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第一回『暇と退屈の倫理学』読書会の記録

暇と退屈の倫理学 増補版』(國分功一郎/太田出版)は、一年もの間、本棚の片隅に積読されていた。興味が薄れたわけではなかったが、読み進めるうちに内容の難易度が辛くなってきて、途中で放置してしまっていた。
 だが一方で、これは絶対避けては通れない本だという直感があった。働くことへの戸惑いや、人間関係の難しさ、生きることの意味、空っぽの趣味。そういったことの一つ一つが、この本に書かれることと無関係ではないと思われて仕方がなかった。
 そこで、読書会を開催することにした。一人で読むのが難しいならば、みんなで読もう。いろんな意見・読みかたを教えてもらおう。

以下は、先月開催した「第一回 暇と退屈の倫理学読書会」で交わした意見や問いの記録である。課題本の結論にも「通読するという過程を経てはじめて意味をもつ」(意訳:結論だけ読んで分かった気になるな)と書かれているように、本書はあらゆる意見を受け入れる太さがあるし、個々がそれぞれの仕方で理解をすることが求められている。そのためには、他者の意見に触れることも大きなヒントになるだろう。

なお発言内容については適度に整理している。あくまでも私自身の理解によって簡潔にまとめていることはご了承願いたい。


読書会詳細

『暇と退屈の倫理学』読書会 第一回
開催日:2022年7月16日 18時〜20時
会場:ニネンノハコ(@2yearBox)

全四回開催予定。第一回は「まえがき」から「第二章」までを取り上げた。

読書会の目的

  • 本を読み切ること

  • 暇と退屈にどう向き合うかを各々が考える

結論だけ読んでもふんわりしてるので、一つ一つの要素を拾いつつやっていきたい。

参加者・参加理由

自分…暇を持て余しているけれど、暇を埋めるためだけに何かをやることに疑問を感じたから。
Aさん…書店勤務で、在庫で入って来たときにタイトルが気になっていたので。
Bさん…仕事の価値が分かりにくくなっている現代、作者は「暇」をどう考えているのか気になる。
Cさん…読書会に参加したかった。自分自身が暇つぶしで仕事をしている実感があり、本書でそんな生きかたを肯定されたような気がした。
Dさん(途中参加)

(特に記載のない部分は私の発言)


まえがき

・前書きがハードボイルド小説っぽい
・なぜあえて「俺」という一人称を選んだか?
→哲学書の硬いイメージを払拭してる?
→お硬い本が好きそうな人をふるい落としてる?

・前書きで紹介される事例3つ(サッカーおじさん、留学相談学生、某プロジェクト×?)について
→現代の人々は飢えている?
→A:定年退職後、他にやりたいことを見出せない人たちが縋り付くように歌っている虚しさ
→C:「自分で歌うなよ」っていう違和感?

序章:「好きなこと」とは何か?

資本主義が広まった20世紀以降、「趣味」は文化産業によって与えられるものになった。人々は暇を得ることができたが、暇をどう使えばよいのか分からず退屈している。また、近代化によって生きることの意味を失ってしまった人々は、「大義に身を捧げる」ことを羨ましいと感じるようにもなっている。

主催者要約

B:人々は豊かさを実現した結果不幸になっているというが、本当に実現したか? まだその過程ではないか
→A:何を豊かさとするかではないか?
→C:家事を便利にすることなどでは?
→A:「時短」したとしても、その時間を自由に使えるわけではない。労働や家族の世話をしなければならない

B:暇は「創造の泉」である貴重な時間なのに、それを持て余すというのは、何か別のモノを求めてしまっているのではないか? 
「使える時間がある」ことは「暇」ではない。
暇は「人間としての自分」を見失っている時間ではないか?

C:趣味って必ず聞かれるけれど、本当に必要?
→B:なくていいと思う。生きていること自体がとてもワクワクするし、それを趣味と言ってもいいと思う

B:
・アジアやアフリカは現在上昇志向で、今後とても楽しそうだと思う。西洋はもうダメなんじゃないか?
・ドイツでは過去の反省から、文化事業に多くの投資をしている
・今の若い人は「食べるための努力」とは縁遠いので、働いているという実感が少ない

https://www.bunka.go.jp/tokei_hakusho_shuppan/tokeichosa/pdf/h24_hokoku.pdf

参考。やや古い情報だが、ドイツでは文化政策に関する権限の大部分は政府ではなく州政府や自治体が有しているらしい

B:モリスは小説も面白い

・パンだけでなくバラも求めよう
→B:やっぱり精神の自由でしょう
→この本は一言でいうと、「バラとは何か?」という問い

・食べることに必死の人間は大義に憧れない
→生きることの意味がすごく見えにくくなっている。無敵の人と呼ばれる人が出てくるのも、無関係ではなさそう
→B:土や虫、種から育てて収穫するといったことを知っている人とそうでない人は全然違うと思う。核家族化といった時代背景も伴い、現実がどんどん疎遠になっている。生きていることがしっかりしたものとして掴めなくなっている

