リセット‐日常清掃員の非日常‐第4話

九章 過去

 あれほど毎日降っていた大雨が、嘘のようにぴたりと止んで、蒸し暑いいつもの夏が戻ってきた。相変わらず臭くて汚いところで清掃を続ける俺たちは、今日も大汗をかきながら作業をしている。最近は変な蜂や蠅が出るようなったり、夜まで開館しているからその光に大量の羽虫が引き寄せられたりして、仕事量が増えた。避難所としての役目を終えたのは、豪雨災害から三日後のことだった。十人以上いた避難者たちは、家が床下浸水していても自宅に帰らなければならかった。酷なことではあるが、日常を取り戻さなければ、何も始まらないのは事実だ。自然の驚異を知りつつも、人間も強いと思うこの頃だ。
 昼食を秋元と一緒にとるが、秋元の過去はまだ聞き出せていない。何故、一見有能そうな秋元がここで清掃員をしているのか。研修会の後に何故あれほどまでに不安定になっていたのか。まだ謎のままだ。しかし、今日、ついに秋元の過去に繋がる場面を目撃してしまった。それはいつものように、事務室に掃除庫の鍵を取りに行った時のことだ。事務室ではその時、業務用のプリンターの調子が悪く、業者に電話していた最中だった。そのプリンターの様子や、電話の様子を見た秋元は、明らかに動揺していた。何故か玄関や事務室に近寄らずに、作業をしている。来館者にいつもの挨拶もしない。そして午後になり、業務用のプリンターの修理業者が来た時、秋元は視界の端にそれらの人々を捉えると、掃除庫に籠ったのだ。何かあると、俺は清掃も放り出して、掃除庫に押し入った。
「何してるんだよ? 就業中だろ? サボりか?」
秋元は冷静を装おうと必死だが、何かに怯えているのが明白だった。
「何か、後ろめたいことでもあんのか?」
「そう言うわけでは……」
「じゃあ、何だよ?」
「怖いんです」
「何が?」
「それは、言えません」
そう言って、秋元は椅子に座り込んでしまった。よく見ると、肩の辺りがかすかに震えているように見える。表情も硬く、引き攣っている。
「言えよ」
「すみません」
「謝るんじゃなくて、説明しろって言ってんだよ」
しばらくの沈黙の中に、秋元の逡巡が伺えた。もう一押しとばかりに、俺は言った。
「研修会の後のことと、関係あんだろ?」
秋元はハッとして目を見開いた。そしてうなだれたまま、秋元は自分の過去を語り始めた。

◇    ◇ ◇

私は県下一の不良高校から、国公立の大学に進学しました。この高校から国公立の大学に現役で進学したと言うと、信じてもらえないことが多かったのを覚えています。ただ、多くの生徒の中には、年に何人かは国公立の大学に進学している人もいました。私の代では私を含めて三人が、それぞれ、希望する国公立大に進学しています。これは並大抵の努力では叶わないことです。周りは遊び惚け、授業の妨害が日常茶飯事ですから、その中で成績を維持するのはとても大変でした。
 ここまで話すと、何故大学進学を目指すのに、この高校を選んだのか疑問に感じると思うので、先に言ってしまいますね。ただ単に、体が病弱で出席日数が足りず、内申点が低かったことが原因でした。授業にあまり出られなかったので、成績もあまりよくありませんでした。通院も出来て、確実に入学できる高校は、限られています。そこで私が目に付けたのが、この不良高校でした。折しも私が行きたかった大学が、推薦入試を始めた頃です。無理に進学校に言って下にいるよりは、最低ランクの高校で上位者になった方が、推薦枠が取りやすいと考えました。こんな打算で進学したのですから、佐野君は呆れるでしょうね。それとも、この高校の先輩らしいと笑うでしょうか。
 話を戻します。予定通り、私は高校で上位者になりました。そして狙っていた通り、推薦枠で大学に進学することになりました。正直なところ、私は模擬試験の成績は悪く、A評価どころか、BもCもつけてもらったことはありませんでした。推薦がなければ、私はどこかで、妥協していたと思います。
 大学に入ってからは、周りについて行くことがとても大変でした。特に今までの積み重ねがものを言う英語の授業は、どんなに頑張っても、常に笑い者で、成績も単位が取れるぎりぎりのラインでした。その流れで第二外国語も、やはり大変でした。語学が苦手な代わりに、新しく学ぶ分野の成績は良かったです。苦手分野と得意分野でバランスが取れたので、私の大学生活は穏便なものだったのだと思います。
 しかし、大学生は四年間限定です。大学生の就職活動は、年々早まっていて、私の場合は三年生になると、もう就職活動が始まっていました。毎日のように就職のセミナーが催され、面接の練習会や、説明会が開かれました。慣れないスーツに身を押し込め、慣れない靴で歩き回るのですから、いつも以上に疲れ、足には靴擦れが出来ました。それでも次の日も、また次の日も、スーツを着て靴をはいて、企業の説明会や大学のエントリーシートを書くために、日々動き回らなければなりませんでした。長かった髪を言われた通りに短くして一本に束ね、化粧もナチュラルメイクを施し、爪も磨きました。それでも、私は皆より就職活動が上手くいきませんでした。それはそうです。皆は受験を正当に受けて、実力で受かっています。しかし私は推薦頼みの劣等性です。それに、県内企業から、エントリーシートに書いてある高校名で、落とされたという話を聞いてしまいました。大学のエントリーシートは、履歴書の電子版です。大学の卒業見込みがある大学生は、高校卒業から書き始めると決まっていました。その高校名で、私が推薦組だとばれていいたのです。
