを落としたならば、秋元が言うようにアイスを持って移動したことになるから、アイスの自販機までアイス液で床が汚れていることも推測できるというわけだ。しかし、これを一瞬で見抜くとは、本当に咄嗟に頭の回転が効くのだなと感心してしまう。それに、あの水拭きモップの使い方は、誰でも出来る技ではない。俺が秋元に再び賛辞を送ろうとしていた時、今度は玄関ロビーから駆け込んできた若い男性が、俺たちに向かって来た。
「ああ。いいところに。あの、玄関先で自転車のカゴに入れていたジュースを、こぼしてしまって」
「見せて頂けますか?」
血相を変えた男性に対しても、秋元は一切動じる気配はない。
「こっちです」
俺と秋元が玄関ロビーから出ると、風除室を出てすぐに、黒い自転車があった。そしてその籠の中で茶色のビンが割れ、籠の下には黄色の水たまりができていた。
「少々お待ちください。佐野君、ゴム手でガラスのビン片付けて下さい。くれぐれも怪我をしないように、気を付けて下さい」
そう言って、秋元は掃除庫の方に走って行った。俺も男子トイレからゴム手袋をはめて、ビニール袋を持ってくる。俺は瓶の欠片を慎重に取り出して、ビニール袋に入れていく。今日は子供のイベントの日だ。もし子供がここで転んだり、手をついたりしたら、大怪我をする。考えるだけでもぞっとした。そしてよりにも寄ってこんな日に瓶を割った男に、苛ついていた。そこに、一方の手にバケツに水を持ち、もう一方の手には水切り棒を持った秋元がやって来る。バケツの水を置いて、俺の作業の進捗状況を見る。
「意外に大きな欠片で済んでたから、拾えたと思う」
「そうですか。ありがとうございます。では、流雪溝の蓋を開けて下さい」
「ああ。そう言うことか」
ここはニュースにはならない「隠れ豪雪地帯」と呼ばれる町だ。雪を片付けるための大きな側溝がいたるところに存在し、普段はコンクリートで蓋がされている。こぼれたジュースと細かいガラス片は、水で流雪溝に落として流せばいいのだ。俺はコンクリートの想い蓋を持ち上げ、横にずらした。そこにすかさず秋元が水を流し、水切り棒で水とジュースを一気に流し込む。その作業を秋元は数回繰り返し、風除室の前はすっかり綺麗になった。俺がコンクリートの蓋を元にも出せば、そこにジュースの水たまりがあったとは、誰も気づかないほどだ。俺が手間をかけさせやがってと思っていると、秋元は男性に頭を下げていた。
「ご報告、ありがとうございました」
男性も、戸惑いながら、何度も俺と秋元に礼を言って、謝っていた。男性が去ると、俺と秋元はトイレ掃除に向かった。
「何で礼なんかすんだよ? あいつが絶対的に悪いのに」
「普通なら、あのまま逃げてしまいます。でも、そうしていたら、どうなっていたと思いますか?」
「そりゃ……」
お俺が考えていた通りだ。幼児や子供が怪我をしたかもしれないし、誰かが転んだ拍子に怪我をしたかもしれない。それ以前に、風除室前にジュースやガラス片が散乱していたら、気分が悪いし、シミになっていたかもしれない。
「そうです。だから、ここでは自分が汚しても清掃員に言えば何とかしてくれる、という信頼関係を来館者様と築くのが最善策です。嫌な顔をしたり、怒ったりして、汚れなどの報告が上がって来なくなるのが、一番悪いことですから」
秋元は当然のように言って、女子トイレの清掃に入って行った。俺も男子トイレの清掃に入る。
 男子トイレの汚れは、いつにも増して散々だった。小便器から滴り、床に広がる尿は異臭を放ち、大便器は便で汚れ、手洗い場は水浸しだ。ガラスには水滴が飛び、トイレットペーパーも空になりそうだ。ハンドソープの補充も必要だった。これを一日中清掃しなければならないと思うと、気が滅入った。とりあえず、俺と秋元は一回目のトイレ掃除を終えた。その頃には、既に大勢の人が施設内で賑やかにしていた。走り回る子供を親が捕まえたり、親に置いていかれたと泣き喚いていたり。そうかと思えばアイスやジュースを持って走り回る子供が、親に注意されて暴れていた。耳が痛くなるほどの雑音だ。綺麗にしたばかりのトイレにも、ぞくぞくと子供連れの来館者が入って行く。油断すると、子供にぶつかりそうになり、こんなところを清掃するのは、かえって危険ではないかと思われた。しかし、秋元は涼しい顔で、図書館に清掃に入る。確かに、図書館は催し物の区域外だから、通常清掃ができた。再びトイレを清掃し、昼食をとることになった。俺が萎えていると、秋元は、恐ろしいことを言った。
「本当に大変なのは、午後からですよ」
「これ以上に?」
「はい。二階の調理室も使用とのことでしたから」
「マジか。ちなみに何すんの?」
「昼食は調理室で作って、大会議室で親子そろって食べるそうです」
