リセット‐日常清掃員の非日常‐第2話

三章 初めての実地研修

 紆余曲折あった俺は、無事に高校を卒業して会社員になった。会社員という響きは、何度耳してもいい気分だった。卒業から入社式までの間に、社長から電話を受けて、会社に赴く。こういう時、車の免許があって良かったと思う。意外に自分が充実している日々を送っていることに、今までにない誇らしさと満足感があって、少しだけくすぐったい気分だ。
 会社に着くと、あの女がいた。
「失礼します」
そう言いながら、会社のドアを開ける。そしてドアを閉めて、一礼する。それが社会人としてもマナーだと教わったからだ。女は事務作業をしているのか、パソコンの前から動かない。広い空間に、キーボードを叩く音だけが鳴っている。静かすぎて、居心地が悪い。
「失礼します。佐野です。社長に呼ばれてきました」
少しだけ、大きな声で言ってみる。すると女はキーボードを打つ手を止めて、一つため息を吐いた。そして俺に応接室に来るように促した。面接を受けた部屋だ。
「佐野さんは、服のサイズはいくつですか?」
応接室に大きな段ボール箱がいくつかあり、女はその中を漁っていた。何をやっているのかと覗き込むと、作業服のようなものが沢山入っているのが見えた。
「男物のМです」
「じゃあ、十三号くらいで大丈夫でしょうか?」
噂に聞いたことがある。スーツなどは、お馴染みのS、M、Lではなく、数字に号を付けてサイズを言うのだとか。しかし残念ながら制服で就職活動をした俺は、リクルートスーツに何の縁もなく、十三号と言われてもいまいちピンとこない。
「佐野さんは背が高いですが、うちの制服は大き目でかつ男女兼用なので、大丈夫だと思いますよ」
女はそう言って、机の上に白いズボンと紫色の上着、そして紫色の三角巾を重ねて置いた。俺はそれを見て、血の気が引いた。これは制服というより、紫ババアセットと言った方が正しい。こんな服を着るなら、普通の店で売っている作業着の方がまだましだ。これがこの会社の制服だと言うのか。はっきり言って、俺は着たくない。しかも、女はこの制服が男女兼用だと言った。サイズは男女兼用かもしれないが、デザインは明らかに女性よりだ。こんな恥ずかしい恰好で仕事をすると思うと、気が萎えた。
「次に、写真を撮りますので、そこの壁に立ってください」
「写真なら、履歴書に」
「社員証の写真が、高校の制服だとおかしいでしょう?」
「ああ。社員証。なるほど」
俺はおとなしく、白い壁を背にして立った。写真を撮るには薄暗かったが、問答無用で撮影準備は進む。女はスマホではなく、デジカメのレンズを俺に向けた。
「はい、撮ります」
そう言うが否や、フラッシュがたかれれる。見ればスマホの画像よりも荒い写真がカメラに収まっていた。これが一生ものの写真になると思うと、心が折れそうになる。それにしても、俺は今日、この女にしか会っていない。他の社員はどうしたのだろう。
「あの。俺は今日、社長に呼ばれたんですけど?」
「今、全員現場にいますので、私が代わりです。何か質問はありますか?」
「いえ。別に」
俺が首を振ると、女は「そうですか」と答え、A4判の紙を一枚俺に寄こした。紙には研修会のお報せが書いてあった。
「ここが佐野さんの現場になります」
どんどん進んでいく話に、俺は追いつけなくなった。こんなに一度に想定外のことばかり起こるのだ。授業ですらまともにきいたことがない俺の頭は、情報でパンク寸前だった。しかも、俺は女に聞きたいことがあったが、彼女の淡々とした事の運び方と口調に、もはやたじたじだった。とりあえず、研修会の場所と日時を確認する。俺の家の近くの公共施設に、朝の八時に集合し、終わり次第解散となっている。会社の研修会にしては、随分とざっくりしている気がしたが、友人たちに見放された俺には比較材料がない。
「この施設が出来たことに感謝して下さい。ここがなければ、佐野さんは不採用でした」
「え? どういうことですか?」
「弊社は交通費削減のため、契約が取れた現場の近くの人材を採用することが多いのです。佐野さんはまさに、その例です」
女のいうことを信じれば、俺は現場の近くに住んでいて、交通費がかからないから採用されたことになる。つまり、俺の履歴書の住所欄が決め手となって、俺はこの会社から内定を貰えたということなのだ。全く、人生は何に左右されるか分からない。女は無表情と事務的な口調を保ったまま、「質問はありますか?」ときいた。俺は何も考えていなかったので、そう聞かれると首を横に振るしかない。女はまたもや「そうですか」と言った。
「では、今日はここまでで終わりです。研修は遅刻厳禁でお願いします。社員証は研修の時にお渡ししますので、気を付けてお帰り下さい」
女は、俺にそう言って一礼し、パソコン作業に戻った。俺は追い出されるようにして、会社を後にした。
 家に帰って、さっそく支給された制服を試着してみる。サイズは問題なかった。裾上げもしなくていいようだ。問題はそのデザインと、色の組み合わせのセンスの無さである。今どき紫の服に、紫の三角巾はないだろう。しかも、服が紫なのに、ボタンと襟は黄緑色という謎の配色だ。ズボンは五百歩譲って良いとしても、男が三角巾で仕事をするなんて、聞いたことがない。こんなものを被るのは、小学校の家庭科で調理実習をした時以来だ。これを着て街を歩いて、現場まで行かなければならないのか。家から現場までは徒歩範囲だ。だが、こんなダサイ服で街を歩くくらいなら、車を使った方がいい。しかし平日の車は、所有者である鬼が使う。そうなると、俺の毎日の仕事のために借りることはできない。仕方なく、俺は制服の上の部分を隠すために、ジャケットを着ることにした。
 そして迎えた研修会当日、俺は緊張で眠れていなかった。元々怠惰な性格で、スマホのアラーム機能なんて使ったことがない俺が、そんな生易しいもので起きられると思ったことが運の尽きというものだ。それが遠足の前日の子供のように眠れなかったのだから、寝坊は当然の結果である。俺が目を覚ました時、いつの間にか手にしていたスマホの時計は、七時半を回ったところだった。俺は文字通りに飛び起きて、何も考えずに制服を着る。一応バッグを持って、朝食を無視して玄関に走る。いつものくたびれたスニーカーを履いて、ドアを開け、勢いそのままに走る。俺の家から現場までは歩けば約三十分で着くのだが、この日だけは早めにいかなければならないことは、十分に承知していた。俺は新入社員だから、一番低い位置にいる。それなのに、先輩や研修の講師よりも遅く行くなどあり得ない。今まで先輩後輩の上下関係が厳しい世界に身を置いていたため、そんなことばかりが身についていた。息を切らしている内に、二階建ての大きな建物が見えてくる。足をさらに速めて、自動ドアにそのまま突っ込むと、強かに頭を打った。思わず額に手を当てて悶絶していると、女性たちの声が聞こえてきた。
「こんなところで何をしているんですか?」
落ち着いた声が、俺の頭の上から降ってくる。あの女だった。その後ろから、俺の母親よりも年上と思しき女性が二人来ていた。皆が同じ制服を着ている。変な格好でも四人集まると、これが普通だと思えるから、数の力は偉大だと今更ながらに思う。女は俺を無視して自己紹介を促した。
「本日、研修を任された秋元奈(あきもとな)穂(ほ)です。よろしくお願いします」
紫ババアと呼んでいた女は、そう名乗って美しいお辞儀をした。秋元はしゃがんでいた俺に視線を寄こした。俺は仕方なく立ち上がり、秋元に倣う。
「佐野晶です。よろしくお願いします」
俺が軽く頭を下げると、秋元の隣りにいた女が自分の番だと言うように、一歩出た。
「高木(たかぎ)美波(みなみ)です。よろしくお願いします」
最後に残った女は、恥じらうように俯きながら名乗る。
「杉本(すぎもと)孝子(たかこ)です。よろしくお願いします」
聞けば、俺の他の三人も近くから車や自転車で通ってきていた。広く言えば皆ご近所さんなのだ。だらけそうになった雰囲気を、秋元の冷静かつ穏やかな声が締める。
「ここの清掃は二人一組で行います。高木さんと杉本さんで一組。私と佐野君でもう一組になります」
「はあっ? 聞いてねぇし」
いつもの調子でケンカ腰になるが、秋元は表情一つ変えずに言い返す。
「研修会の紙を渡した時、何も質問がないと言ってましたよね?」
「そうだけどよ」
「では、説明は最後まで聞いて下さい」