結局、私は四年生の夏に、県外の企業から内定が出ました。大手の事務機器メーカーの企画運営でした。就職活動に疲れ、目標とする企業もなかった私は、その一社の内定を受けて、就職活動を終えました。単位もそろっており、後は卒業論文を書けば、私はそのまま卒業となるはずでした。しかし、その卒業論文の資料を集めている中で、私に内定を出した会社が、ブラック企業であるという噂が流れてきました。本当にブラック企業なのかは、入社してからしか分かりません。どの会社もどこかは問題を抱えていて、それを外部の人間がブラックだと決めつけるのは、おかしい気がしました。だから私は、その企業の内定を取り消そうとは考えませんでした。
卒業論文を書ききった私は、無事に大学を卒業しました。そして四月から大手事務機器メーカーの会社で、新しい一歩を踏み出しました。実際に企業で働いてみると、ブラック企業と言う噂は、嘘だと分かりませした。私は任された仕事を次々こなし、新しい仕事にやりがいを感じていて、何の仕事が来ても嫌な顔せずに受け取っていました。そのせいか先輩や同期からの信頼も厚く、上司からの評判も上々でした。会議でも大学で培った論破の力がものを言い、すぐに上司に褒められるまでになりました。相手の議論のおかしな点を見事に突き崩し、代替案も正確に打ち出す私は、会社から一定の評価を得るようになりました。
そして入社して間もない私に、一つの転機が訪れました。新商品の企画開発のプロジェクトリーダーを任されることになったのです。入社一年目にしてこんなに大きなプロジェクトを任されたのは、私が初めてだと言う話だったので、私は今までの苦労が報われたと思って、意気込んでいました。だから、私のことを気にいらない人々も中には存在するということを、この時の私は考えもしませんでした。
毎週の月曜日の午後に、新プロジェクトの会議が行われることになり、顔合わせの初会議が行われました。各部署から集められた精鋭部隊のリーダーと言っても、私は一番年が下なので、第一印象と粗相のないようにということだけを、気を付けていました。そこで、営業部の男性から私は名前を確認され、しっかり働くようにと言われました。私はその言葉の裏を理解せず、そのままの意味として受け取ってしまいました。今思えば、私はまだ世間ずれしていなかったのだと思います。だから、表面的な言葉を鵜呑みにして、深く考えずにいたのです。長年自分の仕事を一生懸命やってきた人々が、入社一年目の女に従う。これが相手にとって、どれだけ苦痛で、悔しいことなのかを、私は考えることができませんでした。想像力の欠如とも言えましたし、若気の至りとも言えました。名前を確認されたのは、お前のような新参者が、という想いがあったのです。そして、一生懸命働くように、ということは、自分の立場をわきまえろと言っていたのです。
お互いの歯車がかみ合わないまま、会議は進んでいきました。ところが、会議で不思議なことが起きていました。私が皆の意見をまとめようとすると、件の営業の男性が横やりを入れ、まとまりかけた話をまた平らにしてしまうのでした。私は初め、何が会議で起きているのか分からない状態で、自分の不手際だと思っていました。しかし、そのことを先輩に言うと、それは営業部の嫌がらせだと指摘してくれました。そしてこの日から、営業の男性からのメール攻撃が始まりました。私は朝出社するとすぐに、溜まっていたメールに目を通すことにしていました。私は出社し、いつものようにパソコンを起動させ、メールボックスをクリックしました。そこには、「会議について」と題された営業部の男性からのメールが何通も入っていました。メールの内容は、会議での私の不手際をなじるものもあれば、私の会議の進め方が企画運営部よりで、他のメンバーの意見が無視されているという内容のものもありました。その文章はA4用紙が真っ黒になるくらいに、書いてありました。私は初めは自分が悪いのだからと、そのメールに対して、何度も謝罪し、次からは気を付けると書いて返信していました。しかし、これが毎日続くと、さすがに重荷になっていきました。
しかし、私がどんな状況であろうと、月曜の午後からは手入れ会議と決まっています。しかし、その営業の男性がまとまりかけるとすぐに、反対意見や別の意見を出して、会議そのものを意味のないものに変えていきました。すると当然のことながら、他のメンバーからも不満が噴出し、私への風当たりは強くなっていきます。
「こんなできない奴が、どうしてリーダーなんだ?」
「使えない奴だ」
「だから女は」
「上下関係をわきまえろ」
徐々に、私に聞こえるように悪口を言う人も増えてきました。私はこの頃から、慢性的な頭痛と吐き気、喉の詰まりが気になり始めていました。しかしここで折れてしまっては、余計に迷惑がかかると思い、誰にも相談できずにいました。