聞かないほうが良かったと、俺は後悔する。調理室は、俺がトイレの次に嫌っている清掃場所だ。椅子や調理台、ガス台に床など、本当に面倒くさいのだ。しかも、見た目を重視したのか、床はクロスで細かな凹凸があり、ゴミや汚れが取れにくい。初めの頃は何をどこから手を付ければいいのか分からず、秋元に何度も清掃のやり方を質問していた。さらに、調理室から大会議室に食べ物を持って移動するということは、汁や食べ物がこぼれる心配もある。そうなると床がべたついているので、水拭きしなければならない。大会議室も同様だ。子供に、食べ物を一切落とさずに食べろと言う方が間違っている。
 気分がのらないまま、俺は秋元と一緒に二階の清掃に向かった。廊下やホワイエでも、いくつかの団体がブースを出しており、プラレールやバルーンアートで子供たちがはしゃいでいた。その後ろで、親は子供にスマホを向けて写真を撮っている。写真に映りこむことはできないため、近づくことすら困難だ。暇を持て余した子供たちが、鬼ごっこを始め、そこらじゅうを走り回っているので、階段から転げ落ちないかと心配でもある。
「どうやって清掃するんだよ?」
「オレンジのSでとりあえず対応しましょう」
秋元もこの状態では手も足も出ないのか、一番小さいモップを選んで、邪魔にならないように拭き掃除をすることにしたようだ。俺は小さい手垢がいっぱいついたガラス拭きを任された。その時、調理室の方で、がしゃん、と派手な音がした。一人の女性と子供が、味噌汁まみれになって転んでいた。女性の横には盆と四つのお椀が転がっている。子供は泣きじゃくっていて、親が子供に慌てて寄り添っていた。そして、来館者同士のケンカが始まった。親は子供に怪我がないことを確認すると、女性をにらんだ。エプロン姿の女性も、むっとした様子で、親子をにらんだ。
「うちの子が火傷したらどうするんですか!」
「その子がぶつかってきたんでしょう!」
「謝りなさいよ!」
「どうして? 謝るのはそっちでしょう!」
そんな醜態を見ていた秋元は、モップをトイレの通路の壁に立てかけ、ケンカする両者に近づいて、声をかけた。ケンカなら殴り合えよ、と思っていた俺は、秋元がこの場をどのように収拾するのか興味があった。
「どうかなさいましたか?」
あたかも通りかかって、今ケンカに気付いたように、秋元は声をかけた。そして多目的トイレの方を見ながら、冷静に両者に語りかけた。
「お召し物が汚れてしまっていますね。あそこに洗い場があるので、お使いください。もし、落ちない汚れがありましたら、洗剤がありますので、お申し付け下さい。ここは私が清掃しておきます」
そう言って、秋元はやはり頭を下げた。滑りやすい床で申し訳ございません、と。床が悪いということにして、暗にどちらも悪くないとほのめかしたのだ。俺だったら、正直に、子供の方がよそ見しながら女性にぶつかっていったと証言するところだった。秋元はいつでも来館者ファーストらしい。秋元は盆に転がっていた椀を重ね、調理室に戻した。そしてバケツにタオルで吸い取った味噌汁を絞り出していた。味噌汁がなくなったところで、水拭きモップで丁寧に拭きとった。ケンカをしていた両者は、毒気を抜かれたように、多目的トイレの水洗い場で、味噌汁の汚れを洗い流している。濡れたエプロンの女性が戻って来て、秋元に近づいた。俺ははらはらして見ていたが、秋元は微笑んで見せた。
「お怪我がなかったようで、何よりです」
「いえ。さっきは、ありがとうね」
「いいえ。こちらこそ」
お互いに頭を下げあって、女性は調理室に戻っていった。それを見ていた俺に、誰かがいきなり体当たりしてきた。子供かと思ったら、どう見ても成人男性だった。その先を、小学生くらいの男の子たちが逃げて行く。どうやら男性は子供たちと一緒に、鬼ごっこをしている最中に、俺にぶつかってきたらしい。男性は俺を無視して子供たちに向かって叫んだ。
「待ちやがれ!」
そう言いながら、男性は階段を一段飛ばしで駆け下りていく。その言葉は俺の言葉だろうに、と思うが言えなかった。本当は「すみません」の一言ぐらいあっても良かったと思っている。成人した父親が、小学生と一緒になって本気で鬼ごっことは、世も末だ。階段まで使っているのだから、危ないことこの上ない。親ならば、本来、子供たちを躾ける側の人間であるはずだ。それなのに、子供を追っていて他人にぶつかっておいて、謝りもせずに走り去る。これではただの図体の大きな子供ではないか。ぶつかられた背中が痛い。高校までの俺だったら、あの男性を半殺しにしていたところだ。
「大丈夫ですか?」
いつの間にか、秋元が俺のすぐ傍にいた。
「これくらい、痒くもない」
