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ただただ透明な自分になる ~「取材・執筆・推敲」読書メモ②

「取材・執筆・推敲  書く人の教科書」(古賀史健著)。1ヵ月前に読んだ時に付箋を貼った何ヵ所かを、読み返している。

この、付箋を貼った箇所の読み直しは、同じ時期に読んだ「三行で撃つ」(近藤康太郎著)の教えでもある。

ライターにとって、本は読みっぱなしでいいわけがない。---略--- 線を引きまくる。徹底的に汚す。---略--- とくに重要だと思った箇所は、ページを折っていく。---略---
そうして読み終わった本は、しばらく放っておく。頭を冷やす。一ヵ月もしたあと、ページを折った場所だけ開き、線を引いた箇所を再読する。相変わらず感動できる文もあるだろう。熱が冷めてしまったものもある。そもそもなぜ線を引いたのか、思い出せないところも多々ある。それでいい。時間をおいているのは、熟成し、蒸留しているからだ。夾雑物を取り除いているからだ。(p266)

今回、1ヵ月後になったのは単なる偶然で、線を引いたりページを折ったりして本を汚す勇気のない私は、付箋を貼っているだけだ。(そこに自分の限界があるのかもとも感じる)

ちなみに、上の「三行で撃つ」の引用箇所にも、付箋は貼っていた。

「取材・執筆・推敲 書く人の教科書」には、WHAT(何を書くのか)や、HOW(どう書くのか)について濃密に語られていて、そこからの学びも多い。けれど、付箋を貼った箇所を見返すと、WHY(なぜ書くのか)に集中していることに気づかされる。なぜ、自分が、書くのか。そこに一筋の光を照らしてくれる言葉。

その中で、驚いた一文があった。執筆に関する章、「自分だけの文体」について、著者自身の考えが述べられている箇所。

ライターの文章はやはり、無色透明をめざすべきだ。(p385)

以前、良い俳句を作るには「透明な自分であること」が大切なのではと思い、そんなnoteを書いたことがあった。自分の周囲で、「自己表現が上手くなりたいから、俳句をやってみたい」という声を聞くことがあり、(その動機を否定するものではないが)何かが引っ掛かったのがきっかけだった。

古賀史健さんは、こう続ける。

下手に個性を出そうとせず、あこがれる誰かの文体をコピーしようともせず、自分の腕前を見せつけようともせず、むしろ数行拾って読んだだけでは誰が書いたかわからないくらいに無色透明な文章を、めざすべきだ。それはまったく、「わたしのいない文章」ではない。

さらに、「無色」と「透明」を分けて語っている。そして、めざすのは「無色」ではなく「透明」なのだと。「わたし」が書いているかぎり、文字に、文体に、何らかの色があり、「無色」ではいられない。

一方、「透明」であり続けることはできる。ほかの色を、混ぜなければいいのだ。「わたし」以外の色を混ぜるから、水が濁ってしまうのだ。個性的な文章をめざすことも、あの人みたいな文章をめざすことも、技巧を凝らした文章をめざすことも、すべて文章を濁らせる結果にしかならない。そして濁った文章はからなず、読者とのコミュニケーションを妨げる。余計な色を混ぜようとせず、ただただ透明な文章をめざせばいい。

ただただ透明な文章を、どうやってめざすのか。ここに書かれているのは、「個性的」をめざさないこと、「あの人」になろうとしないこと、技巧を凝らそうとしないこと。そう聞いても、すぐにできる気がしない。なぜなら、これらは単なる文章テクニックではなく、生き方、あり方の問題だからだろう。

自分らしさをめざさずに、自分らしくあること。他の色の混ざらない「透明な自分」であること。人との交わりの中で、社会の中で、それはとても難しい。難しいからこそ、鍛錬する意味があるのだろうか。文章も、俳句も、透明な自分からうまれる。そして同時に、書きながら、作りながら、少しずつ透明な自分に、なっていくのかもしれない。ただただ透明な文章。それを生み出す、ただただ透明な自分。


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