 そして、事態はさらに暗転します。どういうわけか、会議に無関係な営業部の部下を、その男性は連れてくるようになりました。さすがにおかしいと思い、部下の方はご遠慮願うと、男性は鼻を鳴らして言いました。
「企画運営部に傾倒している会議だから、見学に来させたんだ」
まるで日本語としておかしい内容ではありましたが、周りの目もあり、そのまま男性の部下を会議に出すことになりました。
「力不足の奴が、足を引っ張るから、ちょうどいいだろう」
男性はその会議の去り際に、こういい捨ていきました。そして、大量のメールが再び送られてくるようになりました。この頃になると、私は同期に心配されるようになりました。しかし、こんなところで不甲斐ない姿を見せたくないという願望と、情けなさから、何も言えませんでした。そして喉の詰まりは酷くなり、食べ物を食べられなくなり、水もやっと口にできる程度になりました。この時の体重は今よりも七キロも痩せていて、体重計が壊れているのだと思ったほどです。
 私は会議を何とか成立させようと、まず、会議を二つに分けてそれぞれに案を出してもらうことにしました。メールで会議の構成員にその旨を伝え、実際の会議でそれを実行しようとしました。その時は営業部の男性とその部下は出張中で、テレビ会議での参加でした。私が会議を進めようとした矢先、営業部から怒鳴り声がしました。
「何様のつもりだ! 勝手に会議を二つに分けるとは、前代未聞! 言語道断!」
営業部の男性が、会議資料を床に叩きつけていました。私が寝る間も惜しんで作った資料でした。
「謝れ! 今すぐに謝罪しろ! そして撤回しろ!」
怒鳴りつける男性の隣りで、部下が私を蔑んだ目で見ていました。私は咄嗟に、こんな奴は論破してしまおうと思いました。会議を毎回潰すことしかできない相手に、私なら論破できると確信していました。しかし、論破のため開きかけた私の口は、閉ざされました。会議に出席していた他のメンバーが、小声で私に謝るように諭してきたのです。
「折れろ」
「お前が謝れば済むことだ」
「早く、謝れ」
「お前が悪いんだから」
「折れろ。こっちまでとばっちりだ」
小声で上がったその言葉の全てに、私は絶望し、泣いてしまいました。すると、周りは残念なものを見るように、肩をすくめました。
「あーあ。泣いちゃった」
「嘘でしょ? 会議で泣くってあり得ない」
「めんどくさいな。だから女は」
私は一人、会議室を飛び出していました。ロビーの椅子に座って、目頭にハンカチを押し付けて、一人で泣きました。そして、このままではいけないと思い、会議室に戻りました。そこには、パソコンの中で嗤う男性の姿がありました。そして一言、私に向かって言いました。
「出来損ないがいなかったおかげで、スムーズに会議が終わったよ」
そう言って、パソコン画面が消え、メンバーも椅子から立ち上がってそれぞれの部署に帰っていきました。その中で、一人の女性が私に驚愕の事実を伝えました。
「あの営業の男性は、パワハラで有名なの。知らなかったの?」
最初からこうなることは目に見えていたのに、と女性は私をバカにして会議室を後にしました。会議室には、私だけが残りました。私は悔しくて、悲しくて、腸が煮えくり返りそうでした。私が本気で弁を立てれば、あんな男はすぐに陥落するのに。すぐに論破できるのに。そう思っていました。
 そして、ついに運命の日が来ます。その日も月曜日で、会議がある日でした。ところが、目を覚ますと酷い頭痛がして起き上がれません。いえ、枕から頭を上げることすらできないのです。無理に起きようとすれば、直ちに胃液が逆流してくるのを感じました。体も全身が鉛のように重く、息が切れてしまう状態でした。私は何とか電話で上司に休みを貰い、タクシーで病院に行きました。内科の大きな病院でした。私は緊急入院をして、検査を受けましたが、内科的な異常は見られず、近くの心療内科や精神科を勧められました。心療内科でも精神科を勧められ、結局今の病院に行き着きました。
 そこで、初めて病名が判明しました。統合失調症と言う、現在では完治できない病気でした。私は会社を辞職して、家に戻りました。会議は営業部の男が仕切っているという話で、乗っ取られたのも同然でした。悔しいのが半分、悲しいのも半分でした。どうして被害者の私が会社を辞めなければならないのか。しかも、辞職理由は「一身上の都合」というありふれた形式的なものを求められました。私は上司に辞表を受理してもらい、会社に別れを告げました。春に入社して、秋には退社に追い込まれたのです。あれだけ中の良かった同期や先輩からも、言葉一つ貰えませんでした。それは私が、会議を駄目にして、逃げたと思われていたからです。
「本当は仕事ができない人だったんだね」
「そう言えば、あの人、不良高校出身だって聞いたよ」
「うわ。まじで?」
「仕事が出来る女って顔してたけど、見下してたよね」
「生意気だったよ。だから、自業自得じゃない」
私の背中にぶつけられたのは、そんな言葉の数々で、会社に友人も作れなかった私は、仕事しか見えていなかったことに、愕然としました。