俺が見栄を張り、秋元はそれに気付かず大会議室に目をやった。昼食の時間が過ぎて、大会議室は食べる場所の役割を終えていた。がらんとした室内には、使い終わった机と椅子だけが残されていた。食事に夢中で、片付けを忘れているのか。それとも、部屋の使用量に金を払っているから、片付けなくてもいいと思い込んでいるのか。
 俺と秋元は事務室から大会議室の鍵を借り、中に入った。手には新しい雑巾代わりのタオルがあった。秋元が机を拭いてから、俺が折りたたんで部屋の隅に片付けていく。椅子も秋元が汚れを拭きとってから、俺が重ねて隅に寄せていく。何もなくなった部屋の床は、味噌汁や飲み物、食べ物で盛大に汚れて、かぴかぴに乾いていた。しかも、これと同じ汚れがいくつもある。どうやら子供が食べこぼしたものだけではなさそうだ。本気で鬼ごっこして、ぶつかった相手を無視することといい、食べこぼしを恥ずかしいとも思わないことといい、最近の親は子供なのか。親の精神年齢が幼いのではないかと、疑いたくなる。
「最近の親は、子供を叱らないんだな」
「褒めて伸ばすのが、最近の主流らしいので、佐野君もお子さんを怒ってはいけませんよ。親が怒鳴り込んできたり、事務所にクレームが入ったりしますから」
「はあっ? 躾はどうなってんだかね」
俺と秋元は水モップをせっせと動かしながら、乾いた飲食物の痕を拭いていく。大会議室は広いので、これだけで疲れるし、時間もかかる。汚れを落としてから、フリースモップをかけて埃などを取り除いて、ヒールマークを取る。あんなに走り回られたら、きっと全館がヒールマークだらけになるだろうと、心配だった。
 モップ類を片付けて、一階のトイレに戻る。トイレは案の定、清掃前の状態に戻っていた。俺の苦労は一体どこに消えたのか。そんなことを思いつつ、初めから清掃をやり直していると、秋元が男子トイレに入ってきた。そして、男子トイレの個室を覗き込んで、何かをチェックしている。
「ここは大丈夫みたいですね」
「何?」
「女子トイレ、またやられました」
「え? また?」
俺たちの中でも、特に要注意人物はブラックリストに入っている。名前は分からないので、その手口でニックネームを付ける。個室をチェックしに来たということは、また個室のトイレが狙われたのだ。そこにしかないもの。それは、トイレットペーパーである。ある特定の女性が、個室トイレのトイレットペーパーを盗んでいくのだ。残りが多いトイレットペーパーから巻き取り、予備に置いておいた物はそのまま鞄に入れてしまうらしい。
「またトイレットペーパー女か」
「ええ。迂闊でした」
こんな状態の中で、迂闊も何もないと思うのだが、秋元は渋面を作った。今日は全館利用で、子供たちが集まり、半ば混乱状態にある。しかも、ずっとトイレに貼りついているわけにもいかない。しかし、だからこそ、この混乱状態に乗じて、盗みを行ったのかもしれない。確かにここは公共の施設で、税金で建てられ、備品も町民税で賄われている。しかし、だからと言って、その施設の備品を自分だけの物にしていいわけがない。これは窃盗と言うれっきとした犯罪行為だ。
「つーか、まだ図書館にいたりするんじゃ……」
「ああ。そうですね。きいてきます」
秋元はそう言って、図書館に入って行った。トイレットペーパーを盗む女は、図書館でも騒ぎを起こしたことがある。図書館の新聞に、勝手に線を引いたのだ。自分の家の新聞に何を書きこもうが勝手だが、図書館の新聞も公共の物であり、後から読む人の妨げになってはならない。俺が苛々いていると、肩を落とした秋元が図書館から出てきた。
「どうだった?」
「いませんでした。それに、図書館には今日は入っていなかったようです。一応、司書の方に注意喚起だけしておきました」
「くそ! 何なんだよ、あの女」
「これはもう、事務所案件ですね」
さすがの秋元も、これほど被害を出されたら、事務室に報告するしかない。事務所に報告すると言うことは、次に犯行があった時には警察沙汰にするということだ。少し大げさな感覚は受けたが、仕方ないことだった。秋元としては胸が痛いのだろうが、警察に言われれば、トイレットペーパー女も改心するだろう。
 後日、別の施設で、トイレットペーパー女が捕まったという噂が流れた。この施設だけでは飽き足らず、他の公共施設や店でも、同じ手口で犯行に及んでいたらしい。秋元は、クレプトマニアとは違った感じを受けたという。クレプトマニアとは、万引きなどでスリルを味わうことを目的として、犯行を繰り返してしまう犯人のことだと秋元は言う。しかしトイレットペーパー女の場合、自分に構ってほしくて犯行に及んでいるように感じると、秋元は言っていた。きっと孤独なのだろうと、秋元は女に同情していた。