俺が舌打ちすると、高木と杉本が身を寄せ合って笑っていたので、睨んでおいたが、効果は得られなかった。この二人は以前は別の現場でパートとして働いていたが、この施設が出来たため、社員としてここに異動になったらしい。そのため、この二人にとって現場が違えどやり方は知っているので、秋元の説明は聞いていなかった。そのため、秋元の説明は専ら俺が聞かなければならなかった。ここに来てやっと俺は高校時代の行いを恥ずかしいと思った。俺は教室で教師が話をしているのを聞いてこなかった。授業中なのに教室を歩き回ったり、飲食したり、バカ騒ぎしたりして、授業を妨害していた。しかし、一部の優等生グループには、授業を受ける権利があったのだ。そして、教師の話を聞く彼、彼女たちには、俺は迷惑千万でしかなかった。今の俺は、秋元の説明を聞かなければならないのに、二人が邪魔で仕方がない。説明を聞くことを邪魔されることが、こんなに不愉快で苛立つことだったとは、今まで考えもしなかった。俺は貧乏ゆすりをしながら話を聞き、やっと秋元の説明が終わった。
「では、後は中で説明します」
そう言って秋元が開けたのは、自動ドアの横にあった関係者用の出入り口だった。施設の開館は三日後だから、正面の玄関の自動ドアは作動させていなかったのだ。俺は別の意味で頭を抱えながら、施設の中に入った。玄関ロビーが広く、吹き抜けになっている。窓際に椅子と机があり、奥には自動販売機が設置されている。正面には大ホールのホワイエが見え、右手には図書館があった。二階はほぼ会議室となっている。俺たちが使う物は、掃除庫に全て収納されている。小さくて窓がない、コンクリート打ちっぱなしの部屋だ。そこに、何本も柄のついた掃除道具が立てかけられていた。お馴染みのモップや、見たこともない大きなワイパーのようなモップもあった。場所によって使い分けるのだろうが、掃除なんて興味がなかった俺には、どれで掃除しても同じように感じた。その他、雑巾のストックや手洗い場のハンドソープの補充用のボトル、水モップやモップの新しいものなど。とにかく掃除庫は掃除道具で溢れかえっていた。しかしそこには、掃除と関係ないと思われるものもあった。丸椅子と、ノートである。丸椅子は手の届かないところに使うのだろうか。しかし俺たちは脚立を使うような危ない作業は、してはならないことになっていたはずだ。俺が首を傾げていると、秋元は信じられないことを口にする。
「ここは、私たちの休憩所になります」
え? と俺と他二人の声が重なった。ただし、俺は怒りをにじませ、他二人は困惑をにじませている。しかし、それでも秋元は、何もなかったように続ける。
「休憩中は、ここから出ないことが約束です」
ついに俺たちは絶句した。こんな狭くて汚くて、埃っぽくて、夏冬には冷房も暖房もないここでしか、俺たちは休憩してはいけないと、秋元は言い切ったのだ。皆が理不尽さをにじませると、秋元はさらりと続けた。
「休憩中も仕事中も、スマホなどは禁止です。まあ、ここは圏外ですので、連絡は取れませんが。引継ぎはノートで行ってください」
秋元は艶やかな黒髪をなびかせて休憩室に入り、モップを一本取ってきた。その唇は両端がわずかにつり上がっている。
「それから、空調設備がないと言って、汗臭くするのも厳禁です」
そう言いながら、秋元はモップを持って先に進んだ。一度、玄関ロビーに戻る。そして秋元は屈んで床をコンコンとノックするように叩いた。
「ここの床材はよく使われているリノリウムではなく、合板です。木目があるので、それに沿ってモップをかけてみて下さい」
そう言って、秋元は俺にモップを渡した。高木と杉本はモップの使い方に慣れているから、俺にお鉢が回ってきたようだ。小学校の時に、木目に沿ってモップをかけろと教わったことがある。それ以外は適当でいいのだろう。要するに、汚れが落ちればいいのだ。俺はモップを握る手に力を入れて、床にモップを押し付けるようにして前に後ろにと、モップを動かしてやった。俺が磨いたところだけ、幾分輝きが増した気がする。しかし、高木と杉本は笑い、秋元は呆れ顔だった。
「高木さん、彼にお手本を見せて下さい」
秋元の言葉に、高木は「はいはい」と答え、俺からモップをむしり取る。そして高木はそのまま、真っすぐに木目に従って進み、角の所でくるりとモップを回転させ、見事にUターンを決めた。そのまま俺たちのところに戻ってくる。高木が鼻を高くしてにやついて、俺を見下ししていた。秋元が高木からモップを受け取り、モップの裏面を俺に向けた。
「見て下さい」
「普通にゴミついてるんですけど?」
「よく見て下さい」
そう促され、俺はモップの裏側を観察した。よく見れば、モップの一隅にしか、埃が付いていないことに気付く。そして埃が固まって紐状になり、線を引くようにまとまっている。
「これが本当のモップのかけ方です。この動きなら、ゴミを取りこぼすことはなくなります」
確かに、俺のやり方ではこんなに埃が取れていなかった。モップ一本にもやり方があるものなのだと、感心してしまった。
「次に、トイレです。今日は開館前なので、佐野君も女子トイレに来てください。開館後は佐野君には男子トイレを担当してもらいます。絶対に女子トイレには入らないように」
男女差別だと、俺は反感を覚える。俺と秋元が男女に分かれてトイレ掃除をすることには、正当性を感じる。しかし、高木と杉本は女性同士だ。つまり女性の清掃員は男女のトイレを清掃出来るが、男性清掃員だけは女子トイレを清掃できないことになっているのだ。俺は女子トイレに何の関心もないし、関心があったら男として変態だと思う。しかしトイレを使う男の身としては、女性清掃員が入ってきたら、それなりに気を遣う。だから女性清掃員と男性清掃員は、一組になった方がいいと言うのが率直な感想だった。
 女子トイレに移動して、秋元が手順の説明を始めた。箒で床を掃いてから、トイレの蓋を上げて中をブラシで擦る。その後色分けされたタオルで便器を拭く。最後に水モップで床を拭き、手洗い場のガラスを磨いて仕上げる。たかがトイレ掃除だと思っていたが、意外に手順が多い。しかも、この施設にはトイレが四か所もあるから、同じことを四回も繰り返すことになっているのだ。面倒くさいと俺が顔をしかめていると、高木がおもむろに手を挙げた。
「トイレ用の洗剤は?」
「使いません」
秋元は間髪入れずに答える。このトイレは陶器で出来ており、まだ新しい。新しい陶器には釉薬が塗ってあるから、洗剤がなくても、ブラシで擦るだけで汚れが十分に落ちるのだと言う。逆にトイレ用洗剤を使うと、陶器に塗ってあった釉薬が剥がれて、目には見えない傷がつき、汚れやすく、清掃でも落ちにくくなるのだと言う。先ほどの床材もそうだったが、単に場所を清掃するのではなく、その材質に合った清掃の仕方があるのだ。高木は納得していなかった。パート時代にトイレ用洗剤を使って来た経験から、秋元のいうことに納得できない様子だ。それを見た秋元は、実際にトイレ掃除をやってみようと提案した。もちろん、俺と秋元は男子トイレで、高木と杉本は女子トイレを担当する。
「終わり次第、掃除庫で昼食をとって下さい」
秋元はそう言って、二手に分かれた。トイレ掃除の用具と、清掃用の水道がある狭い場所はSKと呼ばれ、外側からはトイレと一体化しているが、夏場は臭いそうだ。それにしても、と俺はズボンのポケットからスマホを取り出して、時間を見る。八時から入ったはずなのに、もう十一時になっている。何かに集中すれば、意外に時間が立つのが早いのだ。
「スマホは就業中は厳禁です」
秋元はさっそく俺に注意をして、床を掃くように命じた。秋元は最初から俺のお目付け役として男子トイレに来たのであって、自分は何もする気がないらしい。俺に男子トイレ全部を押し付ける魂胆だ。俺は箒で床を掃きながら、気になっていたことをきいた。
「先輩、その、前に公園のトイレ掃除してませんでした?」
「やっていた時期もあります」
「公園って、誰が使うか分からないから、怖くないですか?」
「怖がっていて、この仕事は出来ません。誰が使うか分からないのは、ここも同じです」
公園もこの施設も公共の場所だが、俺たちみたいな奴らがたむろするのは、圧倒的に屋外だ。こんな品の良くて、誰かの目があるような施設をたまり場にはしない。
「俺の事、覚えてませんか?」
俺は自分で地雷を踏んだ。覚えていてほしくはなかったが、あれだけ酷いことをしておいて、忘れていてほしいと言う身勝手な願望があった。秋元は、即答だった。
「覚えています」
忘れたくても、忘れられないというのが本音だろう。尿やジュースをまき散らし、ゴミもそのまま放置した高校生の集団が、俺たちだ。しかもあの時の俺は横柄な態度で、秋元を無視していた。トイレがこんなに丁寧に手順を踏んで、材質にまでこだわっていつもきれいな状態に保たれていたことを、俺は今日、初めて知ったのだ。先輩は続けた。
「特に汚す人は、覚えておかないとこの仕事は成り立ちません」
俺は意表を突かれた。秋元から恨み節を聞く覚悟でいたのに、秋元の言葉からは諭すような雰囲気はあっても、感情的なものは伝わってこない。