 家に帰って治療が進み、改めて就職活動をしなければならなくなりました。年齢的には余裕がありましたし、学歴にも問題はありません。ただ、高校名と数か月で退職していることが問題視されたあげく、精神障碍者ということで、差別を受けました。ハローワークに通い、担当者が何社か電話をしてみてくれたのですが、私の障害が明らかになると、電話口の態度が一変しました。
「求人に、心身ともに健康な方って書いたよね?」
「女じゃなくて、男が欲しかったんだよ」
そう言って、書類も見てもらえませんでした。私は医師とも相談して、正社員をあきらめなくてはなりませんでした。パートやアルバイトの求人を探し、就職活動をしても、やはり障害者雇用は難しく、どの店も雇ってくれませんでした。やっと雇ってもらっても、仕事ができない私はすぐにクビになりました。
 仕事がないということは、精神的に大きな損害を人間に与えます。私も随分不安定になりました。仕事がなかなか見つからず、私は自分の社会的立場が分からなくなり、酷く弱気で卑屈で、臆病になりました。人はこんな時に暴力的になることを、初めて知りました。弱くて臆病な自分を隠すために、人は苛立って暴力的になるのです。家族にあたり、物を壊しました。仕事をしていないということは、力が有り余っていて精神的に不安定だったからと言うのは、言い訳にすぎません。でも、仕事がないということは、経済的にも苦しく、精神的にも肉体的にも厳しいのです。
 私はついにハローワークで腹をくくります。避けていた清掃業の求人票に手を出したのです。清掃業が世間から悪い印象を持たれていることや、清掃という仕事がキツイことは分かっていたので、今まで避けていました。しかし、通院日を加味してくれて、かつ障害に気を使ってくれる職業は、ここしかありませんでした。ハローワーク職員からの電話で、すぐに面接の日程が決まりました。普通は面接の前に履歴書の書類審査があるのに、それは面接の時に見せてくれればいいと言われました。
 私はいきなり社長からの面接を受け、履歴書を出しました。すると社長は私の学歴を見ながらこう言いました。
「こんなに高学歴で、大手に勤めていた人が、清掃なんかで満足できるの?」
私は正直、ここで憤りを感じました。清掃会社の社長である人が、「清掃なんか」と言ったのです。自分たちの仕事を愚弄するなんて、信じられませんでした。私は落ちるのを覚悟で、生意気な口を叩きました。相手を論破することには自信があったので、すぐに言葉が溢れて来ました。
「汚いところで仕事をしたい人はいません。綺麗なところで仕事がしたいのは、当然のことです。つまり清掃とは、全ての仕事のモチベーションを上げられる仕事だと言えます」
私の言葉の後、一瞬だけ沈黙が降りました。これが相手を完全に論破した時の空気だということは、知っていました。しかし、そこにもはや高揚感はなく、後悔だけが残りました。ここでも、私は不採用になると思ったからです。しかし、後日、私は採用されていました。制服はダサいし、仕事はきつくて、理不尽なことも多かったのですが、自分の言葉を信じるしかありませんでした。

◇    ◇ ◇

なるほど、と俺は一人合点していた。だから研修会の後に、秋元はあんなに落ち込んでいたのか。自分の過去の転機となったところに、論破するということが関わっていたからだ。だから滅茶苦茶な話をしていた講師に我慢ならず、論破してしまった自分を責めていたのだ。その一方で俺と同じ高校を出ているのに、国公立大の出身で、有名企業のプロジェクトリーダーだったのに、今は俺と同じ職場で同じ仕事に就いているのだから、人生は分からないものだ。そして会議中や論破中に、額に汗をかくと説得力がなくなるため、自然に顔に汗をかかなくなったというわけだ。そんな秋元にしてみれば、悔しかったに違いない。苦労して大学に入り、就職活動もこなして新卒で採用され、人望も厚かったのに、そのパワハラ男に仕事も人生も、全て奪われてしまったのだ。秋元には、まだその仕事に対する未練がある。だからこそ、講師を論破してしまった。その一方で、秋元は今の仕事にも必死だ。だからどんなことも我慢したし、いくらでも頭を下げた。
そして俺は気づいてしまった。そんな秋元が怖がる相手が、事務室にいる。どんな卑劣な奴でも腰を低くして対応してきた秋元が、事務用プリンターの営業の男が怖いと怯え、掃除庫に隠れている。
「今、事務室にいるのって、まさか」
秋元は俯いたまま何も言わなかった。それが無言の肯定となった。俺は掃除庫を飛び出した。秋元は確かに不器用で、会議を巧くまとめられなかったかもしれない。しかし、そんな女の人生をぐちゃぐちゃにした男が、今でも同じ会社で仕事を続けていることが、許せなかった。営業は二人で来ていた。歳のいった男と、その部下の若い男だ。今、二人は事務室でプリンターのメンテナンスをして、新しいプリンターに買い替えるように勧めている。秋元が咄嗟に俺を止めようと、手を伸ばしたが、俺はその手を払いのけた。
「ダメです、佐野君!」