 トイレットペーパー女が逮捕されたことから、施設の備品の盗難は収まった。しかし、少量のトイレットペーパーの巻き取りは、男子トイレでも女子トイレでも起きていた。秋元は、これだけは清掃員にはどうしようもないと、悔やんでいた。

八章 豪雨災害と避難所

  夏に雨が降ることは、珍しくはない。梅雨を過ぎても、急な雷雨があったり、たまに大雨が降ったりと、夏の空は秋の空よりも目まぐるしく表情を変える。しかし、今年の雨は異常だった。一度降り出すと、大雨になり、その上なかなか止んでくれない。気候変動がどうだの、エルニーニョがどうだの、台風がどうだのと、テレビの天気予報で連日騒がれた。それらの気象情報をまとめると、温暖化の影響で海水の温度が上がり、大量の水蒸気が発生し、山にぶつかって大量の雨を降らせるらしい。年間降雪量が多い場所は、年間降雨量が少ないと言われていたし、俺もそうでなければ不公平感があると思っていた。しかし、やはり今年の雨の降り方は妙だった。毎日のように雨が降り、テレビでは大雨と洪水の警報が連日発表された。
 俺の母親、つまりは鬼曰く、豪雨災害の年の雨の降り方に似ているという。豪雨災害は、俺でも小学校の社会の時間に習った。小学校のプールの横には、豪雨水害の年に、ここまで水が来たという看板が立てられていたほどだ。小学生の背丈より、随分高いところまで水が押し寄せたことが衝撃的だったので覚えている。川から離れているのに、大人の腰まで水に沈んだという。鬼は、舟で行きかう人々を見たと言っている。
 そう言えば俺が中学生の時、大規模水害までとはいかなかったが、一度だけそれらしきものを経験していた。降り出した雨は向こうの景色が白く霞ませ、道路の色をあっという間に濃く染めた。地区の消防団の人が堤防を見張り、このままでは堤防が決壊するとして、川の水を田んぼに流した。山際まで田んぼが続く田舎だから、遠くの田んぼから徐々に水に沈んでいき、まるで田んぼに巨大なビニールシートを被せたように見えた。その頃には不良と呼ばれていた俺だから、避難なんてしなかった。むしろ、田んぼが駄目になっていく様子が面白くて、仲間と一緒に沈んでいく田んぼにどれだけ近づけるのか、根性試しをしていた。今思えば、わずかでも足を水に掬われれば死んでいた、とても危険な行為だった。そんな俺たちは、地域の人から「バカは死んでも治らない」と言われていたから、周囲の人は呆れていただろう。それは、死というものや水害の怖さと言ったものが、俺たちには無関係だと思っていたから、やっていられた行為だったと、今では反省している。
 そんな危険な雨が続き、俺の仕事場である施設も、避難場所となったと事務室から聞かされる。使われることはないだろうけど、と言い置いてからのことだった。俺も、避難所となる施設は想像もできなかった。昔、大水害があったと授業で習ったきりだし、大水害と言えるものを経験したわけでもない。平凡に災害とは無縁に十八年を生きてきたから、想像できなかったのだ。大げさだな、と俺は思っていたが、秋元は違っていた。秋元の家は、川に近いらしい。
「大袈裟だよな」
連日の大雨でも、図書館やイベントに人々はやって来る。そのため施設の床はいつもびしょびしょに濡れていて、滑りやすくて危険だ。俺と秋元も、水拭きモップで水を床から吸い取る作業に徹している。俺の言葉が聞こえなかったように、秋元は窓の外を見上げる。その視線の先にあるのは、雨粒を絶え間なく落とす、墨のように黒い雲だ。
「ビビってんのかよ?」
俺がからかうと、秋元は「はい」と頷いた。意外な反応に、俺は頭を抱えた。最近の秋元は、いつもの秋元らしくない。心配そうに空ばかり見上げている。鬼のように、大水害の経験者でもないのに、どうしてここまで雨に怯えているのか分からなかった。事務室だって、ここが避難所となることなど、頭の片隅にも置いていない雰囲気だ。図書館だって一階にあるのに、通常開館している。雨が強い以外は、日常が流れている。
 秋元の家は堤防の近くで、橋にも近いと言う。かつて廻船貿易で栄え、母なる川と呼ばれたその川は、国土交通省が定める一級河川だ。普段は緑色の流れがあり、川面に日光を反射してきらきらと輝く。堤防の下には公園があり、犬の散歩をしてる人をよく見かける。しかし、秋元の家の窓から見える今の川は、いつもとまるで表情が違うらしい。深い緑色の川面は茶色に濁り、堤防下の公園はもうはるか下に沈んでしまったという。水位の上昇も激しく、川の中州に生えていた木々は、もう頭がやっと川面から見える程度になってしまった。このまま、この滝のような雨が続けば、確実にここは避難所になると、秋元は言っている。