「汚す人が出て行ったら、すぐに清掃をしておかないと、次の人に迷惑がかかります」
「は? 何それ」
俺は間抜けな言葉しか出なかった。秋元が言うには、汚す人を記憶しておけば、清掃がしやすいということなのだ。確かに何の罪もない人に、汚れたトイレを使わせるのは清掃員としては気が引けるかもしれない。しかし、汚していった奴らに怒りも憤りもせず、悲しむことも困惑もせず、即座に汚いトイレを掃除するという感覚が、俺には分からなかった。むしろそれが人間味のない、無機的な行動に思えた。
「先輩って、本当は人間じゃなかったとか?」
「人間以外に何に見えるんですか?」
「ロボットとか、神様とか」
「口より手を動かしてください。私は女子トイレの様子を見てきますから」
そう言い置いて、秋元は隣の女子トイレに向かった。俺は掃き掃除を終えて、ゴム手袋をはめた。そして一見何の問題もないように見えるトイレの座面を上げた。するとそこには、黄色のかさかさした尿の乾燥した物や、飛び散った便などがこびり付いていた。ここは開館前だと言うのに、事務室や各事業所の人間が、既に何日か前からトイレを使っていたのだ。今まで使っていた人間も時間も限られていたのに、もうこんなに汚れている。開館したら、もっとひどい汚れになるのだろう。そう考えて、俺の手は止まっていた。しかし、秋元の言葉を思い出して、便器の中をブラシで洗う。秋元は常に次使う人のことを考えていた。次使う人には何の罪もない。だから俺たちがいるのだ。便器の中を洗い終えると、赤いタオルで座面の裏側を水拭きする。赤いタオルは尿と便で茶色に汚れた。水分が戻ったので、悪臭も鼻を突く。俺はそそくさとそのタオルを洗い、黄色のタオルに持ち替えた。座面を下げて、座面の表面や便器の蓋を水拭きする。なろほど、色分けしたタオルを使えば、汚れるタオルと、汚れないタオルに分けて使うことができる。混ぜて扱わなければ衛生的だ。このタオルの使い分けを、他の三人はカラコンと呼んでいて、初めはカラーコンタクトとしか思えなかったが、今はカラーコントロールという言葉がしっくりきた。秋元がトイレ掃除の初めに言っていた言葉だった。
 俺が男子用の小便器を清掃していると、秋元が戻ってきた。
「もう、他の二人には昼食をとってもらっています。でも、焦らず、ゆっくりでいいので、手順を確認しながら、丁寧にやって下さい」
男子トイレより女子トイレの方が広くて面倒なはずなのに、もう昼飯を食べているのか。俺はまだ半分も終わっていない。これが経験者と未経験者の違いだろう。少し、悔しかった。俺のそんなちっぽけな対抗意識を知る由もなく、秋元は俺が清掃し終えた個室をチェックしている。そして座面の裏まで確認した秋元は、うなずいた。
「よく出来ています」
「ああ。そ、そうか?」
他人に褒められることが、こんなに嬉しいとは、思ってもみなかった。
 トイレ清掃を終えて、掃除庫に秋元と一緒に向かう。トイレから掃除庫は直線で目と鼻の先だった。ちょうど高木と杉本が昼食を終えて、外に出てきたところだ。本当に、掃除庫で飲食するのだと、急に現実味を帯びる。高木と杉本も、これには反感を持っていたようだ。二人が秋元に向かって、ここで休憩するのは辛いと抗議し始めた。二人が言うことは、俺が不満に思っていたことと、ほぼ一致していた。臭くて暗くて、埃っぽくて狭い。空調一つ付いていないため、夏には熱中症のリスクがあるし、冬には寒くて風邪をひくかもしれない。どうにか他の場所で休憩や食事をとれないのか。これはれっきとした職業差別だ。この施設自体が、清掃員の休憩場所は必要ないと言っているようなものだ。俺も、二人に同調してうなずいていた。しかし、秋元は動じなかった。表情も口調も変えずに、淡々と説明する。
「確かに、ここで休憩や食事をさせるのは、職業差別かもしれません。ただ、他に場所がない以上、ここしか休憩場所はありません。事務室には、なるべく入らないように言われていますし、他の事業所にも入れません」
「じゃあ、あそこの共有スペースは?」
高木と杉本は、いつの間にかこの施設の地図を持っていた。高木が言う共有スペースとは、玄関ロビーの横にある空間のことで、机と椅子が並んでいる。奥には先ほど見えた飲み物の自動販売機がある。
「そこも、駄目です」
「どうして?」
「会社の方に、苦情が寄せられています。清掃員がだらしなく休憩している。もしくは、就業時間中にスマホを使っているという苦情です。ですので、社員である以上はここで休憩をして下さい」
「清掃員に休憩はないっていうの? それってあんまりじゃない?」
「まだあります。夏場は汗臭くしないでほしいとのことです」
「え? 夏場、エアコンのない所を掃除で動き回るのに?」
「清掃員が汗臭いという苦情もあります」
「何よ、それ」
「お客様からのお声です」
「滅茶苦茶だわ。人として扱われてないじゃない」
「パートの方にも、そこは説明があったと思います」
「スーパーでも企業でも、休憩室ぐらいあったわよ」
「秋元さん、今回のはあんまりだよ」
珍しく、杉本も声をあげた。
「夏と冬はどうにかエアコンのある場所にしてもらわないと」
「そうだよ」
秋元はわずかに逡巡し、一度うなずいた。
「体調は自己管理が基本です。しかし、皆さんの意見として会社の方に取り次いでみます」
「頼んだわよ」
「よろしくね」
「お二人は、他の三か所のトイレをお願いします」
「はいはい」
二人は納得いかない様子で、二階のトイレ掃除に向かった。
 秋元は何事もなかったかのように、掃除庫の丸椅子に座り、弁当を広げ始めた。弁当と言っても、秋元の方はおにぎりだけだった。俺も椅子を引っ張り、座って弁当を膝の上に広げた。鬼は家事に置いて天才的である。二段になった弁当の白米の上には梅干ししかないが、おかずは豊富で、彩も鮮やかだ。今まではコンビニのお菓子ばかり食べていたが、今日からは鬼に平伏して弁当を頼んだのだ。
「清掃員って、理不尽だな」
俺はぼそりと、言ってみた。休憩しているところを誰にも見せてはいけない。電話も急用以外は禁止。その上夏に汗臭くすることもできない。いくら客だからと言って、人として言っていいことと、悪いことがある気がする。休憩なしに一日働ける人間がいるのか。夏に動き回っても汗をかかない人間がいるのか。そんな人間がいたら一度お目にかかりたいくらいだ。しかし、今までの俺らの行動を考えれば、理不尽さはもっと増す。俺たちは清掃員を、ただの邪魔者としてしか認識していなかった。休憩なんてしていれば、目障りに思っていただろう。電話をかけている清掃員を見かければ、サボっていると見ていただろう。汗臭ければ、悪態をついていたこと間違いなしだ。いつも誰かが綺麗にしていなければ、誰もその場所を使えなくなるというのに、そのことを理解できていなかった。
「先輩は、そう思わないのかよ?」
秋元は咀嚼していたご飯を呑み込んで、首を振った。
「キリがない」
「え?」
意外な答えに、俺は思わず動揺した。てっきり、秋元くらいになれば、諦めたり達観したりしていて、理不尽を理不尽と感じないものだと思い込んでいた。無表情な顔や、冷めた口調からも、もう感情論なんて捨ててしまったように感じていたのだ。しかし、秋元だって人並みに感情があるのだ。俺はそのことに、何故か少しだけほっとした。
「昔は、掃除は神聖なものだったんだよ。掃くことは祓い清めることだったし、拭くことも重要な役職しかできなかったの。でも、いつの間にか、おそらく西洋的な考えが入ってきたり、仏教の汚れの意識があったりして、元々日本にあった『清める』という位置からなくなってしまった。そして、いつしか穢れと職業が結びついて、清掃に従事する人を差別するようになった。いままでずっと理不尽さがつきまとってきた。だから、今更皆の職業差別の意識を変えようなんて、おこがましいことだと思う。本当にキリがない」
日本史の授業なんて受けたことがなかったから、もちろん俺はそんな清掃の成り立ちみたいなことは知らなかった。しかし初めて聞いた秋元の長台詞から、清掃が元々は凄いことだったのだということは理解できた。払い清める、などと聞くと、確かに寺社仏閣の偉い人がやっているみたいに聞こえる。それが古代日本の清掃員だったとは、夢にも思わなかった。
「そんなことまで知ってんのに、なんで清掃員なんかしてるんすか?」
今の言葉で、秋元がただの清掃員ではないことは察しがついた。もっと別の仕事の方が向いていそうな雰囲気もある。それなのに、俺みたいな不良崩れと一緒に仕事をしている。謎が深まるばかりだ。
「そうだね。お客さんが、『ここ綺麗!』って言ってくれた時、嬉しいから、かな」
秋元はそう言って、少しだけ笑った。この笑顔で、秋元が本当にこの仕事を誇りに思っていることが、見えた気がした。