俺は挨拶もなしに、事務室に乗り込んだ。俺は秋元の苦労を知っている。俺みたいな奴等が常に授業妨害する中で、集中して授業に出続けることの難しさ。不良高校と言うだけで、皆十把一からげにされて、世間の冷たい視線に晒される悔しさ。それを乗り越えることの難しさも、知っている。秋元は推薦で入学したことを悔いているようだったが、あの高校で内申点を高いところで保つことは困難だっただろう。秋元は三年間、それをやりきったのだ。そして、その上で就職したのだ。つまり、今俺が抱えている怒りは、過去の自分への怒りでもあった。授業を妨害し、破壊行為に及び、法を犯し、まっとうに高校生活を送っていた人間の人生を壊してきた自分と、秋元を貶めた男が重なっていた。
 つかつかと男に詰め寄った俺を、男がソファーから見上げていた。
「何だね、君は?」
男は不快そうに俺に言った。俺は他の奴の制止も聞かず、男の襟元をつかんでいた。そこに、秋元が入って来ていた。
「佐野君! あなたまで人生を壊すことはないはずです!」
秋元はそう言って、俺の手から男の襟をむしり取り、男を庇った。そしてあろうことか、その男に向かって、秋元は深く頭を下げた。憎んでも憎み切れない男に、秋元は謝罪した。
「申し訳ございません、お客様。お怪我はなかったでしょうか?」
男は秋元の首からぶら下がった社員証を、まじまじを見た。そして、何かを思い出したような顔になり、高笑いを始めた。
「秋元。なるほど。見た顔だと思ったが、こんな所にいたのか。結構、結構。お掃除のお仕事を頑張り給え。よく似合っているよ」
「ありがとうございます」
秋元はそう言って、再び男に頭を下げて、俺の腕をつかんだ。俺は仕方なく秋元と一緒に事務室を後にした。事務室を出たところで、秋元は俺の腕を離した。秋元は洟をすすり、目には涙をたたえていた。
「あれで良かったのかよ?」
俺は釈然としないまま、秋元に質した。秋元はハンカチで目元をぬぐい、うなずいた。
「はい。他人の仕事をバカにする人は、きっと自分の仕事が理解できていない人ですから」
うなずきながらそう言って笑った秋元の目は、充血して真っ赤だった。俺は秋元には一生敵わないと、思い知らされた。

十章 感染症対策

 都市圏でくすぶっていた感染症が、この町にもやってきた。まだ感染者は一人しか出ておらず、差別につながるとして感染者の身元は公表されていない。これから公表することもないようだ。会社と施設の契約は、床とトイレが基本契約だったが、そこに除菌作業も加わることになった。今まででも大変なスケジュールだったのに、これ以上仕事が増えると、手が回らないのではないかという心配が出てくる。しかし相手は未知のウイルスで、接触感染や空気感染するということで、施設側も気が抜けないところなのだろう。人が集まるところで集団感染も起きており、文化施設で換気の悪いこの施設は、危険に晒されていた。その危険を回避するための俺たちの仕事だが、作業は増えても賃金はそのままなので、俺としては不服だった。しかし秋元はいつも通り「はい」の一言で、全てを納得してしまう。相変わらず、気に入らない先輩だ。
 今日は休業日だったが、施設の倉庫に呼び出された。倉庫なのでストーブを炊いていても寒い。さすがの秋元も、コートを脱がずに椅子に座った。社会的距離を保つことが感染症対策には重要とのことで、ストーブを囲んで等間隔に座った。俺と秋元、そして施設の用務員だ。無口な用務員が、さっそく紙を渡す。俺は手ぶらで来たが、秋元は筆記具を用意していた。用意周到な奴だ。
 用務員が、ぼそぼそとした口調で話し始める。大体は、渡された紙に書いてあることだった。事務室に消毒液のタンクを用意しているので、そのタンクからスプレー容器に消毒液を入れること。スプレーは使い捨ての紙に吹き付けて、一定方向に拭くこと。除菌に使った紙は、ビニール袋に入れて捨てること。除菌作業の際、一定方向に拭くのは、モップと同じ原理らしい。紙は倉庫の奥に用意しておくと言っていた。この除菌作業は、午後と午前、一日二回行うことだそうだ。俺たちが休みの日は、用務員がやっておくと言っていた。用務員が説明を終えると、秋元がすぐに手を挙げた。
「質問、よろしいでしょうか?」
「はい」
「使用後の机や椅子は、どうすればいいですか?」
「あ、それも片付ける前に、除菌をお願いします」
「片付けるのは利用者ですので、使用したものと、そうでないものの区別がつかないと思うのですが?」
「分かるようにしておきます」
「何だよ。面倒だな。利用者にやらせればいいだろ!」
俺が言うと、用務員は肩を震わせた。俺にビビっているのだ。
「では、事務室の事業で使った分は、除菌しておきます」
「はあ? その他は?」
事務室の事業なんて、ほとんど行われていない。行事はあくまでこの施設の部屋を借りている一般の町民が主体だ。つまり、事務室が行う除菌作業はほんのわずかで、他の九割以上は俺たちにやらせるつもりなのだ。用務員が黙ると、秋元が横から口を挟む。
「私たちが行うのですね」
「お願いします」
用務員は秋元に向かって頭を下げた。用務員にとって秋元は地獄に仏だが、俺にとっては地獄に閻魔だ。
「説明は以上です。もし、分からないことがあったら、またその時聞いて下さい」
禿頭の用務員は、そう言って、逃げるように倉庫から出て行った。
「おい。これ、手すりもボタンも全部って書いてあるぞ!」