 現在の雨の様子は、バケツをひっくり返したような雨、と言うよりも、滝のような雨の降り方に変わっている。確かに、この雨が夜中まで続けば、警報から避難指示に切り替わるかもしれない。しかし逆を言えば、避難所となるここで仕事をしている限り、命を落とすことはないということだ。まさか会社も、避難所に避難している社員に、そこを清掃しろとは言わないだろう。
「堤防、大丈夫だろ。もう何十年ももってんだし」
俺はわざと吐き捨てるように言った。堤防は鬼も子供の頃経験したと言う大水害を受けて、その数年後に建てられた堤防だ。昔の蔵を意識した造りで、今では堤防と言うよりも、観光の写真スポットとして有名だ。雨が降った時でさえ、堤防から覗けば、川面ははるか下に流れている。大水害以来、様々な水害を乗り越えてきた堤防で、造りは頑丈だし、何より高い。あの堤防が決壊するところは、同頭を捻っても想像できなかった。
「佐野君。自然を甘く見てはいけません」
どうやら秋元の近所に、役場の臨時職員として、堤防の調査を行ったことがあるおじさんが住んでいるらしい。その調査内容は、最悪の結果だったようだ。堤防のいたるところに経年劣化によるひびが入り、そのひびから雑草などが生い茂っていた。さらに、堤防の下敷きになっていた植物の力で、堤防自体が緩く波打ち、その影響で割れた部分に雑草が生い茂り、その雑草の力でさらにひびが広がると言う悪循環が見られた。このことから、次に大水害レベルの雨が降れば堤防は危険と判断されていた。俺はその話を全く知らなかったから、驚いた。そんな情報は、鬼ですら言っていなかった。まさか、役場がその情報を隠蔽し、最悪の状況になった時には、議員や役場職員だけ逃げるつもりではないのか。
「役場は、堤防の費用が捻出され次第、堤防の補強工事にあたるとしていましたが、間に合いませんでしたね」
その情報は、俺が一切目にしない町報にちゃんと書いてあったらしい。しかし、万年赤字続きのこの町で、それほど巨額な予算が捻出できるとは思えない。やはり、町役場でさえ、俺のように自然を甘く見ていたのだろう。
 秋元の隣りに並んで、滝のように降る雨が、道路を川のように流れる様子を見ていた。排水溝は、もう役に立たず、流雪溝がなんとか雨水の逃げ場になっている。俺の家の雨どいも壊れたと、鬼が騒いでいたことを、ぼんやりと思い出す。ただ古いからだと無視していたが、この雨の勢いで、雨どいさえこらえ切れなくなっていたのかもしれない。あの堤防は見掛け倒しだったと言いうことになる。あんなに大きくて立派な建造物が、自然の前では何の力もない。しかも、ただの雑草のせいで堤防が弱くなるとは、思いもしなかった。人工物の脆さを感じ、自然の強さを思い知る。
 人間は自然を追いやることに成功した、と思っている。地面をアスファルトに変え、巨大な建造物を建て、田畑を広げ、山を切り崩し、海を埋め立てた。夜でさえ、明かりを灯すことに成功している。宇宙から夜の地球を見ると、日本が一番くっきり光って浮かび上がると言う話を聞いたことがある。しかし、地震や雷、洪水を無害にする術は、まだ人間は持ち合わせていない。それどころか、これまで蹂躙してきた自然に、あっという間に命も生活も奪われる。少子高齢のこの町も、自然の驚異に晒されている。耕作放棄地の増加に伴い、田畑は自然の状態に戻り、野生動物たちがやすやすと人々の生活に入り込んでくるようになった。アスファルトやコンクリートの隙間から、植物が根を張り、地面を元に戻す。巨大な建造物は地震や津波に呑み込まれ、一瞬で瓦礫になり、土地は更地になる。山も海も、人間がいなくなればすぐに自然に還るのだろう。人間の生活は脆い。もしかしたら秋元は、巨大地震や落雷被害など、自然災害の被害者だったのかもしれない。それで、こんなに心配しているのだ。
「佐野君、怖いのは水だけではないのです」
そう言われて、ぴんと来た。大都市圏で、未知のウイルスが猛威を振るっているという話だ。まだ大都市圏の話しだから、対岸の火事くらいにしか思っていなかった。しかし、このウイルスの特徴として、人が密集したところで患者が出やすいということが、最近分かってきたと新聞の見出しにあった。
「堤防が決壊すれば、この施設の一階は水に沈むでしょう。そうなれば、二階の部屋は限られています。小中学校の体育館に分散させて避難誘導しても、ここでは密集状態になるのは明らかです。もし、ウイルスを持った人が一人でもいれば、避難してきた人だけではなく、私たちも罹患の可能性が在ります」
「なんだよ、脅すなよ」
「脅しではありません。私たちはここの清掃員です。避難者の衛生面を支えるのも、仕事の内です」
「バカ言うなよ。何で俺たちを見下してきた奴らのために、そこまでしなくちゃなんないんだ? 大体、避難者を働かせるって、どういう神経してんだよ!」