 職業差別からくる理不尽な要求がある。きっとこれからも、理不尽なことが沢山起きるのだろう。俺は我慢もできないし、ちょっと気に入らないことにはすぐに苛ついて、暴力を振るってしまう。そんな俺でも、これからやっていけるのだろうか、と一抹の不安を覚えながら、秋元のことが気になり始めていた。

四章 退屈な仕事

 開館日当日、俺はあのダサイ制服を着て秋元を待っていた。秋元が会社に掛け合ってくれたおかげで、休日は事務室で休憩が取れるようになった。しかし、平日はやはり掃除庫で休憩をとらなければならなかった。俺だけではなく、もう一組の方も納得はいかないといった様子だったが、これ以上言うと、会社と契約をしている施設側から契約を破棄され、仕事がなくなる危険性が在ったので、陰口を叩くだけにとどまっていた。
 秋元が入って来るなり、目を丸くした。
「早いですね」
「八時にはここにいろって言ったの、先輩の方じゃないですか」
「そうでした」
秋元はそう言って、事務室に挨拶をして掃除庫の鍵を取る。清掃員の挨拶には、誰も挨拶を返す奴なんていないのに、秋元は愛想よく挨拶をする。どこの事業所に行くにしても、人にすれ違う時も、秋元は挨拶を欠かさない。清掃員なんかに、誰も挨拶なんてしない。むしろ、睨んでくる奴もいる。その目が「うっせーな。ババア」と言っていても、お構いなしに挨拶をする。しかも昼近くなっても、ずっと「おはようございます」と言う。何故返ってこない挨拶を、わざわざするのか、何故いつも「おはようございます」なのかきいてみると、恩師の教えだからだと言う。恩師と聞いて俺に思い浮かぶ人間はいない。唯一それらしきは学年担任の富岡だったが、秋元のようにずっと尊敬できるほどではなかった。秋元はきっと俺と違って、優等生だったのだろうと、勝手に想像する。現在は二十代後半だと言うが、高校を卒業してから秋元が何をしてきたのかは、誰も知らない。
 八時半から開館だから、その前に絨毯に掃除機がけを終わらせる必要がある。業務用のバキューム掃除機は音も胴体部分も大きいから、早めに済ますように言われている。業務連絡が聞こえにくいとか、図書館があるところだからとか、いろいろと理由を聞いたが、単純にうるさいだけだろうと解釈していた。俺が重たくて使い慣れていない掃除機に悪戦苦闘しながら、絨毯に掃除機掛けを行っている間、秋元は玄関ロビーのモップ掛けをしている。一番大きなダスタークロスというモップだ。クロスはフリース素材になっており、使い捨てではなく、洗って何回か使い回しができる。以前には使い捨ての紙っぽいクロスを使っていたのだが、環境問題や経済面の問題から、使い回しできるフリースクロスに切り替わったらしい。たかが清掃道具と言っても、社会問題と関わっているのだ。玄関の周りや風除室の絨毯が終わると、階段下やトイレの手洗い場の絨毯にも掃除機をかけ、最後に図書室の絨毯で終わりだ。俺は掃除機は何とかかけられるが、その後が問題だった。掃除機の線の回収が巧くできないのだ。いつもぐちゃぐちゃに丸めて、強引に紐で縛る。俺が終わる頃には、秋元がロビーのモップ掛けを終わらせているので、今日も縛り直してもらう羽目になった。誰にも見られたくない光景だった。
 次はトイレ掃除だ。俺はもちろん男子トイレの専属で、秋元が女子トイレを担当する。研修でトイレの釉薬のことを習ったが、学校では教えてもらわなかった。だから小学校でトイレ掃除する時には、必ず強い酸性の洗剤を付けてごしごしとやっていた。まさか、それが逆効果だったとは、意外だ。学年主任は家庭で習うような職業は、下に見られると言っていたが、俺は研修で学校でも習わなかったことを教わっている。すると当然、何故俺たちが見下されなくちゃいけないのかが分からなくなる。秋元は日本史的な説明をしていたが、それでもやはり、見下されるのは納得がいかなかった。さて、トイレ掃除は春と言えど重労働だ。まだ一か所目だと言うのに、もう汗ばんできている。しかし、大汗をかく俺とは違って、秋元は涼しい顔で清掃をこなしていく。大ホールの横のトイレや二階のトイレなどを回り、手順通りに清掃すれば、トイレは終わりだ。ここまでくると、大体に時間はかかっていて、十時の休憩になる。
 休憩室は、やはり掃除庫だ。俺は首から下げたタオルでごしごしと汗を拭くが、秋元はデオドラントシートで、軽く拭いただけだった。
「汗、かかないんだな」
俺が羨ましそうに言うと、秋元は「ああ」と小さく声をあげた。そして自嘲気味に、笑った。
「昔の癖です。顔に汗かくと支障があったので」
「げ。何だよそれ。昔はマジシャンでもしてたのか?」
よく分からないが、大汗をかきながらカードを切るマジシャンがいたら、絶対見ている方が気を使うだろうと思って言ってみた。それが秋元の笑いのツボを押したらしい。秋元は声をあげて笑った。
「マジシャン。そうですね。意外にそれに近いかもしれませんね」
「本当は何だったんだ?」
「佐野君みたいに、汗が出るといいんだけど。でないと、夏は熱中症になりやすいから」
秋元はわざと俺の問いかけには答えなかった。そしてあっという間に十五分が経過し、朝の休憩はこれで終わってしまった。互いに飲み物は飲んだが、部屋の状態が食欲を削り、腹が空いていたにもかかわらず、二人とも何も食べなかった。
 次は図書室だ。図書室には司書が何人か在中していて、朝晩に清掃を行っている。そのため、図書館の清掃は軽めでいいと言われた。その一方で、会社と施設が結んでいる契約では、床とトイレが軸になっているため、手抜きは出来ない。フリース地の大きなモップで、一気に図書館の床を拭いていく。俺はモップの大きさと本棚の間隔の目測を誤り、いつも本棚にモップの角をぶつけてしまう。狭いため、角まで到達した時、どの様にモップを回転させればいいのか分からない。すると秋元がすかさず寄って来て、モップの上を持つ手を回転させて、下の方の手でモップの舵を取るように教えてくれた。俺はこれまで全てを下の手でやっていて、上の手はひたすら力を加えていたから、思うようにモップが動かせていなかったのだ。しかし秋元の言う通りにすると、モップが水を得た魚のように、すいすいと滑る。力が入っているわけではないのに、自分の進みたい方に勝手にモップが動いているようだ。それに、最大の難関だった隅でのターンも、手首を捻ることで簡単にできた。俺は自分が天才だと思った。俺がモップをかけている間、秋元は窓の縁を水拭きしていた。ここで使うのはただのタオルではなく、繊維が残らない特殊なもので、鏡やガラスにも使用するものだ。
 図書館の次は廊下やホワイエを、同じモップで拭く。モップが大きいから楽だと思っていたが、思っていた以上にホワイエも廊下も広く、何度も往復しながら拭き残しのないようにするのが難しい。しかし、基本的に図書館の時と同じモップの動かし方なので、無駄な力を入れずに拭くことができていた。俺は廊下やホワイエであることに気付いた。床に黒くて擦ったような跡が、点々とついていたのだ。
「先輩、これ、何ですか?」
「ヒールマーク」
初めて聞く単語だった。そいえば、学校の廊下でも見たことがあったような気がする。その時は、何か黒い汚れがあるな、くらいに思っていた。まさか、こんな汚れ一つにも名前があるとは知らなかった。俺はモップで擦ってみるが、いくら力を入れて擦っても、ヒールマークは落ちなかった。むしろ、前より汚くなったかもしれない。
「ゴムを擦った時に出来る汚れで、靴のかかと部分でつくから、ヒールマーク。それでは落ちないけど、オレンジのモップでなら落ちますよ」
フリース地のモップは砂礫や埃を取ることはできても、汚れを取るには向いていないのだと言う。オレンジのモップは、このフリース地のモップより小さく、油がしみ込んでいるので、汚れを取るのに適している。一口にモップと言っても、種類によって得意不得意があるのだ。俺は急いで掃除庫に戻り、オレンジ色のモップを持って来た。ヒールマークの上でごしごしと拭く。しかし、落ちない。秋元が嘘をついたのかと訝しんでいると、秋元は俺の持っているモップに手を伸ばした。
「こうするんです」
そ言って秋元は、モップの端をヒールマークの上に乗せて、その上を足で踏みつけた。そして足でモップの端を踏みつけたまま、床を蹴るように拭く。次にモップが床から離れると、そこにはもう、汚れ一つなくなっていた。時には荒療治も必要ということだろうか。しかし、ヒールマークはどこにでもあり、大きさも様々だ。一つ一つこんなことをしていたら、体力が持たない。そんな俺の心配を察したように、秋元は言った。
「ヒールマーク専用の床用洗剤があるから、午後からはヒールマーク消しですね」
