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「社会課題を見つけにいく」の違和感

ビジネスで社会課題解決を、と言われて久しい。

私自身もその領域に関わる中で、「社会課題を解決する事業をつくりたい」という企業の相談をたくさん受けてきた。それに真面目に取り組もうとする企業ほど、「まずは課題を見つけにいく」ことから始まったりする。

社内には「社会に役立つことがしたい」という想いはあっても、「何をしたらいいのかわからない」という人が多いから、という理由だ。そこで、途上国に入ったり、地方に入ったり、いろんな人に話を聞いたりする。自分たちが取り組むべき「課題」を見つけにいく。

それ自体は、とても大切なことだと思う。現場を大事にして、その現実に真摯に向き合うこと。

けれど、「課題が見当たらない。見つけにいこう」という発想には、前々から違和感を覚えていた。この違和感の正体は何だろう、と考える。

課題を、見つけにいく。

それはあたかも、「課題」というものが、自分のいる世界の外側にあるかのような印象を与える。自分のいる世界にはそれほど深刻な課題がないので、「課題」を求めて未知の世界に旅に出る、といったような。

これまで、そうした場面にたくさん遭遇して、いま思う。

課題は自分の外側にある。そう考えているうちは、課題なんて永遠に見つからないんじゃないかと。

自分は社会の一部である。自分は課題の一部である。それが、すべての始まりなんじゃないかと。

たとえば、ジェンダー課題は、女性だけの課題ではない。女性と男性の関係の問題で、女性の問題であり、男性の問題である。つまりは社会の問題で、みんなの問題だ。

貧困の問題は、貧困者だけの問題ではない。非貧困者がいるから、貧困者がいる。つまりは、貧困者の問題であると同時に、非貧困者の問題でもある。みんなの問題だ。

途上国で貧困の現実を目にしたとき、「彼らの問題」と考えるのか、「自分を含む世界の問題」と考えるのか、そこに雲泥の差があるように思う。

もし、自分をとりまく環境が恵まれていると感じるのならば、その恵みはどこから来ているのか。途上国の安い労働が支えてはいないのか。誰かの何かが犠牲にされていはいないのか。恵まれた環境から排出したものは、どこへいくのか。誰かの生活を汚してはいないのか。

誰もが世界の一部であり、すべてが関係しあって、いまの世界がある。だから、世界のどこかにある問題は、自分の問題でもある。

それでもなお、自分の見える範囲の世界を出て、知らない世界を見にいくことは、大切だと思う。私自身も、何かといえば現場に行こうとする。そこにあるものを見ること。そこにある声を聞くこと。空気を吸うこと。とにかく、そこに身を置くこと。

一体それは、何をしに行っているのか。課題を見つけるのではない。おそらく、課題と自分との繋がりを、見つけに行っているのだと思う。



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