「昨日、会社に問い合わせたところ、やはり、どんな状況でも出勤だそうです」
「マジかよ? ふざけやがって! 俺は嫌だね。仕事だって、命あってのもんだろ!」
俺は急に山口のことを思い出していた。身重の彼女を守って死んだ山口だ。就職して、真面目に人生を再スタートさせたばかりに、呆気なく死んでしまった。だから山口は高校を卒業することすらできなった。一方の俺は、就職してまだのうのうと生きている。文句を垂れ、些細なことで苛立つのは、相変わらずだ。それなのに、山口の方が先に死ぬなんて、仕事に殺されたようなものじゃないか。だから俺は、山口の二の舞にはならないと決めていた。
「佐野君。清掃員は、契約を反故にした場合の違約金が高いんです。確かに命が一番大事ですが、仕事も生きる上で大事です」
「いつもきれいごとばっか言ってんじゃねぇよ!」
俺は秋元に腹が立ち、重たい沈黙の後、ロッカールームに駆け込んだ。秋元はそんな俺を追って来た。
「何してるんですか?」
「帰るんだよ」
「まだ就業時間内です」
「知るかよ」
俺はバッグと傘を手にして、施設を後にした。秋元一人でも、施設の清掃は終わらせられるだろう。清掃員が勤務をまっとうすれば、違約金は発生しない。だから、俺はむしゃくしゃしたまま、一人、帰ることを選んだ。
 しかし、夜になって状況は一変する。大雨と洪水の警報は、避難勧告に変わった。川の水はさらに増水し、氾濫危険水位を超えていると、何度もニュースで報道されていた。事件や事故とは無縁の田舎だったのに、今晩は全国ニュースでこの町が取り上げられている。同じ県内では、もう既に川が氾濫し、避難してきた人々がテレビ局のインタビューに答えていた。「こんな洪水は、何十年前の大水害以来だ」と、答えていた。川のライブ映像は、見たこともない川の様子が映っていた。濁流がごうごうと音を立てて、うねりながら猛スピードで流れていく。流木やごみが、橋の足に絡みつき、橋の上にまで水が溢れそうになっていた。橋が、濁流にのみ込まれるのも、もはや時間の問題だった。テレビに釘付けになる俺のスマホには、絶えず町からの研究アラートが聞こえてきていた。一秒も間を置かず、すぐに安全な場所に逃げるように促している。次々に、避難勧告の地域が増加していく。町のスピーカーも何か言っているが、雨の音にかき消されていた。夜が深まるにつれて、状況は悪化していった。
 そして夕食を済ませると、鬼が言った。
「早く準備して!」
「何の?」
「避難に決まってるでしょ! 伯母さんのところに避難させてもらうことになったから」
俺の伯母さんと言うのは、鬼の姉である。鬼が隣り町に住む姉に、避難を打診すると、すぐに了解してくれたと言う。鬼はボストンバッグに、服や化粧品やトラベル用品を片っ端から詰め込んでいた。俺もリュックサックに、必要なものを詰め込んでいく。その途中に、ふと、手が止まった。俺の視界の端に、仕事の制服が映りこんだのだ。俺は咄嗟にその服をリュックに入れた。その時、家のインターホンが鳴った。鬼が玄関に出ると、そこには区長が消防隊員と一緒に立っていた。どうやら、ついに俺が住んでいる地域にも、避難勧告が出たようだ。区長は一軒一軒、早く非難するように言いに来たのだった。鬼がこれからすぐに高台にある姉の家に向かうと言うと、口調は気を付けて、と言って出て行った。
 ボストンバッグとリュックサックを車に詰め込み、鬼が運転する車で隣町に向かう。下の道路はもう既に冠水していたので、なるべく上の道を選んで走る。それでも坂道は滝のようだったし、車のタイヤ部分からは大きな水しぶきが上がった。ここでこんな状況なら、秋元の家はとっくに避難しているだろうと思った。その一方で、秋元なら避難せずに仕事に向かうのではないかという心配もあった。
 俺はスマホの電池を気にしながら、秋元に電話をかける。秋元は、すぐに電話に出た。
「佐野君。どうしましたか?」
「今どこだよ? まさか、まだ家にいるんじゃないだろうな?」
「家にいます。明日には出勤ですから」
「はあ? お前、頭悪いんじゃねぇのか? すぐ逃げろ、早くに逃げろ!」
「避難するなら、施設に逃げます。朝にトイレで着替えをして、仕事をします」
「バカ! 堤防壊れたら死ぬんだぞ!」
「その時には、佐野君にお願いします」
そう言うと、秋元は電話を切った。
 叔母の家に着き、鬼がボストンバッグを取り出している。俺も、自分のリュックサックを取り出した。しかし、リュックサックの隙間から、あのダサイ制服がはみ出ているのを見た俺は、車に戻っていた。
「晶、何してんの!」
鬼が叫ぶ。俺も雨の音にかき消されないように、叫んだ。
「戻る! 洪水が収まったら、迎えに来る! じゃあな!」