この建物の特徴は、巻貝の中のような造りをしていることだ。よって手すりが多い。それだけではない。エレベーターはもちろん、電気のスイッチやトイレの操作も押しボタン式になっている。その上各部屋の扉は大きな把手がついている。これらを全て手で拭いていくなら、時間も紙も消毒液も、いくらあっても足りないではないか。
「ついでだと思えばいいのです」
俺たちの作業は事後清掃だから、そのついでに除菌作業をすると思えばいいということらしい。しかし、そんなに簡単な話ではない。会議室で使われる机が問題だ。キャスターがついているが、机の向きそのものがストッパーになっており、初めに折りたたまないと動かせない仕組みになっている。その机は、感染症が広がってから人との距離を取るために、一人一台使うようになったのだ。つまり、人数分の机がそのまま残されるということだ。それに椅子までついてくる。机だけでも手間がかかるのに、椅子は弱弱しくてさらに手間がかかる。
「そんなに嫌なら、佐野君は午前の除菌担当にしますか?」
「ああ。まあ。それなら」
午後の方が事後清掃が多いに決まっている。そうであるならば、午前の方が部屋が使われない分、楽に思えた。しかし、これが間違いだった。
 いざ除菌作業付きの清掃が始まると、各部屋よりも階段の手すりの方が大変だったのだ。中央階段を二往復するだけで、ふくらはぎがつりそうになる。体はなまっていないはずなのに、除菌作業がここまでキツイとは思ってもみなかった。一方の秋元は、汗一つかかないから、俺が大げさに見えるのが気に食わない。
 ところが、除菌作業は思わぬ方向へと転がる。それは俺と秋元が除菌作業に慣れて来た頃のことだった。俺たちが清掃作業を行っている施設が、秋から感染症のワクチン接種会場に指定されたのだ。よって、俺と秋元の仕事のスケジュールは、ワクチン接種のない日となり、休日と出勤日がバラバラになってしまったのだ。しかも、接種の会場として使う部屋には機材があるから、清掃には入らないようにと言うお達しだ。ほぼ全館を利用してワクチン接種を行っているのに、清掃に入れない。そうなると、仕事のしようがなくなってしまう。頼みの綱は除菌作業だけではないか。しかしこんな時でも秋元は言うのだ。
「佐野君。清掃はエンドレスです」
清掃には終わりがない。一か所を突き詰めて考えれば、時間はどんどん過ぎていく。例えばトイレの個室一つとってもそうだ。通常清掃では掃き掃除をした後に、ブラシで便器を擦り、赤いタオルで便座の裏と便器を磨き、黄色のタオルで便座を拭いて、最後に水モップをかけて終わりだ。しかし、目に見えない汚れや普段は時間がかかってできない場所もある。例えば便座の裏側はかなり汚い場合が多い。埃が溜まりやすく、黄色に汚れている。そこは水モップでは届かないため、赤のタオルを裏側に通して、引っ張りながら掃除するしかない。それに目には見えないが、個室の壁もやはり黄色く汚れている。一見綺麗に見えても、ドアの裏や横の壁は、タオルが黒っぽい黄色に染まる。尿の飛び散りは、人が思っているよりも広範囲に広がっているのだ。そんな風に個室一つ一つに手間をかけ、汚れるたびに手をかけていれば、一日などあっという間に過ぎてしまう。それに、普段はあまり清掃に入れない部屋に清掃に入るいい機会でもある。調理室や和室は、俺と秋元の終業時間以後に使われることもあり、なかなか細かいところまで清掃できない。ガスコンロの周りや、べたつく汚れを落とすには時間も労力もかかる。エンドレスとは、こういうことだ。
 だが、不満と危険は、最大限に高まっていることも事実だろう。俺と秋元は医療従事者でもなければ、基礎疾患もなく、さらには高齢者でもない。そのため、優先してワクチンを打つことができない。つまり、人が多く集まる場所で、かつ汚れている場所を清掃するのだ。マスクはつけているし、こまめな手洗いは心がけていても、感染リスクは高い。つまり、常に感染の危険と隣り合わせで仕事をしなければならない。
「佐野君。この仕事は誰でも出来る仕事ではありません」
「分かってるって」
誰でも出来て当たり前の仕事は、この世に存在しないと、今なら分かる。特にこの仕事は、忍耐が必要な仕事だ。夏は暑くて、冬は寒い。そして勘違いや差別がある。それでも、誰かが清掃しているから、綺麗な場所がある。秋元だって、すぐにこの仕事を受け入れたわけではない。しかし経験上、秋元は自分を保つ術を時間をかけて習得してきたのだ。そして、それを俺に教えようとしてくれていた。今なら、山口がどうして俺たちから離れて、仕事に従事しようとしていたのかが分かる。仕事は、お金だけではない。
「悪かったよ」
「どうしてんですか、いきなり」
俺は分別もつかない子供だった。図体だけでかくて、悪いことがカッコイイと勘違いしていた。そんな俺を、ここまで指導してきたのは、俺より苦難の道を歩んできた秋元だ。認めざるを得ない。
 しかし、感染症対策が強まり、県内でも感染者数が多くなってくると、ある事件が起き始めた。清掃員への侮辱と差別が頻発するようになったのだ。清掃員への差別や偏見は、常にあった。だから、今更特筆すべきことではない。しかし、これが厄介な方向に向いて、暴力沙汰になったのだ。
 二階のトイレを、二人で清掃していた時のことだ。女子トイレの方から、何故か男性の声が聞こえてきたのだ。俺は女子トイレに秋元以外がいないことを確認すると、そのまま女子トイレに入った。声がしていたのは、一番奥の個室だった。男性の怒鳴り声が響いていた。