そんな便利な洗剤があるなら、先に言ってほしかった。俺が走って持って来たこのオレンジのモップは、一体何のためにあるのだろう。無駄な体力も使ったし、もしかしたら秋元は俺を実は苛めているのではないか。俺は歩いて、オレンジのモップを掃除庫に片付け、廊下のモップ掛けに戻った。その間、秋元は図書館の窓枠に使った特殊なタオルで、ガラスを拭いていた。一見綺麗に見えるガラスだが、光の加減や見る向きによって、曇っていたり、手痕がついていたりする。その見極めはさすがだと思った。
 そうこうしている間に、チャイムが鳴った。正午を報せる時報だ。二人でまた掃除庫の中に籠る。やはり埃臭いし、狭くて暗い。こんなところで飲食をしていたら、体を壊しそうだ。しかし秋元は、平然と弁当を広げる。秋元の弁当は前と同じおにぎり二つだった。一方の俺の方も、前と同じ鬼の手作り弁当だ。小食なのか食に鈍感なのかは知らないが、相手がおにぎりだけだと言うのに、こちらがにぎやかな弁当だと、何だか食べにくい。
「何ですか?」
俺があまりに秋元のおにぎりを見つめていたから、不快に思ったようだ。
「いや。別に。足りんのかなって」
「余計なお世話です」
「だよな」
俺は無言の中、弁当を平らげ、秋元もおにぎり二個を完食した。秋元がマイボトルのお茶を飲み、俺は炭酸飲料を飲む。飯に炭酸飲料なんて合わないだろうと言われたことがあったが、これだけは昔からの習慣でやめられない。
二人でいると何も話すことが見つからない。それなのに、昼の休憩時間は一時間もある。秋元は必要なこと以外はだんまりだ。もしかして、秋元こそ最近で言う「コミュ障」と言うやつなのかもしれない。俺はタバコが吸いたくてうずうずし始めたが、この施設の敷地内は全面禁煙だ。もし一回でも吸っているところを見つかったら、即退職に追い込まれる。学校ではタバコくらいいいだろうと思っていたが、会社は学校と違って、反省文で許すとか、常習でも休学処分とか、猶予は一切与えてくれない。もし、退職に追い込まれても、俺には他の企業との縁があるとは思えなかった。
「なあ。何で休日だけで折れたんだよ? 平日だって事務所でいいじゃん」
秋元が会社に掛け合って、休日出勤のときは事務所で休憩ができるようにしてくれたことは嬉しい。だが、休日出勤もあるということであり、平日はこの掃除庫に軟禁状態だ。
「施設の意向で、平日に二日も休みがあるんだから仕方ないよ」
「だからって、何もこんな所で……」
「会社はこの施設に雇われています。つまり、施設側が雇用主で、雇用主は契約相手を選ぶ権利を持っています。どういうことだか分かりますよね?」
「な、なんとなく」
会社は、施設に頭が上がらないということだろう。もしも会社側が贅沢を言いすぎれば、施設は俺たちとの契約を切って、他のライバル企業と契約を結ぶことだってできる。そうなると俺たちはここでの仕事を失い、別々の場所に飛ばされるか、解雇される。秋元は施設側が会社の足元を見ていることを知っていて、ぎりぎりのラインで折れたのだ。それは消して妥協ではなく、見極められた納得であったはずだ。しかし俺たちと会社の板挟みにあいながら、施設の考えも考慮して判断するなんて、俺には出来そうにない。一体この秋元は何者なのか。
「先輩って、どこの高校出身?」
「佐野君と同じですよ」
「げ、マジ?」
やはり、俺の履歴書を秋元は見ているのだ。それだけ社長に近い人物ということか。はたまた、人事権があるのか。それにしても、仕事上の先輩として、「先輩」と呼んでいたが、まさか本当の先輩だったとは驚きである。この人が、あの高校の卒業生だとは、全く想像もできない。かなりの優等生だったのか。それとも、家の事情か何かであの高校に入らざるを得なかったのか。まさか、あの高校に限って、昔は普通の高校だったとは思えない。先輩ならそんなに昔ではないだろうし、謎が余計に深まってしまった。
「ちなみに、高校卒業後は?」
「内緒です」
秋元は自分の過去を、あまり話したがらない。俺だったら、いくらでも武勇伝を聞かせてやるところだが、何か後ろめたいものがあるのかもしれない。しかも、無表情で無感情的に話す割には、過去のことに触れた時だけ、顔に影が差すと言うか、声が沈むと言うか、とにかく暗くなる気がする。だから俺は、これ以上秋元の過去に触れるのをやめた。俺にだって、他人に触れられたくないことがある。例えば鬼との親子関係だとか、山口のことだとか。
「ちょっとトイレに行ってきます」
「アイス、食う?」
玄関ロビーの突き当りには、二台の自動販売機があった。一つは普通のジュースやコーヒーを扱うものだったが、もう一つはアイスの自販機だった。
「結構です」
「だよな」
「自販機も、あまり使わないで下さい」
「何で?」
「清掃員が休憩していると思われるからです。理由はここでしか休憩が取れないのと一緒ですよ」
秋元はそう釘を刺して、トイレに向かった。トイレ掃除の時、黄色の立て札を立てる。その札には「足元注意」とか、「立入禁止」とか書いてある。それなのに、俺を睨んでくる男がいた。立て札があるのに、何も言わずに図々しく入って来て、いかにも邪魔なものを見るように睨んでくるのだ。当然、俺は睨み返したが、男は俺を見下して薄笑いを浮かべていた。確かにこの格好は変だが、立て札の日本語読めないのかよ、と思う。俺だって立入禁止くらいは読めるし、意味も分かる。思い出すだけでイライラした。その上、自販機も使えないなんて、どれだけ清掃員を人として見ないんだ。こんなことが毎日続くのかと思うと、発狂しそうだ。そこに、無表情の秋元が入ってくる。もしかしたら、こんな毎日だから、秋元は無表情になり、感情を殺し過ぎてそれが当たり前になってしまったのではないか。
「そろそろ、仕事に戻ります」
腕時計を確認した秋元が、無感情に休憩の終わりを告げた。
「はいはい」
俺はジュースをもう一口飲んで、二階に上がった。二階の掃除用具は、二階のトイレのSKにある。ただでさえ狭いSKは、モップでいっぱいだ。そこから、フリースモップを取って来て、二階のほとんどを占める会議室群に入る。小さな会議室だけで三つ。大きな会議室が一つある。いちいち会議室の鍵をかけたり閉めたりするのが面倒だ。俺が小会議室を三つやる間に、秋元が大会議室をモップ掛けすることなった。一見汚れていないように見える床でも、モップを正しくかければ、埃がモップに絡みついてくる。絡みついた綿ごみは、ゴミ箱近くで箒を使って払い落とす。それを集めて塵取りに入れて、最後にゴミ箱に入れる。俺が三つの会議室を終えると、秋元もごみを捨てに来た。驚くべきは取れるごみの差だった。俺が三つの会議室を合わせて手のひらサイズのごみしか取れなかったのに対して、秋元は大きな会議室一つで、俺の二倍はごみを取って来ていた。
「春は砂埃が酷くて困りますね」
「ゴミに季節は関係ないだろ」
「あります」
そう言うと、秋元は季節や部屋ごとの汚れの解説を始めた。春は雪が解けて泥をつけてくる人が多いため、乾燥して泥が砂礫に変わる季節。夏は湿気が多いため、埃も水分を含んで重くなり、色も濃くなる季節。秋は枯葉が舞い込み、夏に生きていた虫の死骸が増える季節。冬は雪が入るために水で床が濡れ、泥になる。その上厚手のコートや服を着たり脱いだりするので、一番綿埃が増える季節でもある。ゴミが一番多いのは、おそらく大ホールを使った後だが、そこの埃は赤くなるので、すぐにどこのごみか分かると言う。何故ならば、大ホールの客席が赤かったからだと言う。まるで利き酒ならぬ、利きゴミだ。大ホールなんて見学にちらっとしか見ていないはずなのに、もうごみの予想がつくのだ。すごいことなのだろうが、同時にそこまでできると変態じみている。しかも、代り映えのしないゴミに、そんな違いがあるとは思ってもみなかった。やはり経験が違うのだろう。
 砂礫の多い季節は、水拭きも必要だと言うので、俺と秋元はモップを水拭きモップに持ち替えて、再び担当の会議室に戻った。細かな砂や小石をそのままにしておくと、床に傷がつくのだと言う。普段何気なく使っている部屋に、ここまで気を使っていたとは、驚きである。
 水拭きが終わると、次はいよいよ床のヒールマーク取りだ。女子トイレに洗剤があるので、俺は秋元が戻ってくるまでトイレの前で待っていた。そんな俺の横を、訝し気な表情の親子が通り過ぎていく。その後、母親に手をひかれた幼い子供が声高らかに、言った。
「どーちて、おそうじのひと、たってるの?」
母親は慌てた様子で、人差し指を立てて「しっ」と言った。しかしその母親の顔にこそ、男性清掃員が、女子トイレの前で何をやっているのかと書いてあった。休憩場所も限られ、自販機もスマホも使えないのに、立ってるだけで文句か。一体俺たち清掃員が何をしたというのだろう。俺がこんなに真面目に掃除しているのに、清掃員というだけでこの仕打ちか。俺はその親子を、ずっと睨んでやった。そこに、白いスプレーと水拭きモップ、スポンジを持った秋元が戻ってきた。そして俺の不機嫌な顔を無視して、床を指さした。そこには大きなヒールマークがあった。
