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左手に人の物差しを、右手に自分の物差しを ー「居るのはつらいよ」を読んで

東畑開人さんの『居るのはつらいよ ―― ケアとセラピーについての覚書』を読み終えた。学術書と、小説と、ノンフィクションと、エンタメ。それらが混然一体となった世界に、ページを開いてすぐに惹きこまれた。

この本を読んでいる1週間ほどは、生活が少し楽しくなった。テーマは深刻だけれど、何度か声をだして笑ってしまった。

著者は、京大で臨床心理学の博士号を取得して、研究より臨床だ!と沖縄の精神科デイケアに飛び込む。そこで「カウンセリング7割、デイケア10割」の日々を過ごした4年間の物語を、ユーモアたっぷりに描きながら、ケアとは何か?セラピーとは何か?を全身で学び、考察を深めていく。「ただ居るだけ」の価値を見出していく。そして、「ただ居るだけ」を脅かす社会構造の問題を提起する。

「ケア」というのは、「ただ居る」を可能にしていくこと。「ただ居る」ことが困難な人たちが、傷つけられずに、ただ居られるようにサポートしていくこと。その人がその人のままで、居られる環境を整えていくこと。(「ただ居る」が難しいのは、ここに登場する統合失調症の患者さんたちに限らず、私自身も「居場所がない」と思い続けてきたように、多くの人の問題でもあるのだと思う。)

でも、「ただ居る」の価値は、とても見えにくい。その後に社会復帰して、職業訓練を始めたり、仕事に就けた、収入が得られた、みたいな分かりやすい変化が起これば価値として認められるのだけれど、「居られるようになった」というのは、資本主義の世界では「価値」として認識されにくい。本当は、そこに大きな価値があるにも関わらず。(ちなみに、対する「セラピー」は、その人の変化を促し、自立に導いていくものと説明されている)

だけど、僕はその価値を知っている。「ただ、いる、だけ」の価値とそれを支えるケアの価値を知っている。僕は実際にそこにいたからだ。その風景を目撃し、その風景をたしかに生きたからだ。
だから、僕はこの本を書いている。その風景を描いている。
(本書より抜粋)

見えにくい価値に、お金は回りにくい。そのことが、「居る」を支えるという本来のケアを、診療報酬を確保するために「居る」を強制するようなケア(ブラックデイケア)へと変質させてしまう。社会の中で、本来の「ケア」は生きづらくなる。

あらゆるものが金額的な価値に換算され、交換が可能になる世界は、とても透明で便利だ。でも反面、人間にとって根源的で根本的な何かを失わせてしまう危険性もはらんでいる。

そのことを、この本は、350ページにおよぶ笑いと涙の物語で伝えようとしているのだと思う。物語は、わかりやすい価値(象徴的には量的価値)が闊歩する世界で、隅に押しやられてしまいがちなわかりにくい価値(象徴的には質的価値)の声を代弁する。

わかりやすい価値と、わかりにくい価値との攻防。これは、あらゆる場所で起きている。だから筆者は、これはデイケアだけの物語ではなく、「みんなの物語」だと言っている。

これはケアしたりされたりしながら生きている人たちについてのお話だ。あるいは、ケアしたりされたりする場所についてのお話だ。そう、それは「みんな」の話だと思うのだ。
職場、学校、施設、家庭、あるいはさまざまなコミュニティでの「居る」を支えるものと、「居る」を損なうものをめぐって、本書は書かれた。
(あとがきより抜粋)


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そこではたと、過去に「やりたいことと仕事」について考えたことを思い出す。たしかに、これは自分の物語でもあったと。

「やりたいこと」という自分の根源とつながるものが、金銭的なものさしと結びついて「仕事」になるとき、それが変質してしまうことがある。

「やりたいこと」は、お金をもらっても、もらわなくてもやる。そういう市場原理(つまり金銭的な価値)とは、無関係の場所にあるものだから。

見えない価値を、見える価値(たとえば価格)で測ろうとすることによって生じるねじれ。それらをいっしょくたにすることで生まれる苦しみ。

社会における価値(多くは市場における価値、つまり価格)は、自分ではない誰かの価値基準だと、まずは認識することかもしれない。社会の価値基準としての収入を得ながら、同時に、自分の価値基準としてのやりたいことをやる。そんなダブルスタンダードを自分の中に持つこと。

左手に人の物差しを、右手に自分の物差しを。

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