A:暇になったとき戦争を望むまでではなくとも、何か起きないかと思ってしまうのは身に覚えがある
→B:「自分」というものが大切に思えなくなっているのではないか? 自分を大切に思わないから、人の命も大切に思えない
→A:存在の実感がすごく薄い時期があって、何か起こらないかと思った
→B:白血病を患ったときに、地球なんて滅びてしまえと思ったことがある。命の尊さを実感できなくなると自暴自棄になって人のことを考えられなくなってしまう

B:大義のために死ぬとか没頭することを渇望するという状態は病的ではないか。自分には自分の命しかない。死ぬことには先がない。生きる希望やエネルギーが失われてしまっている。そもそも大義そのものについてよく考えていない
→A:人生の意味を他人に与えて欲しいみたいな感情があった

第一章:暇と退屈の原理論

人間は部屋でじっとしていられないので、熱中できる気晴らしを求める。熱中のためであれば、人は積極的に苦しみを求めさえする。退屈の反対は快楽でなく、興奮なのだ。

主催者要約

・欲望の対象と原因の取り違えは本当にありがち。「〇〇を手に入れたらできるようになるだろう」と思って手に入れた途端、宝の持ち腐れになってしまう。
→「もっと高機能なパソコンを買えばいろいろできるのになあ」とか

・パスカル曰く、気晴らしの惨めさに気づかないよう配慮されている最たる形が「王様」(国王であっても自分のことを考える時間を持ってしまうと不幸になる)
→B:王様も一つの奴隷状態だろう。悲しいのは、臣民が王様を見て自分を誇らしく思うという(精神勝利法)

B:ウサギ狩りは人間の野生本能ではないか? 動物的な生存意欲に基づくもの

・賭け事をする人に「毎日金を与えるから賭け事をやめろ」といってもそのひとを不幸にする
→C:自分ならめちゃくちゃ嬉しいけど…
→年収が一定を超えると幸福感は頭打ちするみたいな話を思い出す。溢れるほどお金があったらそう感じるだろうか

・パスカルは人がじっとしていられない理由として、「自分が必ず死ぬという現実を直視したくないから」みたいなことを言っているが、それはどうなんだろう?(『パンセ』にて。暇倫には引用されていない箇所)
→A:跳躍しすぎな気もする
→B:そもそも人は部屋でじっとしては生きていけない(物理的に) 人間は人との関わりがないと生きていけないので、そもそもの設定がおかしいのでは
→感覚遮断の話を連想した

・退屈する人間は苦しみや負荷を求める
→C:あまりそういう実感はないけれど…
→筋トレはある意味そういう感じかも
→努力して自分を痛めつけないと成長できないというのは、根性論的かも

B:子どもの頃、かくれんぼして自然の中でじっとしていると、不思議に落ち着いた。自然の中で呼吸し、生き物の声や草木の音を聞いたりする時間は、豊かで幸せだった。それは一見何もしていないように見えて、他人にはわからないところで自然と交感しているような時間だ
→C:そういう時間は全く暇をしていないのかも
→B:西洋哲学は合理性を求めたが、人間はそもそも自然である。観念論ばかり考えることには違和感がある

・生の実感を得たい若者たちがファシズムを支持したという話
→B:哲学的な問題だけでなく、経済的な問題が大きかったと思う。当時のドイツの若者たちは熱狂なんてしている暇はなかったのでは。精神状態ではなく、時代背景の影響が大きい
→なぜファシズムが生まれたかという原因は簡単には言えない
→D:そもそも第一次大戦があったということも大きいし
→最近読んだ『ファシズムの教室』という本に書かれていたファシズムのメカニズムは、暇倫の考えかたに近いかもしれない。ナチズムという一個の現象でなく、ファシズムについて広く考えると、「縛りを与えられると逆に熱中する」という心理は普遍的に見られる集団心理。個としての生きているという感覚が希薄だと、そういう方向に流されやすいのでは

・退屈の反対は興奮であり、何か事件を待ち望む心理(ラッセル)
→C:確かに、職場でもトラブルが起きると目を輝かせる人はいる
→SNSをなかなか手放せない理由かもしれない。不幸な事件やショックな出来事が次々流れてくるのに見るのをやめられないのは、まさに興奮を求める心理では
→C:『スマホ脳』には、人間は身の安全を守るために、危険な情報に集中してしまうと書いてあった。それが一周回って熱中しちゃうほうに行ってしまうのだろうか?