「やり方、覚えて下さい」
そ言って、スプレーで業務用中性洗剤を、ヒールマークに噴霧する。そしてスポンジのざらざらしている方で、ヒールマークを擦る。すると、気持ちいいくらい黒いヒールマークが消えていく。最後に、擦ったところを水拭きして完了だ。オレンジのモップではあんなに力と時間をかけて、一つのヒールマークを落としていたのに、簡単に落ちた。力を入れなくても簡単に汚れが落ちると言うのは、胡散臭い通販番組でよく言われる言葉だが、これは本物だ。
「やってみて下さい」
「おう」
俺も秋元と同じ手順で黒い汚れを拭いてみる。しかし、同じ物で同じ作業を行っているのに、全く落ちる気配がない。力を入れてスポンジで擦っても、駄目だった。
「それ、傷ですね」
秋元が俺の手元を覗き込んでそう言い、説明を続けた。
「傷はもちろん落ちません。それから、黒いヒールマークよりも他の色のヒールマークの方が、落ちにくいと思います。後は、古ければ古いほど落ちにくくなります。だから早期発見と早期対処が必要です」
そうならそうともっと早めに言ってほしかったと思いつつ、経験がものを言うのだと、改めて感じた。秋元は俺に玄関ロビーのヒールマークを任せ、自分は図書室に入って行った。秋元は図書室など、人のいる所に清掃に入る時は、一言断るように言い置くのを忘れなかった。俺はロビーに立ち尽くした。いくら簡単にヒールマークが落ちると言っても、一つ一つ手作業で落としていくのだ。しかも合板の床は木目や傷が多く、ヒールマークと見分けがつきにくい。それなのに、細かなヒールマークと思われる汚れは数えきれなかった。俺は仕方なく、一つ一つ丁寧にヒールマークを消し始めた。しかし、大まかなところを落とし終えたところで、俺の集中力は切れた。もう十分だろうと勝手に思い、図書室に足を向けた。すると、フローリングの床に貼りつくようにして、ヒールマークと格闘する秋元の姿があった。挨拶を忘れそうになり、図書室に入ってから「失礼しまーす」と言った。ふとカウンターを覗き込むと、図書館の休憩所が目に入った。そこには小さな流しと、机や椅子があった。どういうことだ、と俺は思った。俺たちは掃除庫でしか休憩が取れないのに、図書室には十分な休憩室があるではないか。しかも流しまでついている。この待遇の差は何だ。俺はいてもたってもいられず、秋元にそのことを告げ口した。しかし秋元は小さく「知っています」と答え、図書室のカウンターに声をかけて、頭を下げながら図書室を出た。そして二人で掃除庫の前まで移動して、俺は言った。
「あそこ、借りればいいんじゃないかよ?」
俺は先ほどの親子や、待遇の差に、苛立っていた。思わず声も大きくなる。すると秋元は俺を掃除庫の中に引き込んだ。
「他は他です。借りることはできません」
「同じ仕事してんじゃん。しかも俺たちの方が動き回ってんだぞ?」
「佐野君、そう言う態度は駄目です」
「は? 何が?」
「傲慢だと言っているんです」
秋元が、珍しく厳しい声を出した。
「私たちに多くのクレームが来ると言うのは、それだけ他者から私たちが見られているということです。確かに理不尽なことも多くあります。でも、だからと言って、私たちが傲慢な態度に出れば、ますます他者の心象は悪くなり、自分の首を絞めることになります」
「体裁がそんなに大事か?」
「はい。大事です。仕事をするということは、誰かに見られるということですから」
俺は溜息を吐いた。唾もはきたかったが、そこは我慢した。ここで秋元を責めても仕方がない。確かに、図書館から場所を借りられても、居心地は悪そうだ。俺と秋元は二階もヒールマークを取って、道具を片付けた。その頃にはもう日が傾いていた。後は最後の見回りをして、汚れやごみをチェックする。そして溜まっていればごみをまとめて、ゴミの集積所まで持って行くだけだ。長い、長い一日だった。体力には自信があったが、今では疲労困憊で、筋肉痛が全身を襲っている。これを毎日繰り返すことを考えると、気が萎える。一方の秋元はそんな様子をおくびにも出さず、連絡用のノートや、清掃記録用紙に〇をつけて印鑑を押していた。
 時間いっぱいで、やっと一日の業務が終わった。外はすでに暗い。これでも冬よりは明るい方だ。これをひたすら真面目に、毎日繰り返す。ふざけていると思った。どうして俺が汚してもいない所を掃除しなければならないのか。トイレなんて、小便の後や便そのものだ。汚いと思っていないとでも思っているのか。自分たちが汚しているくせに、俺たちの待遇は最低だ。こんなところ二度と来たくないし、仕事をするのも嫌だった。汚いし、臭いし、キツイし、給料は安いし、これじゃあ3Kどころではなく、4Kじゃないか。この仕事は底辺の仕事で間違いないだろう。だから、求人が残っていたのだ。何が「残り物には福がある」だ。タイムマシンがあったら、過去の俺に、この求人はヤバイって教えてやりたいくらいだ。俺はこの日一日で、仕事に不満を持ち、会社に反抗心を抱いた。そして、この施設にも反感を持った。暴れなければ、気が済まなかった。他人が見ているなら、それを逆手にとってやろうと決めた。
 休日に、俺は髪の色を金髪にして、穴がふさがっていた耳に、もう一度ピアスの穴をあけた。制服を着崩し、首からじゃらじゃらと装飾品をかけ、指輪も復活させた。それはどう見ても、制服を着崩していた高校時代の俺の姿だった。人間はそんなに簡単に変わらない。これで少しはビビッて、俺たちの対応も考えるだろう。秋元のように、黙って今の状況を享受しているから、なめられるのだ。俺は意気揚々と、秋元が来るのを待っていた。これには秋元も絶句して驚愕の表情を浮かべるに違いない。
 しかし、秋元は出勤してきてすぐに、俺の格好を見て一言だけ言った。
「三角巾、忘れていますよ」
ただそれだけだった。俺は金髪を見せつけるために、わざと三角巾をしていなかったのだが、秋元はそこしか興味がなかったらしい。それでも俺がこの格好でふらふらしていると、秋元は準備を整えて、ロッカールームから出てきた。このロッカールームのロッカーも、施設側と交渉を重ね、やっと二人分を用意してもらったという代物だ。
「この格好、どうよ?」
俺がそう言うと、秋元はちらりと俺を見た。そして、やはり無表情で言った。
「似合いませんね」
俺は途端に虚しくなった。それが俺にとって似合わないと言うだけでなく、仕事上でも似合わないと言う二重の意味だと分かったからだ。金髪は三角巾に隠れて見えない。ピアスにもしもはねっ返りの汚水がかかったら、耳が腐れるかもしれない。首から下げたものはあらゆるところに引っ掛かり、階段に引っ掛かった場合、打ち所が悪ければ死ぬ。指輪は極めて不衛生だ。俺はおとなしく、気合を入れた髪の毛を黒くして、装飾品も全て家に置いてくるようになった。
「髪、染めてたのではないですか?」
「いや。髪の毛で差別されたら損だから」
「今どき、髪よりも仕事ぶりで判断されますよ」
意外に秋元は髪の毛の色の違いに、無頓着だったようだ。しかし、また染め直すのも面倒だし、毛根も傷む。将来禿げないように、黒のまま暮らそうと決めた。

五章 悪意の現場

  掃除機をかけていると、駐車場にスクールバスが入ってくるのが見えた。地元の小学校の児童たちが、わらわらとバスから降りてくる。見たところ十歳くらいだから、小学校四年生か五年生くらいだろう。若い女教師は、大学を出たばかりのようで、児童たちを静かにさせるのに必死だった。俺も仕事をするなら、あんな女性がいいな、と思いつつ、掃除機をかけていた。そこに、二列に並んだ児童たちが、先生に引率されるかたちで入ってくる。まだ風除室の掃除機掛けが終わっていない。児童たちは掃除機のコードを跨いだり、ぴよんと跳ねたりしていた。
「うわあ。邪魔」
という声が聞こえたので、慌てて掃除機を片付けようと、プラグを抜いてコードを巻き取っていく。しかし、それを見た児童がまたやんや言い出した。
「ぐちゃぐちゃ」
「下手くそ」
「邪魔」
俺の怒りは頂点に達しようとしていた。どうして引率の教師は何も注意しないのか。俺が本気で怒れば、こんなチビどもは泣き出すに決まっている。しかし、児童たちを追うように、新聞記者とカメラマンらしき男性が入ってきた。ここで俺がチビどもを泣かせたら、それこそがニュースとなってしまうだろう。何故ならここは、平和な田舎で、事件や事故は滅多に起こらないからだ。だから地方の新聞記者もローカル番組のカメラマンも、新しくできたこんな施設にわざわざ来て、子供たちが図書館の利用の仕方を学ぶなんてことまで記事にしたり、ニュースにしたりしているのだ。俺はどうにか怒りの矛先を鞘に納めて、男子トイレの清掃に移った。しかし、ここでも問題が発生していた。