「お前らが菌をばら撒いてんだろ? なあ、そうだろ?」
男は秋元の襟をつかんで、個室の壁に押し付けていた。
「お前ら、汚いからなあ!」
男は苦しそうな秋元に、唾を飛ばしていた。俺は慌てて駆け寄った。
「何してんだよ、離せよ!」
男は俺に気付き、一瞬怯んだが、俺にも暴言を吐いた。
「汚い奴同士、お似合いだな!」
「てめぇ!」
俺はカッとなって、拳を振り上げた。その手を秋元が強引に引っ張って下げさせた。
「佐野君。駄目です」
その間に、男はトイレから出て行った。
「先に暴力振るってたのはあっちだろ!」
「それでこちらが暴力で返したら、問題が大きくなります」
「もう大きな問題だろ!」
俺はそう叫んで、女子トイレから出て行こうとした。それを、秋元の声が止める。
「どこに行くんですか? トイレ清掃の途中ですよ」
「事務室に決まってんだろ。頭来た。あの男は許せねぇ」
「無駄ですよ」
「言ってみなきゃ分からないだろ!」
俺と秋元が言い争っている内に、何故か事務室の用務員がやってきた。トイレの中は音がこもっているため、俺と秋元の声に反応したわけではなさそうだ。用務員は事務室からの呼び出しの伝言を伝えに来ただけだった。
 俺と秋元が事務室に行くと、恰幅のいい男性がにらみつけてきた。俺も秋元も、睨まれるようなことは一切していないのだが、気まずい空気になっている。
「さっき、お客さんから、暴力を振るわれたと苦情が入った」
俺は耳を疑った。これにはさすがの秋元も、目を見開いている。おそらく虚偽の訴えをしていったのは、先ほど秋元に暴力や暴言を吐いたあの男だ。
「清掃員が暴力沙汰とはな。困ったもんだ。会社に言いつけるぞ。いいな?」
俺が一歩出ようとしたのを防いだのは、秋元が踏み出した足だった。
「待ってください。私たちは一切暴力行為をしていません」
事務室の男の眉が跳ね上がる。
「会社に言いつけてもらっても構いませんが、私たちが暴力を振るっていない以上、この主張は変わりません」
「清掃員のくせに、生意気言うな」
そう言われて、秋元は一歩下がった。そして、目を伏せて首を小さく振った。思わず、論破したくなったのだと、俺は気付いた。秋元は、自分のことよりも、俺を庇っているのだ。しかし、証拠を出せればいいのだが、トイレにだけは監視カメラを付けることができない。秋元に暴力を振るった男も、それを分かった上で、女子トイレに押し入って秋元に暴力を振るったのだ。なんて卑怯な男だろう。
「分かりました。警察におっしゃって下さい」
秋元がそう言った瞬間、事務室の男の顔が引きつった。同時に俺の顔も引きつっていた。酒やタバコ、万引きなどで、警察には厄介になりっぱなしだったからだ。そんな俺が、被害者側として警察に厄介になろうとは、誰が想像できただろうか。事務室の男は、秋元を見下して鼻を鳴らした。
「まあ、お掃除屋さんだからな」
「清掃員だよ」
男の馬鹿にした様子に、俺は言い返していた。秋元はまるでそれを無視したかのように、事務室に一礼して、仕事に戻った。汚いところを触っているから、汚い。感染症をばら撒いている。そんな雰囲気の中仕事をしているのに、実際に暴言や暴力に晒さえれても、清掃員だからで、済まされてしまう。それでも、秋元は不治の病を抱え、障害者になってもなお、この仕事に従事している。そして、常に冷静に対応する。俺にはまねできない芸当だ。
「本当に、強ぇえよな」
俺がぼそりと言うと、秋元は何でもないように言った。
「仕事をしている人は、皆強いんです」
俺はポケットに手を突っ込んだまま、ため息を吐いた。
 施設を用いたワクチン接種は、一回目と二回目を終えた。しかし巷ではウイルスの変異種の確認が相次ぎ、三回目の接種も検討され始めた。この町で三回目はいつになるのか決まっていないため、清掃作業は通常通りに戻された。その一方、除菌作業は続けなければならないし、新しい生活様式として、マスクの着用と他人と距離をとることも続けなければならない。いつも動き回っている清掃員にとって、マスクは非常に邪魔だが、感染リスクを考えるとやめられなかった。この頃には、冬になっていた。働いていると、一日が短い。そして一週間もあっという間に過ぎる。だから、一か月も早い。そして季節の過ぎ去るのも、早かった。もうすぐ、雪が降ってくる。寒さに耐えるには、動くしかない。暖房も冷房もないのに、風邪で休むこともできない。それが清掃員だからだ。

エピローグ

 雪が降って間もない頃、男子トイレが荒らされる事件が起きた。俺はその荒らされる現場を目撃してしまった。荒らしていたのは、俺が高校で世話になっていた先輩だった。俺に一年のズボンを盗ませていた鹿野先輩だった。
「よお、佐野」
悪びれることもなく、鹿野先輩は俺に向かって手を挙げた。そして強引に俺の肩を組む。
「見違えたよ。お前が働くなんてな。しかも、何だよ、その恰好!」
タバコの脂で汚れた歯を見せて、鹿野先輩は大声で哄笑した。朝から酔っぱらっているのか、全身からアルコールの臭いがした。もちろん、マスクも他人との距離も気にしていない。金色に染めた髪はパサついていて、ピアスが耳の縁を飾り、服装もだらけている。