人類の歴史の中で、負の感情は脅威に結びつくことが多かった。そして脅威には即座に対応しなければいけない。

(アンデシュ・ハンセン『スマホ脳』P39)

・ラッセル幸福論の結論は「外側からミッションを与えられれば幸せ」という話に繋がりかねないことが問題とされている
→『1984』では、国民が社会の違和感に気づかないために陳腐な娯楽を与えられているし、エネルギーの行き先を戦争に向けられている。ラッセル幸福論、ディストピアに繋がりかねない?
→B:西洋の人間、東洋の人間という比べかたや問題設定がそもそも大雑把すぎる。時代もあるのかもしれない(ラッセル幸福論は第二次大戦前に出版)

B:個人の尊厳、一人ひとりの想いは大切にしなければならない。そういう思想があれば、宗教や戦争や大量消費に走らなくても生きていける。ラッセルは結論を投げちゃっている。

C:熱意を持てることを探している人って多い
→B:熱意がなけりゃいけないという流れが社会にある?
→A:どこまでいけば「熱意がある」と受け取ってもらえるのかということも気になる
→B:そもそも現代の分業された労働に熱意を持てというほうが難しい。「クソどうでもいい仕事」といわれるように。仕事というのはすごく大切なテーマ。働くことに喜びを見出せたら幸せだけれど、それが苦しくなったり辛くなったりするから、他のものに走ってしまう。
働くということは「命の再生産」につながる。与えられたことを機械的に繰り返すことではない。AIが決めてくれるようになったら、余計に(労働の意味が薄れてしまう)
→A:今はPOSシステムで、勝手に売れ筋の商品が入ってくる。売りたいものを売るという創意工夫はどんどんできにくくなっている。ヒリヒリする
→B:1人の作家を売り出すにはきょうび何億というお金を使うらしい。全部がお金儲けの手段になってしまう
→C:マイナーな作品はなかなか発掘できなくなる…
→A:そもそも入ってこないという
→B:外山滋比古さんによると、ただ頭の良い人間はAIに取って代わられる。だからむしろ、失敗にこそ注目すべきだと。そこに個性が現れる。どんどん失敗するからこそ新たな回路が開く

・スヴェンセンの結論「退屈の原因はロマン主義」について
→D:ロマン主義は現代でも根強いと思う。この時代からそういう考えかたがあったのかと思った
→SNSでやたら自己発信して他人と区別化するのもロマン主義的かも
→B:ロマン主義を経て、初めて「人はみんな違う」ということが尊重され始めた。本来はそこで充足すればいい話で、人と比べる必要がない。近代社会はとにかくまとめようとする。「消費者」と一括りにしたり。
「ロマン主義」というのを一つの物語にしてしまうとよろしくない。他のものにばかり価値があるように思ってしまう。「自分」を簡単にモノに置き換えて考えるのでなく、本当は一人一人が未開拓で面白いものを持っているのだと理解すると、ちょっと楽になる
→A:「私らしさ」に縛られている感じがする。自分は既に十分自分であるのに、そこに更に「私らしさ」を求めると困る
→C:熱意を持って、趣味があって…人に自慢できるような何かがなければならないみたいな
→D:趣味もどこから趣味と言うのだろう? と思う。自分では好きでも趣味と言えるほどではないと考えたり
→B:あまり囲い込まないほうがいいと思う。自分が培った知識だけで自分をがんじがらめにせず、柔軟に生きる自分を想像していく。
→A:線を引いてしまうとそれでしんどい
→B:長年生きて、人生捨てがたいと思ったことは多々あった。固定化しない、型にはめてしまわないことが大切
→C:情報発信しているとついつい自分を作り込んでしまったりする
→B:そもそも人間は自己保身本能があり、好きなものに走りがち。それがどんどんいくと、今の自分を基準にしてあらゆるものを考えて可能性を狭めてしまう。でもそこで、「ちょっと待てよ」という声を拾ってみるのも大切