 図書館の前に並んでいる児童の列が、男子トイレの出入り口まで伸びていたのだ。こんな田舎にこれだけ児童がいたとは驚きだが、元々あった五つの小学校が統合され、新しい小学校になったと聞いたことがあるから、これくらいの大人数になったのかもしれない。俺は人生で初めて猫なで声を出した。
「ごめんな。ここ通してね」
自分の声と口調が気持ち悪かった。そして何故か俺に声をかけたられた児童が、泣きそうになっている。俺がそんなに怖いのだろうか。それを尻目に、秋元は児童の間をするすると縫って、女子トイレの清掃に入ってしまった。
「ごめん、ごめん」
俺が謝りながら男子トイレに入り、清掃を始めると、何人かの男子児童がトイレに雪崩れ込んできた。どうやら図書館に入る前に、トイレ休憩が入ったらしい。そんな事とはつゆ知らず、俺はパニックになっていた。友達としゃべりながら小便器に向かうものだから、尿が便器から垂れている。しかも、個室の方は二つとも使用中になってしまった。どこからどう手を付けたらいいのか分からなに。とりあえず、箒を手に取り、空いているスペースの掃き掃除から始めた。しかし、元気のいい声はぞくぞくとトイレに向かってくる。しかも、全員俺の存在を無視している。よけたり挨拶をしたりといったことは、全くしない。子供だから仕方がないとはいえ、掃除する方は大変だ。どの児童の靴にも、どこから付けてきたのか、泥がついていたからだ。
「うわ。すげー。トイレきれい」
その意見に俺も心の中でうなずく。それはそうだろう。俺が毎日掃除しているのだから、完璧にきれいになっていて当然だ。しかし、すぐに別の声がその意見を打ち消す。
「当たり前だろ。ここ、新しいんだから」
「ああ。そっか」
「早くいこーぜ」
「待てよ」
「もうみんな、行ってるよ」
まるで、嵐に巻き込まれたような状態で、俺は何もできずにトイレの隅で立ち尽くしていた。情けない話だが、俺も高校の頃は、清掃員なんか無視して当然だと思っていた。それが小学生レベルであり、社会的にそうしてもいいような雰囲気があるという事実に、打ちのめされていた。そして今、トイレを使った小学生は、今後もトイレは誰が綺麗にしているかなんて、知らずに育つのだ。そして彼らの将来の夢のランキングに、今も、これからも、清掃員は入らないのだ。俺はそう思いつつ、箒で乾いた泥を掃き出し、通常清掃を行った。もちろん、今までで一番時間がかかってしまったことは、言うまでもない。
 図書館は小学生に占拠されているため、清掃には入れない。そのため玄関ロビーを、もう一度フリースモップで磨くことにした。小学生が通ったため、事後清掃となるのだ。一般的に、清掃作業は事後清掃である。つまり、使用後の部屋を清掃するのだ。これに対して、使用前の部屋を清掃することを事前清掃と言い、これは滅多にない。事前清掃に入るのは、大ホールを誰かが使う時にくらいだ。大ホールを使うゲストに、気持ちよく楽屋や楽屋のトイレを使ってもらうために、ゲストが到着する前に清掃を終わらせる必要がある。そのため、事前清掃には素早さが求められるため、俺は入ったことがなく、秋元が一人で済ませている。秋元は俺に構っていなければ、本当は一人でこの施設を清掃できるのだ。
 玄関ロビーを終わらせて、珍しく秋元の方から俺に質問してきた。
「佐野君は、小さい頃、何になりたかったんですか?」
図書館から出てくる子供たちを目で追いながら、秋元は目を細めている。それにつられるように、未就学児と思われる女の子が、図書館から出てきてしまった。その時、秋元はわき目もふらずに走り出していた。幼い女の子が転びそうになるのを、秋元が支えていた。しかし、それを見た母親は、女の子の手をぐいと引いて、秋元を睨みつけていた。そして、信じられない捨てセリフを吐いて、去って行った。
「汚い手で、うちの子に触れないで」
それを背中で聞いた秋元は立ち上がり、親子に向かって軽く会釈をしていた。
「お気をつけて」
そう言って、秋元は俺のところに戻ってきた。フリースモップから箒で埃を取り、集めて塵取りに入れる。流れるような無駄がない作業だ。どうして、秋元が何も言い返さないのかと、俺は自分のことでもないのに、腹をたてていた。清掃員が汚いというイメージは、利用者が残していくゴミや汚れのせいだろう。もしも、利用者がゴミも汚れも出さなければ、清掃員など必要がない。しかし、人は存在するだけでゴミや汚れを生み出している。あの女の子も、その母親もそうだ。それなのに、自分を棚に上げて、あんな酷いことを言うのは間違っていると思う。
「俺、将来のこととか、考えたことない。てか、考えてたら、こんなとこにいないよな」
「そうですか。じゃあ、今の仕事は嫌いですか?」
「好きな奴いんのか?」
「まあ、物好きですね」
「だろ?」
「でも、こんなことを言っていた人がいます。好きなことを仕事にしてはならない。仕事を好きになれ、と」
「誰の名言だよ?」
「友人の言葉です。その言葉の意味が、この仕事に就いてやっと分かった気がします」
「どういうこと?」
「今の仕事を好きになれば、充実した日々になるということです」
「で、先輩の夢って何だったんだ? お花屋さんとか? ケーキ屋さんとか?」
俺は馬鹿にしたように秋元に言ったが、本当は教師に向いているのではないかと思った。他人に教えるのは巧いし、話し方も丁寧だ。
「私ですか。私は、そうですね。普通のサラリーマンになりたかったです」
意外な答えに、真実を見た気がして、俺は目を瞠った。しかしそれを巧く返せるほど、俺は大人ではなかった。
「それって、OLってこと?」
俺の揶揄いに、秋元は笑った。冗談です、と。
 そして小学生がいなくなった図書室の事後清掃に入って行った。何だかその後ろ姿が、寂しげに感じられた。俺は俺に、腹をたてていた。
 二階に上がり、俺と秋元は絶句した。階段を上がってすぐの二階廊下は、真っ黒だった。幾重にも大小さまざまなヒールマークが重なり、大会議室に続いている。一体何があったのか、首を傾げるしかない。仕方なく秋元がフリースモップをかけ、俺がヒールマーク用の洗剤で、一つ一つヒールマークを消していった。最近できたものらしく、色の濃いものも、薄いものも、すぐに消すことができた。しかし中には傷になっている黒い線も混じっていて、綺麗な状態に戻すのは無理だった。それだけではない。俺がヒールマークを取っている場所と離れたトイレに向かう通路も、真っ黒になるまでヒールマークで汚れていた。そこは秋元が請け負ってくれた。二人で床に向かい、せっせとヒールマークを擦り落としていく。なかなか地道でキツイ作業だ。そんな中、がやがやと賑やかな声が、大会議室から聞こえてきた。どうやら図書館の使い方を学んだ小学生たちが、大会議室で何か話を聞いていたらしい。その内容は知る由もないが、二階にヒールマークを付けた犯人たちの正体は分かった。この小学生たちの靴は、色とりどりで、黒い靴底は男児に多かった。しかも、ふざけながら歩くので、床に靴底を擦り付けるようにして歩くのだ。そんな小学生たちは、必死にヒールマークを消す俺と秋元を指さして笑っていた。
「何かやってる」
「消し消しジジイと、消し消しババアだ!」
何が面白いのか、俺と秋元に変なあだ名を付けて、大笑いしている。
「この、クソガキ」
俺が小声で言って立ち上がると、秋元はそれを予期していたかの如く遮る。そして児童たちに微笑みかける。
「こんにちは。階段、気を付けて帰ってね」
秋元はそう言いながら、児童たちに手を振っていた。事務的な微笑みだが、笑うことができるのだと、そちらに興味が傾き、俺は何をしようとしていたか一瞬忘れた。しかし床を見て苛立ちと共に記憶がよみがえる。
「先輩、なんでだよ? あいつらがこれの犯人じゃないかよ」
俺は床を指さしながら、秋元に詰め寄った。しかし秋元は、もとの無表情に戻り、静かに俺を諫めた。
「まだ、子供です。佐野君は、小学生の頃、ああやって友達と遊びながら歩きませんでしたか? 床の汚れなんて、気にしていましたか?」
「それとこれとは話が違うだろ。教師だって注意してなかったし、教えてやるのも俺たちの役目だと思うけどな」
「佐野君、さっきの女の子の母親を思い出して下さい。私たちは、信用されていないのです。特に、子供にとっては、侮ってもいい相手だと思われています。もし私たちが怒ったら、児童たちをさらに騒がせることになったでしょう」
「消し消しババアのくせに」
「佐野君だって、消し消しジジイの称号を貰っていたじゃないですか」
「称号? ただの悪口だろ?」
「あだ名を貰うのは、それだけ近しい存在に感じてくれたということです。私はそれを嬉しく思います。きっと彼らは一人でここに来た時、ヒールマークを残さずに帰るでしょう」