「なあ、そんな恰好、お前のタイプじゃねぇよな? 仕事なんかほっぽって、遊ぼうぜ」
「鹿野先輩。俺は今、仕事中なんで」
「はあ? 何お前がいい子ちゃんぶってんだよ?」
男子トイレの中で、俺は何とか鹿野先輩を落ち着かせようとした。しかし、酔っぱらっていて足もおぼつかない鹿野先輩は、俺の言うことに反して、しつこく付きまとう。
「じゃあ、これでいいだろ?」
鹿野先輩は、タバコ入れにしていた缶ジュースの中身を、トイレの床にばら撒いた。煙草の吸殻と、炭酸のジュースが床を汚した。
「やめてください」
俺が毅然と言うと、鹿野先輩は大きく舌打ちをした。
「つれねぇな。掃除なんてやめちまえよ。もっと楽しいことがあんだろ?」
「鹿野先輩が楽しければ、それはそれで構いません。ただ、ここを汚すのはやめてもらえませんか? お願いします」
俺が鹿野先輩に頭を下げると、鹿野先輩は俺の頭を殴った。俺はよろけてそのまま床に尻餅をついた。そこに、時間がかかりすぎて不審に思った秋元が入って来てしまった。
「何だ、このババア? 何、佐野。お前まさか、このババアに洗脳されてんのか?」
俺は咄嗟に秋元を庇った。その様子を鹿野先輩は再び笑った。
「マジか、お前! まさかこのババアに惚れてんのか?」
「鹿野先輩、今日も平日ですが、仕事はどうしたんですか?」
秋元はあまりの状態に、言葉を失い、鹿野先輩と俺を見比べている。
「はあ? 仕事? してるわけねぇだろ、そんなもん」
鹿野先輩を見ていると、昔の俺を思い出す。以前なら苛ついていたところだが、今はそんな感情は起きなかった。ただただ、情けなくて、みっともなかった。俺も秋元に出会っていなければ、鹿野先輩のようになっていた。そう考えると、秋元は俺の恩人ということになる。秋元には借りが沢山ある。今日こそは、その借りを返さなければならない。
 しかし、事態は暗転する。外で待っていた鹿野先輩の仲間とみられる男女が、しびれを切らして男子トイレに入って来たのだ。
「鹿野、遅い!」
「何やってんだよ、鹿野!」
鹿野先輩の仲間は、似たり寄ったりの格好をしている。
「何これ、汚ない」
「そうなんだよ。ホント汚ねぇよな」
トイレの床の汚れを見て、鹿野先輩の仲間は嗤う。
「で、鹿野の後輩ってどこよ?」
鹿野先輩は俺の方をちらりと見て、鼻を鳴らした。
「いや。俺の勘違いだった」
「マジで? あり得ないんだけど!」
「鹿野は馬鹿だからなー」
そう言いながら、鹿野先輩たちはトイレからやっと出て行ってくれた。しかし、鹿野先輩は俺に向かって「お前が仕事なんて、キモいだけだ」と吐き捨てて行った。それでも、俺はそれが負け惜しみにしか聞こえなかった。以前の俺なら、キレて、ケンカに発展していたところだが、今は憐れみしかない。
「手伝います」
秋元は女子トイレから水拭きモップを持ってきて、吸殻を拾い、モップをかけ始める。
「佐野君、偉かったですね」
「そうでもねぇよ」
俺も水拭きモップでジュースを吸い取ってはバケツに入れる。
「佐野君、これは足し算と引き算です」
「は?」
何故今算数が出てくるのか、俺にはさっぱり分からない。
「多くの仕事は、足し算しかありません。サービスや物を足しているんです。でも、この仕事は余計な足し算を引いて、新しい価値を足していくんです。これは他の仕事との大きな違いです」
余計な足し算が汚れたゴミならば、それを消す俺たちの仕事は、確かに引き算だった。そしてハンドソープを補充したりするのは、確かに足し算だ。
「私たちの仕事は、つまりはプラスマイナスゼロの仕事場なんです。足し算や引き算を繰り返して、常にゼロにリセットします。そして少しだけ自分を強くするんです」
「わけわかんねぇ」
俺はそう言いながら、本当は分かっていた。仕事をすることで、人間は少しだけ強くなれる。それは身に染みて分かっていた。
「私がいなくなっても、忘れないで下さい」
「え?」
「私は春から、別の場所に清掃に行くことになりました」
いきなりの告白に、一瞬言葉を失った。もう冬だ。冬なんかあっという間に過ぎてしまう。仕事をしていれば、時が経つのは一瞬だ。春にはもう、秋元はいない。そんな仕事場を、俺は想像できなかった。
「佐野君なら、大丈夫です。ありがとうございました」
「まだだろ」
まだ、俺は何も秋元にお礼も言えないし、何のお返しも出来ていない。
「はい?」
「春まで、よろしくだろ?」
秋元は一瞬、ポカンと口を開けたが、すぐに笑った。
「はい。よろしくお願いします」
俺は視界が曇るのは、久しぶりにタバコを見たせいだと言い聞かせながら、モップを動かした。止まっていると、秋元と過ごした今までのことが走馬灯のようによみがえり、仕事にならなさそうだったからだ。
 今日も俺たちは少しでも足し算と引き算を巧くやって、ゼロにリセットし続けている。誰に文句を言われようと、何をされようと、差別と偏見の中で、必死に働いている。ここが俺たちの仕事場だからだ。

                                   〈了〉

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