B:圧倒的多数は物事を考えず時代の雰囲気で動く人たちで、そういう人たちが時代を作っている。自分に向き合って考える時間がなく、人生を何かに預けてしまっている。

D:アイドルとかを応援するというのは、自分じゃない誰かが何かをやっているのに満足しているということ。そこで元気をもらって自分に向き合えるならばいいけれど、それだけになってしまうとこういうことになってしまうのかなと
→C:人に託すような
→結局、個人個人が幸せならばそれでいいということも言える。アイドルは資本主義的な存在でもあるし、搾取されているみたいな見方もできるけれど、難しい。
→C:死ぬ間際に、もっと自分のことやれば良かったと後悔するんだったらやらないほうがいいのかな
→B:一番怖いのは「信仰」。自分の全財産を失っても信じるというのはちょっと恐ろしい
→A:個人に悪い影響を与えない、納得した範囲でできるのであればという条件がつくと思う
→B:家族を巻き込んでしまうと問題がある

・著者の國分先生が『文學界』(2021年3月号)の対談で紹介されていた、ハンナ・アーレントの言葉がすごくいい。「孤独とは私が私自身と一緒にいること」と言っている
→B:信仰は結局、神様に人間の大切なものを全て預けてしまうということ。宗教は「天国に楽園を作りましょう」というけれど、地上に楽園を作りましょうと言いたい
アーレントはナチ党のアイヒマンを、極悪人でなくただの普通の人だったと論じている。普通の人であっても孤独に耐えられず自分を大切にできなくなると、他のものに依存してしまう。
→「自分を大切にする」というのはすごく重要。退屈することと自分を大切にしないこと、どう関係するだろうか?

第二章:暇と退屈の系譜学

人類は約一万年前に定住生活を始めた。この定住革命によって様々な生活スタイルの変化が強いられると同時に、遊動生活のもたらした適度な負荷は失われてしまった。こうして退屈が生まれた。

主催者要約

・人間は定住して適度な負荷がなくなり暇が生まれた
→B:適度な負荷どころじゃなく、食うか食われるか。マンモスをやっつけるかやられるか
→周囲の変化にすごく敏感でなければならなかった。そういう生活を急にやめてしまい、能力を持て余したから「暇」が生まれたという
→B:原始生活というのはお互いを大事にする。皆が集まって狩猟採取しなければならないから、仲間割れをしてはいけないという話を聞いたことがある
→C:ここに書いてあったブッシュマンの話と似てる
→B:共産主義の一つの理想は「原始共産制」。取ったものは皆で分ける。沖縄では皆で漁に出るとき、初めて船に乗った人にも対等に接するという。そんな話も面白い

・定住によってゴミ問題が生まれたという話が面白い
→B:逆に何を捨てていたのだろう? 
→そもそもゴミの量自体も少なかっただろう
→B:循環型だったのでは

・第二章から結論を出すとすれば、元来人間がやっていた野生的要素を日常の中に取り入れると、退屈を減らせるのではないかということになる

C:旅行して帰ってくると安心する。遊動民的な感性を失ってしまったのだろうか?
→D:でも安心できる場所はあったほうがいいよね
→B:やっぱり家が一番だねってよく言う
→遊動民もずっと移動してたわけじゃないし、拠点はあったと思う
→D:今流行りのミニマリストとか、引っ越しをすごくする人は遊動民的な人なのかもしれない。ちょっと大変な家でも、住んでみようかなとしたり。ワクワクするからなのかな

感想

Aさん…暇について考える余裕があるというのが良い。食うか食われるかみたいな状況だったら無理だし、色々あるけどそれなりに余裕はあるんだなと思った。
Bさん…昔は貧乏暇なしと言ったけれど、今はこれだけ余裕がある。これを自分をよく知る機会にして、絶望ばかりじゃなく希望に目を向けていけば、退屈している時間はないんじゃないかと思う。
Cさん…Bさんの「趣味はなくても良い」という言葉が嬉しかった。仕事が暇つぶしだと他人に公表できてスッキリした。
Dさん…こんな昔から「暇」はあるんだなと思った。暇について考えられるって幸せ。

追記:第二回の記録を更新しました。


主催した感想、個々の意見に対する見解など

ここからは、読書会をまとめて感じた私個人の意見を書いてみようと思う。また、当日配布したまとめ資料のPDFデータも添付しておく。内容を箇条書きで表した簡単なものだが、内容の振り返りなどにご活用頂ければありがたい。

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昔々、あるところに読書ばかりしている若者がおりました。彼は自分の居場所の無さを嘆き、毎日のように家を出ては図書館に向かいます。そうして1日1日をやり過ごしているのです。 ある日、彼が座って読書している向かいに、一人の老人がやってきました。老人は彼の手にした本をチラッと見て、そのま