俺は車で来た道を戻り始めた。しかし、今来た道ももう冠水していて、遠回りを余儀なくされた。俺はリュックを抱いたまま、二階の布団で寝た。もう夜の三時だった。寝ている間に水が来たら逃れられないと思ったが、その時は死ぬしかないと、腹をくくった。スマホが、まだ鳴りやまなかったので、俺はスマホの電源を落として、眠った。
 朝、俺は目覚めることができた。つまり、どうにか生き残ったのだ。すぐに制服に着替え、朝食をスナック菓子で済ませると、施設に向かった。そこにはもう、秋元が制服を着て清掃する姿があった。そしてその口元には、マスクがある。まさか、ウイルスに侵された患者が避難してきたのだろうか。
「佐野君、マスクは?」
「そんなもん、知るかよ」
秋元は制服のポケットから、一枚の袋に入った不織布マスクを、俺に差し出した。
「今から、隔離されていた避難者のいた部屋を、清掃しに行きます」
隔離されていたということは、やはりウイルス感染の疑われる患者がいたのだ。秋元によると、その避難者は、県外に渡航歴はなく、県外の人との接触もなかった。ただ、避難所開設にあたって行われていた検温で、三十五度以上の発熱があったらしい。そこで、大事を取って一般の避難所とは別の部屋をあてがったという。もしも、この隔離された避難者がウイルスに感染していた場合、この町で初めてのウイルス市中感染が確認されたことになる。俺は仕方なくマスクを着けて、新しいゴム手袋をはめた。秋元と同じいでたちで、隔離場所となった楽屋に向かう。楽屋は一階だ。堤防が決壊していたら、楽屋は一気に水に飲まれてしまう。それなのに、いくら隔離が必要とはいえ、ここを避難場所とするなんて、信じられない。つまりこの町は、感染者を水没の恐れのある場所に避難させ、その後始末を全て清掃員に任せるのだ。そうすれば、外部者の手だけ汚れて、自分たちはリスクを背負うことはない。
 楽屋には、避難所用の毛布が二枚、重ねて丸められて床に置かれていた。楽屋の床は絨毯になっているが、ここで一夜を過ごすのは心細かっただろう。俺がビニール袋にその毛布を入れて密閉している間、秋元はアルコールスプレーで、楽屋を拭き掃除していた。使用したであろう楽屋のトイレも清掃し、隔離場所の清掃を終える。ゴム手袋はこの時だけしか使わなかったが、ウイルスが付着していると菌をばら撒いてしまうので、捨てるしかなかった。そして楽屋を出ると、すぐにビニール袋をゴミステーションに出す。ゴミ袋もまだ使えたのだが、これも仕方がなかった。
 川は結局、氾濫しなかった。堤防も、決壊しなかった。しかし、堤防の低い場所では、川の水が押し寄せて、床下浸水が起こった。現在避難している人々は、そんな自宅に被害が出て、家に帰りたくても帰れない人々だった。町の避難勧告も、警報に切り替わったところで、多くの避難者が自宅に帰ったと言う。それでも、家に帰れない人々は施設だけで十人以上はいた。小中学校の体育館も避難場所になっていたが、その場所も避難場所でなくなると、この施設に避難場所が統一されるということだった。つまり、まだ避難者が来るということを意味していた。施設の避難場所がどこかと思っていたら、二階の大会議室だった。大会議室は北側の壁がガラス張りになっており、階段を使うとそこから部屋の中が丸見えだった。しかも楽屋と違って、床は冷たいフローリングだ。多くの人の視線に晒されることは、それだけでストレスだ。その上床は段ボールを敷いているのみだった。中には段ボールを床に敷かず、ガラスの壁に立てかけて過ごす避難者もいた。床の硬さや冷たさは我慢できるが、着の身着のまま逃げてきた姿を見られるのは、やはり我慢できないようだ。
 俺と秋元は、こんな時でも通常清掃を余儀なくされた。しかし、トイレ清掃に入ろうとした時、最悪な情報がもたらされた。洪水で、上下水道を管理していた施設が冠水したため、これから断水になると言う報せだった。
「佐野君、今のうちに入れられるだけ水を確保して下さい」
「今、やってるんだよ!」
まだ、SKの水は出ている。これが断水するのかと思うほど、日常的な光景だった。しかし、三つ目のバケツに水をためている時、急に蛇口から出てくる水量が減った。そしてそのまま、水が出なくなってしまった。蛇口を確認してみても、全開になっているにもかかわらず、一滴もでない。溜めることができたのは、大きなバケツ一つと、小さなバケツ二杯だけだった。これではどうやりくりしても、一日の清掃で使い切ってしまう。これで水洗トイレは全て使えなくなったから、トイレ掃除はしなくてもいいのでは、と思ったが、そう簡単に事は動かない。ここは避難所だ。水が流れなくても、生活していくうえでトイレを使わないわけにはいかない。
