田園風景、バスの中から。
1.
(A)
私の伝えたい想いは、入道雲の一番上に置いてきてしまった。
田舎の中の田舎と言われているこの村には、辺りを見渡すと田園風景と、山しかなかった。コンビニエンスストアなんて、テレビの中の産物だと思っていたし、そのテレビでさえも村の人たちが集まる公民館に一台しか置いていなかった。そうして、私は山の上にある小さな中学校に通っていた。全校生徒は七十人くらい、みんなご近所さんで小学校からずっと一緒のメンバーだ。馴染みが深いというか、もはや家族見たいというか。噂話は、母親を通じて風のように流れていくし、近所で起こった揉め事に何軒もの家から人が出てくる。今、思えば私はこんな村が好きだったのかもしれない。決して、いい人ばかりとは言えないが、みんなそれぞれの考えやや愛情を持っていて、それでいて不器用に優しかった。よく、雨宿りをさせてもらっていた近所の駄菓子屋の婆ちゃん。先月、浮気がばれて離婚した中学校の先生。畑仕事なんてやめてやるといいつつも、少しでも親の生活の足しにするため精を出して働いている、近所の兄さん。二度と会えないわけではないのだけれども、今までずっと一緒に過ごしてきたこの村に未練がないと言えば、嘘になるだろう。何だか、毛糸玉みたいな優しい寂しさが喉の奥に込み上げてきた。
2.
私は、東京の高校に進学することに決めた。
特待生制度を利用して、学費免除で。
生活費は、親から少しと私自身で稼ぐつもりだ。
「アキちゃんは優秀やね、東京の高校に進学するなんて。」
「あら~うちの子に爪の垢を煎じて飲ませたいわ。」
私の出発の日はどうやら静かには行われなそうだ。村長までも出てきて、危うく横断幕が学校に掲げられるところだった。この村から始めて東京の高校に合格したのだ。
学校のグラウンドで私のサヨナラ会が行われた。一人一人にお礼の言葉を言って、握手した。友達はみんな悲しがってくれたが、同時に東京へ行くことの憧れも口にしてくれた。サヨナラ会が終わると、私はカバンを持ってその場を後にした。最後に父と母と抱き合った。最後にありがとうと伝えると。このまま、バス停までお出迎えに行くと言ったが、私がそこまでは悪いからと断った。色々な迷惑をかけた。自分の親と別れるのはやはり苦しかった。
グラウンドで中の良かった友達と、先生と、家族と近所の人たちが手を振るその波に揉まれながら、私はバス停へと向かった。
3.
畑道の真ん中にあるバス停。私はそこまで一人で歩く。
先程までの喧騒とは真逆に、別れの寂しさとほんのり切なさが混じった気持ちで歩いていく。人は出会ってしまったからには別れなくてはならない。それが早いから遅いかの違いだけだ。遠くの方に透き通るように白い雲が浮かんでいる。蝉時雨と、緑色の田んぼを揺らす優しい風。
私は泣いた。大声で泣いた。
周りには誰もいなかった。畑の真ん中で私は泣いた。
両腕で涙をぬぐいながら、そしてしっかりゆっくりと一歩一歩を踏みしめながら。この村の暮らしが、私の年少時代が、戻ってくるものはないだろう。だから、せめても今はこの場所で泣いていたいと思った。
日に二本しかないバスが到着した時には、私は泣きべそをかいていて運転手さんが心配して、ハンカチをくれた。それで涙をぬぐいながら、また嗚咽をこらえられずに泣いた。ようやく泣き止んだのはバスが出発する直前のことで、その時には体の中にもう水分はないくらいの量の涙が出てしまっていた。私は行くんだ。もう、振り返らない。進まなくてはならない。
4.
(B)
俺がバス停に到着した時、もうすでに彼女は行ってしまっていた。
遅かったと、唇を噛み締めながら、右手に持っていた手紙を握りつぶした。もうきっと、彼女は戻らない。そんな気がしたんだ。東京の暮らしは俺にはわからない。最後に彼女に会えなかった虚無感で体全体の力が抜けていく。夏の焼け落ちるような日差しの中で俺は一人膝をついた。
思い出してくれるかな。
一緒に過ごしていた日々を。
彼女にとって俺は村人の中の一人だったかもしれないけれど。
脇役だったかもしれないけれど。
押し殺した感情は行き場をなくして消える。
地面に落ちた涙は蒸発して消える。
時間という長い波は、忘却を運んでくる。
俺は、バス停から離れようとした。
その朽ちた木のベンチに一枚の手紙を見つけるまでは。
便箋を開くと、急いでペンで書いた筆跡が見えた。
「来るってわかってた。また会おう。」
この約束が果たされるかわからない。
ただ、高い青空に願うだけだ。
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