「先輩って、本当に変わり者だよな」
俺はぶつぶつと文句を垂れ流しながら、ヒールマークを消す作業に戻った。
「こんにちは。どうぞお使いください」
「おはようございます。どうぞ」
「お疲れ様です。多目的トイレはこちらです」
秋元は、トイレの前のヒールマークを取っているから、トイレに来た人とすれ違う。そのため、一人一人に挨拶をしているようだ。これは今に始まったわけではない。秋元は会った人全員に挨拶を欠かさない。事務室に入る時、出るとき。事業所に入る時、出るとき。これくらいならまだ分かるが、階段や廊下ですれ違った時も、全く知らない施設利用者に挨拶をする。当然、清掃員などに挨拶を返す人はいない。無視されるのはまだ良い方で、時には睨み返してくる人もいる。稀に驚いたように反射的に挨拶を返す人もいるが、会釈だけだったり小声だったりする。どうせ返してもらえない挨拶なんて、しなくても同じ事だろうと、俺は思っていた。
 ヒールマークをひたすら擦り落とし、水モップをかけていると、正午のチャイムが鳴った。俺も秋元も疲労困憊気味だ。あんなに大量のヒールマークは見たことがなかったから、さすがの秋元もため息を吐いていた。掃除庫で弁当を食べる。秋元の弁当はいつもおにぎり二つだけだ。しかも、わかめとか梅干しとか、定番の具材しか見たことがない。よく飽きないものだと思いながら、俺は弁当を広げる。秋元がいつも粗食だから、こちらとしては食べにくい。だからと言って、おかずを分けてやるのも、施しを与えているようで嫌だった。
「挨拶、別にしなくていいんじゃね?」
会社の方からは、事業所に挨拶するように言われていたが、利用者にまで挨拶しろとは言われていない。どうせ無視されるのだから、挨拶するだけ損だ。すると秋元は首を振った。
「挨拶は、予防です」
「挨拶が、予防?」
「前に、私たちは見られているという話をしました。でも、私たちだけが見られているわけではないと、お知らせする必要があります。そのお知らせが、挨拶です」
聞き覚えのあるセリフだった。俺の高校が万引きの温床となり、高校周辺の店から、俺たちの高校の生徒全員が出禁をくらった時のことだ。全校集会が開かれ、万引きは窃盗罪という重い罪であることや、店員は常に俺たちを監視していること、監視カメラもあることなどが説明された。そして校長は、店側が「いらっしゃいませ」と声をかけるのは、挨拶と同時に、ちゃんと目が行き届いていることを、相手に知ってもらうサインだと言っていた気がする。
「挨拶をすることで、利用者側の意識を変えることができます。つまり、清掃員に見られていると思ってもらうことで、汚れの予防効果を狙っているのです」
俺は首を傾げた。それは理想論だ。俺たちは全校集会の後も、万引きをした。店員に挨拶されようがされまいが、関係なかった。制服で高校がばれるから、私服に着替えてまで万引きをした。店側が薄利多売で、いくら企業努力をしているのかなど、関係なかった。
「効果、ない気がするけど? 俺なんか、小便器と小便器の間に放尿された時がある」
「挨拶はしましたか?」
「相手の方からしてきたから、珍しいと思ってただけ。俺からは、してない」
「その時、佐野君が挨拶をしていたら、変わっていたかもしれません」
「俺が悪いと?」
「可能性の話しです。とにかく、佐野君も挨拶するようにして下さい」
俺はこの秋元の言葉を無視した。どうして無駄なことをしなければならないのか、理解できなかった。それに、誰にでもぺこぺこする秋元は、遠くから見ていて卑屈に見えたからだ。
 秋元は、午後になっても挨拶を続けた。しかし、挨拶が帰ってくることはなかった。階段を秋元が清掃し始めたとき、一人の男性が秋元の方に近寄ってきた。まだ若い男だが、平日の昼から施設にいるということは、働いていないのかもしれない。男のふらふらした足取りに、俺は嫌な予感がして、その男と秋元を視界に入れながら、廊下をモップで拭いていた。
「こんにちは」
秋元がいつものように、男に向かって挨拶をした。男はにやついて、自分が持って来たペットボトルを飲みながら、秋元に付きまとう。
「掃除のおばちゃんに、挨拶なんてする価値ねぇんだよ。バーカ」
男はペットボトルの中身を秋元に向かって、振りかけた。秋元は小さく悲鳴を上げる。俺は思わずモップを放り出して、階段を清掃していた秋元に駆け寄る。
「大丈夫か?」
「ただの、水だったようです」
「そう言うことじゃなく!」
俺は階段の上から、俺と秋元を見下す男を睨んでいた。男はわざわざペットボトルに剥がしたラベルを詰めて、キャップで蓋をして、そのまま燃えるゴミに捨てた。その顔はやはりにやついている。俺たちに、分別しろと言っているのだ。
「このっ!」
俺が男に怒りをぶつけようとした時、秋元が俺の腕をつかんだ。そして秋元は、ふらふらした足取りのまま、こちらを嗤いながら遠ざかる男には目もくれず、ゴミ箱に向かった。キャップを外し、燃えるゴミに入れる。中に詰め込まれたラベルを、指を差し込んで取り出し、こちらも燃えるごみに捨てる。残ったペットボトルを、ペットボトル専用のごみ箱に捨てた。そして意図的に分別せずにペットボトルを捨てた相手に、秋元は一礼して、階段に戻ってきた。俺は納得いかなかった。侮辱された上に頭から水をかけられ、悪意を持ってごみを捨てさせられた。人間として許すわけにはいかなかった。しかしここでも秋元が俺の腕を強く引いた。
「お話があります。掃除庫に来てください」
「ああ。おう」
俺は男を睨みつけながら、しぶしぶ秋元に従った。掃除庫で、俺はキレた。
「何なんだよ、あいつ! 大体、なんであんな奴にお辞儀してんだよ?」
秋元にキレても仕方がなかったということは分かっていたが、ここで怒りを爆発させないと頭がおかしくなりそうだった。秋元が被害者なのに、本人は平然と、ハンドタオルで濡れた髪の毛を拭いている。そして俺に向かい合った。
「あの人は、きっと仕事をしていないんだと思います」
「そりゃ、普通の会社員なら、この時間にこんなところに来てねぇよ」
「では、何故人は仕事をすると思いますか?」
「そんなの金のためだろ」
「はい。その通りです。でも、それだけじゃありません」
「他に何があんだよ?」
「社会的に認知されることによって、帰属性を獲得することです」
俺には何を言っているのか分からなかったが、秋元が言うには、これが一番大事だと言う。
「私たちは、清掃を日々行うことで、社会に貢献し、その存在意義を認めてもらっています。それが形となって表れているのが、給料なのだと思います。でも、人は給料だけでは生きていけません。自分がどの社会に位置しているのか。つまり帰属性がないと、人間的に揺らいでしまうんです。お金だけあっても、家や会社に所属していなかったら、自分の立場が分からずに、精神的に不安定になります。働くということは、こうした二面性から成り立っているのだと、私は思います」
「御託はいんだよ。あいつのやったことは、酷いことだろうが! 反社会的じゃねぇのかよ!」
「佐野君、落ち着いて下さい」
「あんたは何で落ち着いてられんだよ!」
「佐野君、ここは公共の施設です。誰でも使うことができます。私たちは、誰かを選別して、その人を拒むことはできません。いくら酷いことをする人でも、出禁にはできません。仕事をしていない人は、社会的認知もされず、自分の立ち位置も揺らいでいるので、精神的に弱くなります。その弱さを隠すために、暴力的になることは誰にでも起こりうることなんです」
秋元のこの言葉に、俺はハッとした。俺の高校時代に対して、言われた気がしたからだ。俺には家があって、高校があった。そこは俺を社会的に高校生と見なし、俺の立場を示していた。しかし、その高校に反発した俺は、高校に通わなくなった。それでも制服を着ていれば、高校の生徒だと見なされていた。俺が退屈で、何か足りないといつも苛ついていたのは、俺が自らの社会的立場を保証していた高校から、逃げたからだ。それなのに、それを認めるのが嫌で、不良と呼ばれることで相手を威嚇していた。精神的な弱さや稚拙さを隠すために、暴言を吐き、暴力に訴えた。もしも俺がこの会社に入らないでいれば、あの男と同じようにふらふらして、自分の弱さを隠すために、自分より弱い立場の人間に暴力を振るって笑っていたのかもしれない。社会的立場を認めてもらうということや、そこに自分がいるということは、これほどまでに大切だったのだ。しかし、だからこそ、思う。それほどまでに仕事の本質を見抜いている秋元が、何故、俺にここまで教育係として構ってくれるのだろうと。


#創作大賞2024 #お仕事小説部門

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?