「どのくらい溜まりましたか?」
秋元が男子トイレに来て、俺の足元のバケツの水を確認する。
「そっちは?」
「似たようなものです。でも、これだけあれば、何とかなるでしょう」
「どうやって?」
「給水車が来るそうです。それまで持てばいいのです」
「給水車? いつ来るんだよ?」
「明日の午後からだそうです。これなら間に合いますね」
秋元はバケツの水を見て、安堵の息を吐いた。俺はその安堵が分からない。一番水を使うのはトイレ清掃だ。今日一日と明日の分が、この量の水で足りるとは思えなかった。しかし、秋元は自信をのぞかせる。
「タオルの使い分けと同じです」
「タオル? SKのカラータオルのことか?」
一つのSKには、基本的に三色のタオルが掛けられている。赤と黄色と青だ。性格にはピンクと黄色と水色だが、それぞれ拭く場所が決まっている。赤は一番汚いところ。便座の裏やトイレの縁などを拭く。黄色はトイレの中で、比較的汚れていない場所を拭く。座面やトイレの蓋などだ。そして青はトイレでは使用してはならない。トイレ以外で汚れている机などを拭くためのタオルだ。信号機を思い出してみれば、分かりやすいかもしれない。赤は危険。黄色は注意。青は安全。
「この水は、トイレだけで使うことにしましょう。水拭きモップは赤タオルと一緒の水で洗います。そうすれば、三つのバケツで十分に清掃できるはずです」
「ああ。一つのバケツで、一つの色のタオルしか洗わないことにするのか?」
「その通りです」
一番汚れる赤とトイレの床を拭く水モップは、大きいバケツの水で洗ったり絞ったりする。そして、二つ目のバケツは、黄色のタオル専用として使うのだ。そして三つ目のバケツの水は、補充したり、何かハプニングがあったりした時のために取っておく。確かにこれならば、トイレ清掃が何とかできそうである。しかし、二回も水を使い回すのだ。さすがに二回目は気が引ける。それは秋元も同じだったようで、浮かない顔をしている。
「仕方ありませんよ。非常事態ですから」
秋元は、自分に言い聞かせるように言った。俺は秋元が困っているのを初めて見て、調子が狂いそうになったので、秋元の肩を叩いた。秋元は弾かれたように顔を上げる。
「ほら、やるんだろ?」
「そうですね。やるしかありません」
俺と秋元は、いつも通りの清掃を心がけた。相変わらずビニール手袋は臭いし、雨で床はぬれっぱなしだったが、我慢したりモップを使ったりして対応した。
 しかし、午後になり昼食休憩になった時に問題が発生した。俺はもちろんのこと、秋元も弁当を忘れてきたのだ。いや、忘れてきたと言うよりも、二人ともそんなことを考える余裕はなかったし、暇もなかったというのが現状だった。俺と秋元は施設側と会社に掛け合って、仕事を昼までで終わらせることになった。やはり、自然を甘く見てはいけないのだ。
 翌日、朝から施設の前に長蛇の列ができていた。銀色のタンクを付けた大型の車が、施設の駐車場の隅に泊まっていたのだ。皆がタンクや袋を持っていたから、すぐに給水車が来たのだと分かった。昨日は午後からと言っていたが、予定が早まったらしい。俺は身支度を整えると、すぐにトイレのSKに保管してあったバケツの水を捨て、台車を借りて列に並んだ。秋元も女子トイレからバケツを持って出てきた。
就業中と言っても、今は並んでいるだけだったので、俺は疑問に思っていたことをきいてみた。
「昨日、いつから清掃してたんだよ?」
昨日から不思議だったのだ。俺が施設に来たのは、始業時間だったのに、その時にはもう秋元は玄関ロビーをモップ掛けしていた。しかも、マスクをしていたのだ。これは事務所と情報を共有していないとできない対応だ。何故なら来たばかりの人間が、一昨日の夜に隔離されている人がいるとは知らないはずだからだ。
「私も、避難していただけのことですよ」
「え? 避難者だったのに仕事してたのかよ?」
「はい」
「頭、おかしいだろ。絶対」
「そうでしょうか?」
「そうだよ」
では一昨日の夜、秋元はわざわざ自分の仕事場に避難していたことになる。おそらく、作業着を持って避難して、翌朝には多目的トイレで着替えて、朝から仕事をしていたのだ。しかも、あの丸見えの大会議室に、秋元は避難した。だから、自分と同じように避難していた人の動向が、手に取るように分かったのだ。小中学校の避難場所の方が、高台にあると言うのに、秋元はあえてこの施設を選んだ。自分が何かあった時に、すぐに清掃に入れるように考えたはずだ。これは死んでも治らない清掃馬鹿というやつだと、俺は笑った。


#創作大賞2024 #お仕事小説部門

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?